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2010年05月31日

龍馬伝 外伝 -河田小龍 その8-

明治22年、66歳の小龍は、京都府知事 北垣国道からの招きで、琵琶湖疎水事業の記録図役となります。京都までの道中を、高知から室戸経由で、徳島、大阪へ淀川をのぼっています。その道中を「夢の浮世老の道行」として軽妙な画文の道中記を描いたようですが、現存していないそうです。
南禅寺境内琵琶湖疎水図
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広島・九州と旅し、広島では、明治天皇の御前揮毫を行っています。
京都に戻り、明治29年 妻照子を亡くしています。
龍図が好きだった小龍は、最晩年に大作「龍虎図」を描いています。
龍虎図 明治30年
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明治31年(1898年)12月19日 75歳で胃癌にて亡くなっています。
辞世
「三年の昔妻を衣笠山に葬りければ吾も亦身をここに納めんとて」と前置きして
はだ寒い 衣笠山の麓にて
    あとさき消ゆる 松の下露
と残しています。
衣笠山の麓 等持院に葬られました。p6850.jpg
等持院門前の駐車場左手の出入り口を出て、p6849.jpg
右手に真っ直ぐ進み、突き当たりを右に曲がるとp6848.jpg
立命館大学の門が見えます。p6847.jpg
この門を入り、真っ直ぐ歩くと、等持院の墓地にたどり着きます。p6846.jpg
墓地の右の方に河田家のお墓が並んでいます。p6845.jpg
真ん中は祖先代々墓、左が河田小龍墓、右は河田照女墓となっています。p6844.jpg

明日から6月ですね。1・2日は薪能の日です。2日の演目「祇王」に地謡で出演される能楽師 宇高通成さんは、小龍さんの曾孫にあたられるそうです。勝手に不思議なご縁を感じてしまいました。

2010年05月30日

龍馬伝 外伝 -河田小龍 その7-

明治4年以降、新たな弟子も入り始め、後年に知られた人々を輩出しています。明治7年には、京都の清岡公張宅に逗留しています。道之助の弟で、志士となり活動、明治政府で昇官している人物です。
明治9年、高知県勧業課に出仕。内国勧業博覧会の高知での事務係を務めました。
桃源郷図 
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明治11年のこの作品は三国志の勇者たちが武器を捨て、山中の桃源郷に集うという作品です。
この年、長男 蘭太郎は京都医学校(京都府立医科大学)に入学。後に産婦人科医となり、京都に暮らしました。
鯉図
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実用の「高知市街地図」の刊行にも関わっています。
明治12年(1879年)56歳になった小龍は隠居して蘭太郎が河田家の当主となっています。
夜梅図
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小龍は、内国勧業博や内国絵画共進会などに作品を出品、精力的に絵画を制作しています。
観音図p6854.jpg
明治15年、大病を患いましたが全快し、書画大会を玉水新地の得月楼で開いています。
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明治3年に陽暉楼として創業し、11年に観月会の折に、得月楼と命名された料亭です。宮尾登美子作「陽暉楼」の舞台となったことでも、有名なお店です。私も一度行ったことがありますが、小龍さんの掛け軸は拝見していません。
軍鶏図p6857.jpg

2010年05月29日

龍馬伝 外伝 -河田小龍 その6-

中国の故事・歴史画ばかりでなく、日本の歴史物も多く描いています。
安宅の関図p6867.jpg
日野阿新丸p6866.jpg
万延元年(1860年)3月、桜田門外の変の折、江戸にいた小龍の末弟の三吉郎は、現場に駆けつけ、その状況を小龍に伝えたそうです。9月には、「門刺奇観」としてその変の様子を小絵巻に描き記しています。
南朝の故事を多く描いていることから、勤皇の絵師ともいわれていますが、多くは明治に入ってから、要請を受けての制作のようです。
長寿や、豊饒を祝う縁起物も多く手がけていて、瓢逸で、笑える作品もあります。
百福笑図p6860.jpg
個人的には、このあたりの作品が好きですね。

さて、龍馬伝ではいよいよ半兵太が投獄されました。翌年切腹ですが、ドラマはまだしばらく引っ張るようです。一足早く、切腹場所となった南会所跡である高知市帯屋町の武市瑞山殉節の石碑画像です。
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幕末から維新にかけて、小龍は絵を描いていられる状況では無くなっていました。慶応年間より、明治3年まで、画塾も閉じられていました。塩田の失敗から、浦戸の家も手放していて、九州から公務を終えて戻っても家がないありさまでした。p6862.jpg
平成17年に、南はりまや町の電車通り脇に「河田小龍生誕地・墨雲洞跡」碑が建てられました。料亭得月楼本店東側で、小龍の生まれた所から30㍍ほど離れているということです。p6861.jpg

2010年05月28日

龍馬伝 外伝 -河田小龍 その5-

芝居絵を描くために逗留した旧家に美人画の襖絵が残っています。
四季人物画
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頬がふっくらとした大柄な美人画をよく描いたようです。それは、妻照子に似ていたそうです。

鐘馗と花魁図
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大原女図
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中国の美人画もあります。
玄宗皇帝遊戯之図
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この大作を描いていた文久元年、武市半兵太は土佐勤王党を結成しています。

儒学の素養豊かな小龍は、中国の故事も多く題材にしています。
許由巣父 耳洗p6869.jpg
文久2年、龍馬脱藩、そして吉田東洋が暗殺されます。
この東洋を演じていた田中泯さん、舞踊家として大学にお招きした事があります。
私の在学中の話ですから、かなり古い話ですが、当時から独特の雰囲気があり素敵でしたが、ますます異才を放ってらっしゃるようですね。
土佐より、携帯画像が届きました。帯屋町にある東洋暗殺の地の記念碑です。後ろは追手前小学校です。p6865.jpgp6864.jpg

2010年05月27日

龍馬伝 外伝 -河田小龍 その4-

-その3のおまけ-
藩札写真のリクエストがあったので、ここに拡大してみます。
鯨札・鰹札 表p6875.jpg
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-その4-
幕末土佐の美術で、強烈なインパクトを受けるのが、土佐芝居画屏風です。
二曲一隻の屏風に芝居絵を描き大成させたのは、弘瀬 金蔵 通称 絵金(えきん)でした。
林 洞意(はやし とうい)という名で、御用絵師となりましたが、狩野探幽の贋作を描いた嫌疑を掛けられたことにより、その地位を追われ、破門されています。
城下を離れて町医者から弘瀬姓を買い取った後の消息がはっきりしていませんが、赤岡の地で、絵師 金蔵として蘇ります。土佐の夏の祭礼に奉納されていた歌舞伎芝居が幕府の倹約令で中止され、替わって絵金らの描いた芝居絵が奉納されるようになりました。歌舞伎の名場面をダイナミックに独特の色彩と手法で描きあげたその作品群は、土俗的であったり、血まみれの鮮烈な描写であったりして、一度見ると脳裏に焼きつく感じです。現在も赤岡では絵金祭として伝わっています。私も現地でその迫力を体験し、エグイかも~とか思いながらも、しっかり図録を買ってしまいました。血まみれじゃない作品を2つばかり・・・。
蘆屋道満大内艦(あしやどうまんおおうちかがみ)保名内(葛の葉子別れ)p6879.jpg
二月堂良弁杉の由来(にかいどうろうべんすぎのゆらい) 
絵金円熟期の作品と見られています。
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多くは、絵金の弟子の作品と云われるその中に小龍の作品もあります。彼の作品は色彩も地味で、動きも硬いようです。
関取千両幟p6877.jpg
壇浦兜軍記 阿古屋の琴責めp6876.jpg

