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2017年08月15日

祇園祭 後祭 巡行 2017

遅くなってしまいましたが、後祭の巡行の様子です。四条御旅所の横にて、スタンバイ。
信号の向きを変えて、鉾が通れるように準備。13-623.jpg
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神事13-621.jpg
花傘行列が先にやってきました。13-620.jpg
1966年に山鉾巡行が前祭(17日)の1日で行われるようになった際、後祭の巡行に代わるものとして開催されたのが始まりだそうです。
子供神輿13-619.jpg
こちらの行列は、八坂神社を出発し、四条御旅所から京都市役所へと進み、河原町通りを下って、八坂神社へと戻ってゆきます。13-618.jpg
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この行列もくじ改めがあるのですね~。13-616.jpg
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六斎念仏の人達13-613.jpg
織商鉾 13-612.jpg
京都ミスきもの の方々です。13-611.jpg
祇園甲部13-610.jpg13-609.jpg
宮川町13-608.jpg
白っぽい御着物が涼しげです。本当は暑いのでしょうけど。先祭の時より、曇っていて、風もあり、爽やかめで、よかったです。13-607.jpg
鷺舞13-606.jpg
目の前を通り過ぎてから、羽を広げてくれました。13-605.jpg
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岩戸山の祇園囃子13-603.jpg
山鉾巡行の先頭は、橋弁慶山 (はしべんけいやま)です。13-602.jpg
北観音山 (きたかんのんやま)13-601.jpg
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鯉山 (こいやま)会所にあった時より、鯉が大きく感じられます。 13-597.jpg
役行者山 (えんのぎょうじゃやま)13-596.jpg13-595.jpg
八幡山 (はちまんやま)13-594.jpg
南観音山 (みなみかんのんやま) 13-593.jpg
13-592.jpg13-591.jpg13-590.jpg13-589.jpg
鈴鹿山 (すずかやま) 13-588.jpg
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浄妙山 (じょうみょうやま) 13-586.jpg13-585.jpg
黒主山 (くろぬしやま)13-584.jpg
肩こりそうなほど、仰ぎ見てますね~。巡行終わったら、もみほぐしてあげたい。13-583.jpg
最後は、大船鉾 (おおふねほこ)です。13-582.jpg13-581.jpg13-580.jpg13-579.jpg13-578.jpg
すぐ、信号が元に戻されてゆき、通行止めが解除されます。13-577.jpg
御神輿 まだ、この神輿を担ぐ様子をその場で見た事がありません。来年は、こちらに注目してみたいですね~。13-576.jpg

2017年07月29日

祇園祭 前祭 巡行 2017

今年は、巡行が月曜日になったので、出掛けてみました。中継されていた近畿放送を見ているうち、出掛けるのがちょっと億劫になったのですが、この機会を逃しては、いつ見られるか分からないので、意を決して(^^)、新町御池へと。
先頭の長刀鉾(なぎなたほこ)13-684.jpg
御稚児さんが、強力さんに抱えられて、鉾から降りてきました。13-683.jpg
この新町御池は、皆が通る最後の辻回し場所で、かつては穴場とされてきたのですが、大変な人だかりです。13-682.jpg13-681.jpg
占出山 (うらでやま) 神功皇后を祀る安産の山で、くじ順でこの山の巡行が早い年は、お産が軽いといわれていますから、今年はすっごく軽そうですね。
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孟宗山(もうそうやま) 13-679.jpg
霰天神山(あられてんじんやま) 13-631.jpg
函谷鉾(かんこほこ) がやってきました。鬮で決めた巡行の順番は、新橋を下るこの帰り道で会所へ帰りやすい順番に入れ替わります。13-678.jpg
伯牙山 (はくがやま)が先に新町を南下します。お先ぃどす~。13-630.jpg
函谷鉾の辻回し13-677.jpg13-676.jpg13-675.jpg13-674.jpg13-673.jpg13-672.jpg
芦刈山 (あしかりやま)13-671.jpg
四条傘鉾 (しじょうかさほこ)13-629.jpg
月鉾 (つきほこ)13-670.jpg
山伏山 (やまぶしやま) お先ぃどっせ~。 13-669.jpg
油天神山 (あぶらてんじんやま)13-628.jpg
続々とやってきました。太子山 (たいしやま)に、木賊山 (とくさやま)です。 13-668.jpg
太子山 が下ってゆきます。13-627.jpg
月鉾 の辻回し13-667.jpg13-666.jpg13-665.jpg13-664.jpg13-663.jpg13-662.jpg
木賊山 13-626.jpg
綾傘鉾 (あやかさほこ)13-625.jpg
蟷螂山 (とうろうやま) 13-661.jpg
鶏鉾 (にわとりほこ・とりほこ) 13-660.jpg13-659.jpg13-658.jpg
菊水鉾 (きくすいほこ) がやってきました。13-657.jpg
白楽天山 (はくらくてんやま)担ぎ手が外人ばかりです。一周廻ってアピール。13-624.jpg
郭巨山 (かっきょやま) 13-656.jpg
保昌山 (ほうしょうやま)13-655.jpg
菊水鉾 には、菊慈童が鎮座されています。13-654.jpg
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岩戸山 (いわとやま)13-651.jpg13-650.jpg
船鉾 (ふねほこ)がやってきました。13-649.jpg
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船鉾が方向転換する様は、大海原を想像してしまうせいでしょうか、なんかうれしくなってしまいます。13-646.jpg13-645.jpg13-644.jpg13-643.jpg
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狭い水路に入ってゆきました。航跡波に溺れそうな気分(^^)13-641.jpg
これでおしまいと思いきや、放下鉾 (ほうかほこ)がいました。新町四条上るに会所がありますから、先に下がると、船鉾が通れません。13-640.jpg13-639.jpg13-638.jpg
自然に拍手が湧き起っていました。後ろをついていきたい誘惑にかられましたが、さすがにしばらくは新町通は南下不可です。よって、室町通りを南下します。時折、新町を下る放下鉾を遠目に眺めながら、山伏山の会所まで、やってきました。すでにご神体は、2階に鎮座され、山の飾りも外されていました。
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そして菊水鉾の会所までやってくると、鉾の帰りを待つ鉾町の方々が大勢。金剛流御宗家の金剛永謹さんや、龍謹さんの姿が о(≧▽≦)о
四条通での、最後の辻回しが行われています。13-636.jpg
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お疲れ様~13-634.jpg
会所で、しばらくお囃子が演奏されました。13-633.jpg
四条通を東へと、13-632.jpg
函谷鉾の車輪が外され、運ばれていくところでした。
この時期にしては、暑さもましで、雨も降らず、なによりでした。足が疲れてしまいましたが、心地よい疲労感を胸に、帰路に着くことが出来ました。


2017年05月21日

葵祭 2017

5月15日 葵祭を見に御所へ出掛けました。烏丸丸太町に着いたのが1時間前になってしまったので、すでに御所へ向かう人々がぞろぞろと。堺町御門を少し入ったところの三列目に陣取りました。13-719.jpg
京都府警の平安騎馬隊の方が、行列を待ってスタート地点にスタンバイ。馬の紫のレッグプロテクターが雅~!13-718.jpg
たてがみが、きちんと整えられていますね。カットしたばかりといった感じです。仕事柄、目についてしまいます。13-717.jpg13-716.jpg
ゴテぎみの馬もいます。13-715.jpg13-714.jpg
御所車がやってきました。13-713.jpg13-712.jpg13-711.jpg
葵の葉の根本に水を含ませたコットンを巻くとか出来ないものでしょうか?萎れてしまいそうに思うのですが。13-710.jpg13-709.jpg13-708.jpg
あらっ、こちらは、水火天満宮の宮司さんではないですか?13-707.jpg
馬の落し物処理班もいらっしゃいます。13-706.jpg13-705.jpg13-704.jpg
斎王代が近づくと、皆さん ぐぐぐう~と。シャッターの嵐。13-703.jpg13-702.jpg13-701.jpg13-700.jpg13-699.jpg
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最後の行列が通り過ぎたあたりの人達は、バタバタと移動し始めます。皆、下鴨神社や上賀茂神社へと急ごうとしているのでしょうね。13-697.jpg13-696.jpg13-695.jpg
良いお天気でなによりでした。13-694.jpg


2017年05月13日

第四回 能舞台フェスタ in 今宮御旅所

5月7日 大宮北大路下るの今宮御旅所で、第四回の能舞台フェスタが行われました。13-720.jpg
これまで、営業日に当たっていたので観に行けなかったのですが、今年はちょうど定休日の開催となったので、のぞいてみる事にしました。13-721.jpg
今宮祭のさなかなので、御神輿が鎮座されています。13-726.jpg
お隣の能舞台は、寛政7年に再建されたもので、昭和34年~47年までは、御旅能が開催されていたそうです。現在、この能舞台を再興しようと開催されているのが、このフェスタです。有志の方が集まり、運営されているようで、出演者の大半は大学の能学部の面々です。13-725.jpg
鏡板は、江戸中期の吉田元陳という絵師によるもので、この老松の中には十数匹の猿が描かれているようです。損傷が激しく、遠目には全然わかりません。
曽和鼓童さんの小鼓奉納から、始まりました。13-724.jpg
おじいさんの曽和博朗さんが初舞台を踏まれたのは、この能舞台だったようです。13-723.jpg
その後は、京大能楽部金剛会を始めとする各大学のクラブの発表会のような感じですね。はらはらしてしまったり、結構 様になっていたりと、さまざまです。13-722.jpg
廻りでは、「西陣の朝市マルシェ」が同時開催されていて、こごみの天ぷらなど食してみました。お手頃価格の長暖簾なども購入して、帰ってきました。

2017年04月26日

京都の桜 2017 京都簡易裁判所

4月17日 京都簡易裁判所廻りの枝垂れも満開でした。13-778.jpg
13-777.jpg13-776.jpg13-775.jpg13-774.jpg
生まれたての葉っぱが、ふれっしゅで、愛らしいです。13-773.jpg13-772.jpg
玄関や塀などに旧庁舎の飾りの一部がはめ込まれているようですが、以前のクラシックな建物の方が雰囲気がありましたね~。13-771.jpg
こんなに桜に囲まれていると、裁判の緊張もほぐれるのでしょうか?13-770.jpg13-769.jpg

2017年04月12日

京都の桜 2017 妙覚寺・水火天満宮

4月7日 妙覚寺では、門がライトアップされていました。13-887.jpg
出来れば、桜をライトアップして頂きたいですが。13-886.jpg13-885.jpg
水火さん横の扇町児童公園13-884.jpg
水火天満宮13-883.jpg13-882.jpg13-881.jpg13-880.jpg13-879.jpg13-878.jpg


京都の桜 2017 妙顕寺

4月7日 本法寺から妙顕寺へと
門前の枝垂れはまだ開花したばかり13-893.jpg
境内は満開です。13-892.jpg13-891.jpg13-890.jpg庫裏の前の枝垂れは開花したばかりです。13-889.jpg
勅使門の内側の枝垂れも満開のようです。13-888.jpg

2017年04月09日

京都の桜 2017 本法寺

4月7日 昨日からの雨模様 桜もようやくあちこちで見頃を迎えたというのに、残念ですね~。小雨のようなので、ご近所を夕暮れに散歩してみました。
本法寺13-909.jpg
満開です。いつもながら、見事な樹形ですね。13-908.jpg
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夕刻は人気もなくて、静かに過ごせるスポットです。13-903.jpg13-902.jpg
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お隣の茶道会館前13-896.jpg
俵屋吉富さんを背景に13-895.jpg13-894.jpg

2017年04月06日

京都の桜 2017 妙覚寺

4月3日 妙覚寺 13-971.jpg
門前の枝垂れが咲き始めていました。13-970.jpg13-969.jpg13-968.jpg
4月4日 13-967.jpg
見頃を迎えたようですね。13-966.jpg13-965.jpg
夕刻 浮かび上る薄紅の花びらは、とりわけ美しいように感じます。13-964.jpg13-963.jpg13-962.jpg
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花びらの輪郭線に残る紅色が内に向かうにつれ、水で溶いたようにほどけていくようで、なんとも色香があるように感じます。13-960.jpg

京都の桜 2017 水火天満宮

水火天満宮 
4月3日 夕日に照らされ、きらきらしているところでした。13-976.jpg13-980.jpg
いつも風に揺れて撮りにくい枝花も、今日はじっとポージングをしてくれています。13-979.jpg13-978.jpg13-977.jpg
4月4日13-975.jpg
一日で結構咲き進んだようです。13-974.jpg
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2017年04月05日

京都の桜 2017 御苑

4月3日 桜の季節、珍しく好天に恵まれた連休2日目を迎えました。御苑の早咲き枝垂れが満開のようなので、いそいそと桜の着物で出掛けました。13-981.jpg
観光バスで大勢の人が訪れているようです。この時期、昨年でしたらどこもかしこも桜で溢れていたでしょうに、今年は遅い開花とあって、早咲きの桜に集中してしまったようですね。
出水の小川の枝垂れ12-004.jpg
ぽかぽか陽気に満開の桜 青空のもとの桜はやはりいいですね~。12-003.jpg12-002.jpg
毛氈など引いて、しばし眺める事にしました。12-001.jpg
木蓮も花盛り12-000.jpg
迫力溢れて、空へと向かっています。13-999.jpg13-998.jpg13-997.jpg13-996.jpg13-995.jpg
近衛邸跡にやってきました。13-994.jpg
こちらの方が人出が多いですね。13-993.jpg
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ここの桜はいつも雪崩を起こしているような印象を受けます。ちょっと栃木県の事故があったばかりなので、そういう表現をしてはいけないかもしれませんが…。人が多くて上の方しか写真になりにくいせいもあるのですが、撮った写真を見ると、眩暈を起こしそうになります。
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清水・祇園あたりほどでもないですが、こちらもレンタル着物姿が多いです。近頃は、小学校の卒業式も袴姿が増えているようですね。20年ぐらい前は、高校卒業式でも、振袖や袴姿で出席するのね~と眺めていたのですが。13-987.jpg
レンタルで着物の良さを知って、自前の着物を買おうという風に考えてもらえると、室町や西陣も潤うのですけどね~。13-986.jpg
ポリエステルから正絹へ、半幅帯から名古屋帯へとステップアップする手立ては、リサイクル着物でしょうか?自分で着れるようになる必要もありますね~。13-985.jpg13-984.jpg13-983.jpg13-982.jpg
今年は咲いている場所が少ない分、ゆっくり味わえたようです。例年ですと、駆け回っている頃ですから(^^)


京都の桜 2017 本満寺

4月2日 本満寺 こちらは穴場などと書かれていたりするようですが、もうしっかりメジャーなスポットになってしまったようです。12-015.jpg
部分的に開花が進んだようで、見頃を迎えようとしていたところでした。今頃は満開でしょうか。12-014.jpg
あちこち京の桜の勢いが衰える中、なんとも華やかな桜です。12-013.jpg
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京都の桜 2017 有栖館

4月2日 旧有栖川邸 有栖館の桜も結構咲いていました。12-019.jpg
特別公開中で、門も開いていました。12-018.jpg12-017.jpg
表から見て一本の木だと思っていたのですが、以前の公開の際に中に入って、2本の木だという事を知りました。12-016.jpgよく見ると2本ですね~。

2017年04月04日

京都の桜 2017 立本寺

4月2日 立本寺でも早咲きの枝垂れが見頃を迎えていました。12-024.jpg
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染井吉野も開花12-021.jpg
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しかし、御堂の屋根がさらに波打ってきていて、妖しい雰囲気を醸し出してきましたね。妖怪でも出そうな。修復費用にするのでしょうか?横の広場はマンション建設中のようです。12-022.jpg

京都の桜 2017 平野神社

4月2日 平野神社 魁が見頃を迎え、大勢の人だかりです。今年は開花が遅れているので、観光客が少しでも咲いているところへと、殺到している感じですね~。12-027.jpg12-026.jpg12-025.jpg
桜園も早咲きの桜が何本か咲いているようでした。

京都の桜 2017 千本釈迦堂

4月2日 千本釈迦堂のおかめ桜は、一部の枝が開花していました。12-030.jpg
この陽気のおかげで、今頃は満開に近い状態になっているかと思いますが、花芽の付いていない枝が多いので、かつての華やかさは望めないでしょうね。12-029.jpg
門前の桜もほころび始めていました。12-028.jpg

京都の桜 2017 上品蓮台寺

4月2日 上品蓮台寺では、門を入ったところの早咲きの枝垂れが見頃を迎えようとしていました。12-034.jpg
紅枝垂れは蕾12-033.jpg
白木蓮が青空に誇らしげです。12-032.jpg
北区区民の誇りの木であるスモモも蕾をしっかりつけていました。12-031.jpg

2016年08月25日

川床から大文字のはずが…

8月16日 今年は、休日が大文字送り火と重なる久しぶりの年ということで、早くに鴨川の床を予約していました。12-129.jpg
河久さんにおじゃましました。12-128.jpg
アオサギもやってきました。12-126.jpg
お刺身を一つ二つ、口にしたところへ、ぽたっと一滴、頭上から!大粒の雨の気配に急遽、室内にテーブルごと移動。12-127.jpg
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大した事もなさそうなので、点火までに止めばいいね~などと話していましたが。12-123.jpg
一旦は止んだ模様でしたが、再び降り始めて本降り、キャンセルされた御席が撤去されて、室内はゆったり。12-122.jpg
いい塩梅12-121.jpg12-120.jpg
この右手あたりに浮かび上るはずが、時間になっても・・・。12-117.jpg
こんな送り火を体験したのは初めてではないでしょうか?だいぶ遅れてわずかに浮かんだ大の字でしたが、コンパクトカメラでは撮影不可状態でした。12-119.jpg
大の字を、持ち込んだ盃に写して飲むはずが、それも叶わず、滋賀からいらしたという御席の方々と回し飲み。それはそれで、記憶に残る送り火になりました。12-118.jpg
デザートは即行、食べてしまって、写真なし。送り火は、この日の着物でご覧ください。12-116.jpg
翌日、録画しておいたNHKの放送で、送り火鑑賞が出来ました。雨の中、皆さん頑張ってらしたんですね~。高さのある右大文字以外は見えたようで、一安心。送り火が見えないと、帰り道に迷ってしまいますものね。

2016年08月12日

京の夏の旅 2016 藤田家住宅

今年の京の夏の旅 一つめは、徒歩圏内「山名町」にある藤田家住宅を、訪れました。12-154.jpg
このあたりは、応仁の乱の際、西の陣を率いた山名宗全の邸があった場所で、すぐ近くに石碑があります。12-131.jpg12-130.jpg
建物は明治期に建てられた東棟と、大工・高源次郎によって昭和10年に建てられた西棟で構成されます。今回はこの西棟の見学となります。コンパクトカメラ撮影で、暗かったので、ちょっとぼけた写真が多くなってしまいました。あしからず。12-155.jpg
三階まで吹き抜けになっている廊下12-151.jpg12-150.jpg12-142.jpg12-143.jpg
暖炉のある洋室12-153.jpg
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おしゃれな天井12-152.jpg
床も凝った造りになっています。12-149.jpg
座敷の畳も貴重な作りになっています。12-147.jpg
夏のしつらえの和室は、涼しげです。西陣らしく、地袋の引手が杼(ひ)(織物を織るときに、経糸の間に緯糸を通すのに使う道具))の形に作られています。12-146.jpg
茶室12-144.jpg
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お二階は、仕事部屋となっていたそうです。
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柱が無くてすっきり。12-138.jpg12-137.jpg12-136.jpg12-135.jpg12-134.jpg
松下電気器具製作所 創業当初のヒット製品「二股ソケット」ですね~。12-140.jpg
西陣華やかなりし頃を思わせる美しい空間でした。12-133.jpg
東棟玄関12-132.jpg
貴重な町屋が取り壊され、マンションが増えてしまった西陣ですが、このように大切に保存して公開して頂けるお宅があるという事はとてもうれしい事です。

2016年07月22日

大船鉾 山鉾建て 2日目

19日17時前頃、鉾建ても随分進んだようです。ギャラリーは今日の方が多いです。龍頭を掲げるにあたり、神事が行われるとの事ですから、皆さん暑い中を待っています。12-191.jpg
剣鉾が出てきました。12-190.jpg12-189.jpg12-188.jpg
海老と呼ばれる縄結びです。12-187.jpg
龍頭も首部分が取り付けられました。12-186.jpg
懸装品が取り付けられます。12-185.jpg12-184.jpg
龍頭の登場です。元治元年(1864年)の蛤御門の変の際に焼失して以来ですから、関係者の方々の感慨もひとしおでしょう。12-183.jpg
角に髭12-182.jpg
公募で選ばれ、この龍頭を彫った滋賀県米原市の彫刻師、森哲荘(てっそう)さんでしょうか。12-181.jpg
会所にて、関係者のお祓い12-180.jpg
いよいよ、龍頭が担ぎ上げられました。12-179.jpg
大船鉾の龍頭は、瀧尾神社の龍と同じ九山新之丞・新太郎親子の作であった可能性が高いとの事から、同神社から寄進されたそうです。12-178.jpg12-177.jpg
剣鉾3基が、差し上げられ、龍頭を先導します。新町通の四条通から綾小路通までの間を何度も往復します。12-176.jpg
鉾と電線との間はとても狭く、細心の注意が必要です。12-175.jpg
龍頭を差し上げて、おう おう おう という掛け声が響きます。12-174.jpg12-173.jpg12-172.jpg12-171.jpg12-170.jpg
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龍頭、旋回12-168.jpg12-167.jpg
船の船首へと12-166.jpg12-165.jpg
足もはめ込まれました。12-164.jpg
白木の初々しい龍です。12-163.jpg
夕日を受けて目が光っています。12-161.jpg
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凱旋の船 龍頭は、御幣と交互に隔年で取り付けられるので、2年後、塗りなどが施されてまた姿を変えているのでしょうか?楽しみですね。12-159.jpg

大船鉾 山鉾建て 1日目

18日 先祭の片付けが行われている四条界隈では、後祭の山鉾建てが始まりました。
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15時頃に新町四条下るの大船鉾の鉾建てを見学に行きました。
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土台の船体が形作られていました。12-213.jpg
釘を一本も使わず縄で組み立てていくのですから、まだまだ縄掛けの作業の真っ最中です。12-212.jpg
内側と外側から、二人掛かりで進められています。12-205.jpg
縄は、わりと緩やかに組み立てていくようですね。これが衝撃を分散、柔軟性と強度を併せ持つ構造になっているようです。12-211.jpg
木槌で縄目を整える作業12-210.jpg12-209.jpg
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本日の作業分12-207.jpg
昨年までは階段が鉾の横に取り付けられていて、そこから上に上がっていたのですが、今年は会所の二階から出入りするように変わったようです。12-206.jpg12-204.jpg
上の方の組み上げが始まりました。12-203.jpg
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床部分が並べられてゆきます。12-201.jpg
番号順に渡されてゆきます。12-200.jpg
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くさびが打ち込まれて固定されてゆきます。12-193.jpg
作業は日が暮れるまで続くようですが、18時になったので、見学はまた明日に。12-192.jpg
綿紅梅の浴衣に白い博多帯で出掛けたのですが、即行 洗いに出してしまったので、写真はなしです。
帯留は後祭の浄妙山の粽ストラップを加工してみました。

2016年07月17日

祇園祭 前祭 宵宵山 2016

大西常商店で絵付け体験をした扇子が、出来上がってきました。12-218.jpg
鮎が描いているうちに大きくなってしまい、鵜も喉が詰まってしまいそうです。着物は、鵜の扇子に合わせ、船に船頭さん柄、紫の博多帯に菊水鉾のストラップを帯留に作り替えたものにしてみました。12-217.jpg
粽に付いた鈴が小さく鳴るのが可愛いです。まぁ祇園祭の喧騒の中では、聞こえませんけど…。12-216.jpg

15・16日と大西常商店さんで、フリーライブをされるという事で、扇子お披露目に出掛けました。津軽三味線や・日舞・ギター弾き語りなど盛りだくさんのライブが和楽の間で繰り広げられました。
途中で失礼して、四条へとぶらぶら歩を進めます。一番南東にある保昌山が見えてきました。12-226.jpg
豊園泉正寺榊(ほうえんせんしょうじさかき)12-225.jpg
神幸祭、還幸祭の神輿を先導するそうです。15日にこのようにお目見えするのは初めての事のようです。12-224.jpg
祇園祭は、知らない事がとても多いですね~。
四条通に出てきました。12-223.jpg12-222.jpg12-221.jpg12-220.jpg
ベビーカステラを買おうと思ったのですが、行列で断念。12-219.jpg
ホコ天も、ぼちぼち終了。こんなに涼しい宵宵なんて、初めてではないでしょうか?ちょっと怖いくらいですね~。

2016年05月18日

扇子絵付け体験

松原通高倉西入るにある大西常商店さんでは、昨年、「常の会」というふだん暮らしの京町家の魅力・古典芸能・伝統工芸にちなんだ公演や講座、交流会などの活動を実施する会を発足されていました。おじゃましてみたいと思いながら、なかなかその機会がなかったのですが、扇子絵付け体験も行われているので、この夏に向けて、自作の扇子作りに挑戦してみることにしました。12-308.jpg
パンフレットより拝借
事前に下絵を描いておこうと考え、大まかな構図を描いて、プリントアウトし、扇子風に折ってみました。
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結構、横方向が縮まってしまうようで、絵が委縮する感じがしますね~。横方向をちょっと間延び気味に描き直してみました。12-302.jpg
濡れた羽を乾かしている鵜と、泳いでいる鵜の前に飛び跳ねてしまった鮎という設定です。扇子を少し折りたたんだ時に鮎が鵜の口元まできて、食べられてしまうという感じにしてみたいのですが、うまくいくかどうか?12-306.jpg
水色の紙を選択、パール感があってきらきらしています。中庭に面した障子戸のガラスに本紙と下絵を重ねて、下絵をトレース。12-305.jpg
皆もそれぞれ図柄を決定したようです。12-304.jpg
たすき掛けで、気合十分(^^)12-301.jpg
雨にしとど濡れた中庭が美しいです。皆、真剣!12-303.jpg
和色のアクリル絵の具で彩色してゆきます。12-299.jpg
あっという間に予定していた2時間半が経ってしまいました。裏面にもちょこっと描きたかったのですが、お腹も空いたので、落款を押して、終了。12-298.jpg
骨を選んで、後は完成を待つばかり。12-300.jpg
仕上がったら、川床でお披露目会を催す事にしました。楽しみ。

2016年04月13日

2016 京の桜 上品蓮台寺

4月3日12-400.jpg
染井吉野は満開でしたが、紅枝垂れの花芽の付き加減が去年にもまして悪いようで、以前の華やかさが全くありません。12-399.jpg
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2016年04月10日

2016 京の桜 立本寺

4月3日12-407.jpg
立本寺は、早咲きの枝垂れはすでに終わっていましたが、染井吉野が満開で、お弁当持参の人で賑わっていました。12-406.jpg12-405.jpg
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老朽化が進んでいて、瓦がぐねっています。早急に修復が必要ですね~。
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2016 京の桜 本隆寺

4月3日  12-413.jpg
本隆寺も満開見頃を迎えていました。12-412.jpg
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2016年04月09日

2016 京の桜 本法寺

4月3日 12-418.jpg
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2016年04月08日

2016 京の桜 妙顕寺

4月3日 12-425.jpg
春爛漫12-424.jpg12-423.jpg
表の枝垂れの花付きは悪いですが、中の枝垂れは満開のようですね。12-421.jpg
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2016 京の桜 妙覚寺

3月30日 12-431.jpg
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4月3日12-429.jpg
花芽の付いていない枝もあるものの、やはり風情のある桜ですね。12-428.jpg12-427.jpg
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2016年04月06日

2016 京の桜 水火天満宮

3月30日 12-436.jpg12-435.jpg12-434.jpg
手前と奥の枝垂れは花付きが悪いようです。
4月3日 12-433.jpg
桜花祭に出演のお嬢さん方で、華やいでいました。12-432.jpg
色合いが、ちょうど見頃です。

2016年04月05日

2016 京の桜 円山公園・祇園白川・高瀬川

4月2日 円山公園12-448.jpg
枝垂れが元気になってきたようで、何よりです。12-447.jpg12-446.jpg
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さすがに土曜の夜、大賑わいです。
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白川沿いも花盛り12-442.jpg12-441.jpg
高瀬川沿いまで、足を延ばしました。12-440.jpg12-439.jpg12-438.jpg12-437.jpg


2016年03月30日

2016 京の桜 御苑

3月28日 御苑 曇りのち晴れ 時々小雨
近衛の糸桜12-461.jpg12-460.jpg
早咲きの桜が満開です。12-459.jpg
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小雨が通り過ぎるのを待って、床几の上に、持参した緋毛氈を掛けて、お弁当タイムです。12-457.jpg
西陣の萬重さんにお願いしました。桜の小枝入りの雅なお弁当はボリュームたっぷりで、お腹いっぱいになりました。
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皇宮警察署の桜 残念ながら、門は閉ざされていましたが、見事に咲いていました。12-452.jpg
出水の枝垂れ12-451.jpg12-450.jpg12-449.jpg


2016年03月27日

2016 京の桜 平野神社

3月26日夕刻 平野神社の魁桜を見にゆきました。12-471.jpg12-470.jpg
随分な老木ですから、年々衰えが目立ってきました。岡山県の研究機関の協力を得て、昨年2月に枝を採取し、接ぎ木で増殖に成功したそうで、高さ約1メートルの幼木が境内に「帰郷」しているそうです。
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猿田彦社
鳥居脇の桜12-467.jpg
園内 雪山12-466.jpg
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枝垂れ12-464.jpg
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2016年02月21日

第50回 京の冬の旅 相国寺 長得院

第50回 京の冬の旅 二つ目は 相国寺内の塔頭 長得院にお邪魔しました。12-506.jpg
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幕末に活躍した岸派の三代目・岸連山による水墨障壁画が方丈を飾っていました。「山水図」「波涛鷲図」「水辺虎図」「花鳥図」などですが、廊下からの鑑賞なので、ちょっと見えにくいのが難です。虎や鷲など、もっと接近して観てみたかったですね~。
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後ろ側の墓地との境に作られた三段の石積みは、珍しい形ですね。12-503.jpg足利五代将軍義量の菩提寺で、その法号にちなんで寺名が付けられたそうです。

2016年02月06日

第50回 京の冬の旅 相国寺 養源院

今年も、「京の冬の旅」非公開文化財特別公開が始まっています。
テーマは「禅-ZEN- ~禅寺の美 日本文化の美~」
今年が、臨済宗を開いた臨済禅師の1150年遠緯にあたることから、禅宗の寺院を中心にした公開としたという事です。12-513.jpg
相国寺 養源院から、スタートしてみました。12-512.jpg
本堂12-508.jpg

本堂に安置された像高約170㎝の秘仏「毘沙門天像」は、若々しく凛々しいお顔立ちで、ポーズが独特です。鎌倉時代の慶派仏師の作と伝わっています。
この毘沙門天像の法要の際、伊藤若冲の「釈迦三尊像」「動植綵絵」12幅が初めて一般公開されたとか。12-511.jpg
近衛家から移築された書院からは、池泉式庭園と茶室「道芳庵」を眺める事が出来ました。12-510.jpg
幕末の戊辰戦争の際、こちらは薩摩藩の野戦病院となっていて、イギリス人医師 W.ウイルスによって、日本初のクロロホルム麻酔を使用した手術が行われたそうです。柱には、痛みをこらえんとした為か、藩士の付けた刀傷が残っていました。12-509.jpg

2016年01月27日

嵐山舟遊びと初天神

1月25日 月曜日 天気予報では、日曜に引き続き、全国的な荒天で、雪の降る確率が高いという触れ込みだったので、この好機を逃してはならじと、嵐山の遊覧船のランチ予約を入れていました。12-525.jpg
着物も雪月花をテーマに準備してみました。12-523.jpg

(写真は嵐山通船HPよりお借りしました。)
予定では、写真のような景色の中で湯豆腐を食するはずでした。朝は一応、上京区でも、うっすら雪景色だったのですけど、その後青空が広がってきて、嵐山に到着する頃には、残念な状態に…。12-522.jpg
最悪な予報の中、ランチ予約した物好きは、私だけだったようで、川ごと貸切りみたいな、いい感じではありました。12-524.jpg
日陰の岩肌には、わずかに雪が残っていました。ストーブと鍋、差し込む日差しのおかげで、寒くもなく、むしろぽかぽかなくらい12-521.jpg
保津川下りの船が一艘、下って行ったのと、遊覧のみの船2艘とすれ違っただけで、静かなランチタイム12-520.jpg
湯豆腐は写真を撮る前に、食べてしまったので、途中写真になってしまいました。
鵜飼の際は上ってこない「星のや」の前まで、やってきました。12-519.jpg
こちらは、雪も残っていて、なんとも風情があります。12-518.jpg
持参した日本酒も空けてしまって、雪見酒湯豆腐ランチは、残雪わずかではありましたが、貸切り感がなんとも良かったです。ランチを終えて、今度は、賑わう天神さんへ、12-517.jpg
境内の梅はちらほら咲き12-516.jpg
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2000円で、ナイロン袋を買い、詰め放題!着物1枚帯8本の収穫でした。12-514.jpg

2016年01月13日

謡初式と初詣

1月3日 恒例の金剛流謡初式を観に出掛けました。12-536.jpg
舞囃子は「岩船」龍謹さんです。さわやかな新春の空気を満喫して、お神酒を頂きました。12-535.jpg

さて、今年の初詣は、申年という事で、山ノ内にある猿田彦神社に出向いてみました。12-534.jpg
「山ノ内庚申」と言われ、京洛三庚申の一つとして数えられる神社です。ご祭神は猿田彦大神。12-533.jpg
ニニギノミコトの天孫降臨の際に道案内を務めた神様で、「道ひらきの神」と崇められ、諸芸上達、交通安全、開運除災、除病招福にご利益があるとされます。
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境内末社は、大国主命を祭神とする大国主社、火伏の神・秋葉明神を祭神とする秋葉社、稲荷大神を祭神とする稲荷社です。
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クスノキの大木12-527.jpg
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多分、日頃は静かな境内かと思いますが、さすがにこの日は参詣者が結構訪れているようでした。

2015年09月04日

平成27年京都迎賓館参観

内容の日時が前後しますが、8月2日(日)~8月11日(火) まで、平成27年京都迎賓館参観が開催されていました。開館10周年を記念して、「水明の間」が特別に公開されるという事でしたので、ネット申し込みをしてみました。申し込み倍率がどれぐらいだったのかわかりませんが、OKのお返事を頂いたので、出掛けてみました。地下ガレージにて手荷物検査の後、ロッカーに荷物を預け、スタートです。前回はなかったように思いますが、立派なパンフレットを頂きました。12-667.jpg
写真は個人の記念写真としての範囲でという、以前よりゆるい表現になっていました。今回初公開の水明の間は、コース最後の部屋で、首脳会談に使われる格式の高いお部屋です。一見するとすっきりしたお部屋と思えるのですが、細部まで京都の伝統工芸の技術を駆使した造りになっています。水をテーマにしたこの部屋は、外の景色は確認出来なかったのですが、水の上に乗り出した釣殿のような形になっているそうです。手前の部屋の床の青海波の色調が水明の間に近づくほど、濃くなるように織り上げられていました。芸の細かい事!良い目の保養になりました。

2015年07月30日

祇園祭 2015 後祭 宵山

祇園祭も、そろそろ終りですね。後祭は宵山の23日に出掛けました。
三条商店街にある八坂神社又旅社において、オハケ清祓式が行われたと聞いて、立ち寄ってみました。後祭の神事斎行を控え「オハケ」と称し、石鳥居に向かって右側に巾7尺、奥行き2尺の四隅に斎竹をたて芝を敷き、そこに3本の御幣をたてるというものです。御幣はすでに取り払われていましたが、その芝は残っていました。12-739.jpg
1か月の祭の間、いろいろな事が、あちこちで行われているので、その全貌を見ようとするのは何年も掛かっても、難しいですね。
屏風祭12-738.jpg12-737.jpg
八幡山12-736.jpg
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光琳の絵を応挙が写したもんやそうな!ひゃ~、豪華絢爛~。
こちらは、源平合戦12-728.jpg12-727.jpg
北観音山12-726.jpg
北観音山の東西南北4面を飾る一番水引が復元新調されたそうです。12-723.jpg
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19世紀半ばの水引「伝 金地関帝祭礼王侯(きんじかんていさいれいおうこう)行列図」です。中国・三国時代の武将関羽の誕生日を祝う列を題材にし、計109人の人物が刺繡されています。各縦72センチ、幅2・54~3・24メートル。クジャクの羽根も使われ、人物以外の下地は全て金糸の刺繡という豪華な作品で、復元に計8年かかり、費用は計約1億円だそうです。12-724.jpg
南観音山12-722.jpg12-721.jpg
大船鉾12-720.jpg
新調された前掛12-719.jpg
「紅地雲龍青海文綴織(べにじうんりゅうせいかいもんつづれおり)」で、外寸は縦約2・3メートル、横約0・7メートル。龍村美術織物が制作されたとの事。費用は1500万円。江戸時代に作られた前掛のデザインをもとに三つの龍が描かれています。
また、お茶をよばれました。12-718.jpg
ぶれてしまいましたが、ちらっと見えるのが、新調された金箔の格天井12-717.jpg
鯉山12-711.jpg
黒主山12-710.jpg
浄妙山12-709.jpg12-708.jpg
こちらで、また粽のストラップをゲット。12-706.jpg
鈴鹿山12-705.jpg
役行者山12-707.jpg
こちらは、初めて見る会所?12-716.jpg
休み山の鷹山でした。12-715.jpg12-714.jpg
復興を目指して、お囃子が演奏されていました。12-713.jpg
そこへ、南観音山の日和神楽がやってきました。12-712.jpg
翌日の山鉾巡行の晴天を祈念し、祇園囃子を奏でながら 四条寺町の御旅所まで、歩いて往復するというものです。
前祭に比べると、歩きやすくていいですね。これにて、祇園祭終了です。

2015年07月25日

祇園祭 2015 前祭 宵宵々山 岩戸山を中心に

14日 宵宵々山に出掛けてみました。
油天神山12-769.jpg12-768.jpg12-767.jpg
太子山12-766.jpg
山鉾巡行で、かつて参加者をお茶でもてなすための茶道具を担いで運んだ「荷(にない)茶屋」を、復元新調されたそうです。写真右手の会所前に置かれているのが、それです。12-765.jpg12-764.jpg
岩戸山12-763.jpg
上に上がってみました。
天井12-762.jpg
屋根の内側12-761.jpg
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能楽師・林宗一郎氏と玲月流・森田玲氏らによる舞と篠笛による「天岩戸のカミあそび」が始まりました。本日一番のお目当てです。12-759.jpg12-758.jpg12-757.jpg
無料・目の前・写真撮り放題が堪りません。12-756.jpg
一人で面を掛けられて。12-755.jpg
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スピードがアップしてきました。12-752.jpg
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や~よかった、良かった。(^^)12-749.jpg
白楽天山12-748.jpg
鶏鉾12-747.jpg12-746.jpg
菊水鉾12-745.jpg
昨日購入した粽のストラップを帯留にアレンジした、本日のコーディネートです。12-744.jpg
いいでしょうと、菊水鉾の人達に見せびらかしてみました。12-743.jpg
霰天神山12-742.jpg12-741.jpg
お囃子12-740.jpg
前祭は歩行者一方通行の道があるので、へたをすると余分にぐるぐるするはめになります。注意しなくてはと思いながら、失敗してしまいました。ちょっとそこまでなんやけど~と言っても通してくれません。疲れる。


2015年07月22日

祇園祭 2015 船鉾・岩戸山 曳き初め

13日 菊水鉾を出て、新町通を下ります。船鉾と岩戸山の曳き初めが始まろうとしていました。12-784.jpg
船鉾 出航!12-783.jpg12-782.jpg
船出気分がいいですね~.12-781.jpg12-780.jpg
少し下がると、岩戸山12-779.jpg12-778.jpg
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高さと幅があるので、電柱に接触しそうで、ドキドキします。12-776.jpg12-775.jpg
少し待っていると、戻る準備が始まりました。皆、思い思いに綱を持って待ちます。12-774.jpg12-773.jpg
素人が引っ張っているので、ちょっと怖い感じです。グラッとして、鉾が止められ、また動き出します。12-772.jpg
車輪の向きを微調整するお兄さん 重要なお役目ですね。12-771.jpg
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船鉾も、無事戻ってゆきました。


2015年07月17日

祇園祭 2015 菊水鉾 茶席

あいにくのお天気となった巡行ですが、暴風警報も出ずに、中止にならなかったのはなによりでした。13日に菊水鉾のお茶席におじゃました模様をお届けします。12-798.jpg
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謡曲「菊慈童」から着想された鉾で、会所は、千利休の師 武野紹鴎の大黒庵跡にあります。12-796.jpg
邸内にあった菊水井跡の碑12-795.jpg
二階にある茶席まで、階段下から行列です。ちょうど前のお席に舞子さんたちが入って行かれ、華やいだ雰囲気になりました。12-793.jpg12-792.jpg
鉾を模った水差しがかわいいですね。12-791.jpg
お菓子は、亀廣永さんの「したたり」菊の露の滴りに因んで付けられた銘です。菊の露って、こんなに甘いのかしらん?お皿は下に引かれた袋に入れて持ち帰りです。12-790.jpg
菊慈童の御神体12-789.jpg12-788.jpg
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出口に積んであったミネラルウォーター!菊慈童って、奥大山に住まいしていたのですね(^^)12-786.jpg
かねてより欲しかった粽のストラップをゲットしました。後日、公開!12-785.jpg
本日のコーディネートは、黒地に扇柄の小紋に菊の帯と帯留で、菊水鉾に合わせてみました。


2015年07月01日

夏越の祓 水火天満宮

6月30日 水無月を食べてから 結構、雨が降っていましたが、水火天満宮さんに出掛けました。
茅の輪くぐり12-821.jpg
お持ち帰り用のミニ茅の輪を、黙々と作られている方も多かったのですが、既成の茅の輪を頂いて帰ってきました。12-820.jpg
2015年も 早や半分、過ぎたのですね~。年々足早に過ぎて行くようですね~。

2015年05月01日

上御霊神社 一初

4月27日 上御霊神社では、一初が見頃を迎え始めていました。12-977.jpg12-976.jpg12-975.jpg12-974.jpg
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2015年04月24日

ファゴットとエラールピアノの夜桜コンサート

平野神社の前の通りを少し下がったあたりにある大正から昭和に活躍した日本画家・山下竹斎の邸宅兼アトリエとして大正15年に建てられた木造建築が、時を経て保存修復され、平野の家 わざ永々棟という文化拠点として公開されています。12-989.jpg
「ファゴットとエラールピアノの夜桜コンサート」が開催されたので、訪れてみました。12-988.jpg
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ステンドグラスが綺麗12-986.jpg
12-985.jpg 一階の土間とダイドコが、コンサート会場になっています。12-984.jpg
1922年に造られ放置されていたエラールのピアノを修復されて蘇えらせたそうです。ガラスの靴を履いているのが面白いです。12-982.jpg
ファゴットとピアノが柔らかな調べを奏でて、穏やかな気持ちになれました。
仙崎和男氏が懇切丁寧に解説を付けてくださったので、それぞれの曲や、ファゴットという楽器について、理解が深まりました。こういうサロンコンサートもいいものですね。演奏の後は、お茶室で老松さんの生菓子(夜桜だったような?)とお抹茶を頂きました。幸せ(^^)12-983.jpg

2015年04月12日

2015 京の桜 妙蓮寺

4月6日 本隆寺から妙蓮寺へ11-086.jpg
門前の桜は、今年もころっころで、ボリュームたっぷりです。11-085.jpg11-084.jpg11-083.jpg11-082.jpg
修復された本堂が綺麗です。11-081.jpg11-080.jpg11-079.jpg11-078.jpg
八重桜はこれからが本番です。11-077.jpg


2015年04月11日

2015 京の桜 本隆寺

4月6日 蓮台寺から、本隆寺へと11-100.jpg
敷き詰められた花びら11-099.jpg
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少し葉桜になっていますが、こちらの枝垂れは全体的に綺麗に咲いたようですね。11-097.jpg11-096.jpg11-095.jpg
こちらの塔頭は門構えを新しくされたようで、ちょっと残念です。以前の方が趣があったのですが。11-094.jpg
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背景があればこそ引き立つ美しさ。京都の桜を見に来る観光客が多いのも当然な訳です。11-090.jpg
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2015 京の桜 上品蓮台寺

4月6日相変わらず、小雨が降ったり止んだりのお天気となってしまった連休2日目、めげずに着物を着てみました。こんな日の為の洗える着物、松葉柄に桜の塩瀬帯です。11-087.jpg
さて上品蓮台寺からスタートです。11-111.jpg11-110.jpg
境内に入って、ちょっとショックを受けてしまいました。紅枝垂れの花付きがあまりにも悪いです。今年は全体的に枝垂れの具合が芳しくないですが、ここは、最もダメージが大きいようです。11-109.jpg
ちょっと全体像を撮れないですね~。11-108.jpg
染井吉野は散り盛ん。11-107.jpg11-106.jpg11-105.jpg11-104.jpg
この上も下もハレーションを起こしたような色調が、気が狂れそうで好きです。11-103.jpg11-102.jpg11-101.jpg
来年は以前の美しい紅枝垂れが見れる事を祈願します。


2015年04月10日

2015 京の桜 裏千家学園・天神公園・水火天満宮

4月5日 裏千家学園の桜はいつも楽しみにしている桜の木の1本です。11-117.jpg
壁を背景にすっくと立っている姿が美しいです。11-116.jpg
人気のない天神公園の桜たち11-115.jpg
水火天満宮は今日は桜花祭だったのですが、あいにくの雨模様で、皆さん社務所内でご歓談中でした。11-114.jpg
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2015 京の桜 妙覚寺

4月5日妙顕寺から、妙覚寺へと。11-127.jpg
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隣の八重が華やかになっていました。11-125.jpg11-124.jpg11-123.jpg11-122.jpg11-121.jpg
境内を通って、奥の塔頭の善明院へ。11-120.jpg
絶好調ではありませんが、まずまずの咲きっぷりでしょうか。
11-119.jpg11-118.jpg


2015年04月09日

2015 京の桜 妙顕寺

本法寺から、妙顕寺へと、俵屋さんの前を曲がります。11-143.jpg
門前の枝垂れ11-142.jpg11-141.jpg
境内は修復工事も終わって、静かなたたずまいに戻りました。11-140.jpg11-139.jpg11-138.jpg11-137.jpg
同じような雨ニモマケズ組がちらほら、撮影に来ています。桜撮影お勉強ツアーの集団も。11-136.jpg11-135.jpg
花びらの波が打ち寄せられています。11-134.jpg11-133.jpg11-132.jpg11-131.jpg
一巡り11-130.jpg11-129.jpg11-128.jpg

2015 京の桜 本法寺

4月5日 雨ニモマケズ、カッパにナイロンを被せたカメラで、ご近所巡りをしました。11-148.jpg
まずは、本法寺。今年は最高潮のタイミングに見そびれてしまいましたが、静かな境内は和みます。11-147.jpg11-146.jpg
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緑が綺麗で、景色がしっとりするのが、雨天の良いところですね。11-144.jpg
花びらの吹き溜まりが出来ていました。

2015年04月08日

2015 京の桜 二条城ライトアップ

桜が咲いたとたんに雨の日が続くという予報で、今しかないと、4月2日二条城ライトアップに出掛けました。11-160.jpg
皆さん同じ思いなのでしょう。門前の行列が北の角まで続いていて、入ってからも人を見るような感じかしらと思っていましたが、プロジェクションマッピングに大勢の人が固まっていたので、そこをスル―すると、結構ゆったりと桜を眺められました。11-159.jpg11-158.jpg11-157.jpg11-156.jpg11-155.jpg11-154.jpg11-153.jpg
以前は庭だったところにプレハブの売店が出現していました!11-152.jpg11-151.jpg
紅枝垂れはあまりに花付きが悪くて、写真に撮れませんでした。今年は枝垂れの調子が悪いところが多いですね。11-150.jpg11-149.jpg

2015年04月06日

2015 京の桜 有栖館・御苑

3月30日 有栖館の桜も華やいでいます。11-189.jpg11-188.jpg
御苑 周辺に警察官が配置されていて、誰かいらしているのかしらと思っていたら、訓練中という話でした。皇宮警察は、車に出入りの度に開け閉めされるものの、今日は入れてもらえませんでした。11-187.jpg
逆光撮りになってしまいました。
出水の枝垂れ11-186.jpg
見事ですね~。周辺芝生では、思い思いにくつろぐ人々が大勢。11-185.jpg
木蓮とコラボしてみました。11-184.jpg11-183.jpg11-182.jpg11-177.jpg
近衛家跡11-181.jpg11-180.jpg11-179.jpg11-178.jpg


2015年04月03日

2015 京の桜 本満寺

3月30日 本満寺11-207.jpg
こちらは、なかなかいい感じで、観客も多いですね。11-206.jpg11-205.jpg
初めて見た頃の感動が薄れてきたのは、致し方ないのでしょうか?タイミングのせいなのかもしないですけど。

2015 京の桜 立本寺

3月30日 本満寺から立本寺へと移動11-212.jpg
追っかけをしているわけではないのですが、また同じ御嬢さんと鉢合わせしてしまいました。11-213.jpg
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いつもは静かな境内もこの季節は賑わいます。

2015年04月02日

2015 京の桜 千本釈迦堂

3月30日 好天に恵まれ、桜めぐりの開始です。
まずは、千本釈迦堂から11-219.jpg
花芽のついていない枝が目立ち、残念な印象です。お疲れなのかしらん?記憶の中の迫力に圧倒されるような感じがありません。11-216.jpg
なかなか絵になる素人さんがいらしてたので、思わず撮影。11-218.jpg11-217.jpg
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2015 京の桜 妙覚寺・水火天満宮・本法寺・平野神社

3月29日夕刻 ご近所の散歩です。
妙覚寺11-232.jpg11-231.jpg
水火天満宮11-230.jpg
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本法寺 こちらは見頃はもう少し先11-228.jpg
平野神社 魁11-227.jpg
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園内11-224.jpg
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境内では、ハーブの演奏が始まり、雰囲気を盛り上げていました。11-220.jpg

2015年04月01日

2015 京の桜 長徳寺

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3月23日出町柳の長徳寺では、おかめ桜が満開過ぎで、メジロがせわしなく飛び回っていました。11-251.jpg11-250.jpg
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不意に騒々しくなって、メジロが飛び立ったと思ったら、雀がやってきて、メジロを蹴散らしたようです。11-241.jpg
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メジロに比べると、ちょっと悪者顔?11-237.jpg11-236.jpg11-235.jpg11-234.jpg
今年も、目いっぱい咲いて、楽しませてくれました。11-233.jpg

2015年03月26日

2015 京の桜 開花速報

3月25日 このところ、急に寒さが戻ってきて、桜の開花宣言はどうなったのかしらん?といったところですが、標本木情報より先に見に行かなくてはと、夕刻、平野神社を訪れました。11-258.jpg
しっかり開花しちゃってますね~。11-257.jpg11-256.jpg
水火天満宮11-255.jpg
社務所よりの枝が咲き始めています。11-254.jpg
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妙覚寺門前の枝垂れも咲き始めています。さ~、気忙しくなってきました。

2015年03月25日

北野の梅見

3月16日 北野天神さんに、梅見に出掛けました。11-281.jpg
メジロが盛んにお食事中11-280.jpg11-279.jpg
白梅とピンクの梅では、味が違うのでしょうか?11-278.jpg
今年から、境内の梅もしっかり囲い込まれて有料領域に組み込まれた。
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女の庭師さんも作業中です。11-276.jpg11-275.jpg11-274.jpg11-273.jpg11-272.jpg11-271.jpg11-270.jpg
老松のお茶セット付きですが、お茶は、粉末を湯呑に入れて、ポットのお湯を注ぐセルフスタイルです。11-269.jpg11-268.jpg11-267.jpg
琳派400年イベントに参加していないが、残念な感じがします。金屏風なんかがあったらいい感じなんですけど・・・。11-266.jpg
足元のつくしが、春らしくてかわいい梅園でした。11-265.jpg


2015年03月19日

第5回京の匠展 “こけら”と“ひわだ”

『第5回京の匠展 “こけら”と“ひわだ”』が、京都外国語大学国際文化資料館で3月28日(土)まで、開催されています。11-299.jpg11-298.jpg
お寺の見学でよく目にする杮葺・檜皮葺屋根ですが、どんな工程で造り上げられるものなのか、興味を覚え、見に行きました。
杮葺模型11-296.jpg
檜皮葺模型11-297.jpg

こけら11-286.jpg11-287.jpg11-295.jpg
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え~。同じ漢字だと思ってた(*ο*)

ひわだ11-294.jpg11-284.jpg11-283.jpg

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加工のデモンストレーションや竹釘打ちの体験が、土曜日には行われていたようです。口に含んだ釘を1本ずつ出して、高速で打ち付けていくさまをテレビで見た事があります。やってみたかったな~。でもちょっと怖いですよね。口の内側にささったり、飲み込んだりしないのかしらん?11-288.jpg
11-289.jpg11-290.jpg
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神社仏閣の建築様式が一歩身近に感じられた楽しい展示でした。

2015年02月25日

-茶箱を楽しむー 茶道資料館

4月5日まで茶道資料館では、平成27年新春展-茶箱を楽しむーという展覧会が開催されています。11-339.jpg
持ち運べるコンパクトな茶箱は、眺めているだけでも愛らしく、心惹かれます。どんな場面に使用されてきた物なのか、趣向を凝らしたデザインが施されたそれらはとても美しいものばかりでした。11-338.jpg

2階に展示されていた鶴の香合も力強くて、記憶に残りました。こちらは、呈茶付きなので、1階奥のお部屋でお点前を頂けます。11-337.jpg
二条若狭屋さんの生菓子11-336.jpg
1月7日に始まったこの展覧会は、3期に分かれていて、展示替えがあります。3月3日からは、3期の展示となるので、また行こうかしらん?

2015年01月28日

第49回 京の冬の旅 本法寺

第49回 京の冬の旅 2か所目は、ご近所の本法寺です。11-372.jpg
お花見などで、境内はよくお邪魔しているのですが、中を見せて頂くのは初めてです。
本法寺は、永享8年(1436)、久遠成院日親上人により、東洞院綾小路に建立されたのが始まりとされています。、時の将軍足利義教に「立正治国論」を献じ、平和の招来を直言しましたが、これが将軍の忌諱に触れ獄舎に投ぜられた上、寺も焼却されました。その刑罰は、過酷なものであったそうで、焼鍋を頭にかぶせられたりしたようで、冠鐺(なべかぶり)日親上人と称されるようになったとの話です。11-371.jpg
同じころ、獄中にあったのが、本阿弥光悦の曽祖父である本阿弥清信です。刀剣の鞘走が原因で、投獄され、獄中で、日親上人と出会い、教化されて熱心な法華信者となります。11-370.jpg
以来、本阿弥家は、本法寺を菩提寺とし、豊臣秀吉によって、現在の地に移転する際、光悦とその父 光二は、私財を投じ、伽藍の整備に力を尽くしたという事です。11-369.jpg
写真が、光悦によって造られたという「巴の庭」です。11-365.jpg
半円を2つ組み合わせた円形の石が「日」。11-364.jpg
今は枯れていますが、蓮が植えられている池。 「日 蓮」を表現したと言われているそうです。
光悦作「花唐草螺鈿経箱」(重文)は、夜光貝の細工が美しい逸品です。その他、赤楽の馬上杯、翁面などが寺宝として、展示されていました。長谷川等伯の仏涅槃図のコピーも飾られていましたが、引き延ばした画像なので、ややぼやけている箇所もあり、長谷川等伯展の際に観た実物には遠い感じがしました。虫干しの際、また公開されるようです。11-367.jpg11-366.jpg

2015年01月16日

アートアクアリウム城

昨年の12月14日まで、二条城で、アートアクアリウム城と題した催しが開催されていました。11-393.jpg
だいぶ遅くなってしまいましたが、金魚が見たくて出掛けて行きましたので、写真を載せておきます。11-402.jpg
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正面からの顔がまた可愛い。11-398.jpg
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個人的には、変わった入れ物に入れてもらわなくてもよくて、普通に鑑賞したいのですが、まあそれでは集客率悪いかもしれませんからね~。11-394.jpg11-392.jpg11-391.jpg11-390.jpg11-389.jpg
熱帯魚のいるバーは、行ってみた事がありますが、金魚をこんなに眺められる店がないですね~。販売店へ、買いもしないのに通って、ガラスに張り付いているわけにもいかないですしね。大人としては・・・。11-388.jpg11-387.jpg
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現在は大坂 うめだホールで、新しい演出で開催されているようですね。クラゲバージョンもあるようです。3月2日まで

2014年09月24日

上京薪能 in 白峯神宮

9月22日 秋晴れのお天気の中、白峯神宮において上京薪能が開催されました。10-017.jpg

第2部より、鑑賞。10-010.jpg
今日の最後の演目「猩々乱」に合わせて、松の柄の小紋に猩々の帯にしてみました。10-014.jpg10-016.jpg
空いている席をなんとか確保。今年は祭神である崇徳院没後850年という事で、院にゆかりの地、香川県坂出市の関係者40名が、舞殿から鑑賞されていました。お泊りなしで、夜中に帰られるそう。
上京区の文化振興会の会長に就任された冷泉貴実子さんのご挨拶に始まり、区長挨拶、火入式。
花柳流による邦舞 京鹿子娘道成寺が始まりました。時間の関係か、抜粋されていましたが、見目麗しい舞姿に、境内が華やいだ感じでした。筝曲、仕舞、狂言と続いて、最後は、観世流 猩々乱。ワキは、原大さんです。いつもながら凛々しいお姿。10-013.jpg
双ノ舞という事で、二人の猩々が酔って舞い踊ります。つま先立ちで、ゆらゆら回る猩々たちは、楽しげで、幸せな気分になれました。10-012.jpg
あっという間の上演、院に御礼申し上げて、帰路に着きました。

2014年09月18日

ふら~り茶の湯旅

大西清右衛門美術館・泉屋博古館・野村美術館では、現在 3館相互割引「ふら~り茶の湯旅」と題して、茶の湯関連の展覧会を3館特別相互割引されています。それぞれ、入館料が少し違い、どこを先に訪れるかで、合計金額が変わってきます。

野村美術館では特別割引券の提示で、一般入館料700円が500円に、泉屋博古館及び大西清右衛門美術館では、入館料が2割引となります。泉屋博古館の入館料は、730円。大西清右衛門美術館の入館料は、800円です。さて、どこから訪れて特別割引券をもらうのが、最もお得でしょう?といった感じです(^^)
結局、まだ訪れた事のない大西清右衛門美術館からスタート。10-025.jpg10-022.jpg

三条釜座で、およそ400年、16代にわたり茶の湯釜の伝統の技を受け継いでらした大西家の美術館です。10-021.jpg
江戸後期、九代浄元の長男である十代浄雪と、その弟で、祖母方の奥平家を継いだ了保の作品を中心に多くの茶釜が展示されていました。早々に茶室で、一服。10-024.jpg
茶釜デザインが可愛い。花びらの形のお干菓子もあったのですが、撮る前に食べてしまいました。あしからず。10-023.jpg

野村美術館10-020.jpg
こちらは、大名道具の世界-茶の湯と能楽-というタイトル
江戸時代の大名家に伝わった茶の湯と能楽に関わる道具を中心に展示されています。茶道具の所有者が変わっていく変遷も書かれていて、そのやり取りを想像すると、わくわくしてしまいます。

最後に泉屋博古館 10-019.jpg10-018.jpg
-茶の湯釜の美- 住友家が収集した釜を中心の展示です。デザインを描くところからの制作過程の展示があり、ビデオスペースでは、福岡県芦屋釜の里による茶釜制作工程を動画で観る事ができます。
ビデオを観終えて、3館の展示が、ようやく腑に落ちた感じがしました。これまで、茶釜に特に注意を払ってこなかったので、随分勉強になりました。

2014年09月10日

平野神社 名月祭

9月8日 今年のお月見は平野神社さんにしました。10-041.jpg
昨日からの良いお天気、ひんやりしてきて、お月見らしくなりました。10-040.jpg
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舞殿にお琴が準備されています。拝殿では、式典が始まっていました。10-038.jpg
お月様も、ご神木の後ろに上がってきました。生田流の演奏が始まりました。今年は組曲などを演奏するので、ドレスにしてみましたとの話でした。10-037.jpg
私も一応、生田流を高校生の頃かじりましたが、「しゃしゃてん、しゃしゃてん、しゃしゃこ~ろりん」というワンフレーズしか覚えていません。月夜に琴などかき鳴らしてみたいものと思ったのですけどね~。
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次は日本舞踊です。日本舞踊も一応少しばかり習ったのよね~。見学の時点で、これ無理じゃない?とか思ったのですが、母にも、あんたには無理などと言われてしまったので、意地で初めてしまったのですが、どんどんしんどくなり・・・。10-035.jpg
3つめは、琴、尺八、三味線の演奏です。親しみやすいようにと、民謡などの楽曲。個人的には、古典チックな方が好きですが。
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温かいお抹茶が冷えた体に心地よく、お菓子も美味しかったです。10-033.jpg
最後は雅楽の演奏。10-032.jpg10-031.jpg
雅~。やっぱりお月見は、古式ゆかしくなくては。10-030.jpg
舞がないのが、残念です。光の君などが、舞われている姿を想像して・・・。10-029.jpg10-028.jpg
高くなってきたお月様も綺麗。
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今年も良いお月見でした。10-026.jpg

2014年08月29日

天神さん

8月25日 久しぶりに月曜日の25日という事で、天神さんに出掛けてみました。10-062.jpg10-061.jpg
めだかすくい10-060.jpg
なかなかお上手10-059.jpg
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写真はあまり撮らずに、結構マジに物色。大正ロマンの素敵な着物を見つけたのですが、身幅が全然足りなくて断念。でもよく考えると、解けば、そこそこ広くなったかも?チェックし忘れて、その場を離れてしまいました。800円だったのに~。10-058.jpg
お参りを済ませて東門を出、上の方へ。戻ってきて、休憩タイム。10-056.jpg
冷やし長五郎餅を頂きました。10-055.jpg
昼から雨になるという予報だったので、売り急いでらっしゃるお店もちらほら。10-054.jpg
結局、綿紅梅の浴衣を1枚と、笄3本10-053.jpg
手持ちの鼈甲の笄の差し込み口を割ってしまい、使えなくなっていたので、安いのを探していたのです。
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一番上の一本を一軒のお店で買い求め、またプラプラして、別の店で、真ん中の笄を見つけ、これはどうしても欲しいデザインと、また買う羽目に。飴色も欲しかったので、結局3本になってしまいました。ちょっと手痛い出費。

しかし真ん中の笄は、いかにも琳派なデザイン。しかも 抱一 と銘が書かれています。酒井抱一!?10-051.jpg

お目が高い!と店主に云われ、箱入りの櫛とのセット物を見せてくれましたが、値段も立派だったので・・・。
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つなぎ目に瓢箪の彫り。凝ってます。10-049.jpg
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やはりなかなか、良い買い物でした。今度は割らないように、注意せねば!

2014年08月23日

京の夏の旅 2014 角屋

京の夏の旅 角屋さんに伺いました。10-083.jpg

角屋は、島原開設当初から連綿と建物・家督を維持しつづけ、江戸期の饗宴・もてなしの文化の場である揚屋建築の唯一の遺構として、昭和27年(1952)に国の重要文化財に指定されました。10-082.jpg
いきなり、新撰組による刀傷跡です!10-081.jpg10-080.jpg10-067.jpg
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立派な台所です。大勢の客の料理がこちらで作られていたのでしょうね。賑わっていた頃が目に浮かぶようです。10-078.jpg
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松の間10-076.jpg
ここで、饗宴が催されていたのですね~。宴席こちらで、催して頂けないものでしょうか~。輪違屋さんから、太夫道中なんぞして・・・。10-075.jpg
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奥に、お茶室が見えます。10-074.jpg
中庭10-072.jpg
網代の間10-071.jpg
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2階部分は、要予約となっています。10-068.jpg
いささか、酩酊気味の芹沢鴨さん、刀、持ち出しちゃいけませんよ~。10-064.jpg
同志に支えられて、角屋を後にしました。
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最後の宴は、どんなものだったのでしょうね~。10-065.jpg
島原住吉神社

西門跡10-066.jpg
たぶん、こちらの門を出て行ったのだと思うのですが。

雪霜に 色よく花の さきがけて
           散りてものちに 匂ふ梅が香

                       芹沢 鴨

2014年08月17日

大文字 送り火 2014

梅雨明けして以降の方が、雨天の多いこの頃、今夜ばかりは止んでもらわなくてはなりません。多分、京都市民の皆さんがそう願ったのではないかしらと思った16日。10-087.jpg

日中の土砂降りが嘘のような静けさ、何よりでした。10-085.jpg
出先で見る予定にしていましたが、突然の雨の可能性もあるので、今年はおとなしく自宅とその近辺から、送り火を見ることにしました。
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関係者の方々、天候の不安定な中、お世話さまでした。お陰様で、無事に送る事が出来ました。感謝!

2014年08月16日

京の夏の旅 2014 輪違屋

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京の夏の旅 輪違屋さんにおじゃましました。10-098.jpg
元禄元年(1688年)置屋として始められたこちらは、現在も置屋兼お茶屋として営業されています。10-096.jpg
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近藤勇の書 10-092.jpg
当時、京都では新撰組の人気は芳しくなかったので、お茶屋でもらったこういう書の類はあまり歓迎されなかったようで、ぞんざいにあつかわれた為、現存するものは少ないようです。

太夫の手紙の下書きを襖に仕立てたもの10-093.jpg
戸袋には松村呉春、景文の絵が描かれているそうですが、蝋燭や灯明の煤で真っ黒になっていて、判別できませんでした。10-090.jpg10-094.jpg
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2階は撮影禁止となっていました。「紅葉の間」と云われる部屋は、壁に本物の紅葉を塗り込んで乾燥後に取り出し、そこへ顔料で着色されたという粋なデザイン。
「傘の間」は、夏の旅のパンフレット表紙に使われている道中傘の紙を貼り込んだ襖の部屋です。
当時の太夫の生活に想いを馳せる良い機会でした。現在も「一見さんお断り」で、宴席を催されているので、また機会があれば・・・。

こちらは、大門10-089.jpg
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嶋原のでぐちのやなぎをみて

なつかしきやなぎのまゆの春風に
なびくほかげやさとの夕ぐれ

蓮月尼の歌が刻まれていました。

2014年08月06日

祇園祭 2014 北観音山

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北観音山界隈の旧家では、屏風が飾られていました。10-112.jpg10-111.jpg
どちらも立派なたたずまいです。10-108.jpg
こちらは、ホテル玄関10-110.jpg
街並みに溶け込んで、美しいです。

2014年07月29日

祇園祭 2014 南観音山

大船鉾を後にして、新町を北上 10-121.jpg
南観音山まで、やってきました。10-120.jpg10-119.jpg10-118.jpg

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休憩中だったお囃子が始まりました。10-116.jpg

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子供たちの呼び声が可愛いです。10-114.jpg
鳩がまぶしい感じです。10-113.jpg
昨年までは「北観音山」がハト、「南観音山」がオナガドリの木彫だったそうですが、古文書からかつては逆だったことが判明したとの事で、今年からオナガドリを「北」に、ハトを「南」に据えたようです。いろいろ研究されているのですね。

2014年07月24日

祇園祭 2014 大船鉾

21日 お昼間に大船鉾を見に行きました。10-138.jpg
ご神体は神功皇后(じんぐうこうごう)で、「凱旋船鉾」とも呼ばれ、神功皇后が武装を解いた姿です。御懐妊のまま出征し、無事帰国して応神天皇を出産されたことから、神功皇后は安産の神様としても信仰を集め、宵山の期間中安産の腹帯やお守りが授与されます。
昨年、廃業された桂飴本家養老亭さんの「かつら飴」は、この応神天皇を御育てしたという飴でしたから、祇園祭期間だけでも、ここで復活出来たらよいのではないかしらん?10-137.jpg
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拝観は行列です。10-135.jpg
22日 宵々山 今年は、絹紅梅の浴衣に博多の簡易帯にしました。10-122.jpg
再び、大船鉾です。10-131.jpg
お茶席におじゃましました。10-132.jpg10-133.jpg10-123.jpg

現在の鉾の舳先は、約2メートルの大金幣(きんぺい)ですが、この掛け軸では、龍頭バージョンになっていますね。かつては、隔年で龍頭に変えていたそうで、来年に向けて復元を目指しているようです。10-130.jpg
拝観は300円志納です。10-129.jpg
真新しい木材が、さわやかです。10-128.jpg
お囃子が始まり、風情が出てきました。10-127.jpg
結構ゆっくりなリズムです。囃子方に囲まれての見学となりました。音が近すぎ~。10-125.jpg
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2014年07月16日

祇園祭 2014 鉾

7月14日 四条通を西から東へ、ちょっと通りがかりに、鉾を撮ってみました。10-145.jpg
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2014年07月09日

立本寺 蓮

7月7日
立本寺に立ち寄りました。10-154.jpg
鉢植えの蓮が開き始めています。10-153.jpg
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昨日の雨が乗っかっています。10-149.jpg
まだまだこれからといったところです。10-148.jpg
結構大きなメダカがいるんですね。10-147.jpg10-146.jpg

2014年07月04日

夏越の祓 白峯神宮

6月30日 帰り際に白峯神宮に立ち寄りました。10-162.jpg
夏越の祓の茅の輪くぐりの為です。10-161.jpg
水無月の授与を期待していたのですが、本年より無くなったとの事。残念!帰りに買って帰らなくては・・・。10-159.jpg
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作法に則り、茅の輪をくぐります。唱え言葉長すぎて、覚えられないんですけど・・・。ぶつぶつ。10-158.jpg
お清めの紙と人形を頂き、紙を左、右、左と体に振りかけ、人形に息を吹きかけ、体の悪いところを撫でます。え~と、頭悪いし、肩も痛いし、それから~て欲張りすぎ。紙をその場に払落し、人形を納め、お参りで終了です。半年分の穢れを祓い清めて、リセットされました。
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ちょっと来ないうちに、なんか増えてます。10-155.jpg
笑い龍だそうです。10-156.jpg

2014年05月11日

今宮祭 還幸祭

今日は、今宮さんの御旅所からのお帰りのお祭りでした。昼過ぎ、大宮寺之内を先頭に行列が並び始めます。水火天満宮の宮司さんのお祓い10-298.jpg
こども神輿10-297.jpg
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八乙女さんたち10-294.jpg
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牛車もやってきました。10-292.jpg
立派な牛です。10-291.jpg10-290.jpg
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女性が担ぐ玉の輿神輿10-287.jpg
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一基目のみこしがやってきました。旗が白色10-285.jpg10-277.jpg

二基目 旗が赤色
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三基目 黄色の旗10-281.jpg
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宮司さん10-279.jpg
各神輿ごとのお札10-278.jpg
六時過ぎ、大宮みこしは提灯飾りを施して松明の先導で、 大宮通を今宮神社へと戻ってゆきました。10-276.jpg
10-275.jpg10-274.jpg10-273.jpg10-272.jpg
今宮神社へ戻り、拝殿上げが行われるそうです。

2014年04月19日

2014 京の桜 賀茂川

4月7日 賀茂川べりで、野点をしてみました。10-409.jpg
お菓子は、北大路新町の紫野源水さん10-408.jpg
桜の有平糖が、繊細でいつまでも眺めていたい感じです。10-405.jpg
こちらは、「ひとひら」10-404.jpg10-407.jpg
夜桜の着物にしてみました。お点前は10年ぶりぐらいでしたので、YouTubeで、確認してなんとか形だけは・・・。10-406.jpg
こんな桜に見下ろされて、お茶の中にも花びらが舞いこんできたりして、春爛漫!!満喫!!

2014年04月18日

2014 京の桜 上品蓮台寺

4月7日 連休2日目、昨日とは、打って変って朝から良いお天気で、お花見日和となりました。10-434.jpg
上品蓮台寺では、紅枝垂れが見頃を迎えていました。10-433.jpg
全体的に、昨年より花付きが悪い感じで、ちょっと残念です。10-432.jpg10-431.jpg10-430.jpg
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それでも、ピンクの濃いこちらの桜は、ボリュームがあって、やはり毎年来なくてはと、思わせます。10-428.jpg
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2014年04月10日

2014 京の桜 アンスティチュ・フランセ関西 京都

3月31日 日仏会館
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現在は、アンスティチュ・フランセ関西 京都という名称になっているようですね。洋館にも、桜が良く似合います。

2014年04月09日

2014 京の桜 御苑

3月31日 御苑にやってきました。近衛邸跡の糸桜は満開で、大勢の人です。9-030.jpg9-029.jpg9-028.jpg
今年は一気に開いてしまった感じですね。9-027.jpg9-026.jpg9-025.jpg9-024.jpg9-023.jpg9-022.jpg9-021.jpg9-020.jpg9-019.jpg
木蓮もぎりぎり見頃でした。9-031.jpg
皇宮警察署の枝垂れ9-018.jpg
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出水の糸桜9-016.jpg
ちょっとピークをすぎてしまっていますが、写真的には綺麗。9-015.jpg9-014.jpg9-013.jpg
ぽかぽか陽気で、京の都の春を満喫出来ました。

2014年04月08日

2014 京の桜 葵橋西詰

3月31日 葵橋西詰9-036.jpg9-035.jpg9-034.jpg
暖かな日差しとさわやかな風です。9-033.jpg9-032.jpg
近頃は、鴨川にヌートリアが住み着いているという話ですが、まだ見かけていません。


2014年04月07日

2014 京の桜 本満寺

3月31日 本満寺9-046.jpg
すっかり、有名になってしまったこの桜、大勢のカメラマンに取り囲まれています。9-045.jpg9-042.jpg

見事な咲きっぷりです。9-041.jpg9-040.jpg
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2014 京の桜 平安女学院・有栖館・冷泉家

3月31日 平安女学院も花盛り9-049.jpg
有栖館9-048.jpg
冷泉家9-047.jpg
本満寺に向かいます。

2014年04月06日

2014 京の桜 府庁

3月31日 府庁9-060.jpg9-059.jpg
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知事選を明日に控えていますが、お花見シーズンまっただ中の選挙、投票率はどんなものなんでしょう?桜は、そんな事はいっこうに知らぬげで花盛りです。容保さんの桜は、まだ先のようです。

2014 京の桜 櫻宮神社

3月31日 櫻宮神社9-065.jpg
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桜町中納言 藤原成範(ふじわらのしげのり)が篤く信仰したというこちらの神社では、今年も静かに桜の季節を迎えています。

2014年04月05日

2014 京の桜 立本寺

3月31日 立本寺9-068.jpg
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デイサービスの人達のお花見で、賑わっていました。ぽかぽか陽気で、お花見日和です。9-072.jpg9-066.jpg9-075.jpg
染井吉野は、満開には少し早いようですが、枝垂れが満開見頃でした。9-074.jpg9-073.jpg


2014 京の桜 宥清寺

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反対側の枝垂れはもう少し先のようです。

2014年04月04日

2014 京の桜 千本釈迦堂

3月31日 千本釈迦堂9-089.jpg
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足元まで下がった枝垂れは、今年も健在でした。9-084.jpg
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2014 京の桜 本法寺

3月31日 早朝 本法寺9-096.jpg
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結構蕾も残っていました。9-091.jpg9-090.jpg
こちらも、咲き始めたところで、今頃は満開でしょうね。風が強くて心配なところです。

2014年04月03日

2014 京の桜 妙覚寺

3月31日 早朝の妙覚寺です。9-110.jpg9-109.jpg
ちょうど鳥がやってきたので、望遠レンズに変えようとしている間に、また飛んで行ってしまいました。9-108.jpg
朝陽が差し込んできて、きらきらする花びらがまた格別です。
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ちょっとピークは過ぎている感じですね。今年は、消費税問題などに気を取られているうちに、咲いてしまったようです。9-103.jpg
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まあ、徒歩の圏内で、かなり楽しめるのは、やはりこのあたりならではの贅沢です。9-098.jpg9-097.jpg

2014年04月02日

2014 京の桜 水火天満宮

3月31日 早朝の水火天満宮9-120.jpg
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同日 夕刻9-116.jpg
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手前のしだれは、まだ蕾状態です。6日の櫻花祭の頃には咲いて、華やかな境内になるかと・・・?