2010年05月26日

龍馬伝 外伝 -河田小龍 その3-

小龍の画のジャンルは幅広く、その本領がどこのあるのか判断に苦しみます。山水図や、真景図と呼ばれる実景を写したものも多く残っています。
山水図p6882.jpg
浦戸湾図p6881.jpg
そして、土佐ならではの捕鯨図は、やはり興味深く感じられます。
津呂組奥宮捕鯨絵図p6880.jpg
こちらは、香川県金毘羅宮に奉納した大絵馬「捕鯨図」の下絵とされています。
絵馬には、いち早く入手した人造のウルトラマリンブルーの顔料が使われています。
この絵馬の成功で、次々と注文を受け、あちこちの神社に絵馬を奉納しています。
また、明治元年発行の土佐藩札のデザインにも携わりました。鰹札と鯨札という土佐の海の幸を描いています。

2010年05月25日

龍馬伝 外伝 -河田 小龍 その2-

小龍の開いた墨雲洞は、画塾というより学塾のようだったそうです。学問のない画は職人芸であるとして、画を学ぶにあたってはまず学問から入る指導をしました。頼山陽などの史書を教えたりしたことから、画家として名を成す者と別に維新の志士が育っていったようです。
龍馬にとって、小龍との会合は、その後の龍馬の活動に重要な示唆を与えるものとなったのは、龍馬伝の通りです。商船の事業を興すために、龍馬が船を誂え、小龍が同志を育てるという盟契を交わします。
この安政元年の作品には、「納涼美人図」などがあります。p6885.jpg
安政3年に、漢学を学んだ儒学者岡本寧浦のところで共に漢学を学んだ清岡道之助の依頼により、門田為之助所有の「西洋戦争図」を模写しています。それは、ナポレオンの戦いの図で、土佐の勤皇の志士たちの間にナポレオン伝説が伝わっていたことがわかります。
ドラマの中で、亀をスケッチしていたのが、印象的だったのですが、確かに画稿の中に亀も描かれていました。風呂敷に描かれた亀も動き出しそうです。
「千萬之霊亀図」  明治19年(1886年)p6883.jpg
小龍は龍馬との盟契を果たすために、実業にも手を出しています。文久3年(1863年)、浦戸湾の長浜に塩田の事業を行っています。

文久4年・元治元年((1864年)1月、椙本神社に絵馬「翁図」を奉納。p6884.jpg
12月に京の鹿野安兵衛宅に寓しています。
徳島から技師を招き、塩田の事業を進めるために京に上り龍馬の支援を仰いだりしていたとありますが、4年で失敗に終わっています。
その頃、龍馬は薩長提携に成功しています。

          「河田小龍 幕末土佐のハイカラ画人」 より抜粋

2010年05月24日

-河田小龍-  本日 一休み

ちょっと、時間が押してきてしまいました(^^)
一休み、一休み・・・。

布袋之図  明治31年(1898年)p6886.jpg
                  皤山河小龍 画

2010年05月23日

龍馬伝 外伝 -河田 小龍 その1-

龍馬伝の中で、龍馬に影響を与えた人物の一人として、河田 小龍(かわだ しょうりょう、「しょうりゅう」とも)が、登場していました。リリー・フランキーの好演で興味を覚えたので、少し追っかけてみました。

文政7年(1824年)に生まれ、明治31年(1898年)に75歳で亡くなりました。幕末から明治前期にかけて活躍した土佐を代表する幅広い絵師でした。通称篤太郎、字は維鶴(これたず)、小梁、松梁、皤山、小龍と号するほか、20ほどの号があります。
高知城下東浦戸片町、現在の南はりまや町に、土生玉助維恒の長男として生まれ、祖父の川田金衛門の生家河田家を継ぎ川田姓を名乗ります。(のち河田姓に復す)。幼くして神童の誉れ高く、絵を嗜み13歳で、南画家の島本蘭渓に入門しています。
「島本蘭渓坐像」p6892.jpg
16歳のころ藩儒学者岡本寧浦の門下に入って、本格的に漢学を学んでいます。この頃の作品に農夫図が残っています。銘が「翠竹」となっています。
「農夫図」p6893.jpg
同じ頃、小龍はひととき林洞意に学んだとも云われています。後に絵金と呼ばれる洞意は、江戸狩野派を習得し藩家老の御用絵師として知られていました。その後、狩野探幽の贋作を描いた嫌疑を掛けられたことで職を解かれ、狩野派からも破門され、慶応年間より赤岡の地で、土俗的で血みどろの芝居絵を多く描いています。小龍も似通った芝居絵を残しています。
「神霊矢口渡」p6889.jpg
19歳の頃から、漢詩を作り生涯にわたり多くの作詩をしています。岡本寧浦に従い、鹿児島の蝦蟆島に出掛けたりもしています。
20歳を過ぎた小龍は江戸の谷文晁に師事しようとしますが、その死去を知り、断念します。
23歳の時、吉田東洋に従って、京都・大阪に遊学する機会を得ます。京都で、南画の中林竹洞に学び、大阪の篠崎小竹に学びます。そして、京狩野家九代目の狩野永岳に師事します。二条城の本丸御殿襖絵の大修理に師と共に従事します。
27歳の折、土佐に帰国した小龍は、私塾・墨雲洞を開きます。
嘉永5年(1852年)米国より帰国した漁師・中浜万次郎(ジョン万次郎)の取り調べに当たり、その口伝を漂巽紀略に記しています。
「漂巽紀略」p6888.jpg
安政元年(1854年)図取り役として、薩摩の反射炉視察に赴き、「鹿州港脚之図」を描いています。

「鹿州港脚之図」p6887.jpg
帰路、長崎に遊び、木下逸雲に清朝画を学び、帰国の日に安政の大地震で、家屋を失っています。門田兼五郎の世話で、築屋敷の空家に仮住まいすることになります。そんな中へ、龍馬の来訪となります。
明日に続く・・・。

(絵の写真は、平成15年に高知県立美術館で開催された河田小龍展の図録より、コピーさせていただきました。)

2010年03月14日

平忠盛

長承元年3月13日(1132年4月7日)平忠盛(平清盛の父)が、武士として初めて御所への昇殿を許可されました。
鳥羽上皇勅願の観音堂である得長寿院を造営し、落慶供養に際して、千体観音を寄進しました。その功績により内昇殿を許可されたものです。
岡崎の疎水沿い、東大路通を東に入ったあたり、徳成町に得長寿院跡の石碑が建っています。p7507.jpg
蓮華王院(三十三間堂)と同規模の建築であったといわれています。