2014年04月01日

2014 京の桜 平野神社

うかうかしているうちに、桜が一気に咲いてしまったようで、取り急ぎ、出掛けてみました。
3月30日 夕刻 平野神社9-128.jpg9-127.jpg
鳥居横の枝垂れも、魁も見頃です。9-126.jpg
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今年も、またこの桜を愛でる事が出来て幸せですと、神様に感謝申し上げました。

2014年03月23日

御苑の梅

3月3日9-138.jpg
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3月17日9-136.jpg
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2014年02月28日

第48回京の冬の旅  寺町 阿弥陀寺

第48回京の冬の旅 5つ目は寺町 阿弥陀寺です。織田信長公本廟所として有名な寺ですね。9-186.jpg9-185.jpg
こちらの写真の像が実際の信長に最も近い面差しだそうです。9-184.jpg
幼少の頃より信長との縁があった清玉(せいぎょく)上人が開山した寺で、当初は近江国坂本にあったそうです。信長の京都入りに伴い、京都西陣の地に移り、広大な敷地面積があったっそうです。9-178.jpg
本能寺の変の際に、駆けつけた上人が、信長の遺骨を持ち帰り供養しました。秀吉の代に、寺町に移され、縮小され現代に至っています。
本堂には、信長の弓掛(ゆがけ)や鞍覆、手槍先などが、展示されていて、本能寺の変のシーンを彷彿とさせます。
信長 信忠の墓9-181.jpg
森蘭丸らの墓9-180.jpg
清玉上人の墓9-179.jpg

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春立つや新年ふるき米五升 

芭蕉の句碑です。
去年から持ち越した古米が5升(五升入りの瓢の米櫃に一杯)あるという新年の芭蕉庵の暮らしを歌ったものだそうです。わずかな量だが、それを満ち足りたとする心で詠んでいるそうです。当時、それだけしかないのは、貧乏の象徴のようなものらしいのですが、現代の感覚ではちょっと判りにくいように思いますね。

2014年02月13日

第48回京の冬の旅 妙顕寺と俵屋さん

京の冬の旅 4つ目は、ご近所の妙顕寺さんです。日蓮宗大本山の一つで、尾形光琳ゆかりの寺です。9-201.jpg
渡り廊下を渡って、まずきらびやかな本堂の見学です。9-200.jpg
天井には、信徒の家紋があしらわれていて、目を引きます。釈迦如来像や多宝如来像が安置され、荘厳な雰囲気です。
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勅使門のある客殿前の枯山水のお庭は、「龍華飛翔(四海唱導の庭」と云われています。9-198.jpg
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孟宗竹の坪庭がしっとりと美しい。9-196.jpg9-195.jpg
屏風絵を元に作られたと言う「光琳曲水の庭」9-194.jpg
りっぱな赤松です。9-192.jpg
廊下も立派9-193.jpg
恒例のスタンプラリーも3つ貯まったので、俵屋吉富さんで、雲龍とお抹茶を頂きました。9-191.jpg9-190.jpg


2013年12月12日

御苑 紅葉 2013

12月9日 これぐらいの季節になると、散り積もった落ち葉を、ばさばさと蹴飛ばして歩きたい衝動に駆られます。9-309.jpg
でもって、御苑に出掛けました。9-308.jpg
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ほら、蹴り上げるのにちょうどいい感じ(^^)9-306.jpg
表面の落ち葉は、乾燥してカサコソ音を立て、そのちょっと下の方まで靴を突っ込むとちょっとしっとりした落ち葉がひたっと張り付いたりするのが、微妙に楽しい・・・。9-305.jpg
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ぼちぼち、冬本番ですね~。9-294.jpg

2013年10月23日

白峯神宮 観月祭

10月19日 白峯神宮では、観月祭が催されました。陰暦9月15日の前後の日に毎年行われるものです。
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まずは揺らめく灯火の中、お祓い、静かに神事が執り行われます。
御祭神の崇徳天皇が、望月の旧の中秋に観月の催しを行われ、和歌を詠み管絃を楽しまれた事に、この行事は由来しています。
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今年は、京都和楽会による山城舞楽の奉納でした。9-429.jpg
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吉備楽を前身とし、京都の風土と環境にあわせ、さらに発展させたものだそうです。
先々代井上八千代史らの手も加えられたりしたようです。
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あいにく途中から小雨に見舞われましたが、テントが張られていたので、問題なくゆったり鑑賞出来ました。9-426.jpg9-425.jpg
月のないお月見となってしまいましたが、静かなひと時を過ごせました。院もお楽しみ頂けたのではないでしょうか?
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2013年10月02日

梨木神社 萩

9月23日 暑いくらいの良いお天気
梨木神社に萩を見に出掛けました。9-474.jpg
着物の柄は季節先取りがいいという事ですから、萩が咲く前に締めたいと思っていた帯が、結局機会に恵まれず、今締めないとまた来年になってしまうし~という事で、小地谷紬に萩の帯を締めて出掛けました。9-473.jpg
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修復費捻出の為、敷地内にマンション建設予定という此方では、鳥居をくぐったあたりの萩が寂しい状態になっていました。9-471.jpg
奥の方は、短冊が風にゆらゆらとして萩の神社の面目を保ち、人々で賑わっていました。9-470.jpg
ひとまず、お参りをして。9-469.jpg9-468.jpg9-467.jpg
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お茶席にお邪魔しました。
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萩はやや盛りを過ぎていたものの、名水を使ったお茶を頂き、ゆっくり出来ました。お床には、キリギリスの香合や、秋草が飾られていて、風情を味わえました。9-462.jpg9-461.jpg

2013年09月25日

第49回「上京薪能」

9月20日 金曜日 
第49回「上京薪能」が白峯神宮で行われました。
第二部の開演に、なんとか駆けつけました。9-489.jpg
麗調会    箏演奏 「比良(ひら)」
幸流     独調  「屋嶋(やしま)」
金剛流    仕舞  「笠之段(かさのだん)」
観世流    舞囃子 「小袖曽我(こそでそが)」
大蔵流    狂言  「飛越(とびこえ)」
観世流    能   「天鼓(てんこ)」

フラッシュ撮影は、演目の妨げになるのでおやめくださいとのアナウンスがありました。え!それってフラッシュなしならOKという意味でしょうか?そこそこ撮ってらっしゃる方もあり、特にお咎めもないので、持参したコンパクトカメラで、撮影してみました。おっきいの持ってくればよかった・・・。(以下、手振れが激しい撮影となりました。)

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狂言は、千三郎さん予定だったのですが、急遽、逸平さんに代わられたとの事。

観世流 能 「天鼓」
ワキは、原 大さんです!9-487.jpg
この演目は、ずっと観たいと思いながら、機会に恵まれなかったものです。

天から授かった鼓と共に成長した天鼓は、鼓を差し出すようにという帝の命に背き、山中に隠れます。すぐに捕らえられた天鼓は呂水に沈められ、鼓は宮中へと。しかし主を亡くした鼓はいっこうに鳴りません。天鼓の父が打てば鳴るであろうと宮中に老父が召し出されます。

シテは、河村晴久さん9-486.jpg
亡き子を思う父は、宮中に上がり、薄氷を踏む思いで鼓に近づきます。打つと、鼓は妙音を発します。老父は後ずさって、撥を取り落とし、崩れるように座り込みます。

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やがて管弦講の弔いが行われると、天鼓の亡霊があらわれ、弔いに感謝し、無心に鼓を打ち鳴らし、舞を舞います。そこには、現世の怨恨などの情念などはなく、ただひたすら解放された精霊の姿があるのみ・・・。
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十六夜の月も舞殿の後ろに上がってきました。9-483.jpg

月の光に照らし出されて・・・だと風情もひとしおなのですが、舞台用スポットライトに照らされて、面がまぶしい感じです。9-482.jpg9-481.jpg
崇徳院も几帳の後ろから、ご覧になっていらした様子。
今年も良いお天気でよろしゅうございました。
至福のひとときをありがとうございました。9-480.jpg
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2013年09月12日

重陽の節句 鶴屋吉信

法輪寺さんからの帰り道、鶴屋吉信さんに立ち寄りました。9-496.jpg9-495.jpg
重陽の節句のしつらえです。9-497.jpg9-498.jpg
菓子は、お節句にちなみ、御園菊(みそのぎく)9-500.jpg
桔梗9-499.jpg
美味しゅうございました。

自宅に戻って、晩御飯は、松花堂弁当を作ってみました。9-494.jpg

菊の花びらを浮かべた菊酒、おさしみ、菊花を入れた白和え、鯛の焼き物、かぼちゃの蒸し物、筍の磯部揚げ、風呂吹き大根 菊花あんかけ、栗赤飯、菊花お吸い物です。ま、かなり出来合いも混じっているので、手抜きですが・・・。
お節句を満喫した一日でした。

2013年09月07日

京都市学校歴史博物館

大河ドラマも京都が舞台となって、興味深いこの頃です。
山本覚馬が、岩倉具視の指示によって釈放された明治2年(1869年)、京都では、日本で最初に番組小学校とよばれる学区制の小学校が64校つくられていました。
文部省の明治5年の「学制」頒布より3年先だって作られています。京都の小学校は、政府の学校制度によってつくられたものではなかったのですね~。
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この京都独自の小学校の設立に興味を覚え、御幸町通仏光寺下るにある京都市学校歴史博物館を訪れてみました。8-033.jpg
お向かいも、時代を感じるお店が並んでいます。8-028.jpg8-027.jpg

門をくぐり、グラウンドの向こう側に、旧成徳小学校玄関車寄せが移築された入り口が見えます。8-032.jpg
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大政復古の前から、西谷淇水(にしたに・きすい)という寺子屋経営者(教育家)や画家の森寛斎、幸野楳嶺、文具商の鳩居堂の熊谷直孝らが集い、寺子屋を近代化する方策を検討し、1867(慶応3)年から翌年にかけて、奉行所と新政府に対し、小学校の設置を建白しています。

それまであった戸数にばらつきのある自治自営の町組の組織を編成替えし、戸数を平均化した町ごとに小学校を設立。児童教育の場としてだけでなく、町組会所であり、消防署、警察署でもあり、時刻を知らせる時報台でもあり、役所の役割も担っていました。
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天皇が江戸に行幸されたまま戻られないという青天の霹靂の事態に、さびれる京都の再興は人づくりにあると考えた町衆の働きが、大きな力となり、京都の近代化が進んでいったのですね。もちろん、初代知事の長谷信篤や、二代目府知事となる槇村正直ら京都府の役人の尽力も大きかったようです。

常設展示は、幕末から戦後の教育にいたる資料の他、学校給食のあゆみの展示もあって「そうそう、こんなん食べてた!」と思わず声を出してしまったりして、楽しいものでした。
企画展は、「学校のたからもの」と題して、文芸を磨くことを重視した小学校教育を受けた卒業生が後に学校に寄贈した貴重な作品が展示されていました。
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常設展示の中に母校の火の見櫓が出ていたので、懐かしくなり写真を撮りに行きました。8-025.jpg
元有済小学校 太鼓望楼 明治9年(1876年)築
現在、鉄筋校舎屋上にある望楼は、かつて正午の時を告げる太鼓場であり、学区内の火事を見張る火の見櫓であった。
写真の建物があった場所には、現在消防団の建物がある。
平成17年2月国登録有形文化財となった。

                         常設展の展示説明より

2013年09月04日

伊藤若冲の名品展

9月29日まで、相国承天閣美術館にて、『伊藤若冲の名品展』が開催されています。8-039.jpg
重要文化財となっている「鹿苑寺(金閣寺)大書院旧障壁画五十面」が展示されているとの事で、観に行ってきました。
現在、仙台でプライスコレクションが開催されていて若冲の作品が話題を呼んでいます。京都には、平成18年に来ていたコレクション展ですが、観に行けなかったのが残念です。若冲の作品は、ちょこちょこあちこちで観ていたり、画集を観ていたりして、最近ではなじみ深くて、どの作品を現物で観たのか、よくわからなくなってきた感があります。8-038.jpg

今回の展覧会は、確かに初めて観た作品がそこそこあって、やっぱり観に来て良かったなと思えました。

2013年08月17日

大文字 2013

16日は大文字送り火という事で、一日だけ盆休みしました。今年は、友人のつてで、堀川今出川の西陣織会館におじゃましました。

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着物は、黒地に小花、扇を散らした洗える絽小紋、帯は絽綴れの大文字の帯です。8-098.jpg
結構、大勢の方が、屋上で今か今かと待機してらっしゃいます。大文字に点火されると、一斉に歓声とシャッター音
結構、大きく見えます。
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二つ一緒にカメラに収まってもらいました。8-102.jpg


左大文字8-101.jpg
何のお構いもできませんでしたが、お気をつけて、お帰りください。合掌。8-100.jpg
鳥居は残念ながら見えません。

高さがあって、上の方に位置するビルなだけに、それぞれがそこそこの大きさに見えて、見ごたえがあります。チケットありがとうございました。
最後にお友達がスマホで撮った、撮影に夢中な私です。8-097.jpg

2013年08月14日

納涼古本まつり

8月16日まで、下鴨神社 糺の森で恒例の納涼古本まつりが開催されています。8-118.jpg

京都だけでなく、大阪や徳島、岡山などから約40店舗、約80万冊以上の古本が並べられています。
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一度も出掛けた事がなかったので、ちょっと覗いてみました。
糺の森の両側にずらっと本屋さんが並んでいます。

以前は、本を買い集めるのが好きでしたが、前の引っ越しの際に大量に処分しなくてはならなくなり、以降は買い控えています。
近頃は、収納スペースもなくなったので、ひたすら図書館利用にしています。
どうしても欲しい本以外は、買わないようにと自分に言い聞かせ、東側からチェックしてゆく事にしました。
木陰とはいえ、この猛暑ですから、ナップサックの背中に接するポケットに保冷剤を忍ばせて、扇子片手に、いざ!
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可愛い猫の絵が、興味をそそります。東側のもっとも奥は、児童書のお店で、子供たちで賑わっていました。昔お気に入りだった本を探したのですが、見当たりませんでした。残念。
約2時間かかって、一周し終えると結構疲れてしまいました。
結局、画集を1冊800円でゲットして他はやめにしておきました。
ちょっと後ろ髪引かれたりしましたが・・・。

2013年08月03日

火除天満宮

四条寺町下る東側に火除天満宮(ひよけてんまんぐう)という神社があります。8-174.jpg
以前取材しておきながらも、そのままプログに掲載するのを、忘れていましたが、先日 大雲院を訪れ、その関連を思い出して、写真を引っ張り出しました。8-173.jpg
天正7年(1579年)筑紫国(福岡県)の戦乱を逃れるため、一人の老神官が大宰府より菅原道真の像を背負って京都に入り、六角通の周辺に祀ったのがこの火除天満宮の始まりといわれています。
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天正15年(1587年)に「大雲院」の鎮守社として迎えられ、烏丸二条へ移り、さらに、秀吉の命により大雲院とともにこの地へ遷座することになりました。8-171.jpg

大雲院が、天正18年(1590年)にこの地に移ったと、パンフレットにあったのに対し、天満宮は、慶長2年(1597年)に現在の四条寺町の地に移されたとあるので、少し後に天満宮が移った事にはなりますが。
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元治元年(1864年)の蛤御門の変の際の大火の際、この一帯だけは類焼を免れた事などから、学問成就とともに火除の神 として多くの信仰を集めているそうです。8-169.jpg

昭和48年に高島屋の増設などにより喧騒を逃れ、大雲院が円山に移った後も、天満宮はこの地に残ったようです。
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2013年07月18日

祇園祭 石見神楽

7月16日
宵山の夕刻6時半より、祇園さんの境内 能舞台で、毎年 石見神楽の奉納が行われています。
今年はこちらにスポットをあててみようと、出掛けてみました。8-242.jpg
南の楼門の東側にある能舞台の前には、長椅子が用意され、それを囲むように立ち見の人たちが上演を待ちます。今年は結構涼しい宵山となりましたが、人ごみの中はさすがに暑く、扇子が欠かせない状態です。私の前に一眼を持って陣取ってらした年配の方が、ふら~と倒れかかってこられ、びっくりしました。しばらく座り込んでらした後、上演前に断念して帰って行かれました。救急車の音は聞こえてこなかったので、なんとか神社は出て行かれたのではと思います。8-241.jpg
島根県人会によるこの奉納は、昭和48年から行われているそうです。8-240.jpg
一つ目の演目は、「塩祓」四方を舞い清めて、神さまをお迎えする舞です。
烏帽子・狩衣姿で、御幣と扇を持ち、舞い踊ります。8-239.jpg
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セリフはないのですが、結構動きが大きく、お舞台を動き回るので、体力消耗しそうです。8-235.jpg
続いての演目は「牛若丸」
外人の観客も多いのでと、日本語での解説の後、英語での説明が行われました。英語の説明だけで十分ではありましたが。
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鞍馬山での牛若と天狗8-233.jpg
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牛若、天狗と引っ込んだ後、弁慶登場8-231.jpg
なかなか派手ないでたちです。8-230.jpg8-229.jpg
ドライアイスの演出も。8-228.jpg
客席にも冷気を届けてほしいところです。ようよう牛若登場。8-227.jpg8-226.jpg
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参りましたm(_ _)m8-223.jpg
まだまだ演目は続き、フィナーレは祇園さんの神様である須佐之男命と大蛇の戦いなのですが、遅くなってしまうので、これまでとしました。ハードな動きと派手な姿が印象的な舞台でした。
舞殿には三基の神輿が。8-222.jpg
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暮れゆく祇園さんを後にしました。8-220.jpg
阪急電車を利用して、高倉までやってきました。

長刀鉾8-219.jpg

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四条通は人通りは多いのですが、連休明けのせいか、足早に歩ける程度です。8-217.jpg
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西洞院通 蟷螂山8-215.jpg
ここまでやってきたのは、近頃めっきり減ってしまったベビーカステラ屋さんが確か去年はここに出店されていたはず・・・。行列してゲット、つまみながら帰路に着きました。

2013年05月11日

東本願寺 阿弥陀堂の御修復現場

4月1日(月)~7日(日)まで、東本願寺では、阿弥陀堂の御修復現場の見学が行われていました。桜ブログを優先したので、遅くなってしまいましたが。8-444.jpg
鷺はほんとに画になる鳥です。

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エレベーターで3階へと上ると、素屋根の中に修復中の阿弥陀堂の屋根が見えます。お隣の修復が完了した御影堂も間近に見る事が出来ました。8-387.jpg8-386.jpg8-385.jpg
上空からの写真を見るとこんな感じにすっぽり包まれていることが分かります。8-383.jpg
御影堂の修復工事のために建設された素屋根を、御影堂の工事が終了したあと、阿弥陀堂へと引っ張ってきたそうで、「スライド工法」と呼ばれる方式だそうです。8-382.jpg
2012年1月~2015年12月末日までの修復期間となっています。傷んでいる部分を修復して、また瓦を敷き詰めていくのかと思うと気が遠くなりそうな感じです。
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2013年04月26日

2013 京の桜 千本閻魔堂 その2

今年の桜ブログも、いよいよエンディングです。
4月25日 夕刻 千本閻魔堂の普賢象桜の様子を見に行ってきました。8-440.jpg

14日は薄ピンク色だった普賢象桜も、すっかり、ピンクが濃くなって、足元には落花が目立ちました。8-442.jpg
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前日の雨や見学者に踏まれたりしたせいか、ぺしゃんこになっている花も多かったですが、ぽたっと落下したままの形を留めているものもあり、独特の風情があります。8-439.jpg
写真を撮っている最中にも、ポトッ、パサッと音がしていました。今しばらはく、落花を眺められそうです。8-438.jpg
藤の花は少々満開を過ぎたようですが、木香バラが、さわやかでした。8-437.jpg

2013 京の桜 千本閻魔堂 その2の続きを読む

2013年04月23日

2013 京の桜 御苑 その2

4月15日 出水の小川のあたりの八重系の桜が満開でした。8-458.jpg8-457.jpg
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お天気も上々で、毛氈を引いて、ランチにしました。8-453.jpg
この幸せが、来年も訪れますように。8-452.jpg
山吹も咲いて、春爛漫8-451.jpg
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御車返しはすでに終盤でした。8-446.jpg
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2013年04月21日

2013 京の桜 本満寺

4月15日 本満寺さんに立ち寄りました。8-468.jpg
今年は、枝垂れ桜の時期に来れなかったので、八重系と牡丹の様子を見るためです。8-467.jpg
ころんころんとした花の塊が、青空に広がっています。8-466.jpg8-465.jpg
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一部の牡丹も早や咲き始めていました。8-462.jpg8-461.jpg
牡丹も早足なのかしらん?8-460.jpg
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2013年04月20日

2013 京の桜 千本閻魔堂

4月14日 夕刻 千本閻魔堂は満開を迎えていました。8-477.jpg
関山8-478.jpg
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琴平

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普賢象8-473.jpg8-472.jpg8-470.jpg
4月20日夕刻より、普賢象さくらの夕べ が催されるそうです。8-469.jpg

2013 京の桜 平安女学院・有栖館

4月7日 平安女学院の桜も満開は過ぎていました。8-488.jpg
お隣の旧有栖川邸が平安女学院の有栖館として、保存、活用されていますが、こちらの一般公開が行われていましたので、おじゃましました。いつも立派な桜を塀越しに眺めていましたが、この桜、2本だったのですね!8-487.jpg
今年は咲いているところを撮りそびれてしまったので、2010年3月22日の写真を載せてみました。塀越しには、1本だと思っていたのです。そういえば、ちょっと枝に距離がありますものね。p7396.jpg8-486.jpg
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内部は結構シンプルな造りになっていました。8-484.jpg8-481.jpg
この日は、遠出をするつもりが、あいにくの空模様で、近場で終わってしまった花見でした。最後に鶴屋吉信さんの桜菓子です。8-480.jpg8-479.jpg


2013年04月19日

2013 京の桜 京都府庁旧本館

4月7日 京都府庁旧本館に立ち寄りました。8-500.jpg
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わずかに残る容保桜 いかにもはかなげに見えてしまいます。8-497.jpg
一瞬の青空も、すぐに消えて曇り空に小雨です。8-496.jpg
階段では日舞 祇園小唄が披露されていました。8-495.jpg8-494.jpg
八重さんの展示コーナーも8-493.jpg
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2013年04月18日

2013 京の桜 西陣児童公園

4月6日の西陣児童公園です。7-028.jpg
早朝なので、まだ人影はありません。風が強くて、花びらを撒き散らしています。7-027.jpg
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2013 京の桜 龍安寺

4月7日 雨が降ったり、止んだりとあいにくのお天気になりましたが、龍安寺へ向かいました。7-021.jpg
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ちょっと、花の付き加減がいまいちのようですね。その年によって、若干あたりはずれがあるのでしょうか?7-017.jpg7-016.jpg
雨の中でも、人出はそこそこです。7-015.jpg
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「吾唯知足」の蹲(複製)
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日頃なかなか、足りたとは思えないので、吾唯知足グッズを身近に置けばちょっとは抑制が効くでしょうか?7-012.jpg
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ミニチュア石庭は、私も持っています。お香立てなのですが、汚したくないので、香を焚いた事はありません。7-005.jpg7-009.jpg
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2013年04月17日

2013 京の桜 雨宝院

4月6日早朝 雨宝院 境内は花盛りを迎えていました。
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早朝の境内でお会いしたご近所の方の話では、昨日の朝方は観音桜はこんなに咲いていなかったとの事でしたから、5日の日中に一気に開花したのでしょうか?だとすると、ナイスなタイミングで訪れた事になりますね。7-039.jpg
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松月桜は咲き始め、御衣黄桜は蕾膨らむ7-032.jpg
椿も
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4月14日 御衣黄桜が満開でした。7-024.jpg
夕方だったので、すでに閉門されていて、外からの撮影です。7-023.jpg7-022.jpg


2013年04月15日

2013 京の桜 妙覚寺塔頭 善明院

4月5日 妙覚寺塔頭 善明院の枝垂れ桜が満開でした。7-055.jpg
見事なボリュームですね。7-054.jpg
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内側も立派です。7-045.jpg

2013年04月14日

2013 京の桜 妙顕寺

4月5日 妙顕寺 7-075.jpg7-074.jpg
修復も終わって、元の静けさを取り戻した境内に桜が舞い散ってとても美しい様子でした。
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2013年04月13日

2013 京の桜 裏千家学園 茶道専門学校

4月5日 裏千家学園の桜も満開過ぎです。7-083.jpg
背の高いこの木は校舎を背景に独特の風情があります。7-082.jpg
のびやかなさまが、すっきりとして美しい木だと思います。7-081.jpg
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2013 京の桜 妙蓮寺

4月5日 早朝の妙蓮寺です。7-099.jpg
門前の桜も満開です。7-098.jpg
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日像上人も桜バックで、迫力がでた感じです。7-096.jpg
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御会式桜は散り初め7-085.jpg
八重系も咲き始めていました。7-084.jpg

2013年04月12日

2013 京の桜 本法寺

4月4日 夕刻 本法寺さんを散歩しました。7-111.jpg7-110.jpg

こんな可愛い桜が植えられていました。7-109.jpg
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この桜は鳥居を抱き込んでしまっています。7-101.jpg7-105.jpg
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2013年04月11日

2013 京の桜 上品蓮台寺

4月4日 夕刻 北区紫野十二坊町の上品蓮台寺におじゃましました。静かな境内に紅枝垂れが見頃を迎えていました。7-133.jpg7-132.jpg
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染井吉野は散り始め7-125.jpg
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釣鐘の下に穴が開いています?どういう意味があるのでしょう?7-114.jpg

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2013年04月07日

2013 京の桜 桜宮神社

4月3日 上京区出水通千本東入る西神明町にある桜宮神社に立ち寄りました。ここは桜の咲いている時に来てみようと思いながら、ついついうっかりして、時期を逸していたところです。7-162.jpg

ちょっと満開には遅かったようですが、なんとか間に合ったようです。7-161.jpg
謡曲「泰山府君(たいさんぷくん)」に出てくる桜町中納言ゆかりの神社です。縁起については、以前に書いているので、省略します。7-160.jpg7-159.jpg7-158.jpg
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平安時代、天皇の食膳の給仕を務めた女官(采女 うねめ 諸国から良家の容姿端麗な子女が選ばれていました。)の宿舎や詰所があったあたりだということです。

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内裏の西北に位置しています。

2013年04月06日

2013 京の桜 水火天満宮 その3

4月3日 早朝 水火天満宮 7-171.jpg
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4月5日 夕暮れ時

奥の枝垂れも満開で、三本の枝垂れが咲き揃い、夕暮れ時は一際妖しい美しさです。7-168.jpg
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床几も出されて、7日の桜花祭を待つばかりですが、今日・明日の暴風と雨の中、持ち堪える事ができるでしょうか?7-165.jpg
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2013 京の桜 木屋町

4月1日 木屋町に足を延ばしてみました。7-181.jpg7-180.jpg
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しばらく来ないうちに、随分様変わりしています。オープンテラスのお店も結構あって、ちょっと寒いけれど、桜が近くてうれしいですね。

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高瀬舟を撮りたかったのですが、航海に出てしまっていて、停泊していませんでした?って事はないのでしょうが、乗船体験などのイベントの為か、橋の下に隠れてしまっていて撮れませんでした。

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佐久間象山先生遭難の碑7-172.jpg

2013年04月03日

2013 京の桜 本隆寺・水火天満宮

3月31日 本隆寺も満開7-240.jpg
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水火天満宮 手前の枝垂れも開き、全体に華やかになりました。7-233.jpg
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2013年04月02日

2013 京の桜 宥清寺

3月31日北野天神さんから、中立売通を南東へ 宥清寺7-250.jpg
境内は、染井吉野に加え、紅枝垂れも見頃を迎え、華やいだ風情となっていました。7-249.jpg
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日扇聖人7-242.jpg

さらに中立売を東へ千本中立売の 愛染寺 

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今年は、全体的に開花が早く、あちこちで紅枝垂れが見頃を迎えていますね。4月1日には、平安神宮の紅枝垂れも見頃でした。

2013 京の桜 立本寺

3月31日 立本寺 夕刻7-261.jpg
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夕刻の立本寺は、人気も少なく静寂の中の桜と古びた伽藍のフォルムの美しさを堪能出来、お気に入りです。7-255.jpg7-254.jpg7-253.jpg
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2013年03月30日

2013 京の桜 御苑

25日 御苑
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近衛邸あたりの早咲きの糸桜は満開でした。7-283.jpg7-282.jpg
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西側を下っていくと、木蓮も満開です。7-276.jpg
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とりどりの桃7-273.jpg
出水の枝垂れ7-272.jpg
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間ノ町口手前の木蓮7-270.jpg

2013年03月29日

2013 京の桜 平野神社

3月25日 平野神社では、魁が満開でした。7-296.jpg
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桜湯を頂きました。桜の塩漬けの香りが心地よい一杯です。7-291.jpg
陽光は日の光がよく似合います。
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アーモンド7-289.jpg

寒桜
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桜苑
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2013年03月28日

2013 京の桜 千本釈迦堂

3月25日 千本閻魔堂7-304.jpg
おかめ桜は、満開を少しばかり過ぎていました。7-303.jpg
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2009年あたりだったか、タイミングよく観に来れた時の最も美しいと感じられた記憶ばかりが、焼き付いているので、ちょっと物足りない感じです。7-298.jpg7-297.jpg
椿も花盛りです。

2013年03月27日

2013 京の桜 水火天満宮

3月25日 水火天満宮では、奥の枝垂れが満開でした。7-310.jpg7-309.jpg
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手前の枝垂れはまだまだ蕾でした。奥があまり下火にならないうちに咲いてほしいものです。

2013年03月26日

2013 京の桜 妙覚寺

3月25日 ご近所の妙覚寺の門前の枝垂れはすでに満開見頃を迎えています。7-318.jpg
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いつもこんな素敵な桜を身近に眺める事が出来て、幸せな事です。7-314.jpg
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2013年03月15日

第47回 京の冬の旅 相国寺 慈照院

第47回 京の冬の旅 すでに4か所拝観しましたが、1か所目の挿絵を描こうとした為に、ブログ掲載が遅くなってしまいました。
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ここは、宗旦狐の逃げ出した茶室があるという話で前々から拝観したいと思っていたお寺です。人数を集めて予約をお願いすると、拝観可能なそうですが、なかなか共通の趣味を持つ友人がいなくて、今に至り、念願叶っての拝観となりました。
受付にペーパーウエイトのような黒い狐が置かれていて、可愛いかったので、帰ってからネット検索してみたところ、富良野で販売されているキタキツネの栓抜きでした。7-326.jpg
茶室「頤神室」には茶人・千宗旦に化けた狐の伝説を伝える「宗旦狐」の軸が掛けられていましたが、暗くてしっかり見えなかったのが残念でした。首を千利休のものとすげ替えることのできる布袋像が安置されていましたが、出来れば千利休の首の方を見たいところです。
走り書きのままですが、遅れてやってきた宗旦に驚く宗旦狐です。7-328.jpg


2013年03月10日

松川酒店

先日、友が遠方より久しぶりにやって来たので、なにか趣向の変わったところへと案内しようと思い、高倉通 錦小路上るにある昭和の香り漂う立ち飲み屋さん「松川酒店」におじゃましました。7-331.jpg
一歩、中へ入ると、大勢の人で賑わっていて、どなたが店の方なのやら、訳わからない感じでした。システムが分からず、「すみません、初めてなんですけど・・・。」と立て込む店内の人々の間をすり抜けてこられたにこにこ顔の店主らしき方に尋ねると、入口あたりのビールケースを積み上げた上にアルミトレーを乗せたテーブルを確保してもらえました。飲み物、食べ物は、それぞれ、奥に自分で取りにいって、テーブル上で、後清算という事でした。7-329.jpg
乾きものばかりかと思っていたのですが、おでんにサラダ、さしみにゆでたまご、すじ肉の煮込み、白菜の漬物など結構ボリュームのある食べ物があって、ちょっと一軒目のつもりが、結構食べてしまいました。
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酒屋さんなので、お酒のバリエーションは豊富なところが、いいですね。さすがに分煙にはなっていないのですが、独特の空気感がたまらなく、また来ようね~と盛り上がってしまいました。帰る時は、おかみさんが五つ玉のそろばんを持っていらして、テーブル上で、おでんは5つで~みたいな自己申告による会計でした。安くて病みつきになりそうかも?

2013年02月28日

梅花祭 2013

2月25日 北野の天神さんでは、御祭神菅原道真公が延喜三年(九〇三年)二月二十五日薨去された祥月命日に行われる祭典「梅花祭」が執り行われました。7-348.jpg
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ちらほらと早咲きの梅が咲き始めていますが、まだまだこれからといったところです。7-344.jpg

上七軒の芸舞妓さんによる野点の拝服券・宝物殿拝観券・撤饌引換券がセットになって1500円で販売されています。梅に流水の着物に流水の綴れ帯を締めて、出掛けました。7-352.jpg
お茶席は座礼席と立礼席に分かれていて、座礼席は90分待ち状態でした。座礼席はお点前が終わるまでが1回転で、その後ろを取り囲むようにしつらえられた立礼席は空いた席から、順次入れ替わって座り、お点前の進行にかかわりなく、お茶を頂く形になっているのですね。
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受付でチケットと引き換えに渡されたお菓子を食べ、お茶を待つというスタイルです?!懐紙は持参したものです。すぐ後方では、順番待ちの方や、すでにお茶は飲んだけど、撮影のためにカメラを構えた人たちがしっかり取り囲んでいますから、まあなんとも気忙しい茶席です。7-351.jpg
天神さんマークのお茶碗
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舞子さんの簪は満開の梅です。7-349.jpg
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ぼちぼち咲き始めた早咲きの梅の中の御席でした。7-345.jpg
撤饌7-342.jpg
梅のランチョンマットに乗せて撮ってみました。

2013年02月22日

「日本画 こころの京都」展

3月24日まで、京都文化博物館において、「日本画 こころの京都」と題して、過去から現代の作家の描いた京都の風景画が展示されています。7-354.jpg
京都大好き人間的には、はずせない展覧会でした。もっとも、過去の作家の作品が68点、現代作家に地域を指定して依頼したらしい作品が100点と、ボリュームがあるので、ちょっと疲れました。しかし、切り取られ、練り直されたことによって、馴染みのある景色が、新鮮な輝きを放つ様は絵画ならではの醍醐味かと思われます。7-353.jpg
絵葉書を、購入しました。

2013年02月14日

大松コレクション名品選 近代絵画と茶道具

2月11日 月曜でも祭日とあって、茶道資料館に立ち寄りました。3月10日(日)まで、「大松コレクション名品選 近代絵画と茶道具」が開催されています。7-355.jpg
岐阜プラスチック工業株式会社の創業者大松幸栄氏と夫人節子氏が収集された日本近代絵画や茶道具など約1500点の美術工芸品からなる大松コレクションは、平成3年、岐阜県・岐南町に開館した大松美術館において広く公開されてきましたが、美術館は平成21年に惜しまれつつ閉館となったという事です。

今回は、日本画と、茶道具の名品の中から、新春の季節にふさわしい作品を中心に展示されたそうです。
呈茶付きで、上村松園、川合玉堂、前田青邨、横山大観などの名だたる日本画家の作品と上品な茶道具を鑑賞でき、500円です。

パンフレット表面にプリントされた作品 前田青邨筆「水辺春暖」が、とても印象的でした。紅白の満開の梅の花が、春の期待感にあふれ、このところの私の梅待ち気分にぴったりきた感じです。

作品数は疲れない点数で、最後に一階奥の部屋で、お菓子とお抹茶を頂き、梅柄の小紋のお着物の方にお道具の説明を受けました。二条若狭屋さんの梅をデザインした生菓子に、作家物のお茶碗で立てて頂いたお茶も美味しくて、まったりできた休日の朝でした。

2013年01月19日

小雪

1月18日金曜日 まどろんでいると、パサッという音がしました。もしやと思い、起き上がって窓の外を見ると、雪がちらついていました。う~、お休みだったらよかったのに・・・。7-389.jpg
取り敢えず、屋上から、建勲神社と船形を眺めて、写真に収めました。7-388.jpg

2013年01月13日

妙音弁財天

出町橋の西詰に、妙音弁財天さんが祀られている御堂があります。以前にも紹介していますが、弁財天のお使いが白蛇という事で、お参りに行ってきました。7-403.jpg
入口には鳥居があり、左奥にはお稲荷さんもいらっしゃいますが、弁財天さんは、寺という位置付けです。
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弁財天像の額のコピーが飾られていますが、実物は承天閣美術館に保管されています。まだ実物を観る機会に恵まれていないのですが、お顔立ちがことのほか上品なように思います。7-401.jpg
本堂である六角堂は、歳の数だけ回ってお参りすると、願いがかなうと言われています。確実に目が回りそうなので、実行したことはありません。7-400.jpg
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2013年01月04日

謡初式と初詣

1月3日 金剛能楽堂では、謡初式がおごそかに執り行われました。
平成16年度より一般公開されるようになったこの謡初式では、宗家・若宗家始め流儀一同による「神歌」、仕舞十番、舞囃子などの演目が演じられます。今年、初めておじゃましてみました。7-405.jpg
巳年のお正月という事で、藤色の松柄の訪問着に鱗柄の帯を締めてみました。7-409.jpg
一般公開されたことが広く知られるようになり、無料で観れてお神酒も振る舞われるとあって徐々に人が増えてきたようで、満席です。7-408.jpg
宗家・若宗家は、よく似た面立ちながら、宗家は恰幅が良く貫録があり渋い声が素敵で、若宗家は凛々しくシャープないわゆるイケメンで、張りのある若々しい声がまた魅力的です。面をつけない演目ばかりなので、とりわけ若宗家の「淡路」は見入ってしまいました。
初詣はご近所の玄武神社にしました。7-407.jpg
いつもは静かな境内も、今年は巳年とあって訪れる人が多いようで、入れ替わり立ち替わりお詣りされていました。7-406.jpg

2012年12月27日

平安女学院 イルミネーション

12月24日 ちょっと平安女学院に立ち寄りました。7-418.jpg
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近づいてみると、ペットボトルで造られたツリーでした。7-414.jpg
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クリスマスも終わり、まだ年内に片付けるべき用事が山積み状態のこの頃です。どうしたものか?!

2012年12月11日

下鴨神社 名残の紅葉 「定家と長明」展

パソコンがいきなり、電源を入れても立ち上がらなくなり、修復してもらいデータをバックアップの後、メーカーへ修理に出すはめになりました。年末の忙しい時に困ったものです。とりあえず、古いパソコンを引っ張り出して、スローな動きに悩まされながらも、書いています。7-427.jpg

12月10日 下鴨神社の方丈記800年記念事業として開催されている『スタジオジプリが描く乱世「定家と長明」展』が16日までで終わってしまうので、見に行ってきました。7-426.jpg

堀田善衛氏の小説「方丈記私記」「定家明月記私抄」をアニメ化したらという設定で、鴨長明と藤原定家を主人公として乱世を描いた展示企画です。しっかりとしたデッサンと映像がリアルに浮かんできそうな色彩の鮮烈な着色が素晴らしかったです。是非、映像化された様子を観てみたいです。7-425.jpg
糺の森あたりでは、名残の紅葉を楽しむ人たちが、寒い中カメラを構えていました。7-424.jpg
今朝は市内も雪で薄化粧でしたが、あっという間に消えてしまい残念な限りです。紅葉に雪が乗っかった姿を見たかったのですが…。7-423.jpg
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2012年11月07日

拾翠亭

時代祭を見送り、京都御所売店限定品の「菊華仙」をおみやにと買い求めました。7-467.jpg
菊の御紋に、裏面は金箔7-466.jpg
菊の菓子皿に乗せてみました。7-465.jpg
御苑の南の方にある拾翠亭の一般参観日は、毎週金・土曜日、葵祭・時代祭・京都御所一般公開日となっているので、機会が少なく今まで入った事がありませんでした。このチャンスにと拾翠亭に向かいました。7-478.jpg
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江戸後期に建てられたと伝えられているこちらは、九條家の現存する唯一の建物です。
控えの間7-476.jpg
小間7-475.jpg
広間より高倉橋を眺む7-474.jpg
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二階へ上がると、丁子七宝いう紋章の透かし彫りが目を引きます。7-472.jpg
座敷から、九條池を見下ろすとゆったりした気持ちになりますが、出来れば人の少ない時に来てみたいものです。茶会・句会などで借りる事が出来るようですから、何か企画してみたいものです。7-471.jpg7-470.jpg
四阿(あずまや、しあ)よりの眺め7-469.jpg7-468.jpg

2012年11月03日

2012 時代祭 その8 延暦時代

延暦時代 桓武天皇の時代です。

延暦武官行進列 7-531.jpg
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将佐7-529.jpg

将佐7-528.jpg

主将・副将の登場です。7-527.jpg
パンフレットでは名前が特定されていませんが、坂上田村麻呂かと。7-526.jpg

副将7-525.jpg

将佐7-524.jpg

延暦文官参朝列 7-523.jpg

三位(浅紫色の朝服)7-522.jpg

蓋(がい)7-511.jpg

四位(深緋色の朝服)7-520.jpg

五位(浅緋色の朝服)7-521.jpg

六位(深緑色の朝服)7-519.jpg
お当番にあたった学区の各役員の方々がそれぞれの時代毎に羽織袴で参加されています。7-518.jpg

前駆7-517.jpg

神饌講社列 時代祭当日の神饌物を奉献する役の人々です。京都料理組合の方々です。7-516.jpg7-515.jpg
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副御饌長(みけちょう) 奥の騎馬の人物です。7-510.jpg

御饌長 京都寿司組合理事長の北倉弘款さんです。7-509.jpg

前列7-513.jpg
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迦陵頻伽(かりょうびんが)と胡蝶の登場です。7-508.jpg

朱色の迦陵頻伽は、極楽浄土に住む美しい鳥を表しています。背には鳥の羽根、天冠には桜花を挿しています。7-507.jpg
緑色の胡蝶は、高麗壱越調舞楽の舞人です。背中に蝶の羽根、天冠には山吹の花。7-506.jpg
かわいくて、激写7-504.jpg7-505.jpg7-503.jpg7-502.jpg

楽人7-501.jpg

神幸列 7-498.jpg
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そして、いよいよご鳳輦に乗った桓武天皇と孝明天皇のご神霊です。時代祭はこのお二方が年に一度、市中を巡幸して、都とそこに暮らす市民の姿をご覧になるというものですから、行列のメインです。

前の御鳳輦(ごほうれん)は孝明天皇です。7-497.jpg
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屋根を飾る鳳凰2体が約70年ぶりに修復されたので、今年はぴっかぴかです。7-495.jpg
錦蓋7-493.jpg
菅蓋7-494.jpg
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後の御鳳輦は桓武天皇です。7-491.jpg7-490.jpg7-489.jpg

総長7-488.jpg7-487.jpg

列奉行7-486.jpg

白川女献花列7-485.jpg

こちらの方は、いつも籠を手で支えないで、バランスを取って歩いてらっしゃいますね。7-484.jpg

弓箭組列 行列の警護役にあたります。7-483.jpg7-482.jpg7-481.jpg
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長い行列を良い席で堪能しました。手持ち望遠は結構疲れます。最後の方はこんな感じになっていたようです。7-479.jpg
行列の方は、御所を出発したばかり、まだまだこれから平安神宮までの道のりを歩いていくのですから、疲れることでしょうね。また機会があれば、平安神宮で見てみたいものです。

2012年11月01日

2012 時代祭 その7  鎌倉時代・藤原時代

ちょっと間が空いてしまいましたが、時代祭の続編です。

鎌倉時代

城南流鏑馬列 
1221年(承久3)、後鳥羽天皇が朝廷の権威回復のため、城南離宮で近畿十余国の武士1700名をを召集して行った一場面という事で、5組の狩り装束の射手を中心とした一行の行列です。7-565.jpg
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藤原時代

藤原公卿参朝列
文官束帯 公卿7-559.jpg
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武官束帯 公卿7-556.jpg
文官束帯 殿上人7-555.jpg
少しずつ、装束に違いがあります。
清盛も義経も義仲も出てこないのが、独特ですね。どうせなら、後白河院にお出まし頂けばなどと考えてしまいます。婦人方だけは、この後登場します。

平安時代婦人列

先斗町歌舞会の方々です。
先頭は、巴御前7-554.jpg
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横笛7-552.jpg
出家した斉藤時頼の後を追う旅姿です。7-551.jpg
常磐御前7-550.jpg
清少納言と紫式部7-549.jpg
紀貫之の女7-548.jpg7-532.jpg
小野小町7-537.jpg
小町のアップをミスってしまったので、侍女のアップのみ7-536.jpg
和気広虫
孤児の養育に励んだことから、童子、童女を伴っています。7-535.jpg
百済王明信 桓武天皇の御代に女官長を務めた人です。7-534.jpg
こちらは京都市地域女性連合会の方々です。7-533.jpg
やはり婦人列は、時代ごとの特徴があり華やかで、いいですね。

2012年10月30日

白峯神宮 観月祭

白峯神宮の観月祭(献灯講祭)が10月27日に執り行われました。7-547.jpg

十五夜の月見は、台風で逃してしまいましたので、十三夜のお月見であるこちらの観月祭を楽しみにしていました。取り急ぎ野菊の着物に着替え、出掛けました。7-538.jpg7-545.jpg
崇徳院に百首歌奉りけるに

秋風に たなびく雲の 絶え間より
     もれ出づる月の 影のさやけさ

                 左京大夫顕輔

(久安6年に崇徳院の命により作成した久安百首では、第二句が「ただよふ雲の」となっていますが、後の新古今集や、小倉百人一首では、たなびくとなっているようです。)
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時折、姿を現す月明かりと揺らめく灯火の中、式典が静かに始まりました。7-544.jpg
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御祭神の崇徳天皇は、管絃と和歌の名手といわれ、望月の旧の中秋に行われた観月の催しでは和歌を詠んで管絃の宴を催され、月を愛でられたという事で、式典の後、毎年趣を変えて管弦が奉納されているようです。7-542.jpg
今年はこちらで教室をされている原彰宏さんによる篠笛の演奏でした。7-541.jpg
獅子舞もにぎやかに7-540.jpg7-539.jpg
観月祭も終わりに近づいた頃、笛の音に雲が払われたのか、月が冴えわたってきて、なんとも美しく、崇徳院に御礼を申し上げて帰路に着きました。

見る人に 物のあはれを しらすれば 
       月やこの世の 鏡なるらむ

                      崇徳院

皆が帰って静まった境内で、座敷に座り、月を眺めてらっしゃるのではないかしらんと想像してみました。
ねこづらどきのなおくんも行かれたようなのですが、気付かず残念でした。

2012年10月28日

2012 時代祭 その6 吉野時代 中世婦人列

吉野時代 楠公上洛列に続くのは中世婦人列です。
大原女
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桂女7-572.jpg
これよりは祇園東お茶屋組合の方々です。
淀君御一行7-571.jpg
淀君7-570.jpg
侍女7-569.jpg
藤原為家の室7-568.jpg
出家後「阿仏尼(あぶつに)」と称されています。相続問題を幕府に訴訟するため、鎌倉へ下った際の道中のスタイルです。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記した日記が、後に「十六夜日記」と呼ばれるようになりました。
参照
http://www.zuzu.bz/ownerblog/2009/10/post_345.html
静御前と童女7-567.jpg
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2012年10月27日

2012 時代祭 その5 吉野時代 楠公上洛列

吉野時代7-580.jpg
ほら貝が鳴り響き、楠公上洛列の登場です。7-579.jpg
菊水紋旗旗差 楠木正成は、建武の新政に対しての功により天皇から菊紋を下賜されましたが、畏れ多いとして、半分を水に流した菊水紋にしたという事です。 7-574.jpg
錦旗旗差 7-578.jpg
楠木正成7-577.jpg
楠木正季(くすのきまさすえ)7-576.jpg
侍大将7-575.jpg


2012年10月26日

2012 時代祭 その4 安土桃山時代 室町時代

安土桃山時代 豊公参朝列 豊臣家が朝廷へ参上した時の様子で、公家風と武家風が入り混じった行列になっているのが特徴です。
騎馬の人物は大名 前田玄以です。7-620.jpg
大名 石田三成7-619.jpg
大名 浅野長政 馬がどっか他へ行きたがっているみたい。7-618.jpg
牛車7-617.jpg
飼糧桶に替牛7-616.jpg
牽馬7-615.jpg
大名 増田長盛 大名 長束正家7-614.jpg
織田公上洛列7-613.jpg
立入宗継7-612.jpg
千成瓢箪7-611.jpg
羽柴秀吉7-610.jpg
丹羽長秀(にわながひで) 可愛い兜ですね。7-609.jpg
大金瓢箪7-608.jpg
織田信長7-607.jpg
滝川一益(たきがわかずます)7-606.jpg
なにやら、馬の機嫌がかなり悪い様子7-605.jpg
踏ん張りましたが・・・7-604.jpg
落馬!7-603.jpg
大事には至らなかったようで、なによりです。馬を宥めて、もう一度7-602.jpg
思わず拍手が起こるも、慌てて「しー、しー」と世話係の人たちから声が掛かり、皆、しーんと静まり、馬の機嫌を伺います。7-601.jpg
柴田勝家 こちらの兜もおもしろいですね。反射してまぶしい感じですが。7-600.jpg

室町時代
室町幕府執政列7-599.jpg
御供衆 政所執事 伊勢氏7-598.jpg
足利将軍 鎧兜はつけず、烏帽子に金襴の豪華な衣装です。7-597.jpg
童菊7-596.jpg
鎧櫃に公家・法中・御医師・御博士・と続きます。7-595.jpg
御供衆 菅領 細川氏7-594.jpg
御供衆 侍所所司 山名氏7-593.jpg
御供衆 評定衆 二階堂氏7-592.jpg
室町洛中風俗列7-591.jpg7-590.jpg
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「風流踊り」16世紀京の町衆によって盛んに催されたという踊りを再現しています。7-586.jpg
初めて見る事が出来ました。7-585.jpg7-584.jpg
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2012年10月25日

2012 時代祭 その3 江戸時代

江戸時代7-638.jpg
徳川城使上洛列
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槍持、傘持、挾箱持などが掛け声をかけて、パフォーマンスを繰り広げます。7-636.jpg7-635.jpg7-634.jpg
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江戸時代婦人列 京都市地域女性連合会の面々が務めます。
先頭の現代和服姿は会長の西脇悦子さん。そして、台車に乗って和宮の登場です。7-630.jpg
大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)女流歌人で、後に尼となりますが、若きの日の姿での登場です。7-629.jpg7-628.jpg
大田垣蓮月に関しては、こちらを参照してください。http://www.zuzu.bz/ownerblog/2009/02/1.html

玉瀾(ぎょくらん)
画家池大雅の妻。画人で和歌にも秀でていました。7-627.jpg
参照
http://www.zuzu.bz/ownerblog/2009/10/post_348.html


中村内蔵助の妻(なかむらくらのすけのつま)
衣装比べの際、自身は白無垢に最上級の黒羽二重の打掛けという際立った姿で登場。侍女たちには豪華絢爛な衣装をまとわせて付き従わせて、人目を惹いたという事です。7-626.jpg
腰元7-625.jpg

梶(かじ)
玉瀾の祖母で、祇園に水茶屋を営んでいました。女流歌人で歌集「梶の葉」を編みました。7-624.jpg7-623.jpg
参照
http://www.zuzu.bz/ownerblog/2009/10/post_346.html

吉野太夫(よしのたゆう)7-622.jpg
出雲阿国(いずものおくに)7-621.jpg
この婦人列はカツラではなく地髪の結い上げ姿です。南 登美子先生を始めとする祇園界隈の美容室の方が担当されています。

2012 時代祭 その2 明治維新時代

いよいよ行列の始まりです。7-671.jpg
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まずは、鼓笛隊による演奏が行在所前で行われました。7-669.jpg
名誉奉行の京都市会副議長・京都府会副議長の馬車7-668.jpg
同じく名誉奉行 京都市議長・京都府議長7-667.jpg
最後の馬車は京都市長と京都府知事です。7-666.jpg

先導の御嬢さん方が、その横を通って、配置につきました。7-665.jpg7-664.jpg

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時代祭旗と総奉行です。
そして、明治維新時代から、時代は遡ってゆきます。7-662.jpg7-661.jpg7-660.jpg
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維新勤王隊列のピーヒャーラドンドン イコール時代祭といったところかしらん。7-658.jpg7-657.jpg
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幕末志士列 桂小五郎・西郷吉之助・坂本龍馬・中岡慎太郎・高杉晋作と続きます。7-654.jpg
桂小五郎 ちょっとイメージ違うけど・・・。7-653.jpg

坂本龍馬 目線をありがとうございます。7-652.jpg
中岡慎太郎7-651.jpg
高杉晋作 流し目頂きましたが、三味線着流しでお願いしたい感じ7-650.jpg
七卿落7-649.jpg
1863年(文久3)の八月十八日の政変で、倒幕計画に破れた七人の公卿が京都から追放された事件で、蓑をまとった七卿が、鎧姿の真木和泉ら志士に護られながら長州に落ち延びた様子を表しています。
具足に兜姿が凛々しい志士 真木和泉とまぶしそうな久坂玄瑞7-649a.jpg
公卿 三條実美(さんじょうさねとみ)7-648.jpg
公卿 三條西季知(さんじょうにしすえとも)7-647.jpg

公卿 東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)7-646.jpg

公卿 壬生基修(みぶもとおさ)7-645.jpg

公卿 四条隆謌(しじょうたかうた)と 公卿 錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)7-644.jpg

公卿 澤宣嘉(さわのぶよし)7-643.jpg
七卿をどんな思いで落ち延びて行かれたかなどと眺めているうちに、ちょっと志士列 吉村寅太郎(よしむらとらたろう)と頼三樹三郎(らいみきさぶろう)を撮りそびれてしまいました。左前方より梅田雲浜(うめだうんびん)・橋本左内(はしもとさない)・吉田松陰(よしだしょういん)7-642.jpg
近衛忠熈・姉小路公知(あねがこうじきんとも) (このえただひろ)7-641.jpg
三條実萬(さんじょうさねつむ)・中山忠能(なかやまただやす)・平野国臣(ひらのくにおみ)7-640.jpg

友人の撮った写真によると、こんな感じで撮ってるみたいです。7-639.jpg
次回、江戸時代に続く

2012年10月23日

2012 時代祭 その1 行列の始まるまで

10月22日 月曜日 雲一つない快晴の中、時代祭が執り行われました。知り合いがお当番にあたっていて、関係者席の入場券を頂いたので、着物を着て気合を入れて出かけました(^^)雅な感じの名古屋帯を締めてみました。7-685.jpg
御苑内で見るのは初めての事で、関係者席は座席に限りがあるという話ですから、早く行かねばと10時に堺町門に着きました。7-684.jpg
続々と行列の支度を終えた参加者が集まってくるところでした。維新勤王隊列は演奏しながら堺町門に入って行き、早くから陣取ってらしたカメラマンが一斉に写真を撮っているのを尻目に取り敢えず、場所確保。神幸列も平安神宮より到着です。7-683.jpg
有料観覧席はすべて座席指定のパイプ椅子ですが、神宮講社席は前の方は、敷物が敷かれていて、後ろは長椅子というフリーな感じになっていました。友人たちは所要時間も長いので長椅子に陣取り、私は一人で最前列の敷物が敷かれた上にさらに敷物を引いて座り込みです。砂利の触感が伝わってきます。二時間座っていられるかしらん?7-674.jpg
建礼門前在所に桓武天皇と孝明天皇のご神霊をうつされた2基のご鳳輦が安置されました。7-682.jpg
10時半より、行在所祭です。7-681.jpg
崇敬者と市民代表が参列して、神饌公社より神饌が献じられ、白川女の献花奉仕が行われるというものです。7-680.jpg7-679.jpg
御苑内では、各列ごとにスタンバイする場所が決められていて、準備やランチ、記念撮影や休憩などそれぞれに時間待ち中です。7-678.jpg7-677.jpg7-676.jpg

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私も座席に戻り、12時の出発を待ちます。次回に続く

2012年10月12日

「西陣くらしの美術館」冨田屋さん見学

9月9日は重陽の節句でしたので、今年も菊の花びらを浮かべたお酒と料理で楽しみましたが、営業日の為、京都の行事には参加できず、残念でした。7-710.jpg
大宮通一条上ルにある「西陣くらしの美術館」冨田屋さんでは、9月9日から10月9日まで、重陽の節句と題して、見学会を催されていたので、菊慈童の絵柄の着物を着て出掛けてみました。7-691.jpg
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「国の登録有形文化財の指定を受けたのを機に「西陣くらしの美術館」として公開をされいるこちらは、日々生活をしてらっしゃる町屋です。7-708.jpg
伏見で両替商を営んでいた冨田屋さんが、鳥羽伏見の戦いで焼け出され、西陣に移り住み、呉服商を営むようになり明治十八年にこちらを建てられたそうで、現在の当主で十三代目という事です。7-704.jpg7-707.jpg7-706.jpg
細部が凝った造りになっています。7-702.jpg

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日常使いの井戸と神様専用の井戸があり、多くの神様を祀ってらっしゃるこちらでは毎朝、家中の神さんごとから一日が始まるといった代々受け継いできた風習やしきたりを守って生活してらっしゃるそうです。7-701.jpg
お倉が二つあり、こちらの奥のお倉は神様のお住まいだそうです。漆塗りの扉の前には、「被綿(きせわた)」をした菊が生けられていました。7-700.jpg
重陽の節句の前日に菊の花に綿をかぶせ、菊の香りのする露を含んだ綿で肌を撫でて身を清めたりします。邪気を祓い長生きする効能が菊にはあると古来より信じられてきたゆえの習わしでしょうね。
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奥の座敷で、参加された方々と、楽しくおしゃべりなどしながら、菊の節句にちなんだ、手作りのお料理を頂きました。7-698.jpg
年代を感じさせる調度類に囲まれての、心のこもった食事は終始和めるひとときでした。7-697.jpg7-696.jpg
最後にお菓子とお抹茶をよばれたのち、お茶室見学。7-693.jpg
凝った造りのお茶室でしたが、もっとも目に留まったのが、こちらのトユです。銅で出来ているそうですが、竹を模したデザインが施されていました。7-694.jpg
社訓7-695.jpg
お仏壇では、小坊主さんがうたた寝中でした。7-692.jpg
もちろん、打ち鳴らすための木魚は別に置かれていて、安心しました(^^)
生活されている町屋の温かみが感じられる見学会でした。

2012年09月25日

妙蓮寺 芙蓉・彼岸花

我が家の芙蓉がようやく開き始めました。清楚な白色に少しさわやかになってきた風がよく似合います。7-723.jpg

ご近所の妙蓮寺では、早い時期から、濃いピンクの芙蓉が咲き始め、今は白やピンクに酔芙蓉と多くの花で賑わっています。7-722.jpg
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まだまだ、日中は日差しが強いですね、と手をかざしているような。
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足元には彼岸花が咲きそろいました。7-720.jpg
揚羽蝶がひらひらと!写真的には、ちょっと分かりにくく映ってしまいましたが・・・。
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2012年08月17日

大文字送り火

今年の大文字は、無理なお願いをして賀茂街道沿いにあるお知り合いの別邸の屋上に上がらせて頂きました。7-751.jpg

下賀茂茶寮のお弁当や飲み物まで用意して頂き、ありがとうございました。大変美味しゅうございました m(_ _)m

お弁当の写真は撮る前に食べてしまったのでありません。
祇園祭の際に買い求めた白楽天山の提灯を下げてみました。ローソクは危険なので、ゆらゆら揺れる感じのLEDローソクです。7-757.jpg
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目の前で見るとやっぱり迫力が違いますね。7-766.jpg
杯への大文字の写しこみですが、角度が悪かったのか、高さの問題か、ちらちらと映ったような感じで、撮影できるレベルではありませんでしたが、1Lぐらいののお酒を回し飲んでみました。スマートフォンの画面を少し大文字に傾けると、綺麗に映り込んで見えました。杯傾けても、水面は水平なので、意味なかったようです。入射角と反射角の問題なのでしょうね?鴨川の床で映した時の方が綺麗でした。高低差の問題?もっと杯の位置を下げた方がよかったのかも?お盆とかのほうがよかったのかしらん?など課題が残りました。月見の時にまたリベンジしてみようかしらん?そうこうするうち、妙法の点火です。7-765.jpg
妙法は、目の前で見れるはずか、近くの大きくなってしまった木々に阻まれて、切れ切れです。残念!7-764.jpg

船形と左大文字は同じ15分の点火ですが、左の方が早くつき始めた感じでした。(ねこづらどきさんのブログによると、左大文字は松明を持った人々が文字に沿って動き出し、15分に点火するというシステムになっている為、このように見えるようです。道理で、ちょっとジグザグしていますものね。)7-763.jpg
左だ、左だ、と騒いでいるところへ、ぽっと船が現れました。7-762.jpg7-761.jpg7-760.jpg
左もしっかり燃え盛っています。7-759.jpg
鳥居も見えないかしらと背伸びしてみたりしましたが、やはり無理のようです。右の大文字はそろそろ下火になってきました。7-758.jpg
せっかく帰ってらしたのに、大したもてなしもせず、騒いでばかりで、すみません。私は至って元気で好き勝手やっております。安心して浄土へ、お帰り下さいなどとごちゃごちゃ言いながら念仏を唱えて、今年の送り火も終了です。
おかげさまで、今年は、ゆったりと移動もせずに見せて頂けました。私のわがままに快く対応して準備して頂いた方々と、お付き合い頂いた方々に感謝です。
でもって来年は、鳥居に焦点を当ててみようかしらと、また考え始めているところです(^^)

2012年08月15日

京の七夕

8月12日 京の七夕 鴨川会場に足を運びました。

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笹が風になびいて、見た目は涼しげです。ぬるい風だから、実際のところは涼しいとまではいかないのですけど・・・。
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ステージのイベントや全国物産即売コーナーは4,5日だけの催しだったのですね。友禅流しを見てみようとやってきたのですが、なんの出店もないのは、ちょっと物足りない感じです。7-787.jpg7-786.jpg7-785.jpg
ジャバジャバすすいで、手繰り寄せ、えいやっ!と投げます。
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やってみたい人はどうぞという事で、何人かが川に入っていきました。7-782.jpg
プロのお手本に習い、皆も投げますが今日は向かい風で、結構大変そうでした。
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先斗町の歌舞練場では、舞子茶屋のイベントが行われました。ワンドリンク おつまみ付、舞子さんと写真を撮って、踊りを2曲で、1500円です。7-779.jpg7-778.jpg7-777.jpg
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夜モードの撮影のお勉強をしないといけませんねぇ~。

2012年08月01日

祇園祭 その11 白楽天山 他

宵山の夜ともなると、混雑が激しくなってなかなか前に進めません。

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白楽天山7-800.jpg
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唐の詩人 白楽天が道林禅師に仏法の体意を問いかける様子を表しています。7-798.jpg
提灯を買い求めました。
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帰り道、美しい屏風絵が目に留まりました。
大正末期 玄輝画伯の「稚児御位貰ヒニ参行之図」7-797.jpg
蟷螂山
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2012年07月31日

祇園祭 その11 鷺舞 など

祇園さんあたりで、鷺舞が舞われるという事で、夕方、八坂神社へと向かいました。7-813.jpg
お参りをしている間に、人垣が増えてしまい、どうにか見えるかしらんという場所取りになってしまいました。7-812.jpg
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この鷺舞は京都では長く廃絶されていましたが、かつて京都より伝わり、津和野で継承されていた鷺舞を再び、取り入れて、再興されたものです。テレビなどでちらっと見たことがあったのですが、是非目の前で見てみたい思い、出掛けました。石段下で7時からのつもりで早めに出掛けたのですが、神社までやってくると境内の中でも5時半から舞われるという話で、半端に間に合ってしまい、後ろから撮る感じになりました。7-810.jpg7-809.jpg
故茂山千之丞さんが復活と指導に尽力され、今年初めて念願であった歌詞がつけられたそうです。狂言調の節回しになっていました。歌があるとないとではやはり趣が違いますよね。7-808.jpg7-807.jpg
西門を出て、石段下でしばらく待っていると、長刀鉾の一陣がさっそうと降りていらっしゃいました。西日を受けてまぶしそうです。7-806.jpg7-805.jpg
7月も今日で終わりとなってしまいましたが、明日まで、祇園祭ネタ延長です。

2012年07月30日

祇園祭 その10 木賊山

芦刈山を一筋下ったところ、西洞院通佛光寺西入るには、木賊山があります。同じく、謡曲からテーマを得ています。7-816.jpg7-815.jpg
都の僧が、父を尋ねたいという少年松若を連れてその故郷信濃へ下り、木賊を刈っている老人と出会います。老人は僧を我が家へと案内し、子をかどわかされ、こうして旅の宿を営み、行方を捜しているという身の上話を語り始めます。僧の連れた少年こそがわが子とわかり、再会を喜ぶという物語です。御神躰は腰に簑をつけ、左手に木賊、右手に鎌を持っている翁の姿を現しています。
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2012年07月29日

祇園祭 その9 芦刈山

綾小路を西へ、西洞院を過ぎたところに、芦刈山があります。7-824.jpg7-823.jpg
謡曲「芦刈」を主題としています。7-822.jpg
津の国日下の住人、左衛門は貧乏のすえ、心ならずも夫婦別れをします。妻は京に上って高貴な人の乳母となり、生活が安定しますが、夫の方は芦を刈りそれを売り歩いてなんとか暮らしていました。別れた夫が気になって探しに出掛けてくるも、夫はその身を恥じて隠れてしまいます。夫婦は和歌を詠み交わし、打ち解けて装束を改め、揃って都に帰っていくという物語です。7-821.jpg7-820.jpg

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御神体の古衣装は、織田信長より拝領と伝わる小袖です。7-818.jpg7-817.jpg

2012年07月28日

祇園祭 その8 伯牙山

新町の綾小路西入るには、伯牙山があります。7-828.jpg

春秋時代、楚の国に伯牙という琴の名手がいました。彼の弾く琴の音色を聞き分け、その想いを汲み取ることのできる唯一無二の友 鍾子期の死を知った時、絶望と悲しみから彼は琴の弦を断ってしまい、二度と弾かなかったという事です。
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ご神体は、手に斧を持ち、琴を今にも打ち破ろうと見おろしている伯牙の姿を現しています。7-825.jpg

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「伯牙琴を破る」ということわざになっています。「伯牙絶弦」・「断琴」とも云われています。

2012年07月27日

祇園祭 その7 船鉾

新町通綾小路下ったところは、船鉾です。7-831.jpg7-832.jpg
船首には想像上の鳥である鷁(げき)7-830.jpg
船尾には飛龍
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神功皇后と磯良・住吉・鹿島の三神を祀っています。7-836.jpg7-835.jpg7-834.jpg7-833.jpg
『日本書紀』の神功皇后の説話を元にして、船の形をしているそうです。「出陣の鉾」といわれるこの鉾と、「凱旋の鉾」といわれる大船鉾が揃えば、圧巻でしょうね。

2012年07月26日

祇園祭 その6 大船鉾

16日 新町通四条下るには、2年後に鉾の復興を目指す大船鉾の懸装品が飾られていました。7-840.jpg
鉾の舳先につけられていた大金幣は、約2メートルもある大きなものです。
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楫(かじ)には、降り龍と波濤の図が描かれています。よくこんなに美しい状態で、保存されていたものです。
御神体衣裳は、新調されました。7-839.jpg
お囃子も練習を重ねられているようで、復活が楽しみです。

2012年07月23日

祇園祭 一休み

金魚すくいの金魚たち7-841.jpg

我が家の金魚たちも、お目見えです。7-837.jpg

2012年07月22日

祇園祭 その5 橋弁慶山

16日 蛸薬師通室町東入るにある橋弁慶山は謡曲「橋弁慶」を題材としていて、牛若丸(義経)と弁慶が五条大橋の上で戦う姿をあらわしています。7-848.jpg7-845.jpg
巡行の際は、牛若丸が橋の擬宝珠の尖端に左足の足駄の前歯で立つ姿となります。
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よく知られている話では、弁慶が千本の刀を集めんと五条の橋に出没するという設定ですが、能では、牛若が通行人を切って廻った事になっています。

五条の橋7-844.jpg
当時の五条通は、現在の松原通りにあたります。
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狂言の演目の中に、「鬮罪人(くじざいにん)」というものがあります。室町時代、お当番の主人が今年の山の上の出し物を町内の人と相談する様子が描かれています。

主人が牛若と弁慶の五条橋の決闘にしてはどうかというと、皆は賛同するのですが、太郎冠者がそれはすでに橋弁慶の町内がやっている」と口を挟み、また鯉の滝昇りはどうかという提案には、それも鯉山の町内が龍門滝をやっていると太郎冠者が口を挟む。
では笛、太鼓の囃子ものはどうかというと、また太郎冠者が、囃子ものは昨年、隣町がやって音が揃わず京都中の物笑いだったと言い出して、なかなか決まらない。
太郎冠者によい思案があるのかと尋ねると、地獄で、鬼が罪人を打ち据えるというのはどうかという事になり、それでいいだろうと皆が賛成して演者をくじ引きで、決める事になります。主人が罪人、太郎冠者が鬼となってしまい、太郎冠者は罪人役の主人を強く打ち据えます。怒る主人とすねる太郎冠者、なだめる町衆。
しまいには突き飛ばされた主人が怒って太郎冠者を追いかけて幕引きとなります。

この事から、当時すでに、鯉山と橋弁慶山、囃子ものが存在し、また毎年趣向を凝らすお町内もあったことがうかがえます。

2012年07月21日

祇園祭 その4 浄妙山

16日 室町六角を東に入ったところには浄妙山があります。諸国の反平氏勢力が兵を挙げるきっかけとなった以仁王の乱における、宇治川の橋合戦の様を表しています。7-849.jpg

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三井寺の僧兵、筒井浄妙坊明秀が橋桁の上で大奮戦する中、狭い橋桁の上にあって、前に出られなかった同じ僧兵の一来法師が、「悪しう候浄妙坊」と声をかけ、浄妙坊の頭に手をついて飛び越え、活躍したという事です。
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巡行の際には、一来法師が筒井浄妙の頭上を飛び越える場面が再現されます。
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宇治橋を表す黒漆塗の橋桁には何本もの矢を刺して戦いの雰囲気を再現しています。

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一来法師はこのあと討ち死、浄妙坊は奈良へ落ち延びてゆき、平家側の勝利となるのですが、この合戦をきっかけに全国の源氏が蜂起、平家を滅ぼし、ついには頼朝が鎌倉幕府を開くことになったことから、この浄妙山は、縁起の良い勝ち運のお山とされています。 祇園祭においても、平家って立場悪い感じなんですよね。

2012年07月20日

祇園祭 その3 黒主山

16日 役行者山から、少し下がったところの帯問屋 誉田屋源兵衛さん前に、木村英輝さんの大きな作品が展示されていました。7-860.jpg
270周年記念にちなんで、鯉270匹だそうです。
さらに下がると黒主山です。7-859.jpg7-854.jpg

志賀の山桜7-858.jpg
謡曲『志賀』を題材に、六歌仙の歌人・大友黒主が、杖をつき桜の花を仰ぎ眺めている姿を表しています。

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首、凝りそう・・・。7-856.jpg7-855.jpg
大伴黒主は「草洗草子」では小町の敵役であったり、歌舞伎でも、悪人として登場します。黒という色からくるイメージのせいでしょうか。 鴨長明『無名抄』によれば、黒主は神になり、近江国志賀郡に明神として祀られたといわれています。ちょっとどんな人物であったか、判断しにくい感じですね。

2012年07月19日

祇園祭 その2 役行者山

快晴過ぎるお天気となった16日、午前中に鉾やお飾りを見て歩きました。姉小路から室町通りを下ってゆきます。最初に見えてくるのが、役行者山です。7-867.jpg

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14時から、本山修験宗総本山聖護院による護摩焚きが行われるそうで、その準備に檜の枝の積み上げをされていました。7-865.jpg
この炎天下、昼の2時ともなれば大変な暑さで、さして広くないこの通りで護摩焚きをすれば、とんでもない暑さになりそうです。7-864.jpg7-863.jpg
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御神体は役行者(えんのぎょうじゃ)と一言主神(ひとことぬしのかみ)と葛城神(かつらぎのかみ)の三体です。真ん中が役行者、向かって右手が手に輪宝を持った葛城神、左側が一言主神で、赤熊(しゃぐま)を被り斧を携えています。
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2012年07月18日

祇園祭 その1

今年は宵山が月曜日だったので、午前中に御神体など見て歩き、いったん自宅に戻って浴衣に着替え、夕方からまた出掛けました。7-870.jpg7-869.jpg7-868.jpg
少しずつ、アップしてゆきます。

2012年07月11日

千本釈迦堂の陶器市

7/9~/12まで千本釈迦堂で、陶器市が行われています。7-876.jpg
10日には陶器に感謝する法要が行われたようです。
初日にちらっと見てきました。梅雨の晴れ間で、暑い中でしたので、人出はまばら、静かな境内でした。
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五条坂と違い、店舗数は10軒ほどの小規模なものです。7-873.jpg
国宝の本堂は1227年、藤原秀衡の孫にあたる義空上人によって創建された時のままで、京洛最古の古建築です。7-874.jpg
本堂が開いていたので、中に入ってみましたが、ご本尊の扉は閉ざされていました。応仁の乱の際の刀や弓矢の傷跡が柱にしっかり残っています。この地は西軍の陣地でしたが、山名宗全の特別のはからいで、この本堂が残されたと伝わっているそうです。
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義空上人は、藤原秀衡の孫という話ですから、当然その間に父がいる訳ですが、誰かと調べてみると父は藤原忠明(秀衡息)という人でした。ちょっとこの忠明という人のデータが見つからないので、よくわからないのですが、承安二年(1172)に出羽国千福里で上人は誕生しているようです。文治二年(1186)、15歳の時に鎌倉の月輪房阿舎利の童子役となり、19歳で剃髪して比叡山で澄憲(ちょうけん)上人に師事し、10余年の後に千本の地を得て仮堂を建て釈迦如来像を祀ったのが、貞応2年(1223)となっています。
1172年というと、清盛の娘 徳子が中宮になった年です。1174年には義経が鞍馬を出て、奥州に向かっています。1185年に平家が滅亡し、鎌倉の頼朝が、秀衡に書状を送り、牽制し始めています。その翌年に義空は鎌倉にいたようですね。1187年、秀衡は義経を匿うも、病に倒れています。1189年には奥州合戦によって、奥州藤原氏は滅んでいます。その翌年、義空は鎌倉から比叡山に移っている事になりますね。
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2012年07月04日

神明神社

下京区綾小路通高倉西入神明町に、神明神社(しんめいじんじゃ)という小さな社があります。7-882.jpg
この地は関白・藤原忠通の邸跡で、近衛天皇がしばしば行幸したと伝わっています。7-883.jpg
四条内裏、東洞院内裏と呼ばれていて、こちらに祀られていた鎮守社がこの神明神社と伝わっています。祭神は天照皇大神で、菅原道真を祀る文子天満宮が合祀されています。
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以前、「源 頼政 鵺退治」http://www.zuzu.bz/ownerblog/2009/05/post_200.htmlと題して、鵺池跡について記載したことがありましたが、こちらも頼政と鵺にまつわる話が残っています。7-877.jpg
近衛天皇の時代、鵺退治を命じられた弓の名手 頼政は、こちらにその成功を祈願し、みごとに撃ち捕ったその感謝の意を込めて、使用した二本の「鏃(やじり)」を奉納したというものです。7-878.jpg7-879.jpg
してみると、近衛帝がこちらに住まいされていた時に呼び出され、退治した現場であると考えるのが自然に思えますね。
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謡曲「鵺」では、この時退治された鵺が亡霊となって現れ、この時の様子を語り、老僧の供養に感謝して消えてゆくという物語になっています。