2010年03月10日

足利義輝

天文5年3月10日(1536年3月31日)第12代将軍・足利義晴の嫡男 足利義輝が、東山南禅寺で 生まれました。天文15年(1546年)、義輝はわずか11歳の時に、父から将軍職を譲られます。
直属の軍隊と領地を持っていなかった室町幕府は、応仁の乱以降、権威は地に落ち、大名家の権力闘争によって、担ぎ上げられたり追放されたりを繰り返し、戦乱と混乱の中のありました。
義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力しました。
輝の字を、毛利輝元・上杉輝虎(謙信)らに与えたりもしています。上杉謙信が上洛して拝謁しているのは、この義輝です。その邸は現在の平安女学院のあたりであったそうです。p7534.jpg
(下立売室町下る)
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永禄8年(1565年)5月19日、松永久秀と三好三人衆が主君三好義継(長慶の養嗣子)とともに足利義栄(第14代)を奉じて謀叛を起こした永禄の変により、この邸で暗殺されています。剣豪であった義輝は足利家秘蔵の太刀を何本も周囲に突き立てておいて、刃こぼれするたびに太刀を取り替え、寄せ手の兵と斬り合ったと云われています。そういえば、そんなシーンをテレビで見た記憶があります。
辞世
五月雨は 露か涙か 不如帰 
   我が名をあげよ 雲の上まで

このとき焼けてしまった二条ノ御所の跡地に信長は義輝の弟・義昭の城を2ヶ月という短期間で造営し、第15代将軍家のご本拠としました。第14代義栄将軍は一度も入京することなく病死しています。
その後、当の信長に追われ、義昭もこの地を後にし、室町幕府は崩壊しました。

2010年03月07日

吉田松陰 記念切手

古い切手を眺めていたら、こんなものもありました。
昭和34年(1959年)、“松陰百年祭”の記念行事の一環として発行された記念切手です。
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政治色が強すぎるとの理由で、切手にすることを反対していた郵政省でしたが、当時の総理大臣・岸信介の地元の熱心な陳情活動におされ、萩で開かれる“第7回全国PTA大会”と抱き合わせの記念切手というかたちで実現したものだという話です。


2010年03月06日

香淳皇后

1903年3月6日 昭和天皇の皇后である香淳皇后(こうじゅんこうごう)がお生まれになりました。
1926年昭和天皇の践祚に伴い立后。1928年(昭和3年)11月10日、即位の大礼が京都御所で盛大に執り行われました。
昭和46年(1971年)には天皇と共に訪欧。皇后にとっては、これが初めての外国訪問だったそうです。この時、郵政省が発行した「天皇皇后陛下御訪欧記念切手」では皇后所縁の図案として皇后による「海の彼方」が採用されています。 下の写真の右側の富士の絵です。
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皇室の在り方が変わり、皇后同伴の公務が一般的になったため、活発な活動を行われています。昭和45年(1970年)の日本万国博覧会開会式、p7546.jpg
昭和47年(1972年)の札幌オリンピック開会式などにも出席されています。p7547.jpg
昭和49年(1974年)には金婚式を迎えられました。p7548.jpg
当時は、切手収集が流行っていて、なんとなく集めた切手を未だに持っています。これらはその一部です。

2010年02月28日

織部の日

2月28日は岐阜県土岐市により、織部の日と制定されています。

慶長4年(1599)2月28日伏見の古田織部邸において、茶会が催され、その際に「へうげ」た茶碗が用いられたという事が、博多の豪商・神屋(谷)宗湛の茶会記『宗湛日記』に記載されていた事に由来しているようです。

この日の「宗湛日誌」に、「初出のセト茶碗、ヒツミ候也、ヘウケモノ也」と記されているそうです。
「ひょうげ(瓢化)た」というのは、「おどけた」「ゆがんだ」といった意味です。この焼き物が、後に織部焼と言われるようになったものです。

古田織部さんの墓などは、以前に紹介しましたが、ご近所にまだ、織部さんがらみのネタがありました。
墓のある興聖寺(堀川上御霊上る) の向かい、水火天満宮のお隣の大應寺 (だいおうじ)境内に織部稲荷社がありました。
お寺の鎮守社で、古田織部正が伏見稲荷から勧請(かんじょう)したものだそうです。開運福徳の神として、また織物技術上達の神として土地柄から西陣織物業者の方々の信仰を集めているそうです。2月・8月・11月には織部稲荷奉賛会によって祭祀が行なわれています。
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北野の天神さんの三光門手前東側の植え込みの中には、織部形石灯籠というものがあります。
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古田織部の墓に立つ灯籠に似ることから 『 織部形灯籠 』 と呼ばれ、茶人が好んだ石灯籠の形式のひとつとされています。下部に立像を浮彫にしています。これを地蔵信仰に似せた隠切支丹の尊像と見て、マリア灯籠とか切支丹灯籠とも言われるようです。
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また、和菓子に織部饅頭というものがあります。薯蕷饅頭の上に、織部釉の緑を表し「井桁」の焼き印を入れたもので、茶会などで頂いた事があります。p7571.jpg
御流儀によっては、炉開きのお席で「織部」の物を、何か一品使われたりするしきたりがあるそうで、お菓子で織部を表現することもあるようです。


2010年02月27日

新撰組の日

文久3年(1863年)2月27日は、新撰組の前身である「浪士組」が結成された事で、今日は「新撰組の日」だそうです。
京都守護職・松平容保公が、浪士組を会津藩御預りとする建白書提出した日です。
8月18日に、武家伝奏より正式に ”新選組”と命名され、市中取締の命を受けました。

壬生界隈は、新撰組誕生の町として、有名ですが、その後、壬生が手狭になったことなどから、慶応元年(1865)、西本願寺に屯所を移しています。
さらに慶応3年(1867)、防備が弱いとの理由で、不動堂村に移転しました。新撰組の振る舞いに困り果てていた寺が、多額の移転費用を負担した新しい屯所は敷地1万平方メートルのりっぱな建物でした。新撰組の全員が幕臣となった5日後のことでした。p7580.jpg
西洞院通塩小路 ホテル瑞鳳閣の前に新しく石碑が建てられています。
しかし、同年12月16日、伏見奉行所の警備のため、わずか半年で、この地を後にします。p7579.jpg
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以前、リーガロイヤルホテル京都前の油小路通塩小路の場所にも、近藤勇の歌碑と共に石碑が建てられましたが、正確な位置が特定されていないようで、素人の私には、よくわからないところです。

2010年02月24日

長谷川 等伯

慶長15年2月24日(1610年3月19日)、安土桃山時代から江戸時代初期の絵師である長谷川 等伯が亡くなりました。
大回顧展「没後400年 特別展『長谷川等伯』」が、4月10日(土)~5月9日(日)まで、京都国立博物館で、開催されます。(東京展は昨日、開催されたところです。)
p7614.jpg「楓図〔かえでず〕」(智積院)p7613.jpg「松林図屏風」(東京国立博物館)