2012年06月20日

本法寺 紫陽花

6月18日 7-907.jpg
我が家の紫陽花はピークを過ぎたようなので、本法寺の様子を見に行ってきました。7-910.jpg

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まだまだ咲き始めたところでした。7-908.jpg
日陰になっているせいでしょうか、ずいぶん遅い感じです。

2012年06月01日

若宮八幡宮

五条橋東に現在の若宮八幡宮はありますが、慶長10年(1605)に移転したのもので、かつては、六条醒ヶ井にありました。移転後は小祠が祀られていたようですが、現在は社殿が再興され、八幡宮が祀られています。このあたりは、かつて源氏の屋敷があったあたりです。
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花屋町通から若宮通を少し上ったところにあります。
天喜元年(1053年)、後冷泉天皇の勅願により、源頼義が自邸内に石清水八幡宮の若宮(新宮)を造営しました。通りの名前から、六条左女牛若宮や六条八幡宮ともよばれていました。
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六条北、堀川東に源氏堀川館があったことから、源為義は六条判官と呼ばれていたようです。
堀川通りの西側には、左女牛井の石碑が立っています。京の名水として、源氏の館に取り入れられていました。7-953.jpg
文治元年(1185)源頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が義経の六条館に夜討ちをかけたのもここにあった館です。

2012年05月30日

源為義の墓

六条判官と呼ばれた源為義は、保元の乱で敗れた後、いったんは東国へ落ち延びようとしますが、出家して息子たちと別れ、長男 義朝を頼りに京へ舞い戻ります。義朝の助命嘆願も許されず、7月30日に義朝によって斬首されました。

『兵範記』では息子たちと共に船岡山で、『保元物語』では為義は七条朱雀で、息子たちは後に船岡山で処刑されたとあります。処刑後、北白河円覚寺(現在廃寺)に葬られたとなっています。
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下京区七条七本松東入る朱雀裏畑町にある権現寺(ごんげんじ)の手前に、源為義の墓があります。
七条千本商店街の中の細い道を下ったところです。7-967.jpg

元々は千本七条にあり、明治45年に 京都停車場(京都駅)の拡張により権現寺とともに現在地に移されています。7-965.jpg
「保元物語」による為義の終焉の地とされるこの地に供養塔が建てられたようです。
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道の突き当りが権現寺です。
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2012年05月27日

白峯神宮と伴緒社

堀川今出川東入るにある白峯神宮は、崇徳天皇を祀る神宮です。
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孝明天皇は、保元の乱によって悲運の運命を辿られた崇徳天皇の御霊を慰め、国難に際し、ご加護を祈ろうとされ、幕府に御下命になって四国・坂出の「白峰山陵」から京都にお迎えして、これを祀らうとされましたが叶わぬままに崩御されました。
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父帝の御遺志を継承された明治天皇が、宮地を和歌・蹴鞠の公卿宗家「飛鳥井家」の邸地に求められて、慶応4年(明治元年)9月6日社殿を現在地に新造され、崇徳院の御霊を奉迎鎮座されました。
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続いて明治6年に47代淳仁天皇の御神霊を淡路島南端の御陵からお移しして、御併祀になりました。

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保元の乱の際、御味方した源為義・鎮西八郎為朝公を祀る「伴緒社」が本殿に向かって右にあります。7-975.jpg7-974.jpg

源為義の八男である源為朝は、西方を鎮めるという名目で、九州で大暴れをして、鎮西八郎為朝と称していました。弓の名手で、保元の乱で大活躍したとの事ですが、大軍に押され、白河北殿に火を放たれた事から、わずか4時間ばかりで、敗走することになります。
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源為義は、後白河天皇側についていた長男 義朝によって斬首されてしまいます。勅命とはいえ、直接父を殺さねばならなかった義朝の心中は、いかばかりであったかと想われます。為朝は武勇を惜しまれて、伊豆大島に流刑となりました。為朝はその後、琉球王家の祖になったという伝説があります。7-972.jpg
こちらの社は武芸、弓に秀でた為義・為朝親子を祀ることから、武道・弓道上達にご利益があります。7-971.jpg
11月15日には、「伴緒社」祭があり、愛弓会奉仕の「奉射式」と演武が行われます。7-970.jpg
本殿前では、含笑花(ガンシュウゲ)の花が咲いていて、とても芳しい甘い香りを放っていました。7-969.jpg
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2012年05月26日

藤原頼長の桜塚

大河ドラマは、いよいよ保元の乱ですね。藤原頼長が、なかなかはまり役な山本耕史が楽しみです。

崇徳上皇方についた頼長は、その生真面目に完璧であろうとする性格から、かたくなに己が筋を通そうとして、時勢が読めなかったようですね。
源為朝が夜討ちをかけようという案を進言しても、天皇と上皇の戦いに、そんな姑息な手段をとるなど、もってのほかと却下してしまいます。反対に、後白河天皇側から、夜明けに奇襲をかけられて、攻め込まれてしまう結果になってしまうのですから、気の毒な感じではあります。敗走途中で、首に矢を受けた頼長は、重傷を負いながらも奈良まで逃れ、父 忠実に会おうとするも拒まれてしまうのですから、ますます同情してしまいます。7-983.jpg
幼い頃より優秀で、父に愛されて育ち、左大臣にまで上り詰めた頼長が、どんな心持ちで、死んでいったのかのかと思うと、痛々しい限りです。7-982.jpg
写真は現在、相国寺墓地内にある頼長の桜塚の碑と石塔です。もとは、白河北殿(熊野神社西南あたり)にあったものですが、明治期に絹糸紡績会社の工場拡張のため、この地に移転しています。
藤原定家・足利義政・伊藤若冲の墓が並ぶその隣の一角にあります。石碑に、宇治左府首塚也と書かれています。
塚の上に桜の木が植えられていたことから桜塚といったとも、左府塚がなまって桜塚となったとも言われています。
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こんなはずではなかった。どこで、道を誤ったのか?いや、なにも間違ってはいない・・・。そんな彼の声が聞こえてきそうな気がします。

2012年05月25日

出水の小川

5月22日 ひと雨降った後の御苑は静かなたたずまいを見せていました。7-995.jpg
出水の小川に黄菖蒲が咲いていました。7-992.jpg
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鴨はカメラを向けられても、のどかなものです。7-985.jpg7-984.jpg

2012年05月24日

京都水族館

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ゴールデンウイークも終わり、ぼちぼち空いたかしらと、梅小路公園内に3月にオープンした京都水族館に、行ってきました。
京の川ゾーン6-015.jpg
オオサンショウウオは、思ったより小ぶりで可愛い感じです。もっとも隠れていて全身を見れないのが多かったので、大きいのもいたのかもしれませんが・・・。写真もいまいちだったので、また次回の機会に。

お掃除中6-014.jpg

大水槽6-013.jpg
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館内は一方通行になっていて、後戻りできないのが、なんとなく不自由に感じるのですが、まあ混んでいるのにぐちゃぐちゃに動かれても厄介でしょうね。イルカショーの場所取りのために取り敢えずイルカスタジアムへ、進みます。6-010.jpg6-009.jpg
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まだ、芸域が狭いのか、道具を使ったパフォーマンスなどはありません。15分と短いので、待った割にはすぐ終わってしまう感じではありますが、今後に期待したいところです。6-007.jpg
人の流れに沿って出口に押し出され、ブラックライトでイルカの形が浮かび上がるスタンプを手に押してもらって、再入場です。

かいじゅうゾーン6-006.jpg6-005.jpg
こちらのパフェで、すいぞくパンを売っていたのですが通り越してしまい、また入場して買おうとした頃には、売り切れでした。

ペンギンゾーンへ向かうスロープには、ペンギンのかわいい足跡6-004.jpg6-003.jpg

海洋ゾーン6-002.jpg
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竹ノ内豊と上戸彩のドラマ『流れ星』を思い出してしまいます。主題歌 コブクロの「流星」が絶妙なタイミングで流れてきて、切なさが倍増してしまい、クラゲを飼いたくなってしまうドラマでした。6-000.jpg
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山紫水明ゾーン7-998.jpg
こちらではお目当ての京漬物ドッグと、京都パフェを食べて、ほっこり。すぐきの入ったドッグは、なかなか美味しかったので、水族館以外でも販売してほしいところです。自分で作った方が早いかも?

京の里山ゾーン7-994.jpg
田植えが近くの小学生によって行われたようで、収穫が楽しみですね。

ミュージアムショップにて、おみやげを買いこんでしまいました。7-996.jpg
触感がなんとも気持ち良いオオサンショウウオのぬいぐるみ。小さいのはマグネットタイプです。7-997.jpg
規模は小さいですが、手軽に行ける水族館が出来て、やっぱり良かったねといったところでしょうか。

外に出ると目の前には、西八条第が?平家一門の邸宅群が広がっていたのだろうな~と想像してみましたが、またの機会に・・・。

2012年05月20日

媞子内親王火葬塚

白河天皇と仲睦ましかった中宮 藤原賢子の間に生まれた第1皇女に、媞子内親王(ていし(やすこ)ないしんのう)という方がいらっしゃいます。堀河天皇の同母姉にあたります。
わずか3歳で斎宮に卜定、伊勢に下向していらっしゃいましたが、母后賢子が若くして崩御された事により、在任6年で退下し帰京されました。
最愛の中宮を亡くされた白河天皇は、亡骸を抱いて号泣され、お嘆きは並大抵ではなかったとのことです。1086年、わずか8歳の善仁親王(たるひとしんのう))に皇位を譲り、上皇となって、院政を開始されました。

再会した娘 媞子内親王は、母に似て見目麗しく、白河上皇は、ことのほか大切にされていました。回りの反対意見にも耳を貸さず、弟にあたる堀川天皇の后に立てられ、後には女院号を宣下、郁芳門院とされました。
病がちであった内親王が21歳の若さで亡くなられ、白河上皇は、その2日後に出家されています。最愛の妻と娘を早くに亡くされた上皇のお気持ちはどんなであったかと思われますが、その後、多くの女性を囲われるようになってゆき、後の歴史的トラブルを招く要因となります。

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媞子内親王も火葬されたようで、船岡山の北にその火葬塚があります。北大路通南側、建勲神社北参道の東、少し奥まったところです。
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2012年05月18日

近衛天皇火葬塚

4月に鳥羽の近衛天皇陵 安楽寿院南陵を訪れましたが、亡くなられた当初は、近衛天皇の遺骨は紫野の知足院本堂に安置されていました。船岡山付近にあった大寺院で、関白 藤原忠実が邸宅としていたことから、忠実は知足院殿と呼ばれていました。6-037.jpg

近衛天皇は、生来病弱で度々病気を患い、眼病を患って視力を失っています。久寿二年(1155)鳥羽法皇や美福門院の連日の病気平癒の祈祷もむなしく、重病となり、十七歳で崩御されました。
船岡山の西野で火葬にされ、遺骨は知足院本堂に安置されましたが、後に安楽寿院に移されました。6-036.jpg
写真は、紫野花ノ坊町にある火葬塚です。6-035.jpg
御心ち例ならずおはしましける秋、よませ給うける

虫の音の よわるのみかは 過ぐる秋を 
    惜しむ我が身ぞ   まづ消えぬべき

玉葉和歌集にある近衛天皇の和歌です。なんとも心細げなお心の内がうかがわれます。
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2012年05月13日

今宮神社 還幸祭

5月13日 今宮神社 還幸祭が、晴天の中 執り行われました。6-095.jpg
5日は、本社からお旅所への巡幸 、13日は、お旅所から本社へ巡幸です。6-094.jpg
12時頃から、店の前の大宮通を寺之内から、北大路大宮下がる東の御旅所まで、行列が並び始め、出発待ちです。6-093.jpg6-092.jpg

玉の輿神輿6-091.jpg6-073.jpg
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宮司さんによるお祓い6-088.jpg
水火天満宮の宮司さんのようですね。6-087.jpg
1時出立です。
「一条天皇の御代 正暦五年(994)六月、疫神を二基の神輿に齋いこめて船岡山に安置し、神慮を慰め奉って悪疫退散を祈った。これが紫野御霊会であり今宮祭の起源である。」と今宮さんのHPに起源がかかれています。

それが、近衛天皇の久寿元年(1154)四月、「夜須礼(やすらい)」での今宮詣が余り華美に過ぎるということで禁止され、それとともに今宮の祭礼の方も衰えていったということです。当時の政情も穏やかでない状態であったためであろうといわれています。保元の乱の2年前の事です。
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五代将軍徳川綱吉公の生母桂昌院が西陣の出身であり、その故郷を思う気持ちと「西陣」の台頭によって再び復興しました。桂昌院にあやかり、玉の輿神輿が若い女性たちによって担がれて?います。6-085.jpg6-084.jpg6-083.jpg
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定例のお札三種6-074.jpg

夕刻 一部の行列が戻ってきました。6-072.jpg6-071.jpg6-070.jpg6-069.jpg
牛車が人力車に変わっています?6-068.jpg
牛は、後ろをぞろぞろと6-067.jpg6-066.jpg
玉の輿神輿は、元気に掛け声をかけながら通っていきました。6-065.jpg6-064.jpg6-063.jpg


2012年05月02日

2012 京の桜 平野神社 

2012年 京の桜のラストは平野神社です。
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衣笠6-234.jpg

胡蝶6-233.jpg

白妙6-232.jpg

有明6-231.jpg

楊貴妃6-230.jpg

一葉6-229.jpg

23日 

松月6-224.jpg

平野妹背 前回訪れた時は、一段目が開花したところでしたが、この日はこの桜の移ろう様子を一度に
見ることができました。

2段目が蕾になってこれから開こうとするところ6-228.jpg

開き始めたところ6-227.jpg

一段目がピンク、2段目が薄ピンクと違いがしっかり見える状態6-226.jpg

一体感が出て、ころころになり華やいだ様子6-225.jpg
なんとも不思議な桜です。

今年の桜はこれにて終了となります。また来年、出会えることを願って・・・。

2012年05月01日

2012 京の桜 ご近所 総集編

5月に入ってしまったので、桜もそろそろおしまいにしようと思います。休みが曇り空の日に多くあたってしまったのが、ちょっと残念でしたが、今年もずいぶん廻ったものです。ご近所が後回しになっていたので、まとめて総集編です。

水火天満宮 10日6-259.jpg

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16日6-246.jpg
 
妙覚寺 10日6-254.jpg
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妙覚寺 塔頭 善明院 15日6-253.jpg
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本隆寺 10日6-251.jpg

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本法寺 10日6-249.jpg6-248.jpg6-247.jpg

妙蓮寺 17日6-245.jpg6-244.jpg

雨宝院 17日6-243.jpg
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千本えんま堂 23日6-239.jpg
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2012年04月29日

2012 京の桜 上品蓮台寺・建勲神社

4月16日 紫野十二坊町にある上品蓮台寺に立ち寄りました。染井吉野は散り盛んです。
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紅枝垂れは、葉桜になりつつあるものもありましたが、全体的には満開、まだ見頃というところ6-296.jpg
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雨風に散らされて、足元もピンクのじゅうたんです。
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強い風が吹いて花吹雪に見舞われしばし、茫然。
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船岡山の建勲神社6-283.jpg6-282.jpg
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踏み入ってはいけないような感じです。

2012年04月25日

2012 京の桜 立本寺・宥清寺

4月10日 立本寺は、満開で幼稚園児が駆け回っていました。6-351.jpg6-350.jpg6-349.jpg6-348.jpg6-347.jpg
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宥清寺
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2012 上御霊神社 一初

4月23日 上御霊神社では、一初がちらほら咲き始めていました。

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桜の花写真の整理が追い付かないうちに、季節は移っていこうとしている模様です。

2012年04月24日

2012 京の桜 千本釈迦堂

4月10日 千本釈迦堂のおかめさんは、花色が褪せてはいましたが、見頃を保っていました。6-358.jpg6-357.jpg
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門前
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2012年04月19日

2012 京の桜 本満寺・御苑

4月9日 午前中 本満寺の枝垂れは色抜けしてしまって、勢いがないもののまだ満開を保っていました。以前、見頃の頃に見せてくれた迫力が感じられなかったのは、残念でした。桜のタイミングは本当に微妙ですね。6-412.jpg
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染井吉野も見事です。
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御苑へ訪れたのは夕刻で、俄か雨に見舞われてしまいましたが、しっとり暮れゆく風情がまた写真に表せない美しさでした。私の写真技術のなさのせいですが・・・。

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桃園
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近衛邸跡6-405.jpg6-404.jpg6-403.jpg6-402.jpg6-401.jpg


2012年04月18日

2012 京の桜 雨宝院・平野神社・千本えんま堂

速報 4月17日 京の桜の終盤の主役たちが、開花し始めていました。
智恵光院今出川上る西入るにある雨宝院では、紅枝垂れを始め、桜の競演で目が回りそうになっていました。観光タクシーも引っ切り無しで、賑わっています。6-433.jpg
御衣黄はというと、もう少しといったところでしょうか?6-432.jpg
平野神社 紅枝垂れが美しく、八重系が華やかになっていました。平野妹背が開花し始めています。6-431.jpg
御衣黄 6-430.jpg
千本えんま堂は関山桜が愛らしい姿を見せてくれています。6-426.jpg6-427.jpg
普賢象桜が開花したばかりです。6-429.jpg6-428.jpg
この日は、心地よいお天気になり、なからぎの道も終盤の散歩に最適でした。

2012年04月16日

2012 京の桜 祇園白川

4月9日 祇園白川は、大勢の人で賑わっていました。6-441.jpg6-440.jpg
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ここを曲がったあたりが、あの事件現場です。捜査が続いているようですが、多くの方が亡くなり、負傷された事は、痛ましいかぎりです。お亡くなりになった方々のご冥福をお祈り申し上げます。

2012年04月13日

京の桜菓子

この時期限定の菓子「桜合わせ」が食べとうなって、下京区松原通室町東入の末富さんまで買いに行きました。薄紅色と白の2色の桜形の薯蕷饅頭の生地で餡を挟んだお菓子どす。6-456.jpg
末富ブルーが何とも言えん綺麗どす。せっかくどすよって菓子皿もコーディネートしてみましたえ~。京おどりのお茶席で頂いたお皿どす~。
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おいしおしたけど、雅は高う つきますなあ。ひとつ525円どっせ~。あっという間に、のうなってしもうたような・・・。桜と一緒どすなぁ~。

2012年04月11日

2012 京の桜 妙覚寺塔頭 善明院

4月10日 夕刻 妙覚寺塔頭 善明院の紅しだれが開き始めていました。6-472.jpg

2012年04月09日

2012 京の桜 本法寺 その2

4月8日 朝6時半頃
本法寺さん横の裏千家茶道専門学校の桜で、ヒヨドリが、ぴーぴー鳴いていたので、激写!?
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朝食タイムのご様子6-498.jpg

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本法寺6-492.jpg6-491.jpg
こちらは、満開にはもう少しかかりそうですね。6-490.jpg6-489.jpg6-488.jpg
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2012年04月08日

2012 京の桜 水火天満宮・妙覚寺 その3

4月8日 朝6時過ぎの水火さん6-515.jpg6-514.jpg
定位置におすわりしている、こちらの猫にあいさつ6-512.jpg
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妙覚寺門前の枝垂れは花盛り
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朝陽と青空が心地良くて、今日はお花見日和になりそうですね。6-506.jpg6-505.jpg6-504.jpg6-503.jpg6-502.jpg
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さわやかすぎて、朝から撮り過ぎです。

2012年04月07日

2012 京の桜 水火天満宮・妙覚寺・本法寺 その2

4月6日 夕刻
ご近所を一巡り。
水火天満宮 6-532.jpg
2日には、一部分の開花であったのが、全体的に開いています。まだ満開には少し早いようです。6-531.jpg
手前の枝垂れはまだ蕾状態です。
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妙覚寺
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こちらもだいぶ開いてきました。満開のボリューム感には少し早いぐらい。6-527.jpg
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本法寺6-521.jpg
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いつもながら、静かに独り占めできる空間です。6-518.jpg6-517.jpg
一回りすると、結構暗くなってきます。水火さんに戻って、ライトアップされていい頃合いになっている桜を一目見てから帰ろうと公園から境内に入っていくと、三脚セットしたカメラマンが二人。後ろに回り込もうとして、ふっと目が合ってびっくり!京都の風景写真で有名なプロカメラマンの水野 克比古先生でした。きゃー!!初遭遇。たぶん・・・。写真館がご近所なんだから、きっともっとお会いしているかもしれないですよね。
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足を持ってこなかった為、ぶれぶれになりそうなほど暗くなってきたので、しばし先生の撮影を後ろから拝見して、満足して帰ってきました。


2012年04月06日

2012 京の桜 妙覚寺・水火天満宮・千本釈迦堂

4月2日 ご近所の桜めぐりをしてみました。
妙覚寺 門前の枝垂れが開き始めていました。6-545.jpg6-543.jpg

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塔頭の善明院では、白木蓮が見事な咲きっぷりを見せてくれていました。
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紅枝垂れも楽しみです。

水火天満宮の奥の方の枝垂れが開花していました。6-540.jpg6-539.jpg

千本釈迦堂のおかめさん
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門前の桜6-534.jpg6-533.jpg

2012 京の桜 御苑の糸桜

4月1日 御苑の近衛邸跡の早咲きの糸桜が、結構開いていました。6-553.jpg6-556.jpg
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週末はお花見モード全開でしょうね。6-547.jpg

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2012年04月04日

2012 京の桜 平野神社 その1

4月1日 平野神社に立ち寄りました。6-564.jpg
魁がぼちぼち開いていました。満開までもう少しですね。今日あたりはいい感じになっているかしら。
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アーモンドも開花6-562.jpg
待賢門院璋子さまに捧ぐ6-561.jpg

寒桜6-560.jpg
河津桜は満開、葉桜6-557.jpg

2012年04月03日

2012 京の桜 妙蓮寺

3月26日 妙蓮寺の「御会式桜」もぼちぼち咲いています。6-568.jpg6-567.jpg
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本堂修復中につき、今年はあまり背景がよくないですが。
4月1日 大宮児童公園の日当たりの良い桜が一本、開き始めていました。6-565.jpg
いよいよ、気もそぞろな季節に突入です。

2012年03月24日

御苑の梅園と猫

3月19日また、御苑に立ち寄りました。一週間前、見頃だった出水口あたりの梅が下火になり、梅園ではぱらぱら咲いていたり、つぼみだったり、終わっりかけだったりと、華やかさに欠ける感じではあります。6-583.jpg6-582.jpg6-581.jpg
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以前にも見かけた事のある猫が、モデルになってくれました。飼い主さんが梅の木に乗っけてくれました。よく慣らされた猫で、おとなしくポーズをとってくれます。6-588.jpg
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2012年03月23日

智恵光院・地福寺・祐正寺の枝垂れ梅

3月19日 
智恵光院通一条上るにある智恵光院の枝垂れ梅は、やや盛りを過ぎていました。6-597.jpg6-596.jpg
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七本松通新出水角の地福寺の梅も、外に垂れ下がっていてかわいいらしい感じです。6-592.jpg
下立売通七本松東入ルの祐正寺の枝垂れ梅も満開です。いつもは静かな境内ですが、この日はお彼岸のお墓参りの方々の出入りが多かったです。6-591.jpg
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2012年03月21日

北野天神さんの梅

3月12日の北野天神さんの梅です。
夕刻に立ち寄りました。6-607.jpg

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またも、みぞれに見舞われ、退散です。

2012年03月17日

御苑の梅

3月12日 朝から、積もるでもない雪が降ったり、止んだり、青空になったかと思うと、俄かに掻き曇り・・・。御苑にやってきたのは、昼過ぎでした。入ったとたんにみぞれに見舞われてしまいました。しばらくすると、青空に。6-627.jpg

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今度は霰になってきました。6-621.jpg6-620.jpg6-619.jpg6-618.jpg6-617.jpg
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2012年02月24日

京都市考古資料館

今出川大宮東入ルにある京都市考古資料館では、6月24日(日)まで、『平 清盛 – 院政と京の変革 - 』が開催されています。こちらは、とても近くて、無料なうえ、写真撮り放題なのですが、月曜定休日というところが、個人的にはちょっと厄介です。6-649.jpg
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「平清盛と平氏の足跡」「流通の発達」「大規模な寺 院・殿舎の造営」「院政期の生活と祈り」との4つのテーマに沿ってに展示されています。

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鳥羽殿で発掘された香炉 どなたがお使いだったのか?6-644.jpg6-643.jpg
六勝寺の筆頭寺院であった法勝寺の八角九重塔は、現在の岡崎動物園内にありました。高さが約81mもある木造建築です。京都タワーが131m、東寺の五重塔が57mですから、当時の洛中のどこからでも見える巨大な塔であったわけです。白河院の権力のシンボルタワーですね。実寸で復元してほしいものです。

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これで、どなたが、すごろくをしていたのでしょうか?6-641.jpg
きゃあ- 呪札~!6-640.jpg
結構、楽しめます。

2012年02月18日

雪の朝

個人的には、待望の雪が降りました。仕事で出歩けないのが残念ですが・・・。
屋上からの景色です。
建勲神社6-655.jpg

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興聖寺の大木6-653.jpg

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うちの鍾馗さんにも雪が積もりました。6-651.jpg6-650.jpg

2012年01月24日

第46回京の冬の旅 長講堂

今年も、「京の冬の旅」 非公開文化財特別公開が始まっていますね。初公開の長講堂を訪れてみました。6-687.jpg
下京区富小路六条本塩竃町にある、後白河法皇の持仏堂です。寿永二年(1183)、後白河法皇が晩年に過ごした院御所「六条殿」内に建立した持仏堂がこちらの寺の起こりです。6-686.jpg
一歩、中へ入って、あらっと思ったのが、由緒あるお寺にしては、真新しいスキッとした感じ。
阪神淡路大震災の際に、本堂は大きな被害を受けたため、修復されたという説明を聞いて、納得しました。
書院では、後白河法皇御真影の複製を見ることができました。本物は、50年に一度宮内庁立ち会いのもと開封されるそうなので、まぁお目にかかれそうにないです。後白河法皇直筆と伝わる「過去現在牒」には、安徳天皇や、平清盛・源頼朝・義経などの源平の武士、清盛が寵愛した白拍子の祇王・祇女・仏御前など、法皇ゆかりの名が記されていました。どんな思いで法皇がそこにこれらの人々の名をしたためていかれたのかしらと、想像してしまいました。

本堂には、法皇の念持仏であり臨終仏であった阿弥陀三尊像が祀られていました。
その前で目を瞑り、手を合わせると、平安末期へ ひとっ跳びしてしてしまったかのような錯覚に陥ります。

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奥にあるのは、御影殿です。後白河法皇坐像が安置されています。毎年4月13日の法皇忌にのみ公開されているそうですが、今回は特別に開扉されています。肖像画より、男前です。松田翔太が坊主頭にして、衣を纏ったら結構似てきそうじゃないのと想像して、にんまりしてしまいました。

平安時代大好き歴女としては、すっごく楽しめた公開でした。薄い靴下を履いていってしまったのは、ちょっと失敗でしたが・・・。

2011年10月04日

芙蓉と彼岸花

10月2日
我が家の芙蓉が遅咲きながら、花盛りを迎えています。6-735.jpg6-734.jpg
妙蓮寺さんの彼岸花が気になったので、立ち寄りました。芙蓉の足元の花は、すでに終わっていましたが、社務所前などはいい感じでした。
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来年は山門前にも咲かせる予定のようです。
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遅咲きの芙蓉もまだまだ咲いています。

2011年09月14日

仲秋の名月

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9月12日 下鴨神社 名月管絃祭のお茶券を頂いたので、ちょうど休日ということもあり、絹紅梅の浴衣で、いそいそと出掛けました。神社に着いて、はたと気づいたのが、カメラ忘れた!という事実・・・・。ハハハ・・・。近頃、雑事をこなすペースがダウンしてきたため、ブログ更新を週一ペースに減らしたので、カメラを常に持って出るという習慣が薄れてはいるのですが、よりによって・・・。でもって、携帯画像です。6-742.jpg
こちらのお供え団子は、みたらしなのですね。
昼過ぎから雲が広がり始めて、月が出るまでに流れていくかと期待していたのに、頭上にしっかり乗っかったままです。尺八や管弦の音をバックに取り敢えず、野点の御席へ。ちょっとお点前にミスがありましたが、おいしく頂きました。大勢の人に見られていると、緊張するのですよね~。
舞台の方は、筝曲へと。曲目は「ジュピター」「有明の海」6-741.jpg
神楽が始まって、雲間に月が上がり始めました。そういえば、神さまにご挨拶するのを忘れていました。
燈明が灯され、おごそかな雰囲気です。今日の好き日に、名月管絃祭に参加させて頂けた感謝を申し上げました。自宅の掛け軸も、変えてみました。6-740.jpg

2011年08月17日

大文字送り火

16日 右往左往した送り火ですが、ともあれ早めの夕食を片付け、自宅近くの穴場スポットから、いつもの大文字です。今年は、いろんな思いが、交錯する送り火となってしまったようですね~。黙とう・・・。6-773.jpg
自宅に引き返し屋上から、「法」と「舟形」です。6-772.jpg

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船岡山に隠れて火の粉しか見えない左大文字を追いかけて、今出川を西へ、上七軒あたりでちらほら見えたのですが、結局西大路まで。白梅町の中央分離帯で、撮影したのですが、カメラトラブル発生?!撮ろうとすると液晶モニターがスーと消えてしまい、撮影困難に・・・。6-769.jpg
帰路、信号待ちする北向き車線からの一枚です。6-770.jpg
カメラ修理が必要なような・・・。

2011年08月05日

妖怪アートフリマ モノノケ市

7月31日、一条大将軍商店街にある大将軍神社で、妖怪をテーマにした手作り市「妖怪アートフリマ モノノケ市」が、開催されていました。
このストリートには、店頭に年中、妖怪が立っていますが、夏場はやはりオンシーズンという感じがします。
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さほど広くない境内の両側に、怪しいお店が並んでいます。6-779.jpg
金魚は普通です(^^)
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少し前に、狐の嫁入りのような雨が降ったので、なにやら湿度が高いのも雰囲気を盛り上げているような・・・。
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思わず眺めていて、写真を撮りそびれてしまいましたが、妖怪も歩いていました。
こちらは、錫を溶かして、型に流し込んで造られた妖怪たちです。小さいのにとても綿密な印象です。6-776.jpg
お社にお参り6-775.jpg
妖怪たこ焼きなども販売されていました。竹墨が入っていて、見た目真っ黒なのが、なんとも・・・。6-774.jpg

2011年07月30日

伝道院

下京区油小路通正面角に伝道院という、建物があります。6-790.jpg
西本願寺から東へ、仏具店などが並ぶ街並みに、忽然と建っているといった感じの建造物です。
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真宗信徒の生命保険会社の社屋として、明治45年(1912年)設計士 伊東忠太氏によって建てられました。これが浄土真宗関連の建物というのは、ちょっとびっくりの雰囲気ですね。
長期間にわたる修復工事が完成したようで、親鸞上人遠忌のイベントが行われていました。
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阿(あ)6-786.jpg
吽(うん)6-787.jpg
他にも色々並んでいました。6-785.jpg
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2011年07月24日

富士ラビットスクーター

下京区七条通新町西入にある富士ラビットスクーターの建物は、京都における自動車販売店の草分けといえる「日光社」の社屋で、国の登録文化財となっています。竣工は1925(大正14)年 鉄筋コンクリート造りです。
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正面玄関上のアーチには、「日光」がデザインしされています。6-804.jpg
かつて、富士産業株式会社(現在の富士重工業(スバル))のラビット・スクーターを販売していたため、「富士ラビット」の名が記されています。
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1階正面のステンドグラスには、タイヤがデザインされています。6-803.jpg
1階では、うどんの「なか卯」が営業しています。

2011年07月14日

立本寺の蓮

7月11日 蓮を観に、七本松中立売下ルの立本寺に立ち寄りました。6-800.jpg
桜の時期にもおじゃましますが、蓮を観るにも近くて静かなお寺です。6-799.jpg
本当は早朝に来ると一番いいのでしょうが、なかなか時間の都合がつきません。昼過ぎの炎天下での鑑賞です。6-798.jpg
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これから盛りを迎えるといった感じですね。6-795.jpg
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2011年06月26日

きょうと和み館

当ブログは、主に京都の歴史にまつわる内容を追いかけ続けてきましたが、殆どが江戸時代まででしたので、今後は明治以降にも目を向けてみようと思います。
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5月11日にオープンしたばかりの「きょうと和み館」に立ち寄りました。
大正3年に建てられた、旧村井銀行の七条支店(下京区東中筋通七条角)を1F 京都みやげとカフェ、2F 団体レストランとして、リニューアルしたものです。少し前はセカンドハウス七条西洞院店として使われていました。
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土産物店の奥に100年前の京都の風景がパネル展示されていました。6-816.jpg
金庫室が厨房のようです。6-815.jpg
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冷やしぜんざいとほうじ茶のセットを頂きました。6-812.jpg
煙草王・村井吉兵衛が創設した銀行で、れんが造り石貼り2階建てです。円山公園にある長楽館が村井氏別邸として有名ですね。こうした建造物が、長く現役で存在し、気軽に利用できるのはうれしい事です。
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2階もちょっと拝見6-811.jpg
奥は団体様用のテーブルセッティングが、準備されていました。 6-810.jpg
東中筋通側も写真を撮ってみました。6-809.jpg
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2011年05月27日

桜宮神社

先日、上京区出水通千本東入る西神明町にある桜宮神社を訪れました。6-834.jpg
醍醐天皇の御代、延喜10年(910)、北野天満宮の右近の馬場にあった桜の大樹に紫雲がたなびき、異香が薫り、日輪が降臨したので、天照皇大神を祀り、霊宮を造り、桜宮日降の神明と号したのが、始まりです。その後、現在地である朱雀の北、近衛小路に遷座し、桜宮日降神明、桜葉明神、桜宮などと称されました。6-833.jpg

後白河天皇の時代には、桜町中納言成範(しげのり)が熱心に参詣し、悟りを得て歌を一首献上しています。
また、足利義詮は嗣子が無いのを憂い、桜宮に祈って男子を授かったという話です。男子は三代将軍義満となり、義満は桜宮を崇敬し、天下統一を祈願しました。
戦国時代には痘疹疫病が流行し、桜宮に祈ったところ快癒した者が多かったと伝わっています。
元禄7年、但馬国の荒木氏の妻が10年余りも難病に苦しみ、桜宮に祈願したところ、たちどころに本復し、拝殿を造営しました。
元禄16年、関白太政大臣兼煕が参詣し、桜宮の縁起を一巻記して奉納し、今も社宝として納められているそうです。
謡曲「右近」には桜宮の由来が詳しく語られ、『山州名跡志』にも北野社総門の外を南北に通じる通りに、桜葉明神社として描かれています。
春日大神、八幡大神、稲荷大神、愛宕大神、御嶽大神を合祀し、別社として大弁財天(宗像三姫大神)を境内に祀り、今の桜宮神社となっています。
≪神社案内板「桜宮神社縁起」より≫
大弁財天6-832.jpg
なかなか興味深い逸話の多い神社ですね。
桜町中納言といえば、謡曲「泰山府君(たいさんぷくん)」に登場します。桜が散るのを惜しみ、神に祈って、普通七日で散るところを三七日まで長らえさせたという物語です。
平治の乱において父信西が殺害され、その罪に連座して、流罪となりましたが、後に赦免され、後白河天皇の側近として仕えました。
桜を愛し、自邸に多く植えたことから「桜町中納言」の名で呼ばれたといわれています。
高倉天皇の寵愛を受けた小督の父親でもあります。6-831.jpg
境内には桜が植えられているので、来年は是非咲いている頃に訪れてみようと思います。
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2011年05月04日

京都の桜 2011 平野神社 5月2日

5月2日の平野神社です。ほとんどの桜が葉桜となる中、平野妹背と突羽根が、並んで咲いていました。
平野妹背 6-881.jpg
終わりかけですが、4月18日の状態と比べると、別の花のように見えるほど、内側の花びらが開花して、華やかです。
4月18日6-941.jpg
5月2日6-882.jpg

突羽根は満開です。6-879.jpg
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また来年の桜を楽しみに、境内は5月の花々へと移っていました。6-878.jpg
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2011年05月03日

京都の桜 2011 妙蓮寺 5月2日

しつこくも桜を追いかけてきましたが、明日で終了となりました。
5月2日の妙蓮寺です。
普賢象桜も散り始めていました。6-890.jpg
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後から開花した木の上の方の花は白いです。6-887.jpg
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他の八重も散り盛んです。6-885.jpg
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2011年05月02日

京都の桜 2011 御苑 4月19日 その2

近衛邸跡から、御所の西側を南へと向かいます。6-906.jpg
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御車返しの桜も満開です。6-901.jpg
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出水広場の八重桜群も咲き始めて、山吹とのコントラストが美しかったです。6-894.jpg
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2011年05月01日

京都の桜 2011 御苑 4月19日 その1

4月19日 近衛邸跡付近は、訪れる人も少なく静かに紅枝垂れを鑑賞できました。
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2011年04月30日

京都の桜 2011 妙蓮寺・白峯神宮

4月19日 妙蓮寺さんでは、八重系が見ごろを迎えていました。6-925.jpg
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門前の桜は昨日の雨で、雪が降ったかのように6-921.jpg
堀川通りの緑が鮮やかに6-920.jpg
白峯神宮でも黄桜が6-919.jpg
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2011年04月29日

京都の桜 2011 千本えんま堂・雨宝院

18日 時折ちらつく雨も傘をさすほどでもなく、千本えんま堂まで戻ってきました。

関山桜6-936.jpg
琴平桜6-935.jpg

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普賢象桜034.jpg

雨宝院6-931.jpg
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御衣黄6-930.jpg
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レンタル着物姿の御嬢さん方も。6-928.jpg
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2011年04月28日

京都の桜 2011 平野神社 4月18日

18日 平野神社では、遅咲きの桜たちの饗宴が繰り広げられていました。6-947.jpg
鬱金桜6-946.jpg
楊貴妃桜6-945.jpg
大内山桜6-944.jpg
白雲桜が満開でした。6-943.jpg
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平野妹背桜6-941.jpg
御衣黄は開花し始め6-940.jpg
一葉桜6-939.jpg
虎の尾桜6-938.jpg
庭桜6-937.jpg

2011年04月21日

京都の桜 2011 上品蓮台寺

11日 夕刻 北区紫野十二坊の上品蓮台寺さんに、立ち寄りました。018.jpg
紅枝垂れが満開見頃を迎えていました。017.jpg
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庭のお手入れの最中で、苔の上の枯葉などに風を送り、吹き飛ばして集め、取り去るという手法を取ってらっしゃいました。こうした日々の努力があるから、京の庭は美しいのですね。012.jpg
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愛らしい紅枝垂れを、今年も静かに鑑賞できました。

2011年04月20日

京都の桜 2011 二条城

4月11日の二条城です。唐門横の御所御車返しが見頃でした。 033.jpg032.jpg
久しぶりに二の丸御殿の拝観をして昨年の大河ドラマのシーンなどを思い出しました。
桜の園は、花の種類が豊富なのですが、遅咲きが多いようで、ちらほら咲きでした。031.jpg、本丸の後ろ側の八重紅枝垂れは満開で、華やかな雰囲気です。030.jpg
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北門手前026.jpg
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北東の角の桜群は静かなたたずまいの中で、独特の空気感を持っていました。とても私の写真技術では、写し取れません。021.jpg
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酔ってしまって、水平線もゆがむ?019.jpg
桜マップ007.jpg
画像の拡大

2011年04月19日

京都の桜 2011 本隆寺・雨宝院・千本えんま堂

11日 早朝 智恵光院五辻上ルの本隆寺さんにお邪魔しました。045.jpg
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この日は、何か行事があるのか、坊さん方が忙しげにしてらっしゃいました。早朝の境内は、とてもさわやかな空気です。038.jpg
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速報
18日 お隣の雨宝院の境内は満開で、御衣黄も開花が進んでいました。平野神社よりは少し早い感じです。035.jpg

千本閻魔堂 手前の桜群は見頃を迎えていますが、奥の普賢象は、咲き始めたところです。034.jpg

2011年04月18日

京都の桜 2011 妙蓮寺

堀川寺之内西入るの妙蓮寺さんには、10日の夕刻に訪れました。064.jpg
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御会式桜の葉が出始め、うすピンクの愛らしい花とのコントラストが綺麗です。062.jpg
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寺務所前の桜の足元には、椿のようにぽたぽたと花の姿がそのままの桜が落ちていました。枝を見上げると、犯人たちがお食事中でした。この木の花の蜜がとりわけ美味しいのでしょうか?雀が集中して騒いでいます。054.jpg
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紅しだれも咲いていましたが、花付きはあまりよくないようです。050.jpg
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門を入ってすぐの小さな桜も元気に花を咲かせていました。048.jpg
門前の桜はまだこれからといったところでした。047.jpg
雀の落とした花を拾い集め、持ち帰り、テーブルの真ん中に散らして、夕食にしました。046.jpg
卓上花見です。

2011年04月16日

京都の桜 2011 本法寺・妙覚寺・水火天満宮

本法寺(堀川上御霊 南東)7日夕刻095.jpg
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夕暮れの境内は人気もなく、静かに桜を満喫出来ます。093.jpg
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14日夕刻089.jpg
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散り始めた花びらの白さが、夕暮れの砂利に映えて、この上もなく美しい景色です。085.jpg
妙覚寺084.jpg
月と桜083.jpg
水火天満宮082.jpg
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2011年04月15日

京都の桜 2011 妙顕寺・善明院・雨宝院

4月7日 夕方 堀川寺之内東入るの妙顕寺さんは未だ本堂修復中ですが、桜は満開になっていました。116.jpg
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門前の枝垂れはこれからです。109.jpg
妙顕寺の北にある、妙覚寺塔頭の善明院の枝垂れが14日には7~8分咲きでした。今年は見事な咲きっぷりです。104.jpg103.jpg
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雨宝院 
4月11日 早朝 紅枝垂れが咲き始めていました。108.jpg
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椿も見頃です。「蝦夷錦」106.jpg
「あけぼの」105.jpg
4月15日 早朝 歓喜桜・観音桜も咲き出しています。101.jpg
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紅しだれは満開です。096.jpg
御衣黄は、蕾膨らむといったところです。097.jpg

2011年04月12日

京都の桜 2011 妙覚寺

4月4日 早朝、水火さんから公園を抜けて、東へ妙覚寺に向かいます。門前の枝垂れが花盛りです。164.jpg
蕾まじりのピンクの色合いがきれいです。
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4月7日夕刻156.jpg
白く色抜けしてきた風情が儚げで美しいです。155.jpg
4月11日 塔頭の善明院の紅しだれが開き始めています。151.jpg
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山門前の枝垂れは勢いを失くしていますが、横の桜たちが、華やいできました。148.jpg
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2011年04月11日

京都の桜 2011 水火天満宮

4月4日 早朝の水火天満宮です。175.jpg
洗顔中。174.jpg
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「遊ぼう」っていうと「・・・」っていう。169.jpg
4月7日 夕暮れ165.jpg
手前の枝垂れも開き始めました。168.jpg
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4月11日154.jpg
手前の枝垂れも花開き、奥の方もしっかり美しさを保っていたので、境内は華やぎにあふれていました。152.jpg
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2011年04月09日

京都の桜 2011 本満寺

4月3日昼過ぎ お天気も回復し、お腹も満足して、本満寺に向かいました。193.jpg
やはり青空バックがいいですね。192.jpg
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お隣から186.jpg

2011年04月08日

京都の桜 2011 御苑 4月3日

出水の桜215.jpg
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こちらでお弁当タイムにしようとやってきたのですが、風が強くてとても寒そうなので、断念。211.jpg
皇宮警察護衛所の桜も満開になっていました。210.jpg
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桃園も華やかです。208.jpg
結局、こちらの桜の陰に毛氈を引きました。207.jpg
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見上げると、こんな感じです。205.jpg
泉仙さんの花見桜弁当です。けっこうボリュームがあります。今年もこうして桜の下で、お弁当を食べてまったりできた事に感謝!204.jpg
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お弁当を食べているうちに、やや青空が出始め、光が射してきました。202.jpg
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こちらの桜もしっかり花開きましたね。196.jpg
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2011年04月07日

京都の桜 2011 千本釈迦堂・上品蓮台寺

4月3日 千本釈迦堂のおかめ桜は、やや花盛りを過ぎ、色抜けし始めているような印象でした。227.jpg
定番写真のおかめさん背景226.jpg
門前の桜もお気に入りのアングルで。224.jpg
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千本通を北へ、えんま堂がまだまだ蕾であろうと門前から、ちらと確認して鞍馬口を上がったところにある上品蓮台寺、通称十二坊さんへ向かいます。221.jpg
紅しだれにはまだ早いですが、染井吉野が咲き始めています。220.jpg
木蓮や、区民の誇りの木という李が咲き誇っていました。219.jpg
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大徳寺前の泉仙さんに立ち寄り、予約しておいたお弁当を受け取り、今年は上賀茂神社で食べようと思っていたのですが、御所桜がまだ五分咲き程度で、他はまだのようなので、今年も御苑に向かいます。

2011年04月06日

京都の桜 2011 宥清寺・立本寺

4月3日 北野の天神さんのお向かい西陣警察署を右手に南に下がったところ、一条通の角っこの宥清寺さんに、立ち寄りました。
正門横と本堂に向かって右手の桜が見ごろを迎えていました。234.jpg
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本堂左手の紅しだれは、まだ蕾状態で、花芽はやや少ない感じです。
そして、一条通を東へ、七本松を南へ曲がると立本寺さんです。しだれ桜が満開でした。232.jpg231.jpg233.jpg
染井吉野も、咲き始めています。230.jpg
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2011年04月05日

京都の桜 2011 平野神社 4月3日

4月3日 生憎の曇り空でしたが、朝から平野神社に出掛けました。
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ピークを少しばかり過ぎてしまったようではあります。空模様のすっきりしないせいも相まって、ぼんやりしているようです。(カメラマンの能力の問題も・・・。)248.jpg
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2011年04月02日

京都の桜 2011 御苑の桜・桃

3月28日 桃が紅白とも開いて、華やかでした。258.jpg
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カラスもそわそわ?257.jpg
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皇宮警察護衛所の桜も見頃を迎え始めていました。254.jpg
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梅林の梅は終わりかけです。251.jpg

2011年03月31日

京都の桜 2011 御苑の糸桜

3月28日 平安女学院 有栖館(有栖川宮旧邸)の桜も開き始めていました。271.jpg
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御苑に入ると、近衛邸跡に向かう南の通路の桜が結構見頃を迎えていました。269.jpg
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真下から、ここだけ見ていると随分咲いているようですが、引いてみると、まだこれからの枝もあるという事がわかります。250.jpg
近衛邸跡では早咲きの糸桜が咲き始め、人々が集まっていました。261.jpg
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池に下がった枝は少しさみしげではあります。266.jpg
今年の3月の花イラストで描いた桜はまだ、蕾状態でした。260.jpg
お隣は咲き始めています。259.jpg

2011年03月30日

京都の桜 2011 平野神社・長徳寺・祇園白川

あれこれと忙しくしている間に、ブログが延び延びになってしまいました。
3月14日 平野神社では、桃桜が咲き、河津桜が開き始めていました。281.jpg
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3月22日 出町柳の長徳寺のおかめ桜が満開でした。275.jpg
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祇園白川では、早咲きの桜が開花していました。274.jpg
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京都気象台の桜も開花したようで、そろそろあちこちで咲き乱れる姿を見ることができるでしょうね。

2011年03月07日

水火天満宮の梅 その2

2月28日 水火さんの入口のピンクの梅も花開きました。311.jpg
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白梅は、雨ですっかり落ちてしまいましたが。

2011年03月05日

北野天神さんの梅

2月28日 昨夜からの激しい雨がようよう止み、日暮れ前に、北野の天神さんに立ち寄りました。早咲きの梅は、無残に散り、残った花も随分傷んでしまっていました。316.jpg
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梅園は時間が遅かったので入れませんでしたが、境内よりは遅咲きが多いせいか、外から見た分には、良さそうでした。313.jpg
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寒さが増してきたので、早々に退散です。

2011年03月01日

興正寺の梅

2月21日 堀川通七条上るの興正寺さん(西本願寺の南隣)の前を通りがかり、美しく咲き誇っている梅に吸い寄せられました。329.jpg
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2011年02月23日

水火天満宮の梅

2月21日 バスを待つ間に、水火天満宮の梅を撮りました。
入口の薄桃色の梅はまだこれからといったところです。341.jpg
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白梅は満開ですが、向かいの紅梅はまだこれからです。日の当たり具合が違うせいでしょうかしらん。340.jpg

2011年02月11日

岩上神社

上京区浄福寺東入る大黒町に、岩上神社という小さな祠と鳥居があり、通称 岩上さんと呼ばれています。雨宝院の西側です。
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二条堀川付近にあった霊石が六角通(岩上通六角辺り)に遷され、更に中和門院(後陽成天皇の女御の一人で後水尾天皇の母)の屋敷の池の畔に遷されると怪異な現象が起きたという。吼え出したり、すすり泣いたり、子供に化けたり、の類である。子供に化けたという伝説に因んで「禿童(かむろ)石」と呼ばれたこともあったという。 持て余した女官たちが遂にたまりかねて蓮乗院という真言宗の僧を召したところ、彼はその石を貰い受け、現在地に遷して祀ったという。その際に「有乳(うにゅう)山 岩上寺」と称した。以降、授乳、子育 の信仰を集め、地元では「岩上さん」と親しみを込めて呼ばれている。 寺は享保(きょうほう)十五年(一七三〇)の大火事「西陣焼け」で堂舎が焼かれ、天明八年(一七八八)の「天明の大火」では荒廃の極みに達した。  明治維新の際には廃寺となったが、大正年間に織物業の千切屋が敷地内に祠を構え、以降「岩上神社(岩上祠)」となって今に至る。数奇な運命を経た霊石だけは昔の姿そのままで現在に伝わる。
上記のように説明書きが、添えられています。351.jpg
街並みに合わせて綺麗に整備され、通りになじんで鎮座されています。            

2011年02月09日

御苑の散歩 続き

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梅園の梅はまだまだこれからといった感じでした。363.jpg
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2011年02月06日

御苑の散歩

同志社前から、丸太町の方へと、御苑を散策しました。374.jpg
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冬の桜はその枝振りを観察するのに、とてもいいシーズンですね。369.jpg
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木々の枝振りがとても気になりました。367.jpg
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自転車道365.jpg
次回に続く

2011年01月25日

ゆりかもめ

1月24日、高島屋まで来たので、ふらふら東へと歩いてみました。
不二家のシャッターが下りています。閉店したニュースを年明けに知った時は、ちょっとショッキングでしたね。子供の頃、祇園に住んでいたので、鴨川より西へは、一人で行った事がなく、母に連れられて四条大橋を渡り、高島屋でお買い物の後、不二家のお子様ランチを食べるというのが定番でしたから。最後にもう一度、食べたかったですね~。
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鴨川縁を歩いてみました。387.jpg
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2010年12月27日

四条大橋

いよいよ、今年も押し迫ってきましたね。あれこれ、雑用に忙しいこの頃です。
先日、錦の散策後に、ゆりかもめの群れ飛ぶ姿など眺めようと四条大橋まで、足を延ばしたのですが、あまりいませんでした。461.jpg
餌があまりないのでしょうかしらね?
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2010年12月23日

師走の錦

12月20日 錦をぷらぷらして、師走気分を味わいました。高倉から、東に向かいます。479.jpg
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ぐじ477.jpg
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錦は個人的にはあまりなじみがないのですが、東山の白川沿いの古川町商店街は、子供の頃、いつも母の買い物について歩いていたので、このような細長いアーケードの風情は、懐かしい感じがします。近頃の古川町は、かつての賑わいがないようで、残念ではあります。475.jpg
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観光客向け食べ歩きフードが、随分増えましたね。465.jpg
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お店もだいぶ入れ替わったように感じますが、こちらは相変わらずです。468.jpg
棒だら467.jpg
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2010年12月11日

京都ホテルオークラ

紅葉も終わりに近づくと、街はクリスマスモードです。
京都ホテルオークラでは、サンタさんが、木をよじ登っています。
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2010年12月08日

建勲神社

11月29日 建勲神社520.jpg
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そう多くはないですが、紅葉している木々もあります。518.jpg
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2010年12月06日

ご近所の紅葉

11月29日堀川通寺之内あたりの銀杏も終盤ながら、太陽の光を浴びてきらきらしていました。532.jpg
宝鏡寺の紅葉も真っ盛り531.jpg
妙顕寺は本堂修復作業が続いていますが、紅葉は見頃で人気もなくて、撮り放題です(^^)530.jpg
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2010年11月30日

北野天満宮 もみじ苑 

11月29日 曇り空の中、天神さんのお土居の紅葉を観に出かけました。559.jpg
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朱塗りの鶯橋の上は引っ切り無しに人が通ったり、立ち止まったりで、タイミングが難しいです。555.jpg
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三又の紅葉は、生憎終わってしまっていました。551.jpg
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混ざり合った色調が、絶妙のコントラストを造り出していました。

2010年11月28日

『マザーウォーター』 ロケ地めぐり その7

『マザーウォーター』ロケ地めぐりも、終盤に近づきました(^^)
本日は、セツコのバーのロケ地となった烏丸鞍馬口西入にある『Prangipani』フランジパニさんです。566.jpg
こちらは本来カフェですが、映画の中では前庭のあるバーとして使われていました。山崎のウイスキーの水割りを、セツコ(小林聡美)が丁寧に作るシーンとその音が印象的でした。
このグラスを磨く、水割りを作るなどの手さばきなどを指導され、「氷」を提供されたのは、中京区六角富小路東入る大黒町 シルブープレビル2Fにある『Bar Trefle d`or』バー トレフル ドールさんだそうです。http://trefledor.jp/news/2010/1028_post_5.html
私も以前、行きつけのカフェバーで、グラスの拭き方を教わり、練習した事を思い出しました。565.jpg
前のガレージをセットでお庭に変身させ、室内も随分作り変えて使用されていたので、映画の中で、こちらのお店だとは気付きませんでした。564.jpg
セツコのバーが実在しなかったのはちょっと残念ですが、こちらのカフェは、町屋を活かした造りになっていて、とても和めます。
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チーズケーキと紅茶を戴きました。オーナーに、「出来たら、水割りがいいのですけど・・・。」と言ったら、クスクス笑って、「うちは、カフェですから、水割りは置いてません。」と言われました(^^)ごもっとも。562.jpg
現代版能舞台かしらんと思えるほど、何もないバーで、カツサンドをほおばるヤマノハ(加瀬亮)。560.jpg
軽いんだか、重いんだか、適当なんだか、深いんだかわからないような会話が、繰り広げられ、時が流れてゆきます(^^)
すぐ近くのスーパーに、シズヤのパン屋さんが入っていることを思い出し、カツサンドを買って自宅に戻り、バーのシーンを再現してみました。561.jpg

2010年11月24日

『マザーウォーター』 ロケ地めぐり その6

鴨川沿いのシーンは、京都らしいけど、ロケ地が特定しにくい『マザーウォーター』の映画の中で、最もわかりやすい場面だったように思います。589.jpg
上賀茂橋南の東側の芝生にマコトとジンが座り込んで話をしていました。592.jpg
そのお向かいが椅子が置かれていた場所です。591.jpg
向かい側に渡ってみました。ちょうどこの位置ですね。590.jpg
椅子はもちろん置かれていないので、ちょっと描き加えてみましょう(^^)583.jpg
ハツミが飛び石を渡るシーンは、もっと南、荒神橋北側です。587.jpg
荒神橋上流582.jpg
下流581.jpg
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」方丈記の冒頭の文を思い出すような場面のように感じました。ストーリーのない物語の本流を流れ続ける川といったところでしょうか。
そして、ここから橋の上に上がり西へ、御所を突っ切って、反対側にあるのが、護王神社です。マコトが絵馬を眺めるシーンがこちらです。586.jpg
こちらでは、主祭神である和気清麻呂公が京より宇佐へ向かわれた際、300頭ものイノシシが現れ、清麻呂公をお護りしたことから、狛犬の代わりに狛イノシシが建てられています。手水舎もイノシシです。585.jpg

2010年10月14日

妙蓮寺の花々

10月11日の妙蓮寺です。
御会式桜が、開花していました。755.jpg
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曼珠沙華は、終盤の様子751.jpg
あたりには、金木犀の香りが漂い、752.jpg
芙蓉もまだまだ楽しめます。750.jpg

2010年10月11日

土佐稲荷・岬神社

木屋町通蛸薬師の元 立誠小学校(りっせいしょうがっこう)の北側を、河原町へと抜ける途中に、土佐稲荷・岬神社があります。765.jpg
室町時代初期の貞和4年(1348)に、鴨川西寄りの中洲の岬に祠を建て祀られたのが始まりだそうです。764.jpg

その後、江戸初期に土佐藩京屋敷内に遷座され、通称「土佐稲荷・岬神社」とよばれるようになりました。763.jpg

土佐藩の人々をはじめ、坂本龍馬や中岡慎太郎などもこの神社を崇め、近隣の人々からも尊崇されたので、町衆にも屋敷内の通り抜け参拝が許されていました。761.jpg
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土佐藩邸が売却されるとき、下大阪町に移されましたが、 その後、備前島町の近江屋井口新助が元土佐藩用人邸を買い取り、明治20年(1887)にこの地に遷座されたということです。
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こちらの龍馬像のかけらを持っていると、願いが叶うとか恋の想いが叶うとして、像を欠いて持っていく人が多かったようで、ぼろぼろになってしまっていましたが、新しくなってからはご無事のようで何よりです。

見張り番?760.jpg

2010年09月28日

妙蓮寺の花々

9月27日ようやく、見頃を迎え出した曼珠沙華が芙蓉の足元に並んでいました。807.jpg
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光に透けた芙蓉の花びらがとても美しいです。806.jpg
社務所前のお庭にも805.jpg
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萩もぼちぼち803.jpg
塀の前には、芙蓉に隠れて白い彼岸花も802.jpg
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2010年09月22日

第46回 上京薪能

9月21日、今出川堀川東入るにある白峯神宮において、第46回 上京薪能が催されました。御祭神である崇徳天皇・淳仁天皇の霊をお慰めし、京の文化遺産を継承するために昭和34年より、境内にて開催されています。821.jpg
能、狂言、舞楽に筝曲という多彩な古典芸能が繰り広げられます。第1部は午後4時開演で、各社中の方の日頃の練習成果発表といった感じで、第2部は、午後5時45分より挨拶と火入れ式に始まってプロによる演目となります。
文化振興会会長と上京区長の挨拶で、少しは両天皇に係るお話があるかと思ったのですが、そのあたりは完全にスルーされてしまったのが、個人的には物足りないところではありました。820.jpg
いちひめ雅楽会による舞楽は、「打球楽」という演目で、平安時代に行われていたポロのような球技(打球)の姿を舞にしたもので、球技全般の守護神でもある白峯さんらしい演目でした。平安の御世を彷彿とさせる雅な姿に、うっとりしてしまいました。

筝曲の演奏は、十七弦と尺八を交えての「琉球民謡による組曲」というもので、沖縄のメロディーを琴で聞く珍しい演目で、楽しめました。

観世流・金剛流の仕舞や舞囃子のあと、狂言は大蔵流の「因幡堂」、エンディングは観世流能「殺生石 白頭」でした。
鳥羽院の寵愛を受けた玉藻前の話は以前に取り上げましたが、その正体をあばかれ、逃げた那須野で、その執心が殺生石となり、生き物の命を奪い続ける事を取り上げた物語です。
この演目を観たのは初めてでしたが、唐織の着流し姿の中に鱗模様の摺箔が怪しく光る前シテは石魂という設定のため、ほとんど動きがないのですねぇ。817.jpg
(上演さなかに毒が回って、座ったまま亡くなったのではないかしらと京都サスペンス的妄想が頭をよぎってしまいました。縁起でもない発想で、すみませんm(_ _)m
崇徳天皇を叔父子といって嫌った鳥羽院の寵愛をうけた玉藻前を演じている訳ですから、崇徳天皇の執心が舞い降りてきて・・・。などと、バカな事を考えているうちに、前シテは立ち上がり、舞台から消えてゆきました。)819.jpg
月の光が松の間から差し込み、蒸し暑かったものの美しい夜でした。上演はつつがなく終了し、舞台に隠れてしまった本殿に回り、崇徳天皇に御相伴にあずかり、この上ない幸せでございましたと感謝の意を表してから帰途につきました。818.jpg

2010年09月20日

奈良絵本・絵巻の宇宙展

思文閣美術館において、11月7日まで、「奈良絵本・絵巻の宇宙展」が開催されています。828.jpg
室町時代後期から江戸時代中期にかけておびただしく製作された絵入の本や絵巻があります。素朴なその挿絵は、「奈良絵」の名で呼びならわされ、珍重され、そうした挿絵をもつ本を「奈良絵本」というようになったそうです。

奈良の絵師達の手によって製作されたためともいわれていますが、実際は奈良に限られていたわけでもなく、その由来の解明はなされないまま今日に至っているようです。

絵本の原点といえるそれらに描かれた題材は、平安時代の王朝物語、中世の軍機物語、室町時代から江戸時代初期にかけて流行した幸若舞曲など様々ですが、最も多いのが、奈良絵本・絵巻の制作時期と同じ頃に成立した御伽草子です。

一寸法師やものぐさ太郎、鉢かつぎ姫などの物語が絵と文字で構成された作品が多く展示されていました。文字はよう読みませんが、絵の方はよく知ったストーリーなので十分楽しめます。827.jpg
ここ数年で研究が進んだそうで、署名のないこれらの絵本・絵巻の制作者が数名わかってきたようです。
女性作家の居初つな(いそめつな)という人物が、女性初の絵本作家として、発見されました。彼女の描く鉢かつぎ姫は、顔が見えず、すっぽり鉢を被った姿ではなく、帽子のように鉢が頭の上に乗っかった感じで、かわいらしいものでした。826.jpg

2010年09月12日

光福寺

左京区田中上柳町に、光福寺というお寺があります。正しくは、干菜山(ほしなざん)斎教院安養殿光福寺と号する浄土宗知恩院派の寺院で、一般的に「ほしなでら」の名で親しまれています。839.jpg
寛元年間(1243~1247)に道空上人が現在の長岡京市の西山安養谷(あんようがたに)に建立した斎教院が当寺の起りと伝えられています。841.jpg
道空上人が、六斎念仏を普及させた由緒をもって、後柏原天皇から斎念仏総本寺の勅号を賜っっています。840.jpg
六斎念仏とは、鉦や太鼓を鳴らし念仏を唱えながら踊る民俗芸能で、現在も京都の各地で催されていて、国の重要無形民俗文化財に指定されています。私もこちらのガレージで、昨夏、見せていただきました。くわしくは、リンクして頂いている「ブログ:ノルマ!!」さんのページに紹介されています。836.jpg
天正10年(1582)に、月空宗心(げっくうそうしん)によって現在の地に移されました。
また、文禄2年(1593)に豊臣秀吉が鷹狩の途中に立ち寄った際、住職宗心が干菜(ほしな)を献じたことにより、秀吉から干菜山光福寺の称号を与えられたといわれています。837.jpg
法然上人の幼名を、勢至丸(せいしまる)といい、 押領使・漆間時国の長子として生れましたが、9歳のとき、館が夜襲され父を亡くし、出家しています。法然上人800年大遠忌も近づいてきていますね。盛大な記念事業が行われるのでしょうね。

2010年09月06日

大将軍八神社

一条通の商店街を妖怪ウオッチングしながら、西へ進むと、大将軍八神社があります。
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平安京造営の際、陰陽道に依り大内裏の北西角の天門に星神 「大将軍堂」を建て 方位の厄災を解除する社として創建されました。社殿は、昭和の再建ではありますが、その歴史は古く、京の都を守り続けています。863.jpg
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陰陽道のお印の☆マークが本殿前に。864.jpg
本殿右奥には、方徳殿があり、平安時代中期から末期にかけて、大将軍信仰が盛んな時期に作られた神像が安置されています。明治の改正によって陰陽道等の外来神は廃され現在の主祭神は素戔鳴尊です。
五社
恵比寿神社・稲荷神社・天満宮・長者神社・金毘羅神社

三社
命婦神社・厳島神社*猿田彦神社
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社務所には、本殿左奥の地主神社(大杉大明神)の絵馬もありました。865.jpg

2010年08月25日

上善寺

8月22・23日は、都の出入り口六ヶ所に祀られた地蔵菩薩を巡拝して、罰障消滅、家内安全、無病息災、家運繁栄を祈願する「六地蔵巡り」の日です。
23日、六か所回るのはちょっと大変なので、一番近い鞍馬口通寺町東入るにある上善寺さんに伺いました。932.jpg931.jpg
山門を入った直ぐ右手の石仏は、鎌倉時代中期頃に造られた大日如来坐石仏です。925.jpg
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地蔵堂は右手にあります。930.jpg
小野篁作であるというこの地蔵尊は、小幡の里に祀られていたものが、保元年間(1156~59)に深泥池畔に移されて「深泥池地蔵」と呼ばれ、明治時代に現在地に移され「鞍馬口地蔵」と改められています。929.jpg
お幡(旗・おはた)家の玄関や軒に吊るすと厄を祓い、福を呼ぶということで、一年間の役目を終えた古いお幡が綱につるして奉納されています。
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このお札、町内の地蔵盆でも、南無地蔵菩薩と書かれたものが配られます。町内の会計を今年からすることになり、初めて知ったのですが、町内で配るお幡は、文房具屋さんで買うのですね。927.jpg
地蔵堂横にも、多くの石仏があります。
そしてもう一つ見ておきたかったのが、長州藩士の首塚です。お寺の方にお聞きして社務所奥の墓地に向かいました。922.jpg
美しいたたずまいの社務所です。923.jpg
元治甲子の戦い(堺町御門の変)で戦死した長州藩士 入江九一らの首塚です。924.jpg

2010年08月19日

大文字はんを 飲み干す

大文字も終わり、今年の夏も終盤ですね。938.jpg
写真は、16日お昼の準備中大文字です。
昨年より、今年の大文字が定休日にあたる事を知り、楽しみにしていました。
今年こそは、鴨川の床で、大文字をお酒の入った杯に写し、それを飲み干して無病息災を願うという京ならではの風情を味わおうと予約しておきました。
心頭滅却して、気合をいれたコーディネートはこちらです(^^)944.jpg
明るいシンプルな紺地の絽の着物に千鳥の帯です。943.jpg
お邪魔したのは、木屋町御池上るの「めん坊」さんです。955.jpg
少し風があり、エアコンの効いた部屋ほどの快適さは望めませんが、なんとか涼しげな顔を取り繕います。グルルメネタをあまり書かないものですから、先付と八寸は、速攻食べてしまい、写真はありません。
お造り954.jpg
床は満席で、私の他には、浴衣姿の御嬢さんが二人いらしただけで皆さん洋服です。
冷し鉢953.jpg
御凌ぎ952.jpg
鴨川べりにも人が増えてきました。951.jpg
焼き物950.jpg
冷酒を注文して持ち込んだ黒塗りのお盆・杯などをスタンバイ。949.jpg
点火が始まり、床も照明を落とされました。948.jpg
お盆の方がいいのか、杯の方がよいのか、角度を変えて眺めて見たりの大騒ぎ、杯に映ったのですが、写真的には今いちの写り?946.jpg
取りあえず、回し飲んで、納得した次第です。947.jpg
お見送りを終え、照明も点いて、食事再開です。
中皿942.jpg
お隣のジェフさんも、こちらに声を掛けてらっしゃいました。945.jpg
油物941.jpg
留め940.jpg
讃岐うどんです。腰があってひんやりうれしい一品です。
水物939.jpg
好物ばかりのメニューでお料理も満足し、大文字も飲み干して、念願叶い雅な風情を満喫した夜でした。

2010年08月16日

京の七夕

8月8日 今年から始まった京の七夕 堀川会場に出かけてみました。974.jpg
放流された「いのり星」が、川を下ってゆくのが見えます。973.jpg
光の天の川972.jpg
北行き一方通行になっていたのですよね!HP見ていたつもりでしたが、気づきませんでした。遊歩道は結構な込み具合で、暑そうなので、降りる気になれず、上を歩いて南下します。971.jpg
光の友禅流し970.jpg
Pagonパゴンさん(京友禅のシャツやカットソーを扱うお店 私も牡丹柄を持っています。)の協力によるものだそうで、光によってその趣が変化します。969.jpg
竹と光のアート作品が続きます。968.jpg
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願い七夕 笹飾り
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二条城にたどり着きました。963.jpg
メッセージ行灯962.jpg
近づくと著名な方々のメッセージが961.jpg
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仕事を終えて浴衣に着替えて出てきたものですから、いいかげんお腹が空いてきて、天の川のロマンどころではなくなってきました(^^)少しは夜店が出ているのかと思っていたのですが、堀川の方はなにもなかったようで、致し方なく引き返して鴨川に移動です。958.jpg
いのり星がようやく、下流へとやってきました。957.jpg
曲がりきれずに、停滞中の星も綺麗ですね。956.jpg

2010年08月12日

上七軒盆踊り

8月1日 夕方より、上七軒歌舞練場およびその周辺で芸舞妓さんや上七軒匠会、ご近所の方々による盆踊りが繰り広げられました。
飲食や小売業者でつくられた「上七軒匠会」により、昨年より再興した盆踊りです。
50年前に西陣織工業組合が上七軒の芸舞妓さんに歌ってもらいレコードにしたものの、その後途絶えていた「西陣音頭」を復活させたそうで、私もその西陣音頭見たさに出かけてみました。5時から行列巡行→挨拶→神若会による天神太鼓→6時より
盆踊りという段どりでしたが、ちょっと遅くなり、すでに盆踊りの列が上七軒通を練り歩いていました。999.jpg
歌舞練場隣の西方尼寺さんの駐車場へと踊りながら戻っていく列を追いかけます。998.jpg
会場では、テレビカメラも舞妓さんの追っかけ中です。997.jpg
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舞妓はんも、見習いはんも、お姉はん方も、おかあはんも、旦那衆もご一緒に ♪ 綾のまち~♪ 993.jpg
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踊りの列は櫓まわりを回る人たちを残し、盆踊り会場から上七軒通りへと何度も移動を繰り返します。991.jpg
休憩を挿みながら、お馴染みの「炭坑節」も踊られます。990.jpg
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門川市長さんのご挨拶987.jpg
結い上げられた髪の色香に、思わず追っかけ986.jpg
市長も踊りの輪に加わり985.jpg
通りへと繰り出します。984.jpg
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休憩スペースでは、お好み焼きや、ドリンク、ヨーヨー釣りなど、ねじり鉢巻きの芸妓衆も。981.jpg
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日も暮れだして
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最後は西陣音頭で締めくくり977.jpg
私もちょっと覚えようかと輪の中へ・・・。978.jpg

2010年08月10日

京都迎賓館一般参観

しばらくお休みすると、日常の忙しさに紛れ、ブログ再開が億劫になってしまいましたが、ぼちぼちゆっくりのペースで再開したいと思います。移動の終わっていないデータも多く残したままで、慣れない動作環境に戸惑ってしまいますが、パソコンがサクサク動くという事がなにより快適です。

8月1日 申し込んでいた京都迎賓館一般参観の抽選に当たり、見学してきました。ブログネタに最適と考えていたのですが、参観証と共に送られてきた諸注意書に、写真撮影に関する但し書きがありました。

「館内での写真撮影は、個人の記念写真を目的とした場合のみ許可されています。撮影された写真のホームページ・ブログ等への掲載は固くお断わりいたします。」

その他指定された場所以外の撮影の禁止や、もちろんフラッシュの禁止、動画禁止などの注意事項などが記載されていました。というわけで、ずいぶんたくさんの写真を撮ったものの、このページでは南門の写真のみとなってしまいました。1000.jpg
館内は、シンプルにすっきりと見せながら、建物、庭、一つ一つの調度品に伝統技術や最先端技術を駆使したすばらしいものでした。正面玄関→寿楽の間→夕映の間→藤の間→桐の間→露地→廊橋→正面玄関という所要30分ぐらいのコースですが、自分のペースで見て歩けるので、説明を聞いたり、しつこく写真を撮ったりしていたので、1時間以上掛かったようです。壁面を飾る綴れ織などは、工程を考えただけで気が遠くなりそうな代物でした。まだご覧になってらっしゃらない方は、次の機会にトライされる事をおすすめします。抽選に当たる確率は年々高くなっているようですので。

2010年07月30日

上京教会跡

関ヶ原合戦後、宣教師たちは家康と交渉し、秀吉が発布した禁教令を取り下げるように願い出、ひとまず京都にも教会を建てる許可を得ました。
元請願寺通油小路南西角に、慶長9年(1604)頃、ヤソ会の天主堂教会が復興されたという石碑が建っています。p6573.jpg
旧南蛮寺よりはるかに美しい建物といわれ、宣教師が常駐し、荘厳なミサが行われ、付近には学校も設けられたと記されています。しかし、慶長17年(1612)徳川幕府は、キリシタンの弾圧を始め、この地の天主堂も焼き払われたという事です。p6572.jpg

2010年07月29日

妙満寺跡

フランシスコの家から50メートルほど下がったところ(南へ50メートル)の東側に「妙満寺跡 26聖人発祥の地」の石碑が建っています。p6575.jpg
また、四条堀川を50メートル下がった四条病院のところにも、説明板があります。p6574.jpg
ここから西100メートル妙満寺町に1594年聖マリア教会、病院、学校、スペイン使節館が建てられた事や、1597年に長崎で殉教した26聖人の殆どがここで活動していた人々であった事などが書かれています。
1596年、秀吉はキリシタンたちの捕縛を命じ、ここから牢へと引き立てられました。その後、一条戻り橋で、左の耳たぶを切り落とされて、市中引き回し、長崎の処刑場へと向かいました。

2010年07月28日

フランシスコの家

天正15(1587)年 豊臣秀吉のバテレン追放令により、蛸薬師室町西入るにあった南蛮寺は取り壊されました。
しかし、1593年ルソン(フィリピン)総督の使節として、パプチスタ神父らフランシスコ会士が日本に派遣され、謁見した秀吉は、京都の妙満寺跡の広大な土地を神父達に与えました。
神父達は、ここに修道院を建て、その一部をルソン使節館としました。そして教会と、京都では初めての西洋式病院を二つ開設しました。

四条堀川一筋西 西の岩上通下るにフランシスコの家があります。p6577.jpg
1986年に開設されたキリスト教文化資料館です。このあたり一帯に多くのキリシタンが住み、だいうす町とよばれました。キリシタン灯篭もありました。p6576.jpg

2010年07月27日

南蛮寺跡

大河ドラマでは、舞台が長崎に移り、踏絵をそっと踏む隠れキリシタンお元のシーンが出てきました。私も一応は仏教徒ながら、先日カトリック教会に足を踏み入れる機会を得、ふと京のキリシタン事情を調べてみたくなりました。

キリシタンの歴史は、教科書でおなじみのフランシスコ・ザビエルに始まりますが、その後も多くの宣教師が入洛し、京都を中心とした地域でも布教活動が行われ、織田信長の保護によって広まってゆきます。
永禄4(1561)年、京都市内に最初の礼拝堂が建設されますが、戦乱の町中にあって礼拝堂は荒廃、布教もままならない状態でした。
1569年、ルイス・フロイスは、入京した織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。その信任を獲得し畿内での布教を許可され、グネッキ・ソルディ・オルガンティノなどと共に布教活動を行います。古くなった礼拝堂を再建することとなり、蛸薬師室町西あたりに3階建ての南蛮寺が建てられ天正4(1576)年に初ミサが捧げられました。p6579.jpg
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蛸薬師室町を西へ50メートルのところに石碑と案内板が建てられています。