2月末日まで、お得なペアチケットが、2000円で販売されています。楓図をデザインしているのは、このチケットだけで、2人でも、前期・後期と1人で使うこともできます。p7612.jpg
プレイガイド・コンビニなどで、購入して、当日、このチケットと引き換えることができますが、現物を今すぐ手に入れるには、京都国立博物館か、京都駅表2階の京都市観光案内所へ行く必要があります。
ちなみに普通の前売りは1200円・当日は1400円です。

2010年02月22日

後鳥羽天皇

延応元年2月22日(1239年3月28日)、平安末期から鎌倉初期の第82代天皇 後鳥羽天皇(ごとばてんのうが亡くなりました。
平氏とともに西走した安徳天皇の代わりに、後白河法皇が4歳の尊成親王を即位させ、後鳥羽天皇となりました。

後鳥羽天皇の御所はいくつもありましたが、上京区五辻通千本東入北側にも、五辻殿の石碑が建っています。上皇になった後に住まいされています。p7627.jpg
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承久3年(1221年)、後鳥羽上皇は、時の執権北条義時追討の院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こしましたが、幕府の大軍に完敗。
後鳥羽上皇は隠岐島に配流されました。流される直前に出家して法皇となった後鳥羽上皇は、四条天皇の代に、配所にて崩御されました。

歌人として有名で、歌集として『後鳥羽院御集』や『遠島百首』を著しています。また、和歌所を設けたり、藤原定家に『新古今和歌集』の勅撰を命じています。
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菊を好み、自らの刀に印として菊の紋を入れたそうで、その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに十六八重表菊が天皇・皇室の「紋」として定着していったということです。p7625.jpg

2010年02月21日

和気 清麻呂と護王神社

延暦18年2月21日(799年4月4日)、奈良時代末期から平安時代初期の官僚 和気 清麻呂(わけ の きよまろ)が亡くなりました。p7654.jpg
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御所蛤御門前の護王神社(ごおうじんじゃ)は、和気清麻呂と姉の和気広虫を主祭神とし、藤原百川と路豊永を配祀しています。p7655.jpgp7653.jpg
嘉永4年(1851年)孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて正一位と「護王大明神」の神号を贈りました。明治7年(1874年)、神護寺の境内にあった和気清麻呂を祀った廟は護王神社と改称され別格官幣社に列し、明治19年(1886年)、明治天皇の勅命により、神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座しました。p7652.jpgp7651.jpgp7650.jpgp7649.jpg
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めでたし めでたし

2010年02月20日

惟喬親王

寛平9年2月20日(897年3月30日)、平安時代前期 文徳天皇の第一皇子である惟喬親王(これたかしんのう)が亡くなりました。
文徳天皇が、皇太子として第四皇子である惟仁親王(後の清和天皇)を立てたため、惟喬親王は、第一皇子でありながら、皇位を継承できませんでした。これは、惟喬親王の母が紀氏の出身で後ろ盾が弱く、一方の惟仁親王の母が権勢高い藤原良房の娘 藤原明子であったためです。天皇は良房をはばかられて、生後9ケ月の惟仁(これひと)親王を皇太子としました。この方がのちの第56代清和天皇です。

惟喬親王は、太宰帥、弾正尹(だんじょうのかみ)、常陸守、上野守、など諸国の国主を歴任した後、都から離れた辺境の地を転々と隠棲し、28才の時、剃髪して出家し、小野の里に幽居されました。小野の宮と呼ばれていた親王は、54才で亡くなりました。京都雲林院の傍らにしばらく住まわれたこともあるようです。

江州・小椋庄へ移られ、轆轤(ろくろ)を開発して、緒山の木地屋に使用を教えられたという話もあり、轆轤の始祖として崇拝されています。

在原業平が、親王と親しく交わっていた事が伊勢物語に記されています。惟喬親王の母と業平の義父紀有常は兄妹の関係である上に、不遇な境遇に相通じるところがあったのかもしれません。
業平は惟喬親王のお供をして、親王の水無瀬の別邸から、川向こうの交野の渚の院に至り、今や盛りと咲き匂う見事な桜の木の下で、下記の歌を詠んでいます。
世の中に たえて桜のなかりせば 
    春の心は  のどけからまし

冬の日に親王を訪ねた折に、業平の詠んだ歌もあります。
忘れては 夢かとぞ思う 思ひきや
   雪ふみわけて  君をみんとは

親王は
夢かとも 何か思はむ 浮世をば 
   そむかざりけむ 程ぞくやしき

と返歌されています。

この親王をお祀りしているのが、北区紫野雲林院町(北大路通り猪熊下ル)にある玄武神社です。 p7659.jpgp7658.jpgp7657.jpg

2010年02月18日

後堀河天皇と御苑の梅

建暦2年2月18日(1212年3月22日) 高倉天皇の第二皇子の守貞(もりさだ)親王(後高倉院)の第三皇子 茂仁(とよひと)後の後堀河天皇が生まれました。
承久の変で後鳥羽上皇らが流刑された後、10才で鎌倉幕府による推挙で天皇となりました。父親の守貞親王(行助)が後高倉院として、院政を行いました。貞永元年(1232年)、院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位しましたが、元来、病弱であったためか、2年足らずの天福2年(1234年)に23才で崩御されました。泉涌寺を御願寺とされ、崩御後、山内の観音寺陵に葬送されました。p7665.jpg
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孝明天皇の御陵へ向かう途中の山道を左に上ったところに御陵があります。p7677.jpgp7663.jpg
在位中の皇居は現在の京都御所です。御苑の梅が少し咲き始めています。p7672.jpgp7671.jpg
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あいにく、やっと雨が上ったばかりの曇り空でしたが・・・。
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2010年02月17日

後嵯峨天皇

文永9年2月17日(1272年3月17日)後嵯峨上皇が亡くなりました。53歳でした。

先日、ご紹介した四條天皇の次の天皇です。四條天皇が十二歳で崩じ、順徳天皇の皇子 忠成王と共に皇位継承候補にあがった土御門天皇の皇子 邦仁(くにひと)親王です。親王は、父 土御門院が承久の乱のより、土佐に配流されたため、不遇な暮らしを強いられていましたが、順徳天皇と違い、土御門院が直接、乱に加わっていなかったことなどから、幕府の意向で、即位が決まりました。立太子を経ず践祚、仁治3年(1242)3月18日に即位しました。
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寛元4年(1246年)に在位4年で皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、院政を開始。正元元年(1259年)には後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促し、後深草・亀山二代にわたり院政をとりました。

そして、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にした事が、後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが南北朝時代、更には後南朝まで続く大乱の源となってゆきました。


袖ふれば 色までうつれ 紅の 
     初花染めに 咲ける梅が枝
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2010年02月14日

孝明天皇 御陵

弘化3年2月13日(1846年3月10日)、平安京最後の天皇「孝明天皇」が践祚されました。p7675.jpg

多難な国事に直面され、公武合体の維持を望まれたまま、慶応2年12月25日(1867年1月30日)、崩御されました。
享年36(満35歳没)。死因は天然痘と診断されましたが、毒殺説もあります。
御陵は、後光明天皇以来の火葬、仏式葬の石塔から山陵に土葬される古式に改められ、歴代天皇墓所の泉涌寺裏山に、円墳を模した後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)が築かれました。p7677.jpgp7679.jpg
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父である仁孝天皇と孝明天皇の念持仏が、御所の御黒戸内より、泉涌寺に移され安置されています。
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平安京最初の天皇である第50代桓武天皇を祀る平安神宮に、昭和15年(1940年)、皇紀2600年を記念して第121代孝明天皇が合祀されています。p8537.jpg

2010年02月13日

清少納言 歌碑

泉涌寺 仏殿横 四條天皇御陵へ向かう参道横には、浴室があります。p7688.jpg

その隣に寺名の起源となった名泉が、涌き出ていて、それを覆う屋形は、仏殿と同じ寛文期の建物だそうです。p7687.jpg
そのまた隣に、清少納言の歌碑が建てられています。p7686.jpgp7685.jpg
夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも
     よに逢坂の 関はゆるさじ

百人一首に入っているこの歌が刻まれています。定子皇后の鳥辺野陵に近く、かつてここに清原元輔の山荘があり、晩年の清少納言が隠棲したと思われる所とされているために、昭和49年(1974年)、当時の平安博物館館長・角田文衞の発案によって歌碑が建立されたそうです。

若くして定子が亡くなられて、宮仕えを辞めた清少納言のその後は、定かではなく、いろいろな話がありますが、定子の御陵ちかくで、静かに晩年を過ごしたと思いたい・・・。

2010年02月12日

四條天皇 御陵

承久3年(1221年)、承久の乱(鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて後鳥羽天皇が敗れた兵乱)により、鎌倉幕府は、後鳥羽天皇につながる血統をことごとく排除し、仲恭天皇を退位させ、安徳天皇の弟の子であり高倉天皇の孫である、隠居していた後堀河天皇(10歳)を即位させました。
寛喜3年2月12日(1231年3月17日)後堀河天皇の第一皇子が一条室町邸で生まれました。後の四条天皇です。
貞永元年(1232年)、後堀河天皇は院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位しますが、天福2年(1234年)に23歳で崩御してしまいます。四条天皇の外祖父の九条道家とその舅の西園寺公経が事実上政務を行ないました。

四条天皇は、鎌倉幕府にとっては、後鳥羽上皇の血統でない、かけがえのない天皇であったのですが、皇子・皇女を作らないままに、仁治3年1月9日(1242年2月10日)崩御してしまいます。享年12。p7692.jpg
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「主上あどけなくわたらせ給ひて、近習の人、女房などを倒して笑はせ給はんとて、弘御所に滑石の粉を板敷にぬりをかれたりけるに、主上あしくして御顛倒ありける……。」(五代帝王物語 )

四条天皇は女官などを滑らせて笑ってやろうとして蝋石を塗っていたところ、自分が滑って転倒し、頭を打って数日寝込んで、そのまま亡くなっってしまったというのです。なんとも、12歳の少年らしいいたずらですが・・・。
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後堀河天皇が泉涌寺を御願寺とされ、崩御後、山内の観音寺陵に葬送された縁もあってか、四條天皇が、泉涌寺を再興した俊芿の生まれ変わりとする説のためかはともかく、泉涌寺において、御大葬が行われ、泉涌寺の寺内地の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られました。p7689.jpg
この御陵には四條天皇を初めとして、後水尾天皇から仁孝天皇までの25陵、5灰塚、9墓が営まれています。

2010年02月07日

平 敦盛

元暦元年2月7日(1184年3月20日)平 敦盛が、17歳で亡くなりました。
一ノ谷の戦いにおいて、源氏側の奇襲を受け、平氏側が劣勢になり、騎馬で海上の船に逃げこもうとしたところを、敵将を探していた熊谷次郎直実に「敵に後ろを見せるとは・・・」と呼び止められ、首を取られた謡曲にもなっている物語です。信長の好んだ歌「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか」も幸若舞の『敦盛』の一節です。

戦いの無情を感じた熊谷次郎直実は、敦盛の供養のために出家を志して黒谷に至り、鎧を洗い、それを松の枝にかけ、法然上人の門を叩きました。p7794.jpg
金戒光明寺の紫雲の庭のこちらの池が、その鎧を洗った池といわれています。p7719.jpg
御影堂横の松が鎧かけの松です。もとの松は枯れて、二代目という話ですが。
そして、右手前奥、蓮池の向こうにある勢至堂の前に向かい合って、建てられているのが、二人の供養塔です。p7714.jpg
手前側が熊谷次郎直実です。p7718.jpgp7717.jpg
向かい側が平 敦盛の塔です。p7716.jpgp7715.jpg

2010年02月05日

西八条殿 若一神社

前日よりのつづき
出家後の清盛は、福原に在住することが多く、この西八条の邸宅には主に妻 時子が住まいする事となりました。清盛が没した2,3日後、蓬壺より出火、焼失。再興されましたが、都落ち(1183年)する際に、平氏自らが放った火で豪壮な邸宅は完全に焼失しました。

平清盛が、蓬(よもぎ)を愛し、壺庭に植えていたことから「蓬壺」とも称されていたそうです。

若一神社内には、銘水の若一神社神供水が湧き出ています。p7729.jpg

平清盛公熊野詣での折、御神託により仁安元年(1166年)11月10日、西八条殿内に隠れたる御神体を世に出し、社殿を建立し奉斎して以来、日供祭(にっくさい=毎朝行われる崇敬者の安寧を祈るお祭り)にて御神前に供えられてきた御神水だそうです。古くから銘水として知られる地下水で、開運出世の水として、新生児誕生に際しての産湯としても有名だそうです。

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樹齢800年を超す大樹が通沿いに植えられています。平清盛が太政大臣に任ぜられたのに感謝して手植えしたものだそうです。若一神社の御神木となっています。大樹の下には楠社(くすやしろ)が建てられ大楠を祀っています。
昭和八年(1933)の西大路通の開通整備の際に、敷地が大きく削られ、クスノキの根も一部切断されましたが、この御神木自体の撤去作業は清盛の祟りがあるとして作業が中止されたようです。西大路通が曲がっているのはこのためです。

2010年02月04日

平清盛 西八条殿

治承5年閏2月4日(1181年3月20日)平清盛が熱病で亡くなりました。九条河原口の盛国の家で亡くなったそうです。
清盛の邸というと、東の六波羅ですが、西の交通の要衝として仁安元年(1166年)西八条にも別邸を造営しました。p7731.jpg
下京区七条御所ノ内本町にある若一神社(にゃくいちじんじゃ)がその跡とされています。p7732.jpg
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西八条殿の鎮守社として造り、開運出世を祈ったところ、太政大臣に任ぜられたことから、開運出世の神と尊崇されるようになったということです。
現在、西八条第は、梅小路公園とJR東海道線と山陰線の線路敷地にあったといわれているので、ちょっとずれてはいるのですが。