2010年07月23日

三条烏丸御所跡

三条通烏丸西入る南側には、三条烏丸御所跡の石碑が建っています。三条烏丸殿・三条桟敷殿・三条南殿ともよばれました。堀川・鳥羽 両天皇の乳母であった藤原光子から、その子 藤原実能(待賢門院璋子の同母兄)に受け継がれ、鳥羽法皇に献じられました。p6590.jpgp6589.jpg

2010年07月22日

土御門内裏跡

烏丸通下長者町上る西側 蛤御門前のガーデンパレス前に、土御門内裏跡の碑があります。
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ここは鳥羽(1103~56)・崇徳(1119~64)・近衛(1139~55)三代の天皇が約24年間にわたって利用した方一町規模の里内裏です。 平安京大内裏を模して造営された最初の里内裏です。たびたびの火災で焼失、保元元年(1156)の再建が中止されて、廃絶しました。p6593.jpg
ここに崇徳院はいらした時もあったのですね。

室町通中長者町下る東側にも、清和院並びに土御門内裏跡の石碑が建っています。
京都坊目誌によると中世この地に、清和院があったとされています。p6592.jpgp6591.jpg

2010年07月20日

上田秋成 その6 富士谷成章

秋成は、皆川 淇園の実弟 富士谷成章については、このように書いています。

弟の不二谷千右衛門は、兄よりかしこいて、学問も何にもよかつたとそ。俳かいの友て、むかしは度ゞ出会した。互に又、国詩、国文の好にかわつた。大阪くたりにはちょこちょこよられた。女すきて、腎虚火動て、ほへほへしなれたと、かいほうした書生かはなし也。そんなら是もあほうてあつた。

富士谷成章は筑後柳川藩京都留守居の富士谷家を継ぎました。兄の私塾 弘道館より西の中立売通西洞院西入る南側にあった柳川藩邸内に住んでいたということです。p6599.jpgp6598.jpg

2010年07月17日

名和長年戦没地

上京区大宮通中立売上る東側の一条院跡と書かれた名和児童公園は、また名和長年の戦没の地ともされています。p6608.jpg
伯耆国出身の武将で、隠岐を脱出した後醍醐天皇(1288~1339)を、伯耆(ほうき)の船上山に迎え、京都六波羅を攻めました。p6604.jpg
建武政権の記録所・武者所の寄人となりましたが、建武3年(1336)、九州から京都へ攻め入った足利尊氏の軍との内野(平安京大内裏跡地)の戦いで敗れ戦死しました。p6607.jpg
この戦没地については、「太平記」の「内裏のの後街(一条大宮)」説と「梅松論」の「猪熊三条」説がありましたが、明治初年に井戸から鎧の一部が発見されたことから、明治19年にこの地であるということになりました。p6606.jpg
後醍醐天皇の信頼厚い長年は、伯耆(キ)守であったことから、楠木(キ)正成、結城(キ)親光、千種(クサ)忠顕と合わせて「三木一草」と称されました。
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海運業に関わっていた名和氏らしい「帆掛船」の紋は天皇から賜ったということです。

2010年07月16日

謡曲 「胡蝶」と 一条院跡

謡曲 胡蝶
吉野の奥に住む僧が花の都を見物しようと上京し、一条大宮のあたりにやって来ます。そこに由緒ありげな古宮があり、その階段の下に、梅が今を盛りと美しく咲いています。僧が立ち寄って眺めていると、そこへ人気のなさそうな家の中から、一人の女性が現れ声をかけてきます。そして、御殿や梅ノ木について語ってくれます。
僧は喜んで、女の素姓を問いただすと、、実は自分は胡蝶の精だと明かします。そして春夏秋と草木の花から花へと戯れる身ですが、梅の花とは無縁であることが悲しく、御僧におすがりして、法華経の功徳を受けたいといい、荘子が夢で胡蝶になったという故事や、光源氏が童に胡蝶の舞いを舞わせ船遊びをしたことなどを語り、もう一度、僧の夢の中でお会いしましょうといって消えてゆきます。
僧が花の下陰に仮寝をしていると、その夢に胡蝶の精が現れ、法華妙典の功力により梅花とも縁を得たことを喜び、花に飛び交う胡蝶の舞いを見せ、やがて霞に紛れて去ってゆきます。
                  「能楽手帳」より
現在の一条大宮あたりp6611.jpg
古宮らしき跡は望むべくもありませんが、大宮を少し下がった名和児童公園は、源氏物語ゆかりの地 一条院跡であるとの説明書きがありました。p6610.jpg
一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女)に仕えた紫式部が日記に書いている内裏はこちらであったと書かれています。p6609.jpg

2010年07月15日

祇園祭 鉾

ゲリラ豪雨が続いています。祇園祭に夕立は付き物ですが、ちょっとひどすぎですね。
函谷鉾p6617.jpg
長刀鉾p6616.jpgp6615.jpgp6614.jpgp6613.jpgp6612.jpg

2010年07月13日

上田秋成 その5 皆川 淇園

上田秋成の晩年の随筆「胆大小心録」の中で、秋成は交友のあった人々のことを、結構好き勝手にコメントしています。儒者で、多数の門弟を擁していた皆川 淇園(みながわ きえん)(通称は文蔵)とも長いつきあいであったようです。

皆川文蔵か、度々あふことに、とうしや、おやち、となふらるる事しや。同年、髪かくらうて、歯が落いて、杖いらすの目自慢いや有た。いつその出会に、とうやら骨が細うなつた、さきへお死にやろ、念仏申てやろ、といふたか、はたしてそのとをりしやあつた。講堂もしつくい、溝の曲水も犬のくそのたまる所になつたよし。あほうにはちかいはない。

と、あほう呼ばわりしています。

淇園は、東福門院に典医をつとめた皆川成慶(春洞、白洲)を父とし、京都に生まれました。実弟は国学者 富士谷成章で、ともに幼少より秀才のほまれ高き人物です。晩年、邸内に私塾弘道館を開きました。門弟は3千人余りといわれています。上京区上長者町通室町西入北側にその石碑が建っています。(『平安人物志』等では中立売通室町西入と記されているようです。)p6620.jpg
文化4年(1807)5月16日、74歳で亡くなり、寺町今出川上るの阿弥陀寺に葬られました。

2010年07月11日

「京」和装・伝統産業職人工房 その3

組み紐p6633.jpg
組み方によって、いろんな模様ができるというサンプルです。p6632.jpg
p6635.jpgp6629.jpg
絹マフラーの手織り実演です。体験もできます。p6628.jpgp6630.jpg
そして西陣織のコーナーが一番奥になっています。p6625.jpg
帯 図案p6626.jpg
手書きしてらっしゃいますが、最近はパソコンで描く方が、多いのではと思いますが?p6624.jpg
休憩中のところが多かったので、今一分からずじまいでちょっと残念でした。p6623.jpg


2010年07月10日

「京」和装・伝統産業職人工房 その2

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会場 中ほどは糸関連です。
座繰p6639.jpg
蚕がお湯の中に浸かっています。何本かの繭の糸が水中から手繰り寄せられて一本になっています.。p6638.jpg
小枠に巻き取られ、p6637.jpg
さらに大きく巻かれてゆきます。p6636.jpg
こうして糸になってゆくのですね。
子供の頃、蚕を育てたことがあります。真っ白な繭がころころと幾つもできた時は、可愛いかったのですが、しばらくたった朝、箱の中に真っ白な蛾が、何匹も張り付いていた光景は、ちょっと不気味でした。触ったら純白の粉が付いて、気管に入りでもしたら息が止まってしまうのではないかと感じたものです。表に放してやりましたが、この純白の羽根がどんどん汚れてゆくのかと思うと、悲しかったものです。p6631.jpg
こちらは糸を撚る機械のようですね。西陣織の最初の準備工程で、細い生糸を織物に使いたい太さに合わせて撚りをかける(糸をねじりあわせる)作業です。この撚りの強さを織物に合わせて加減することで、織物に微妙な風合いや光沢が生み出されるそうです。

2010年07月09日

「京」和装・伝統産業職人工房

6月25日 新たな京都の伝統産業PR拠点として、西陣織会館3階(京都市上京区堀川通今出川南入)に、『「京」和装・伝統産業職人工房』が開設されました。

西陣織・京友禅など京都の伝統産業の技術を受け継ぐ職人さんの「匠の技」の製作工程の実演公開及び実演体験です。

西陣織会館へは、まだ足を踏み入れた事がなかったので、この機会にとちょっと立ち寄ってみました。
1Fはホールになっていて、一日7回きものショーが上演されています。p6634.jpg
外人さんで賑わっていました。
2Fは西陣織の産直ショップと、奥が西陣織・手機・爪掻本綴織の実演や体験のコーナーとなっています。3Fが資料室で、西陣織の歴史が展示されています。
資料室隣のホールが今回、京都市・京都府及び西陣織工業組合の主催で開設された工房となっています。

入り口近くが、京友禅のコーナーのようです。彩色・糸目糊置・下絵の順に並んでらっしゃいました。
入り口から工程順に並んでもらった方が分かりよいように思うのですが・・・。写真は、工程順に並べてみました。

下絵 p6644.jpg
白生地に絵柄を青花という染料で描いてゆきます。青花は、水溶性で、生地に定着せず、きれいに流れ落ちる特殊な染料です。

糸目糊置p6643.jpgp6641.jpg
下絵の上をケーキに模様や字を描くような感じに、筒から、もち米の糊を搾り出しながら、置いてゆきます。防染作業です。

彩色p6642.jpg
模様に色付けいていく作業です。彩色に至るまでには、糊伏せ・引き染め・蒸しなどの工程があります。
私は、学生の頃、ピースで描かれた上に、仕上げの線描きを入れるバイトをしていました。鶴の冠や目、葉脈、雌しべ雄しべなどを面相筆で描いてゆく作業です。

型染めの型を彫る工程の実演もされていました。自分で研いで使うカッター類と一緒に撮ってみました。p6640.jpg
写真は、疋田柄になる型のうちの一枚です。
切り損なったりしないものでしょうかと馬鹿な質問をしてしまいました。そんなことはしないそうです。私には到底無理な作業です。
つづく・・・。

2010年07月08日

上田秋成 その4 呉春

秋成は、画家の松村呉春とは特に交友が深かったようです。
呉春の画に秋成が賛を寄せたものや、書簡も残されています。「胆大小心録」には、「くい物の解せぬ者は、なんにも上手にならぬ」というのが呉春の持論で、いろいろと食べ好みをした食通であったと書かれています。
寛政5年(1793)6月、60歳の秋成が妻の瑚璉尼とともに京都に出たその落ち着き先は、知恩院門前袋町でしたが、以後、南禅寺山内、東洞院四条、衣棚丸太町と市内を転々としました。寛政7年頃には、呉春と同じ長屋に住んだこともあったそうです。
寛政8年には、また袋町に戻り、9年の12月、そこで妻の瑚璉尼が急死しています。
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呉春宅址としては、晩年に住まいしていたところとして、東洞院通錦小路上る西側 元竹田町にその石碑が建っていますが、『平安人物志』には、四条東洞院東入る北側となっています。応挙宅と近いですね。その門下から、異母弟の松村景文や岡本豊彦・横山清暉らの多くの画家を輩出しています。四条界隈に画室を構えたことから、四条派と呼ばれ、のちに応挙の円山派をしのぐようになってゆきました。

秋成の死の2年後、文化8年(1811)7月17日、呉春は60歳で亡くなって西九条の大通寺墓地に葬られましたが、その地が荒地となっていったので、明治22年(1889)一乗寺の金福寺に改葬されました。p6645.jpg
景文の墓と並んでいます。p6646.jpg

2010年07月07日

上田秋成 その3 若冲・応挙らとの交流

昨日の秋成の墓の蟹の台石は、伊藤若冲が深草山石峰寺の五百羅漢を安永・天明年間に造った残りの石で彫ったものだといわれています。秋成の生前に寺に運んだもののようです。p6650.jpg
墓標は十三回忌に建てられ、碑表の隷書は森川竹窓の筆によるものです。
晩年の随筆『胆大小心録』には、当時の文人や画家たちとの交流の様子が屈託のない毒舌ともいえる独特の口語体で描かれています。

円山応挙についても、「衣食住の三つにとんと風流のない、かしこい人じやあった」「絵は応挙の世に出て、写生といふことのはやり出て、京中の絵が皆一手になつた事じや」と書かれています。また画代が高くなったことのついては、「応挙が俗慾ではじまった」とも書いています。

四条通堺町東入南側 木曽路の看板横に、円山応挙宅址の石碑が建っています。p6649.jpgp6648.jpg

2010年07月02日

上田秋成 その1 終焉地

京都国立博物館において、『没後200年記念 上田秋成展』が7月17日(土)より開催されます。
怪異小説 雨月物語の作者として知られる上田秋成(1734~1809)は、小説家としてだけでなく、俳人・歌人・国学者としても多くの著作を残したようです。中学生の頃、少年少女文学全集の中の「雨月・春雨物語」を読み、その独特の世界にどっぷりはまり込んだ記憶があります。
 
雨月物語の中の「菊花の約」などは、兄弟の盟を結んだ友との再会の約束を守るため、約束の重陽節句の日の夜、自刃した男が幽霊となって現れる物語ですが、近頃の言い回しではボーイズラブとも取れるこの物語に、なにやらドキドキしたものです。展覧会情報を知り、忘れてしまっていた記憶が蘇り、この機会に上田秋成について調べてみる事にしました。

大坂に生まれた秋成は、前半生をこの地で過ごし、43歳の時に『雨月物語』を出版しています。60歳で京都に移住していますが、今から200年前の文化6年(1809)旧暦6月27日に、弟子の羽倉信美の家で息を引き取りました。数え76歳でした。p6668.jpg
寺町通広小路上るの梨木神社より少し南東の地にあったというその終焉の地の石碑が、梨木神社内 一の鳥居を入って左側にありました。p6667.jpg
幾分風化したその石碑はおどろおどろしげで、上田秋成らしく見受けられます。p6666.jpg
上田秋成翁自詠題書画
ふみよめは
絵を巻きみれは
かにかくに
昔の人のしのハるゝかな

と、書かれているようです。

最近、70歳の記念に桜にちなんだ和歌70首を書いた真筆の巻物が、関西の旧家で発見されたそうです。全長4メートルを超す大作は、5歳の時に悪痘にかかり、危篤状態に陥ったこともある秋成が、古希を迎えた喜びを伝えているそうで、今回の展覧会に出展される予定です。是非観て見たいと思っています。

2010年06月29日

世継地蔵 上徳寺

富小路通五条下ル本塩竈町の上徳寺さんの本堂左側には、世継地蔵さんがいらっしゃいます。
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古くから、子宝と安産を願う多くの人々の信仰を集めているそうですが、中山慶子内親王がこの地蔵尊を篤く信仰して嘉永5年(1852)に後の明治天皇となる皇子を出産されたことでも知られています。
お堂の周りに、絵馬やよだれ掛けがたくさん吊られていました。
その横には、身代わり地蔵堂p6682.jpg
お堂右奥に入っていくと新しそうな大黒様p6681.jpg
後ろにも延命地蔵、水子地蔵、はがため地蔵がいらっしゃいます。p6680.jpg
延命地蔵菩薩は、2つの祠があります。

水子地蔵尊p6678.jpg
はがため地蔵堂
「歯固め」と書き、歯を守り、寿命を伸ばしてもらえるようです。幾つになっても自分の歯で食べたいですから、しっかり拝まないと。p6679.jpg

参道脇に、「人形は救いなり」と書かれた石碑がありました。p6677.jpg
昭和の人形作家で、4代面竹正太郎(めんたけ しょうたろう」)さんという御所人形の技術を確立し、無形文化財保持者に認定された方のもので、作品集の本のタイトルでもあります。本名は岡本正太郎さんといわれます。どうやら、こちらのかわいらしくも品のよい水子地蔵尊の作者のようです。


2010年06月27日

上徳寺 本覚寺

世継地蔵で知られる上徳寺は、五条富小路を下がった西側にあります。浄土宗の寺院で、山号は、塩竈山(えんそうざん)、ご住職も塩竈さんというお名前です。p6691.jpg
このあたりの町名は本塩竈町といい、平安時代に源融の別荘であった河原の院に由来しています。
鴨川から水を引き入れて広大な池庭を造り、塩釜の浦(宮城県)の景観を再現する為に、難波から毎日海水を運ばせ、塩焼きの風情を楽しんだということです。五条富小路を下がったすぐ東側の本覚寺さんの門前に河原院の跡地にあたるということが記されています。p6687.jpgp6686.jpg
さて、上徳寺さんに話を戻します。こちらは、1603年(慶長8年)徳川家康の帰依を得て、家康の息女泰栄院とその生母上徳院(阿茶の局)の菩提を弔うため、伝誉蘇生上人を開山に請じて建立した寺と言われています。p6690.jpgp6689.jpg
その門をくぐり、境内に入ると右手には、江戸時代の冠句の唱導者 堀内雲鼓の句碑があります。

日のめぐみ うれしからずや 夏木立
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碑の背後には柘榴の木が植えられていて、ちょうど花を咲かせていました。延命長寿、吉相息災の柘榴だということです。正面の本堂は明治時代に、永観堂の祖師堂を移築したものです。そして、左奥の地蔵堂に世継地蔵さんがいらっしゃいます。p6685.jpg
長くなったので、続きはまた後日。

2010年06月24日

京都市考古資料館 その3

鎌倉・室町時代
町並みが変わり左京北辺が拡大し、上京と下京に分かれます。応仁の乱もありましたが、商工業が盛んになりました。

桃山時代
秀吉により洛中の町割りが再構成され、聚楽第、御土居などが造られます。伏見には伏見城が築彼、町並みが大きく変化します。茶の湯の隆盛、交易が盛んになりました。p6714.jpgp6713.jpgp6712.jpg
金箔瓦p6711.jpg
金の茶器p6709.jpg
聚楽第p6710.jpg
本能寺の鬼瓦p6708.jpg
興味深かったのが、こちらの路面断層です。古代から現代までの遺跡、遺物が層をなして重なっています。平安京左京町尻小路の路面だそうです。
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塵や埃が積み重なり、焼け野原になったところにまた住居が建てられ、壊され、その土砂が積み重なりと、長年の人々の生活の歴史の上に今の生活があるのですねぇ。


2010年06月23日

京都市考古資料館 その2

飛鳥時代 
国家規模の開発が行われるようになります。写真は大藪遺跡ですが、堰をこしらえ、川を管理、利用しています。p6732.jpg
仏教の伝来により古墳がつくられなくなり、寺院の建立が行われます。北野廃寺、樫原廃寺など、次々と寺院の建立が進みます。写真はそのひとつ、北白川廃寺です。p6731.jpgp6730.jpg

長岡時代
短命であった長岡時代は、都づくりのためおおくの木材が運ばれてきました。p6729.jpg
災いが多かったため、大量の人面墨書土器や人方など、祭祀に使った道具が見つかっています。p6728.jpgp6727.jpg
平安時代
794年、桓武天皇により、長岡京より京都に都が移されました。
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写真は豊楽院正殿跡です。
大極殿や豊楽殿の屋根には緑色の瓦が葺かれ、大棟には鴟尾が、軒下には飾り金具が輝いていました.。
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鴟尾は宮殿の威容を示す象徴でした。
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豊楽殿推定復元模型です。p6723.jpg
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平安京に暮らす糸日との暮らしぶりが、食器、銭、下駄、まな板、櫛類からうかがい知ることができます。p6721.jpgp6720.jpgp6719.jpgp6718.jpg
平安時代も後期には、右京がさびれ、左京が栄えるようになります。白河には六勝寺の一つ、法勝寺の八角九重の塔がそびえ、雄大な庭や池、御堂、寝殿がつくられました。p6717.jpgp6715.jpg


2010年06月21日

京都市考古資料館

少し前に、京都市考古資料館にお邪魔しました。ご近所で入館無料、写真撮影OKという所ですが、月曜定休の為、なかなか入れずにいました。
たまたま、修学旅行生と鉢合わせしたため、解説付きで見学出来ました。
京都というと、平安時代以降ばかり考えてしまいますが、もちろんその前があるわけです。
先土器時代
岡崎の京都市動物園内から、今から2万数千年前の動物の足跡が発見されました。ヤベオオツノシカやヘラシカなどで写真下がその足跡です。p6743.jpg
白樺が自生するかなり寒い気候だったそうです。石器を使い山野に獲物を追う人々がいました。

縄文時代p6742.jpg
北白川の地に約8000年から8500年前の縄文時代早期の竪穴住居跡が見つかっています。住居を造り、土器を作って煮炊きや貯蔵をする生活へと、向上しています。
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弥生時代
農耕が始まり、一定の場所に住まいする生活へと変化してきました。川の中から発見された烏丸綾小路遺跡では多くの土器が見つかっています。貧富の差も出てきます。p6739.jpg

古墳時代
渡来人の技術の伝来により、水田開発が盛んに行われ、各地で豪族が力を持つようになります。p6736.jpg
写真の前方後円墳の天皇ノ杜古墳は、古墳時代前期、樫原一帯を支配した豪族の首長の墓です。p6738.jpg
癒し系?埴輪p6737.jpg
写真は太秦にある蛇塚古墳です。巨石を積み重ねた石室が露出しています。秦氏一族の首長の墓とみられています。p6735.jpgp6734.jpg

2010年06月20日

泥足地蔵尊

田植えのシーズンということで、田植えをなさったお地蔵さんを取り上げてみました。
六角通大宮西入るにある善想寺の正門横のお地蔵様は、泥足地蔵という呼び名で信仰を集めています。p6745.jpg
寺伝によると、比叡山延暦寺開祖、伝教大師最澄上人が一刀三礼して刻まれた霊像で、大師生涯の持念仏だそうです。大師亡き後は滋賀県坂本村にまつられていましたが、安土桃山時代 天正15年(1587年)にこちらの寺にお迎えして山門の横に地蔵堂を造られたとのことです。
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滋賀県坂本村にまつられていた時、田植えの季節に日照りが続き、村の作兵衛という人が三日三夜地蔵尊に祈念すると大雨が降りました。お百姓さんたちは喜び、田植えを終えることが出来ましたが、作兵衛は腹痛のため植え付けを出来ず、心配した百姓さん達が翌朝見に行くと田植えがすでに終わっていました。
不思議に思い地蔵尊にお礼参りにいくと、腰から足にかけて一面泥にまみたお姿で、このお地蔵さんが田植えせられたものと知れ、それから泥足地蔵尊と呼んで、いよいよ信仰が深まったという話です。

善想寺門前にまつられた後も、文化5年の秋 堺町の勘兵衛なるものの妻が難産で苦しみ、このお地蔵様に祈願を籠めたところ、無事出産することができ、地蔵尊に御礼を申し上げるとお顔一面に玉のような汗が流れて出ていたということです。それ以来、汗出し地蔵尊、身代わり地蔵尊ともよばれるようになったそうです。

お姿は、あまりお地蔵さまらしからぬ感じです。40センチぐらいの衣紋の線も美しい小像で、蓮台に座し左足を下方の小蓮座に置く形で、木彫ですが、黒ずんで泥にそまられたかのようです。

この他 こちらの寺には、墓地の入り口右手に平安末期から鎌倉時代の作という石仏があります。阿弥陀如来像で、風化しているため、お顔がはっきりしていませんが近くの古池の辺りに在ったと伝えられています。p6746.jpg
墓地内には、池坊家数代のお墓があります。p6744.jpg

2010年06月16日

本隆寺 額紫陽花

本法寺に続き、ご近所紫陽花めぐりです。
智恵光院今出川上るの本隆寺さんは、門をくぐった左側とその南の方に額紫陽花があります。p6774.jpgp6773.jpgp6772.jpgp6771.jpg
北側の塔頭の前には紫陽花や梔子も。p6770.jpgp6769.jpg

2010年06月15日

本法寺の紫陽花

いよいよ、梅雨入りしたようで、雨模様のこの頃ですね。
本法寺参道の紫陽花も、ちらほらと咲き始めました。p6780.jpg
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2010年06月13日

龍馬伝 外伝 -六角獄舎跡-

神泉苑通六角西入るの武信稲荷神社手前、南側のマンション前に「勤王志士平野国臣外数十名終焉之地」という石碑が建っています。p6784.jpg

ここは、平安京の左獄が転々と移転し宝永5年(1708年)の大火で焼失した後、この地に移された獄舎があった場所です。六角通に面していたので、六角獄舎と呼ばれました。安政の大獄以後、多くの勤王の志士が投獄されました。
お龍の父、楢崎将作も志士を支援した医師として、ここに収監されました。父を気遣い、武信稲荷神社までやってきていたお龍の話はこちらです。http://www.zuzu.bz/ownerblog/2010/01/post_426.html
文久3年(1863年)生野代官所を襲撃して生野の変を起こした平野国臣は、失敗してこの獄に捕われました。p6788.jpgp6787.jpg
翌年、元治元年に起こった蛤御門の変で、京都は火の海と化し六角獄舎にも火の手がせまったので、入獄中の志士30数名は獄庭に引き出され、「脱獄のくわだて」を理由に次々斬罪に処されました。その際、国臣は皇居を遥拝し、
見よや人あらしの庭の紅葉は
   何れひと葉もちらずやはする
と朗詠したそうです。p6785.jpg
そして、ここは近代医学発祥の地でもあります。宝暦4年(1754年)、山脇東洋が京都所司代の許可を得て、死刑囚を使い、日本で初めて人体解剖を行いました。p6786.jpg

2010年06月12日

出世稲荷神社

千本通旧二条下ルにある出世稲荷神社にお参りしました。p6793.jpg
もともとは豊臣秀吉の聚楽第の邸内社として創建されたものです。
豊臣秀吉は幼いころからお稲荷さんを信仰していて、天正15年(1587年)に造営した聚楽第に、この稲荷神を勧請しました。
翌年、後陽成天皇が聚楽第に行幸され、稲荷社に詣でられた折に、「出世稲荷」の号を授けたそうです。p6792.jpg
聚楽第取り壊しの後に、江戸時代 寛文3年(1663年)に現在地に遷座し、公家・大名・一般庶民の尊崇を得ました。江戸中期には最も栄え、鳥居の数も329本あったそうです。

末社に福石大神、寿石大神、禄意思大神という神様が祀られています。ご神体はそれぞれ石で福禄寿を意味しています。p6791.jpg
中央は勝石、右は取り石、左は打ち出し石とも呼ばれていて、賭博相場師の信仰厚い神様であったそうです。
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2010年06月11日

謡曲-鉄輪-

夕顔町を少し下がるとそこには、また謡曲ゆかりの地があります。
堺町通松原下るの、「鉄輪井」です。p6798.jpgp6797.jpg
かつては、火鉢や囲炉裏に置いて、鍋をかける三本足の五徳を、鉄輪と呼んでいました。

下京に住む一人の女が、自分を捨て、新しく妻を迎えた不実を恨んで、貴船神社に日参し、丑の刻詣りをしていると「頭に鉄輪をいただき、その三本の足に火をともし、顔に丹を塗り、赤い着物をきて、怒る心をもてば、たちまち鬼となって願いがかなう」との神託をうけます。
一方、夫の方は悪い夢見が続くので、安部晴明に占ってもらうと、女の恨みで今夜にも命が尽きるといわれ、急ぎ祈祷をうけます。すると、鬼となった女が現れ、夫を責め、後妻の髪をつかんで打ち据えますが、守護する神々に追い立てられ、神通力を失い、退散します。
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この鉄輪の女が、調伏され、ついにこの鉄輪井のあたりで、息絶えたという言い伝えです。そこで、鉄輪とともに霊を弔い「鉄輪塚」を築いたということです。昭和10年、鉄輪井の横に祀られている町内の氏神、命婦稲荷社を再建するときに、鉄輪井も「霊泉」として、板の井戸枠を板石にと改められ、発掘された「鉄輪塚」の石碑を、鉄輪大明神の御神体として小祠をつくって納めたそうです。p6794.jpg
かつては、縁切り井戸として、この井戸水を飲ますと相手との縁が切れるといわれていましたが、地下鉄工事などの影響で、現在は涸れてしまっています。それでも、ペットボトルに水を入れてきて、鉄輪井に供えて祈り、持ち帰る人もいるそうな・・・。

2010年06月10日

祇園白川巽橋 稚魚

6月6日 祇園白川、巽橋で鷺の餌まきが行われました。
いえいえ、そうではありません。
祇園放生会による生物への感謝の意を込めた放生会が行われました。比叡山の大阿梨による奉修の後、巽橋の上から舞妓はんも参加して2000匹の鯉の稚魚が放流される恒例行事です。
行事の模様はリンクしていただいている「ブログ:ノルマ!!」さんのページをご覧下さい。p6801.jpg
行事に参加はしなかったのですが、昼過ぎに通りかかったので、まだそのあたりをうろうろ泳いでいる稚魚を眺めてきました。p6800.jpg
はよ、どっか隠れるとこ見つけときや~。
夕方になったら鷺が来るえ~。p6799.jpg

2010年06月09日

第61回京都薪能 -舎利(金剛流能)-

薪能 最後の演目は金剛流能の「舎利」でした。陽も とっぷりと暮れて薪の暖かさが心地よく感じられました。p6802.jpg
この演目の舞台となるのは、泉涌寺の舎利殿で、2月に訪れ、謡曲の場面を想像して、その気分を満喫したばかりでしたから、イメージも膨らみやすかったです。p7697.jpgp7696.jpg
あらすじは2月の泉涌寺 舎利殿のページをご覧下さい。http://www.zuzu.bz/ownerblog/2010/02/post_461.html
泉涌寺の舎利殿は、開山俊律師が熱願された舎利を、弟子の湛海律師が安貞2年(1228年)に宋朝より将来し遷座した貴重な霊殿です。足疾鬼がこの仏舎利を奪い取って逃げるのですが、この舎利信仰というものが、不信心な私には今一ぴんとこないところなのです。
そもそも仏舎利(ぶっしゃり)とは、入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨及び棺、荼毘祭壇の灰塵を指すもので、お寿司屋さんの「しゃり」の語源でもあるといいます。
日本に仏教が伝わった時には仏像や経典が中心であったようで、その後の日本書紀の記述で舎利を納めた事も記されています。その後、空海が大量の仏舎利を持ち帰って以降、日本において仏舎利信仰が再燃したようです。ふーんとか思っていたのですが、先日「鬼龍院花子の生涯」を久しぶりにテレビドラマバージョンで見て、ちょっとその信仰の理解への糸口をつかんだように感じました。

名セリフ「なめたらいかんぜよ!」と観月ありさが言い放って、警官を払いのけ立ち去るシーンですが、死んだ恋人の遺骨を分けてもらいたいと庭に土下座して頼む松枝に、すげなく追い出そうとする遺族。
啖呵を切ってその場を立ち去るも、どうしても遺骨がほしかった松枝の気持ち、死んだ兄の気持ちを察し、妹が追いかけてきて、分けとった遺骨を差し出す場面。
恋人の遺骨なら、どうしてもほしいという気持ちは理解できますね。恋人の遺骨とお釈迦様の遺骨では、ちょっと違うかもしれませんが、ニュアンスはつかめた様な?

2010年06月08日

平等寺(因幡堂)

下京区烏丸松原上ル東入ル因幡堂町にある因幡堂、正式名は平等寺といいます。
ここは、かつて従四位上中納言橘行平(たちばなのゆきひら)の邸宅でした。p6812.jpg
橘行平が、長徳3年(997年)、因幡国司としての任を終えて京に帰ろうとしていた矢先、重い病にかかってしまいました。ある夜、行平の夢に貴い僧が現れ、「因幡国の賀露津(かろのつ)の浦に貴い浮き木がある。それは仏の国(インド)から衆生を救うために流れついたものである。それを引き上げてみよ」といわれたので、その夢にしたがってみると、それは等身の薬師如来の像でした。p6811.jpg
この薬師像を祀ったところ、行平の病は癒え、京に帰ることができました。行平は薬師像をいずれ京に迎えると約束しましたが、なかなか因幡を訪れる機会がないうちに長い歳月が過ぎました。長保5年(1003年)、行平の屋敷の戸を叩く者がある。戸を開けてみると、それは因幡からはるばる虚空を飛んでやってきた薬師像でした。行平はそぐに高辻烏丸の屋敷に薬師像を祀りました。
これが、こちらの言い伝えとなっています。
祀られている本尊薬師如来像は創建当初のものとされていて、善光寺(長野県)の阿弥陀如来像、清涼寺(京都・嵯峨)の釈迦如来像とともに、日本三如来に数えられています。
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こちらでは、昨日のテーマ「六地蔵」のほか、「因幡堂」「鬼瓦」「仏師」「金津(金津地蔵)」といった狂言の曲目の舞台となっています。このため近頃では年に一度、舞台を設営し、これらの狂言を上演されているそうです。p6808.jpg
「鬼瓦」は、こちらの鬼瓦が、地元に残してきた妻の顔に似ていると言って、懐かしむストーリーですが、現在はこのような鬼瓦はありません。p6810.jpg
ペーパーウエイトとして、販売されてはいるようですね。p6809.jpg

2010年06月07日

第61回京都薪能 -六地蔵(大蔵流狂言)-

田舎者が辻堂を作り、そこに安置する六体の地蔵を作ってもらおうと都に出てきましたが、仏師の所在を知りません。仏師はいないかと大声をあげて探している田舎者を見て、スッパ(詐欺師)がからかってやろうと近づきます。自分が仏師であると名乗り出て、明日には地蔵ができるから、因幡堂で待ち合わせようと取り決めます。p6816.jpg
下京区不明門通松原上ル因幡堂町(烏丸松原上ル東入ル)に、因幡堂はあります。p6815.jpgp6814.jpg
翌日、詐欺師は手下を2人連れてやってきて、三人で六体の地蔵に扮してたぶらかそうとします。どうやって三人で六体になれるのかと思いきや、あちらに三体、また別の場所に三体、置いてあるから、見てまいられよと言って、先回りして地蔵に扮します。p6813.jpg
このあたりに並んでいたかも?
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田舎者は、ちょっと背丈が不揃いだし、印も変だと注文をつけると、詐欺師は、印を結んで念力で直してみせたからまた見てこいと言い、田舎者に地蔵を見せにやりますが、なかなか田舎者の気に入ったものにはなりません。何度か、直しているうちに、詐欺師らが地蔵に化けていることがばれてしまいます。逃げ出す詐欺師たち、追いかける田舎者。 やるまいぞ、やるまいぞ。

印をどう結び直そうかと迷う間もなく田舎者が来てしまい、中途半端な印になってしまいます。文句をつけられて、またあちらでやり直しと、どこまでも騙され続ける田舎者に、しまいには翻弄されているかのように舞台上を右往左往する詐欺師たちが見ものです。

2010年06月06日

第61回京都薪能 -半蔀(観世流半能)-

火入式が行われ、薪に火が点くと、そろそろと空の色も変化し始めます。最も移ろう中で半能「半蔀」が繰り広げられます。今回の薪能には副題が付いていました。
-京の古跡を歩く-というものです。ですので・・・

これは都 紫野雲林院南に 住居する者にて候
さても その古跡を訪ねばやと、思ひ候

「半蔀」というのは、源氏物語の中の夕顔の物語ですから、古跡などあろうはずがないかと思いきや、京の町には、現在も夕顔町という町名が残りおるとは、不思議やな!