白拍子の名手 祇王を寵愛し、この邸に抱えていましたが、あるとき、都で人気の高い白拍子の仏御前が「平家太政の入道殿へ召されぬ事こそ本意なけれ」と言って西八条を訪れました。仏御前と会おうとしない清盛を、祇王が取り成し、仏御前は今様を歌い舞を舞うことになりました。節回しも上手で、容姿も美しい仏御前を気に入った清盛は、祇王を追い出し、仏御前を邸に召しおく事としました。
祇王は障子に

 萌え出づるも枯るも同じ野辺の草
     いずれか秋にあはではつべき
(芽生えたばかりの草も枯れようとする草も、野辺の草は結局みな同じように、秋になると枯れ果ててしまうのです。)
との歌を書きつけて住みなれた西八条の邸を退いたのでした。神社内に、その歌碑が建てられていました。p7727.jpgp7726.jpg
その後、傷心の祇王のところへ、清盛から仏御前の前で歌い舞うようにとの使いがよこされ、邸に出向き舞を舞います。邸より帰った祗王は「かくて都にあるならば、又うき目を見むづらん、今は都を外に出でん」として、妹 祗女、母 刀自と共に尼となり、嵯峨の山里 今の祇王寺の地に世を捨て、仏門に入りました。
母子三人念仏している所へ、尼となった仏御前が訪ねてきます。 祗王の不幸を思うにつれ、わが身の先行きもどうなるものやらと無常を感じ、邸を出てきたというものです。
このあたりが、この一連の物語の舞台であるそうです。

唯春の夜の夢のごとし

明日につづく

2010年02月03日

本阿弥 光悦

寛永14年2月3日(1637年2月27日)本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)が亡くなりました。江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家です。

元和元年(1615年)、徳川家康から鷹ヶ峯の地を拝領し、芸術村(光悦村)を築きました。光悦は、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住し、創作三昧の日々を送り、その地で亡くなっています。

大坂夏の陣のおりに、豊臣方に内通したという罪状で古田織部が切腹を命じられたあとです。
光悦は、二条城において家康から板倉勝重を通じて、「近江・丹波抔より京都への道に、用心あしく辻切追はぎをもする所」を拝領しました。家康の真意がどのようなところにあったのでしょう。洛中所払いなのでしょうか?僻地とはいえ、えらく広大な土地ですが。

ではそれまでは、光悦はどこで暮らしていたのかと調べてみると、結構近所でした。
上京区油小路通五辻下る東側に石碑が建てられていました。 白峯神宮の東側の通を少し上ったところです。p7734.jpgp7733.jpg

2010年01月30日

孝明天皇祭

孝明天皇祭 (一般では何回忌というところを、天皇及び皇族では「何年祭」という言い方をするそうです。)
慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇(こうめいてんのう) が亡くなりました。享年36(満35歳没)。死因は天然痘と診断されましたが、毒殺説もあります。
父・仁孝天皇の崩御を受け践祚しました。祖父(光格天皇)・父の遺志を継いで公家の学問所である学習院を創設しました。
お生まれになった時には、やはり胞衣を埋納されています。東山区五条通東大路西入北側(若宮八幡宮内)にありました。p7744.jpgp7746.jpgp7745.jpg
横の木は、2本の木が、交わって1本になってしまったものです。p7743.jpgp7742.jpg

2010年01月29日

光格天皇御胞塚

清荒神 護浄院には、光格天皇の御胞塚(おんえなづか)がありました。p7750.jpg
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胞衣とは、胎児を包んでいた膜や胎盤のことで、後産として体外に排出されるものですが、これを、かわらけに入れ、のし結びや小刀を副えて吉方の土中に納める習俗があったそうです。健やかなご成育を祈願するものだそうです。

そういえば、西院の春日神社にも、仁孝天皇御胞衣塚があったようです。

光格天皇(1771~1840)は、東山天皇の孫 閑院宮典仁親王の第六皇子です。明治天皇の3代前です。後桃園天皇の養子となって、第119代の天皇となりました。天皇は、天明の大火で焼失した京都御所を平安京大内裏の古制に則って再建し、朝儀復興を図るなど朝廷の権威の復興に努めました。実父親王に太上天皇号を贈ろうとした事件(尊号一件)で江戸の幕府との関係に緊張をもたらしています。

2010年01月25日

菅原道真

延喜元年(901年)1月25日、右大臣・菅原道真が醍醐天皇によって九州の大宰府への左遷を言い渡され、旅立ちました。
道真は無念の思いを抱きながら、2年後の延喜3年(903年)2月25日に亡くなっています。p7787.jpg
梅の掛け軸と並べてみました。p7786.jpg


2010年01月23日

寺田屋 龍馬襲撃

慶応2年1月21日(1866年)薩摩藩と長州藩の間で同盟が結ばれました。p7763.jpg
長州藩の木戸孝允(当時は桂小五郎)が、その一切の約定を記した書状を坂本竜馬に送り、裏書を求めました。約定に間違いないという朱筆の裏書を、龍馬が書き記したものが、宮内庁書陵部に現存してます。この裏書を書く前に、龍馬は、襲われているようです。
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慶応2年1月23日、伏見の寺田屋に宿泊していた坂本龍馬を伏見奉行配下の捕り方が捕縛ないしは暗殺しようとしました。p7778.jpg
女将のお登勢
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異変に気づいた入浴中のお龍は、p7767.jpg
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裏階段を駆け上がり、p7776.jpg
龍馬たちに急を知らせました。
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龍馬は所持したピストルを利用して多数の捕り方相手に大乱闘となり、p7762.jpg
手傷を負いながら も屋根づたいに逃げ、川端の材木小屋に隠れました。
一緒に逃げた長州藩士の三吉慎蔵は、あまりの捕り方の多さに、もはやこれまでと切腹しようとしましたが、龍馬はこれを押し留めて伏見薩摩藩邸に駆け込むように指示し、龍馬は手傷を負っていることもあり、その場で救援を待ちました。
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知らせを聞いた藩邸では、濠川(ほりかわ)沿いに舟を出し、p7764.jpg
龍馬を救助して伏見薩摩藩邸に匿いました。

*幕末当時の寺田屋の建物は鳥羽・伏見の戦いの兵火で焼失しており、現在の建物は後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると結論づけられました。p7772.jpg
事件の「弾痕」「刀傷」跡の再現?p7771.jpg
ピストルのレプリカp7773.jpg
この寺田屋は、現在も宿泊可能ですが、防犯問題が発生するだろうと、探してみたら、ありました。p7761.jpg
柱上部や、下部に、近代的な?鍵がついていました。これは、龍馬の時代にはなかったであろうと思います。

京都市の市有地となっている東隣の寺田屋跡地には、石碑や像などが建てられています。p7769.jpg

高知では、「土佐・龍馬であい博」が始まりよったそうです(^^)
あちらの友人によると、「まだちょっと、エンジンかかりよらん感じなが~。」ということでした。
龍馬伝については、「龍馬は、ちくっとイントネーションが可笑しいけんど、他の人は上手に話しゆうね。」と、言うちょりました。

2010年01月22日

豊臣秀長と大光院

天正19年1月22日(1591年2月15日)豊臣秀吉の弟の豊臣秀長が亡くなりました。後年、大和郡山城を与えられ、従二位権大納言に叙せられて、大和大納言と呼ばれていました。
温厚な人柄で兄の補佐役として諸大名からも頼りにされる人格者だったようです。「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)」といわれる存在であったのに、早くに病死してしまったのは、残念なことです。朝鮮との戦いに反対していましたが、秀長の死の2ヶ月後、出兵されています。
その菩提寺は、当初は大和郡山にありましたが、藤堂高虎によって北区紫野大徳寺町に移されました。p7780.jpgp7781.jpg
文政7年(1824年)に焼失しましたが、後に藤堂家によって再建され、現在は大徳寺山内にあります。

2010年01月06日

武信稲荷神社と龍馬

今年の初詣は、中京区三条大宮西二筋目下るの武信稲荷神社にしました。p7831.jpgp7830.jpg
平安時代の初期、清和天皇貞観元年(859年)2月、西三条大臣といわれた右大臣左近衛大将藤原良相(ふじわらのよしすけ)公によって創祀された御社です。
後に、藤原武信という方がこのお社を厚く信仰されたことにより、武信稲荷と称されています。

境内の社に宮姫社(弁財天)があり、これは 御神木の榎に宿る弁財天です。
樹齢850年で、京都市の天然記念物に指定されています。p7829.jpg
平重盛が安芸の宮島厳島神社から苗木を移し植えたと伝えられ、旧京都最大最古の霊樹です。
榎は『えんの木』とよばれ縁結びの神としても知られています。

神社の南には江戸時代、幕府直轄の六角獄舎という牢獄があり幕末、勤王の志士が多数収容されていました。その中に 坂本龍馬の妻おりょうの父である楢崎将作(ならさきしょうさく)が勤王家の医師であったため捕らえられていた。
おりょうは父の身を案じ龍馬と共に何度か訪れましたが、当時女性が牢獄へ面会できることもなく龍馬自身も狙われる身であり面会はかなわない。その為、神社の大木の上から様子を探ったと言われています。

命を狙われていた龍馬は身を隠していて、おりょうとは離れ離れになっていたので、自分がここへ来た証にこの木に龍の字を彫り、それを見たおりょうが龍馬が京にいることを知ったそうです。p7828.jpg
今はその跡はありませんが、写真真ん中あたりだったそうです。p7826.jpgp7827.jpg
この葉っぱの縁結びのお守りが販売されています。p7832.jpgp7833.jpg
龍馬グッズも三条商店街の方によって販売されていました。龍馬の扮装の劇団員の人達が、寒空の中、待機されていて、今年の人気スポットになりそうです。


2009年12月27日

平 兼盛

正暦元年12月28日(991年1月21日)平安時代中期の歌人である、平 兼盛(たいら の かねもり)が亡くなりました。
「天徳内裏歌合」において、壬生忠見と対決したことで有名です。
しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 
     物や思ふと 人のとふまで
邸は六条北高倉東と伝えられています。高倉会館と高倉幼稚園のあたりです。p7851.jpg

2009年12月25日

与謝 蕪村

江戸時代中期の日本の俳人、画家である与謝 蕪村は、 天明3年12月25日(1784年1月17日)に亡くなりました。
下京区仏光寺通烏丸西入ルに終の居宅がありました。p7856.jpg
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辞世の句

しら梅に 明(あく)る夜ばかりと なりにけり

墓所は左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)にあります。p7849.jpgp7850.jpg
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2009年12月23日

小野篁

仁寿2年12月22日(853年2月3日)小野篁が亡くなりました。堀川鞍馬口上るに紫式部と並んで、その墓があります。p7866.jpgp7865.jpgp7864.jpg


2009年12月19日

富岡 鉄斎

天保7年12月19日(1837年1月25日)富岡猷輔(とみおかゆうすけ)  後の鉄斎(てっさい)は、生まれました。
明治・大正期の日本の文人画家であり、儒学者です。
富岡の家は、代々、三条衣棚で、曹洞宗御用達の法衣商を営む老舗でした。

鉄斎15歳の頃、太田垣蓮月の侍童として蓮月の身辺の世話などをしながら学問に励んでいました。
安政の大獄で、梅田雲浜などが投獄された際には蓮月は、鉄斎の身を心配して、長崎に留学することを助言してぃます。

47歳の時、上京区室町通一条下る東側に移り住み、画業に専念しています。p7871.jpgp7870.jpg

2009年12月18日

西郷隆盛

1898年(明治31年)12月18日、東京の上野公園で西郷隆盛銅像の除幕式が行われました。
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(写真は、上野の物ではありません。念のため)

しかし除幕式の時に、この銅像を見た、妻のイトさんは「こげんな人じゃなかった」と呟いたそうです。

西郷隆盛の顔写真は一枚も存在しなかったため、政府に雇われたイタリア人の彫刻師が、西郷隆盛の弟と従兄弟の顔を足して2で割って描いた肖像画が元になっているため、実際の西郷さんとは、違っているという話です。

坂本龍馬は初めて西郷さんと会った時の感想を、師の勝海舟に次のように語っています。

西郷はいよいよ馬鹿じゃ。けんど、馬鹿じゃけんどなかなかずるうない、あの馬鹿さはあなどれん。小(こ)んもうに叩いたら小(こ)んもうになって、太(ふと)うに叩いたら太(ふと)さをみせる。

(西郷は馬鹿である。しかし、その馬鹿の幅がどれ程大きいか分からない。小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る。)

2009年12月17日

東山天皇と忠臣蔵 法住寺

宝永6年12月17日(1710年1月16日)東山天皇(ひがしやまてんのう)が天然痘にかかって34歳で崩御されました。江戸時代の第113代天皇で、長く廃絶していた大嘗祭の儀式を復活させた方です。

1701年3月、東山天皇が江戸へ派遣した勅使の接待をめぐって、あの忠臣蔵の松の廊下の刃傷事件が起こっています。
近衛基熙の日記に、近衛が東山天皇にこの凶事について報告をしたとき、天皇はお喜びになられた旨が記されています。天皇は、吉良義央を好ましく感じていなかったようです。

帰洛した勅使両名及び院使・清閑寺熈定の3人を、事件後将軍へ何の取り成しもせずに傍観し、浅野長矩及び浅野家を見殺しにしたのはけしからんとして参内禁止の処分を行っています。

12月14日、東山七条の法住寺でも、義士の法要が行われました。
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こちらの慈覚大師の建立と伝わる身代不動明王に、山科に閑居していた大石内蔵助(良雄)が仇討ち祈願をしたといわれています。同志との連絡・会合の場所でもあったそうです。その縁から四十七士の小像も安置されていて、毎年、この日に法要が営まれています。p7873.jpg

2009年12月15日

小野篁

承和5年(838年)12月15日 遣唐使の副使を断り、遣唐使制度そのものを批判したことから、小野篁(たかむら)は、嵯峨天皇の怒りに触れて隠岐へ流罪になりました。承和7年(840年)には帰京を許され、従三位にまで叙せられました。
わたのはら 八十島かけて こぎ出ぬと 
      人には告げよ あまの釣船
これは島へ渡る際の歌です。

初代・遣唐使の小野妹子の子孫で、小野道風・小野小町のご先祖でもありますが、冥府に通い、閻魔王庁で裁判を手伝っていた人物としても有名です。
井戸を通って地獄に赴いていたのですが、その入り口は東山の六道珍皇寺に今もあります。出口の井戸はというと、嵯峨の福生寺にあったのですが、現在は井戸も寺も存在しません。嵯峨釈迦堂の東のあたりは六道町といい、かつて福生寺のあったあたりです。

地獄で、苦しむ亡者のために罪を受けているという地蔵尊に出会い、現世に戻り福生寺を建立して地蔵尊を祀ったということで、嵯峨釈迦堂藤ノ木町の薬師寺にその地蔵尊は伝えられています。
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閻魔大王が、三熱の苦しみにあえいでいて、菩薩戒を受けたいと望んだ折には、満慶上人を案内し、上人の菩薩戒で閻魔大王の苦しみを除いたという話もあります。これは、寺町三条上るの矢田寺に伝わる話です。p7879.jpgp7878.jpgp7877.jpgp7876.jpg
布製のかわいいお地蔵さまのお守りがなんともいい感じです。p7875.jpg

2009年12月12日

大石神社

「時は元禄15年12月14日! 江戸の夜風を震わせて・・・。」
ご存知、忠臣蔵討ち入りの日も間近に迫ってきました。近頃では、あまりドラマにならず、ちょっと物足りない気もしますが・・・。
というわけで、山科にある大石神社に行ってきました。p7929.jpgp7928.jpg
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境内の大石桜の紅葉は、綺麗さっぱり、終わっていました。p7926.jpg
向かって左には、赤穂義士討入りに際し、必要な武器を調達した大阪の豪商 天野屋利兵衛を祀った義人社があります。「天野屋利兵衛は、男でござる。」 の名台詞で有名ですね。
商売の神様ということなので、ここはしっかりお参りしなくては。p7925.jpgp7924.jpg
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その奥の山道が大石良雄遺髪塚への近道になっています。p7922.jpgp7921.jpg
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大石良雄隠棲旧址碑p7916.jpg
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大石良雄を偲んだ句碑や歌碑が点在していました。p7919.jpgp7918.jpg
明日は、石段を上って、岩屋寺です。


2009年12月10日

大田垣蓮月

明治8年(1875)12月10日、蓮月尼が85歳で逝去しました。p7930.jpg
晩年の住処としていた神光院の庵は、今も保存され、紅葉の名残が鄙びた風情をかもし出してています。
神光院の南西にある西方寺の墓地にそのお墓があります。p7931.jpg
墓参りをしてきました。
大田垣蓮月さんに関しては、2月のブログで紹介しています。

2009年12月04日

藤原 行成

万寿4年12月4日(1028年1月3日))藤原行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい)が亡くなりました。 平安時代中期の廷臣で、当代の能書家として三蹟の一人に数えられています。

天皇の外戚である、一条摂政謙徳公・藤原伊尹の孫に生まれ、父はその御曹司で、美貌の歌人で知られた藤原義孝でしたが、相次いで、後ろ盾のこの二人を亡くし、出世の道を閉ざされていました。

ある時、天皇の御前で、藤原実方が自身の歌を行成に悪評されたことを怒り、行成の冠を地に投じる騒ぎが、ありました。行成は事を荒立てず、冠をひろわせ、被り直したということです。そのふるまいから、実方は、「歌枕を見てまいれ」との一条天皇の命で、陸奥国(東北)へ左遷となり、行成の方は覚えめでたく、その後、源俊賢の引き立てもあり、蔵人頭へ昇進することになったとも言われています。

問題の歌は、東山の桜狩りに詠んだものです。

桜狩 雨は降り来ぬ 同じくは
  濡るとも花の 蔭に宿らん

これに対し、行成は「歌はおもしろし。実方は痴(おこ)なり。」
(なるほど歌は風流だが、作る奴は馬鹿だ。)と評したということです。

*3年後、任地で実方は馬に乗ったまま笠島道祖神前を通り、乗っていた馬が突然暴れ、あっけなく死んでしまいます。

実方も行成も清少納言と交流があったようです。

行成が清少納言と深夜の長話の末、帝の御物忌のため、急いで帰っていき、翌朝の手紙に尽きぬ話があったのに、鶏の声に急かされて帰ってきてしまいましたとの後朝の文めいた美しい手紙が届き、あんな夜中に鶏が鳴くわけがない。それは、函谷関をだまして通った孟嘗君のあのそらなきでしょうと返し送った、清少納言の歌は、有名です。

夜をこめて 鳥の空音は はかるとも
    よに逢坂の 関はゆるさじ

行成も返歌を返しています。

逢坂は 人越えやすき 関なれば
 鶏鳴かぬにも あけて待つとか

上京区大宮通一条上る西側附近に、藤原行成の邸宅はありました。
長保3年(1001年)、邸宅内に世尊院堂を建立しました。p7962.jpg
このことから、行成の子孫の書流を世尊寺流と呼ぶようになったそうです。

2009年12月03日

黒田長政

永禄11年(1568年)12月3日に黒田(官兵衛)孝高の嫡男 松寿丸(長政)は生まれました。

天正5年(1577年)、父・官兵衛が織田信長に属したため、人質として近江国長浜の羽柴秀吉に預けられました。
天正6年(1578年)、荒木村重が信長に反旗を翻したとき(有岡城の戦い)、官兵衛が村重を説得する為に伊丹城に乗り込みましたが、捕われてしまいます。信長はいつまでも官兵衛が戻らないので、村重方に寝返ったと思い込み、幼い長政を処刑するよう命じますが、竹中(半兵衛)重治の計らいで匿われ、一命を落とさずに済みます。信長の死去の後、父と共に秀吉の家臣となります。
天正17年(1589年)、父が隠居したために家督を相続し、同時に従五位下、甲斐守に叙任します。

上京区油小路の中立売通から、上長者町通までの間は甲斐守町といい、長政の邸のあったあたりと言われています。p7964.jpg
これより上、堀川一条東入るには、諸侯屋敷・ 一条下り松 遺跡 の石碑が建っています。p7963.jpg
聚楽第周辺に諸侯の邸があった事を示しています。p7955.jpg

*一条下り松 遺跡 
 宮本武蔵との決闘で名高い吉岡の道場があったとされる場所でもあり、その裏庭に松があり下り松といわれ、そこで決闘がなされたと伝えられています。一乗寺下り松は、この一条下り松が誤り伝えられたものという説があります。