ありし教えに従ひて 五条あたりに来て見れば
堺町通高辻下るの民家の前に「源氏伝説 五条辺 夕顔之墳」とい石碑が建っています。このお宅の奥には非公開ですが、墓もあるそうです。あら不思議やな
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(右隣のマンション名は夕顔です。)

半蔀とは、古い建築で、寝殿などの板壁の一種です。上半分を窓のように押し上げるようになっている蔀戸-格子の裏に板を張った雨戸です。舞台に小さな瓢がぶら下がり夕顔の蔓が絡まっている簡素な作り物がそろそろと運ばれてきます。夕顔の女の霊がその半蔀を押し上げて出てきます。
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さらばと思ひ夕顔の 草の半蔀押し上げて 立ち出づる御姿 見るに涙のとどまらず -略-
源氏この宿を見初め給ひし夕つ方 惟光を招き寄せ
あの花折れとのたまへば
白き扇の端いたう焦したりしにこの花を折りて参らする

扇には風雅なちらし書きで一首の歌が書かれていました。

心あてにそれかとぞ見るしらつゆの
   光そへたる夕顔の花

源氏の返し

寄りてこそそれかとも見めたそがれに
   ほのぼの見つる花の夕顔

夕顔の花の取り持った不思議な縁を回想して舞を舞い、
夜の明けぬ前にと また半蔀の内に入りて そのまま夢とぞなりにける

2010年06月01日

龍馬伝 外伝 -お龍と家族の引越し-

龍馬伝では、いよいよお龍さんが登場しましたね。

お龍さんは、青蓮院宮に仕える内・外科医 楢崎将作の長女として生まれました。
天保12年(1841年)に富小路六角付近で誕生し、しばらくして柳馬場通三条下るに移り住んだと云われています。p6843.jpgp6842.jpg
弟妹が4人いたそうですが、良家の娘としてお稽古事などして暮らしていたようです。
文久2年(1862年)父楢崎将作の死去により、生活が一変することとなります。
お龍は「京都の木屋町」もしくは「四条、うら通りの 借家」に移住することとなります。p6841.jpg
木屋町通六角下る東側(高瀬川山崎橋東詰下る)p6840.jpg
正確な場所はわかっていないため、このあたりということですが、この都会館1Fには、「龍馬」というお店があり、京都龍馬会の事務所でもあります。龍馬とお龍に扮したオーナー夫妻のもと、龍馬ファン・龍馬研究者が集っている場所でもあります。
こののち一家は離散し、お龍は単身七条新地の扇岩という店に奉公に出ます。母と妹君江は、洛東大仏南門前(現東山区本瓦町付近)の河原屋五兵衛(五郎兵衛)隠居所の土佐亡命志士の居所に住み込みで働くことになります。p6839.jpg
この5月、東大路通塩小路西入る北側に、新しく石碑が建ちました。三十三間堂南の方広寺の南大門を少し東に入ったところです。p6838.jpg
母の働くこの場所で、龍馬とお龍は、出会いました。
石碑 説明書き p6837.jpg画像の拡大

2010年05月19日

幸神社

幸神社(さいのかみやしろ)は、御所の北東、河原町通今出川上る幸神町にあります。p6921.jpg
ご祭神は、猿田彦神で、天孫降臨の途上、邇邇芸命(ににぎのみこと)が、高天原から葦原中津国(日本)に向かわれたとき、分かれ路に立って道案内をされた神です。またこの社にお祀りされている天鈿女命と結ばれたことから、縁結びの信仰があります。p6920.jpg
この社は平安京の鬼門除けの守り神として、都の東北に建てられていました。都より出雲郷へ行く路を出雲路といい、そこに建つこの社を出雲のさいのかみと呼んでいたようです。
現在地への移転時期については、応仁・文明の頃兵火に罹り、それ以後に当地に遷座したと考えられています。
”おせきさん”と呼ばれている「陽石」が神社の鬼門の方角にあります。この石が平安時代のご神体であるといわれています。p6917.jpg
拝殿の前には鬼門封じの猿をモデルに描かれた絵馬が沢山かけられています。p6919.jpg
方除けと縁結び祈願によいようですね。

2010年05月18日

出町 妙音弁財天

鴨川の出町橋の西詰にある出町の妙音弁財天さんにお参りしました。p6927.jpg
琵琶を弾く女神様で、音楽の神様、あるいは芸能の神様として信仰されています。p6926.jpg
妙音弁財天のご本尊「弁才天画像」は、鎌倉時代に西園寺家のお姫様(西園寺寧子 広義門院)が後伏見天皇に嫁いだ際に、持参した「弁才天画像」だそうです。以降、琵琶の家元であった伏見宮家の守り神として、代々伝えられたものです。コピーが飾られていました。p6925.jpg
本物は相国寺の美術館に保管されていて、春季大祭(4月)とお火焚祭(11月)の時には、出町で御開帳されるようです。
江戸時代の伏見宮家はこの出町の地にあり、、「弁才天画像」もその屋敷内にまつられていましたが、明治に東京に移り、後に出町住民の請願を受けて再び京都に戻され、宮家の跡地に新たにお堂を作ってまつられたそうです。p6922.jpg
弁財天は、「京洛七福神」のお一人でもあり、水の神様でもあります。この地で都の水を守っているという意味合いもあるそうです。

反対側の座敷内には、本日18日の御霊神社のお祭りに使用するための太刀鉾が飾られていました。
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伏見天皇の御寄進によるものです。

奥には、お稲荷さんもありました。p6923.jpg

弁財天像はとても美しいお姿、お顔立ちで、心魅かれました。御開帳の折には、もう一度訪れようと思います。


2010年05月17日

今宮祭

5月5日に、今宮祭の神幸祭(しんこうさい)の行列が、店の前を通りましたが、16日は還幸祭(かんこう)さい)で、お旅所から本社へと、お神輿が還ってゆきました。神幸祭(しんこうさい)の行列にこども神輿や女性が担ぐ玉の輿神輿も加わってさらに、華やかになります。

16日 仕事中だったので、前半の玉の輿神輿や小さな八乙女(やおとめ)さんの写真は、撮れませんでした。p6933.jpg
毎年 牛車が目の前にしばらく止まって、後続の神輿を待ちます。
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神輿は3基です。p6931.jpgp6930.jpg
ラストはオープンカーの宮司さんです。p6929.jpg
そして、三枚の御札が手元に残りました。p6928.jpg


2010年05月13日

喫茶・虎屋菓寮

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虎屋ギャラリーの横には喫茶・虎屋菓寮があります。展覧会のあとには、やはりちょっとお茶したくなります。
傘立ても、洒落てますね。p6953.jpg
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モダンな建造物です。p6952.jpg
寄木を反らせた天井が印象的です。そして、虎屋印p6951.jpg
ガラス張りの向こうは庭に面した席が設けられて、芝生との境に水が張られています。p6956.jpg
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菓子や京都関連の書籍も多く置かれていて、ちょっとお抹茶で一服すると落ち着けます。


2010年05月12日

冨岡鉄斎展 虎屋

一条通烏丸西入るにある虎屋さんのギャラリーで、新装開店1周年記念として、冨岡鉄斎展が5月31日まで開催されています。
入場無料です。p6962.jpg
冨岡鉄斎は以前にも当ブログ内で紹介しましたが、室町通一条下がる薬師町に47歳の時に、転居して以来、終生この地で過ごしました。そして、虎屋さんと深く交流があったことから、その作品を所有されているそうです。
以下はパンフレットからのコピーです。

売茶翁図p6961.jpg
青緑山水図p6960.jpg
太田垣蓮月・冨岡鉄斎合作貼交屏風p6959.jpgp6958.jpg
太田垣蓮月の和歌に鉄斎が絵を添えた短冊、扇面などを屏風に仕立てたものです。
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よなよなに うちこそまされ からころも
   ころも更ゆく 秋しののさと
と書いてあるそうです。鉄斎の軽妙な絵が添えられていて、二人の暮らしぶりが窺えるようです。

2010年05月02日

京都の桜 2010 妙蓮寺 散り桜

今年も長々と桜を追いかけてきましたが、妙蓮寺の散り桜を最後にしたいと思います。
4月30日 早朝
普賢象p7027.jpgp7026.jpg
たんぽぽさん、こんにちわ
そして さようならp7028.jpg
関山p7025.jpgp7024.jpgp7023.jpgp7022.jpg
季節は確実に変わってゆきます。
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2010年05月01日

上御霊神社 一初

4月26日 上御霊神社では、一初が咲き始めていました。
境内外の東の方のみの開花で、西の方や、境内の中はまだ蕾固しといったところでしたから、このゴールデンウイークあたりはちょうどいい感じになっているのでは?と思います。p7035.jpg
仲良く並んでいるのも。「はい、押さないでね~。」p7034.jpg
右の蕾「ねえ、明日あたり、咲く?」
左の蕾「う~ん、考え中。」p7033.jpg
サイケバージョンp7032.jpgp7031.jpg
境内の青かえでp7030.jpg
近くの猿田彦神社もp7029.jpg

2010年04月30日

京都の桜 2010 雨宝院・千本閻魔堂・平野神社

26日 雨宝院 松月桜p7046.jpg
つつじが色鮮やかに開いていました。p7045.jpg
千本閻魔堂 普賢象p7044.jpg
こちらは次々と彫像が増えてきましたね。
童観音だそうです。p7043.jpg
平野神社p7042.jpg
突羽根が開いて大きくなってきました。p7041.jpg
平野妹背の二段咲き、内側も開きました。p7040.jpgp7039.jpg
子供の頃、ピンクと白のティッシュを重ね折りし、真ん中をゴムでくくっておいて、内側から一枚ずつ引き出してお花を作った記憶が思わず蘇りました(^^)この花って、まさにそんな感じと言ってしまっては、花に失礼かしらん?p7038.jpgp7037.jpg
一初があちこちに咲き出していました。p7036.jpg
上御霊神社より、いつも少しこちらの一初の方が早く咲き揃うようですね。


2010年04月29日

京都の桜 2010 妙蓮寺 4月26日

26日、ぼちぼち落花が見られるかと妙蓮寺さんを覗いてみましたが、絵的に美しいほどの落花はまだでした。p7054.jpg
4月24日 ~5月9日まで、京都春季非公開文化財特別公開をおこなっています。
長谷川宗宅(長谷川等伯の次男)による「吉野桜図屏風」などを公開中です。
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堀川通に出ると、新緑がパソコン疲れの眼に染み入るようでした。p7048.jpgp7047.jpg


2010年04月28日

京都の桜 2010 平野神社

19日 平野神社では、山吹も咲き始めていました。p7063.jpg
平野撫子p7062.jpgp7061.jpg
楊貴妃p7060.jpg
おけさp7059.jpgp7058.jpg
一葉p7057.jpg
平野妹背p7056.jpg
虎の尾p7055.jpg

2010年04月27日

京都の桜 2010 妙蓮寺 八重桜

19日 妙蓮寺では、 八重桜が花盛りでした。p7078.jpg
普賢象p7077.jpgp7066.jpg
本堂横もかなり開きました。
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社務所あたりも一杯です。p7070.jpgp7069.jpgp7073.jpg
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これは何の花でしょうか?p7071.jpgp7068.jpg
西南の塔頭前p7064.jpgp7065.jpg


2010年04月26日

京都の桜 2010 白峯神宮・北野神社

4月19日 白峯神宮 左近の桜はすっかり葉桜になっていましたが、黄桜が咲いていました。
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もう一本、背の高い八重桜があります。p7084.jpg

北野神社 社務所前p7082.jpg
昨年、リンクしていただいているなおくんのブログに登場していたこの桜を見るために寄ってみました。p7080.jpgp7083.jpg
八重桜が花盛りのこの時期に涼しげなこの桜はとても印象的でした。
本殿の反対側の八重桜は上の方だけ、花盛りの様子でした。p7079.jpg

2010年04月25日

京都の桜 2010 千本釈迦堂

4月19日の千本釈迦堂です。本殿に向かって両側に八重桜があります。
東側p7096.jpg
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西側p7094.jpgp7093.jpgp7092.jpgp7091.jpg
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普賢象ですね。←?松月じゃないかという話もあり、私としては判断不可状態です。p7089.jpg

2010年04月24日

京都の桜 2010 御苑

4月19日 御苑の八重桜を見に行きました。p7106.jpgp7105.jpgp7104.jpgp7103.jpg
いにしへの 奈良の都の 八重桜
       けふ九重に にほひぬるかな
                   伊勢大輔

訳  昔栄えた平城京に咲いていた八重桜が、きょうはここ(平安京)皇居に美しく咲き誇っていることでございますよ。
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いにしえとけふ(今日)、八重と九重の対比、九重を宮中の意味と、一層盛んに咲くという意味とに兼ねさせるなど、技巧をこらしつつ、なめらかで、壮重な響きのある気品高い歌となっています。

この歌は当時京都では珍しかった八重桜が、奈良から京都の宮中へ献上されるときに歌われたものです。
*九重とは「宮中」の意味で、昔中国で王宮を九重の門で囲ったことから言われていました。

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せっかくなので、派生詩歌を作ってみました。
けっして盗作ではありません。

いにしえの 九重に咲く 八重桜
       きょうの平安 千代に八千代に
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猫が桜を背景に記念撮影中でした。
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正面に廻って、私も撮らせてもらいました。p7098.jpg 

2010年04月23日

京都の桜 2010 妙蓮寺・千本閻魔堂・平野神社

4月17日 夕刻 ちょっと早仕舞いをして、土佐の友人と都の桜を惜しみました。
妙蓮寺
西日に輝く一葉p7109.jpg
普賢象p7108.jpg
本堂横の桜も大分開きました。p7107.jpg

千本閻魔堂
ちょうどイベントが始まる前で、人々が集まり始め、関係者は準備に追われてらっしゃるところだったので、ささっと見てまわりました。
入ってすぐの左手の小さな木が、花を一杯に咲かせていました。p7121.jpg
普賢象p7120.jpgp7119.jpgp7118.jpg
この花が開くと、いよいよ今年の桜も終盤ですね。

平野神社
紅枝垂が少し薄くなって残っていました。p7117.jpg
胡蝶p7116.jpg
白雲p7115.jpgp7114.jpg
平野妹背p7113.jpg
御衣黄p7112.jpg
虎の尾p7111.jpg
ウコン(黄桜)p7110.jpg

2010年04月22日

京都の桜 2010 妙蓮寺 一葉など

4月15日 早朝 妙蓮寺
門前の桜が盛りは過ぎたものの、見頃を保っていました。p7131.jpgp7130.jpg
境内に入って、右手の一葉が花盛りを迎えていました。p7129.jpgp7128.jpg
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大宮通を下がったところの西陣児童公園の八重桜も満開です。p7126.jpgp7125.jpg
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2010年04月21日

京都の桜 2010 本満寺

4月19日 本満寺では、牡丹と共に、八重桜が満開になっていました。p7143.jpgp7142.jpg
p7141.jpgp7140.jpgp7139.jpgp7138.jpg
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ころんころんとした花の塊がなんとも愛らしい様ですが、時間が遅かったせいもあるのか、境内にカメラマンの姿はなく とても静かです。p7135.jpgp7134.jpgp7133.jpgp7132.jpg

2010年04月17日

京都の桜 2010 本隆寺

4月5日 智恵光院今出川上るの本隆寺では、近くの人たちが桜の下でお花見をしてらっしゃいました。
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2010年04月16日

京都の桜 2010 水火天満宮・雨宝院

4月5日 水火天満宮p7210.jpgp7209.jpgp7208.jpg
手前の枝垂も花開いていましたが、花つき加減はあまり芳しくありませんでした。p7207.jpg
日にちが前後しますが、花盛りだった先日の雨宝院を先に載せる事にしました。

15日早朝の雨宝院p7205.jpg
御衣黄p7204.jpgp7203.jpgp7202.jpg
観音桜p7201.jpg
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空を覆いつくしてしまう桜の乱舞がここの特徴で、時として眩暈を覚えてしまいます。p7199.jpgp7194.jpg
松月桜p7198.jpg
歓喜桜p7197.jpgp7196.jpg
里桜p7195.jpg

枝垂桜p7193.jpg
椿に加え、他の春の花も咲き始めました。p7187.jpgp7188.jpg
p7192.jpgp7206.jpgp7191.jpgp7190.jpgp7189.jpg


2010年04月15日

京都の桜 2010 本法寺 他

4月5日 小川通寺之内上ルの本法寺さんの桜も咲きそろっていました。p7211.jpgp7212.jpgp7213.jpgp7214.jpgp7215.jpg
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長谷川等伯さんもお花見(^^)p7220.jpgp7221.jpg
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下の写真には、実は写るはずのものが写っていません。さて何でしょう?p7223.jpg
実は左後方に裏千家さんのビルがあるのですが、ちょっと消してしまいました。裏千家さん、ごめんなさいm(_ _ )m

4月15日 朝の桜状況

雨宝院
やや盛り過ぎやもうすぐ満開など、多少の差はありますが、すべての桜が咲きそろっていました。

妙蓮寺
門前の桜はやや盛りを過ぎたものの、境内では、染井吉野に代わり、八重系が満開や、咲き始めのものなどあり、まだまだ楽しめます。

2010年04月14日

京都の桜 2010 妙顕寺

4月5日 寺之内通 新町西入ルにある妙顕寺は、本堂の修復中ですが、桜はそんなことはお構いなく咲き乱れていました。p7234.jpg
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2010年04月12日

京都の桜 2010 妙蓮寺

4月5日 堀川寺之内西入るの妙蓮寺さんでは、御会式桜に代わり、多くの桜が満開になっていました。
社務所前の枝垂p7247.jpg
本堂周りp7246.jpgp7245.jpgp7244.jpgp7243.jpg
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本堂前東側の桜はまだ蕾でしたから、これから楽しめそうです。

2010年04月11日

京都の桜 2010 龍馬伝外伝?

乙女ねえやんへの手紙p7237.jpg
乙女ねえやん、京の桜は、どだい綺麗で見事ぜよ。
まっこと例えようもないちや!
いっぺん、ねえやんを見せに連れて来ちゃりたいぜよ。
近いうち、叶えちゃおき、待ちよりよ。
                       龍ま

合成と創作です。史実でも、撮影があった訳でもありませんので、念の為。
手紙文創作は、土佐のUFO女史によるものです。

2010年04月10日

京都の桜 2010 御苑・本満寺

4月4日午後 御苑の御車返しの桜(みくるまがえしのさくら)も咲き始めたようなので、ちょっと立ち寄ってみました。
中立売御門から入り、 清所門 の正面にある囲いの中の桜です。
後水尾天皇があまりの美しさに御車を引き返してご覧になったのが由来だといわれています。p7258.jpg
そのすぐ近くで、今まさに満開を向かえ、光を放っていたのがこちらの桜です。p7259.jpg
北に上って、後から咲き出した糸桜群あたりも、賑わっていました。p7260.jpgp7261.jpg
本満寺横の妙見宮の山桜も咲いていました。p7257.jpg
本満寺p7256.jpg
枝垂に代わり、ほかの桜たちが咲き誇っていました。p7255.jpgp7254.jpg
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猫もお花見中?p7251.jpg
縦バージョンもp7250.jpgp7249.jpgp7248.jpg


2010年04月06日

京都の桜 2010 気象台・木屋町・鴨川

3月29日雪が降ってきたのには、びっくりでしたね。鴨川べりでは、桜も凍えてしまったようでした。p7301.jpg
雪化粧の東山p7302.jpg
3月31日 京都気象台の標準木も満開でした。p7300.jpgp7299.jpg
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同日 夜の木屋町p7297.jpg
4月4日 一の舟入 定番写真p7295.jpgp7294.jpg


2010年04月04日

京都の桜 2010 妙覚寺・妙顕寺・本法寺

3月29日朝方
小川通上御霊の東に日蓮宗のお寺が集中していて、どちらも桜が美しくお気に入りのお散歩コースです。
妙覚寺p7320.jpgp7319.jpg
塔頭の善明院の枝垂が4月2日には開花しているのを確認しましたが、花つきが少ない感じです。
妙顕寺p7318.jpg
本堂修復中のため、足元や背景が好ましくないですが、部分的には絵になります。
本法寺p7317.jpgp7316.jpgp7315.jpg
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2010年04月03日

京都の桜 2010 上品蓮台寺・建勲神社・水火天満宮

3月29日昼
千本鞍馬口上るの上品蓮台寺さんの桜状況を見に行きました。一本の紅枝垂が開花していました。p7329.jpg
他の桜は、少し咲き出しています。p7328.jpgp7327.jpg
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船岡山の建勲神社鳥居付近も咲き始めています。p7325.jpg
小雨ちらつく朝の水火天満宮p7324.jpgp7323.jpgp7322.jpg
手前の枝垂が開花しました。p7321.jpg

2010年04月02日

京都の桜 2010 大極殿跡・千本釈迦堂

3月29日昼前
千本丸太町にある平安京の大極殿跡の桜も開き出したようなので、立ち寄りました。p7340.jpg
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平安の都の春はどのようなものだったのでしょう。p7338.jpg
千本釈迦堂p7337.jpg
門前の桜も咲いています。p7336.jpgp7335.jpgp7334.jpgp7333.jpgp7332.jpgp7331.jpg
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2010年04月01日

京都の桜 2010 立本寺・宥清寺・上善寺

3月29日昼前
七本松通中立売下ルの立本寺の枝垂が咲き誇っていました。p7344.jpgp7342.jpg
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一条通七本松西入 北野天神さん前の西陣警察署東の道を下がったところにある宥清寺(ゆうせいじ)さんでは、本堂向かって右側の桜が見頃になっていました。p7348.jpgp7347.jpg
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左側の紅枝垂は、まだ蕾状態ですが、まばらな花つき加減でした。
今出川通を東へ、千本の交差点の桜も開き始めていました。p7350.jpg
交差点北西の上善寺さんをのぞいてみました。p7349.jpg


2010年03月31日

京都の桜 2010 府庁

3月29日午後
府庁の桜が咲いているとの事なので、今年も出掛けてみました。p7360.jpg
中庭の枝垂桜は円山公園の初代枝垂桜の実生木を植えたものだそうで、妖艶な感じは共通しているようです。p7359.jpgp7358.jpg
このゆらゆらとした窓ガラス越しに見る桜が、またノスタルジックでたまりません。写真的にはよくわからないかもしれませんが・・・。
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そして今年話題の「容保(かたもり)桜」が開き始めていました。p7352.jpg
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以下は、3月2日 京都新聞 朝刊より抜粋です。

ヤマザクラとオオシマザクラの両方の性質を持つ珍しい桜が1日までに見つかった。花がやや大ぶりで、表皮がめくれたような独特の木肌が特徴といい、発見者で桜守の佐野藤右衛門さん(81)が、幕末に府庁がある場所に屋敷を構えた京都守護職の松平容保(まつだいらかたもり)にちなみ、「容保桜」と命名した。
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幕末期、会津藩9代目にして最後の藩主となった悲運の松平容保の名を頂いたこの桜は、これからの府政を見守り続ける事となったようです。

29日の桜状況

水火天満宮 奥の枝垂桜は満開 手前の枝垂が開花
妙覚寺 門前の枝垂桜は満開を保っていました。境内、咲き始め 奥の塔頭 善明院の枝垂はまだの様子
本法寺 咲き始め
妙顕寺 咲き始めていますが、本堂修復中にて足場・背景がよくないです。 奥の紅枝垂は蕾
千本釈迦堂 おかめ桜はまだ満開を保っていました。
上品蓮台寺 紅枝垂 一本開花 
建勲神社 鳥居付近は咲き始め
宥清寺 見頃
立本寺 枝垂が満開 他は咲き始め
大極殿跡 そこそこ咲いています
武徳館 見頃
岡崎疎水 咲き始め
若王子神社(桜花苑)見頃 境内咲き始め


2010年03月27日

京都の桜 2010 有栖川旧邸・本満寺・六角堂

3月22日 午後
御所西隣の有栖川旧邸の桜も満開の様子でした。p7396.jpg
御苑を堪能した後、寺町今出川上ルの本満寺に、立ち寄りました。
こちらは、いつもながら3,4人のカメラマンが静かにシャッターを切っていて、独特の雰囲気があります。p7395.jpgp7394.jpgp7393.jpgp7392.jpg
でもって、お次は六角通東洞院西入の六角堂へと移動しました。なんともまあ忙しい事です。
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ここの御幸桜を見るのは初めてです。というか、お寺自体が初めてです。現在の本堂は明治10年の建立ですから新しいのですが、創建は平安遷都以前で、開基は聖徳太子であると云いますから、歴史ある寺です。p7391.jpg
室町時代の大飢饉の際には、この堂の前に救済小屋が建ち、粥が配られたそうです。p7389.jpg
世をいのる 春の始めの法なれば
   君か御幸の あとはありけり
         花山院前内大臣

長徳2年(996年)、花山法皇の六角堂の御幸により西国三十三所観音巡礼が始まったことを受け、花山院前内大臣が、六角堂の桜を見てこの歌を詠んだ事から、「御幸桜」と名付けられたそうです。
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2010年03月26日

京都の桜 2010 御苑 糸桜

3月22日お昼に御苑にやってきました。近衛邸跡界隈は、さすがに大勢の花見客で賑わっています。p7416.jpg
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北西の児童広場を見て廻ったところで、お弁当タイムにしました。今年はこちらで食べようと、御所の西南 竹屋町通室町東入ルの魚常さんにお花見弁当をお願いしておきました。p7400.jpg
お酒は京の都らしく、古都千年と桜色のシャンパン、お雛さんの毛氈を敷いて、雰囲気を出してみました。p7399.jpg
細々と春らしく彩られていて、雅なお弁当です。大好きな麩饅頭も入っていて、大満足でした。
御苑の桜に合わせて、この日着ていた着物はこちらです。p7385.jpg
この時期のお気に入りです。
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児童広場南のT字路?に面したあたりにある螺旋洞桜の状況はというと、蕾固しという感じです。p7397.jpg
この桜は、昨年もタイミングを逃してしまったので、今年こそは咲いているところを見ようと思っているのですが・・・。

2010年03月25日

京都の桜 2010 平野神社 2

22日昼前の平野神社です。
魁が花盛りを迎えていました。p7431.jpgp7430.jpg
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アーモンドも花盛りp7424.jpg
紅枝垂れは蕾がだいぶ赤くなってきました。p7423.jpg
桜苑内も咲き出しています。p7422.jpg
陽光もかなり花開いていますが、大振りな花びらだけに雨にやられたようで、勢いがありません。昨年は本当に名前の通りの花だと感じたのですが。p7421.jpgp7420.jpg
雪山桜p7419.jpg
近頃はこんな葉桜の雰囲気が好きになりました。p7418.jpg
ぼんぼりなども準備が整ったようです。p7417.jpg

2010年03月24日

京都の桜 2010 本隆寺・千本釈迦堂

3月22日 午前 今出川智恵光院上るの本隆寺 東門前の桜が満開でした。p7440.jpg
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境内の中の桜はまだ蕾の様子です。
お隣の雨宝院は門前からは見るかぎりでは、未だ蕾の様子かと。
千本釈迦堂のおかめ桜p7438.jpg
全体的にはもう少しといったところ。p7437.jpg
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部分的には、華やかさを見せてくれていました。p7435.jpg
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一週間後では遅いかもしれませんね。

2010年03月23日

京都の桜 2010 ご近所状況と市内の速報

3月22日 午前 
妙蓮寺さんの御会式桜p7456.jpg
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他はまだ、つぼみ状態

妙覚寺さん門前の枝垂れp7455.jpg
上の方や端の方に蕾が残っていましたが、結構見頃を迎えていました。p7453.jpg
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水火天満宮さんは手前の枝垂れは、未だ蕾。奥の枝垂れは妙覚寺よりは遅いものの、開いていました。p7446.jpg
猫もご機嫌の様子です。p7445.jpg
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まもなく見頃といった感じ
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明日は満開の本隆寺門前と、
見頃にはまだもう少しの千本釈迦堂です。

その後、満開の平野神社の魁
同じく満開の有栖川家旧邸
早咲きが見頃の御苑糸桜
枝垂れが見頃の本満寺
満開はもう少し先になりそうな六角堂
華やぎを感じさせてきた祇園白川
三年坂の明保野亭満開の桜
岡崎細見美術館北の方の空き地に咲き誇る桜
檀家さん用の駐車場の桜が満開の金戒光明寺
その塔頭である西雲院の満開の彼岸桜
真如堂の愛らしい様子を見せ始めた枝垂れと続きます。
すべて22日の状況です。

2010年03月21日

京都の桜 2010 妙覚寺

3月20日夕刻、結構花開いているのではと気になって、妙覚寺さんまで行ってみました。p7460.jpg
今日は急に暖かくなりましたから、一気に開きだしていますね。p7459.jpg
それにしても、風が強くてブレブレです(^^)p7458.jpg
水火天満宮はこれよりまだ遅い開花状況でした。

2010年03月20日

京都の桜 2010 ご近所めぐり

3月15日
水火天満宮の奥の方の枝垂れは、つぼみが少し赤く膨らんできました。p7478.jpgp7477.jpg
上御霊通を東へ、妙覚寺の門前の枝垂れは少し早いぐらいです。p7476.jpg
少し下がって、裏千家さん前では、柳が静かに揺れていました。p7470.jpg
毛虫みたいな花が開いています。p7469.jpg
お向かいの本法寺さんは、つぼみ硬し
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千本釈迦堂のおかめさんの前の阿亀桜p7474.jpg
南門前の桜p7473.jpg
境内の椿が花盛り
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雨が多くて、傷んでしまった花が多いのが残念なところです。
京都気象台の標本木の桜も開花したようです。落ち着かない季節がやってきました。

2010年03月19日

京都の桜 2010 平野神社 魁 他

3月15日 魁が、上の方はそこそこ開花し始めていました。この週末には好い感じになりそうです。たぶん・・・。p7485.jpg
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桃桜は、殆ど終わりp7488.jpg
寒桜は、ぱらぱらと儚げにp7483.jpg
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アーモンドが開花し始めていました。まだこれからといったところです。p7480.jpg
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2010年03月18日

京都の桜 2010 平野神社の河津桜

3月15日 平野神社の河津桜は、まだ華やかな雰囲気を保っていました。p7493.jpg
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2010年03月17日

京都の桜 2010 祇園白川

3月15日 祇園白川の早咲きの桜が一本だけ開花していました。p7497.jpg
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真下では、青鷺がひたすら、餌待ち中です。p7498.jpg
川沿いに、小花が愛らしく咲いていました。p7496.jpg
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2010年03月16日

京都の桜 2010 壇王法林寺

3月15日 三条大橋北の壇王法林寺に立ち寄りました。桃桜はすでに殆ど終わっていましたが、わずかに残った花を撮りました。p7505.jpg
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2010年03月10日

足利義輝

天文5年3月10日(1536年3月31日)第12代将軍・足利義晴の嫡男 足利義輝が、東山南禅寺で 生まれました。天文15年(1546年)、義輝はわずか11歳の時に、父から将軍職を譲られます。
直属の軍隊と領地を持っていなかった室町幕府は、応仁の乱以降、権威は地に落ち、大名家の権力闘争によって、担ぎ上げられたり追放されたりを繰り返し、戦乱と混乱の中のありました。
義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力しました。
輝の字を、毛利輝元・上杉輝虎(謙信)らに与えたりもしています。上杉謙信が上洛して拝謁しているのは、この義輝です。その邸は現在の平安女学院のあたりであったそうです。p7534.jpg
(下立売室町下る)
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永禄8年(1565年)5月19日、松永久秀と三好三人衆が主君三好義継(長慶の養嗣子)とともに足利義栄(第14代)を奉じて謀叛を起こした永禄の変により、この邸で暗殺されています。剣豪であった義輝は足利家秘蔵の太刀を何本も周囲に突き立てておいて、刃こぼれするたびに太刀を取り替え、寄せ手の兵と斬り合ったと云われています。そういえば、そんなシーンをテレビで見た記憶があります。
辞世
五月雨は 露か涙か 不如帰 
   我が名をあげよ 雲の上まで

このとき焼けてしまった二条ノ御所の跡地に信長は義輝の弟・義昭の城を2ヶ月という短期間で造営し、第15代将軍家のご本拠としました。第14代義栄将軍は一度も入京することなく病死しています。
その後、当の信長に追われ、義昭もこの地を後にし、室町幕府は崩壊しました。

2010年03月09日

学習院跡

弘化4年3月9日(グレゴリオ暦1847年4月23日) 京都御所東南の建春門前に公家の学問所が開設されました。学習院の起源です。p7535.jpg
光格天皇が、平安末期以来断絶していた大学寮に代わる朝廷の公式教育機関の復活を構想し、次代の仁孝天皇が引継ぎ、その崩御の翌年、その次の代の孝明天皇により、設立されました。孝明天皇から下賜された勅額により「学習院」(京都学習院)と定められました。p7537.jpg
現在、東京にある学習院は明治天皇が京都以来の由緒を重んじて名付けたものですが、近頃は皇室の学習院離れや、いじめ問題なども発生しているようですね。
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右後ろに写っているのは、サクラマツです。
松の倒木を貫いて、いくつもの根を張るヤマザクラです。まだ元気な頃のマツの木に落ちた、ヤマザクラの種が芽を出して生長したものだそうです。今年ももう直ぐ花開くことでしょう。

2010年03月08日

京都の桜 2010 長徳寺

3月7日 出町柳の長徳寺のおかめ桜の様子を見に行きました。p7544.jpgp7543.jpg
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もう少し暖かい日が続けば、一気に花開きそうな勢いです。


2010年03月04日

御苑の白梅

3月1日(月)、御苑の続き 白梅です。p7559.jpgp7558.jpg
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2010年03月02日

御苑の紅梅

3月1日(月)、またあいにくの天気で残念な感じでしたが、御苑の梅を観に出掛けました。梅はすでに殆ど終わりかけでした。p7565.jpgp7564.jpgp7563.jpg
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白梅は、また後日。

2010年02月28日

織部の日

2月28日は岐阜県土岐市により、織部の日と制定されています。

慶長4年(1599)2月28日伏見の古田織部邸において、茶会が催され、その際に「へうげ」た茶碗が用いられたという事が、博多の豪商・神屋(谷)宗湛の茶会記『宗湛日記』に記載されていた事に由来しているようです。

この日の「宗湛日誌」に、「初出のセト茶碗、ヒツミ候也、ヘウケモノ也」と記されているそうです。
「ひょうげ(瓢化)た」というのは、「おどけた」「ゆがんだ」といった意味です。この焼き物が、後に織部焼と言われるようになったものです。

古田織部さんの墓などは、以前に紹介しましたが、ご近所にまだ、織部さんがらみのネタがありました。
墓のある興聖寺(堀川上御霊上る) の向かい、水火天満宮のお隣の大應寺 (だいおうじ)境内に織部稲荷社がありました。
お寺の鎮守社で、古田織部正が伏見稲荷から勧請(かんじょう)したものだそうです。開運福徳の神として、また織物技術上達の神として土地柄から西陣織物業者の方々の信仰を集めているそうです。2月・8月・11月には織部稲荷奉賛会によって祭祀が行なわれています。
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北野の天神さんの三光門手前東側の植え込みの中には、織部形石灯籠というものがあります。
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古田織部の墓に立つ灯籠に似ることから 『 織部形灯籠 』 と呼ばれ、茶人が好んだ石灯籠の形式のひとつとされています。下部に立像を浮彫にしています。これを地蔵信仰に似せた隠切支丹の尊像と見て、マリア灯籠とか切支丹灯籠とも言われるようです。
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また、和菓子に織部饅頭というものがあります。薯蕷饅頭の上に、織部釉の緑を表し「井桁」の焼き印を入れたもので、茶会などで頂いた事があります。p7571.jpg
御流儀によっては、炉開きのお席で「織部」の物を、何か一品使われたりするしきたりがあるそうで、お菓子で織部を表現することもあるようです。


2010年02月27日

新撰組の日

文久3年(1863年)2月27日は、新撰組の前身である「浪士組」が結成された事で、今日は「新撰組の日」だそうです。
京都守護職・松平容保公が、浪士組を会津藩御預りとする建白書提出した日です。
8月18日に、武家伝奏より正式に ”新選組”と命名され、市中取締の命を受けました。

壬生界隈は、新撰組誕生の町として、有名ですが、その後、壬生が手狭になったことなどから、慶応元年(1865)、西本願寺に屯所を移しています。
さらに慶応3年(1867)、防備が弱いとの理由で、不動堂村に移転しました。新撰組の振る舞いに困り果てていた寺が、多額の移転費用を負担した新しい屯所は敷地1万平方メートルのりっぱな建物でした。新撰組の全員が幕臣となった5日後のことでした。p7580.jpg
西洞院通塩小路 ホテル瑞鳳閣の前に新しく石碑が建てられています。
しかし、同年12月16日、伏見奉行所の警備のため、わずか半年で、この地を後にします。p7579.jpg
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以前、リーガロイヤルホテル京都前の油小路通塩小路の場所にも、近藤勇の歌碑と共に石碑が建てられましたが、正確な位置が特定されていないようで、素人の私には、よくわからないところです。

2010年02月26日

悲田院

悲田院(ひでんいん)は、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設の事で、聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てられたのが日本での最初とされています。

養老7年(723)には、奈良・興福寺内に施薬院と共に設けられました。平安京にも、病人や孤児の収容所として、東西2カ所の悲田院が建てられました。
東は鴨川の西畔 三条河原、西は上京区扇町児童公園付近にありました。p7581.jpg
壇林皇后の建てた西の悲田院は、応仁の乱で廃墟となり、その址に天正14年(1586)、虚応和尚が由緒あるこの場所を惜しんで建てたのが大応寺です。大応寺は臨済宗相国寺派に属しています。
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正保2年(1645)に悲田院は、皇室と泉涌寺との関係から、泉涌寺(東山区)に移りました。p7590.jpg
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境内からは、市内を一望できます。
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2010年02月25日

北野の梅 2010

延喜3年2月25日(903年3月26日)、菅原 道真が大宰府で、亡くなりました。北野の天神さんでは、梅花祭が華やかに催されていることでしょう。急に暖かくなり、梅も一気に花開くのではないでしょうか。
写真は、2月16日の天神さんの様子です。p7611.jpg
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2010年02月23日

水火天満宮の梅

堀川上御霊上るの水火天満宮さんの梅も見頃を迎えています。
2月15日の写真なので、ちょっと古いですが。p7624.jpgp7623.jpg
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2010年02月22日

後鳥羽天皇

延応元年2月22日(1239年3月28日)、平安末期から鎌倉初期の第82代天皇 後鳥羽天皇(ごとばてんのうが亡くなりました。
平氏とともに西走した安徳天皇の代わりに、後白河法皇が4歳の尊成親王を即位させ、後鳥羽天皇となりました。

後鳥羽天皇の御所はいくつもありましたが、上京区五辻通千本東入北側にも、五辻殿の石碑が建っています。上皇になった後に住まいされています。p7627.jpg
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承久3年(1221年)、後鳥羽上皇は、時の執権北条義時追討の院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こしましたが、幕府の大軍に完敗。
後鳥羽上皇は隠岐島に配流されました。流される直前に出家して法皇となった後鳥羽上皇は、四条天皇の代に、配所にて崩御されました。

歌人として有名で、歌集として『後鳥羽院御集』や『遠島百首』を著しています。また、和歌所を設けたり、藤原定家に『新古今和歌集』の勅撰を命じています。
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菊を好み、自らの刀に印として菊の紋を入れたそうで、その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに十六八重表菊が天皇・皇室の「紋」として定着していったということです。p7625.jpg

2010年02月21日

和気 清麻呂と護王神社

延暦18年2月21日(799年4月4日)、奈良時代末期から平安時代初期の官僚 和気 清麻呂(わけ の きよまろ)が亡くなりました。p7654.jpg
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御所蛤御門前の護王神社(ごおうじんじゃ)は、和気清麻呂と姉の和気広虫を主祭神とし、藤原百川と路豊永を配祀しています。p7655.jpgp7653.jpg
嘉永4年(1851年)孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて正一位と「護王大明神」の神号を贈りました。明治7年(1874年)、神護寺の境内にあった和気清麻呂を祀った廟は護王神社と改称され別格官幣社に列し、明治19年(1886年)、明治天皇の勅命により、神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座しました。p7652.jpgp7651.jpgp7650.jpgp7649.jpg
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めでたし めでたし

2010年02月20日

惟喬親王

寛平9年2月20日(897年3月30日)、平安時代前期 文徳天皇の第一皇子である惟喬親王(これたかしんのう)が亡くなりました。
文徳天皇が、皇太子として第四皇子である惟仁親王(後の清和天皇)を立てたため、惟喬親王は、第一皇子でありながら、皇位を継承できませんでした。これは、惟喬親王の母が紀氏の出身で後ろ盾が弱く、一方の惟仁親王の母が権勢高い藤原良房の娘 藤原明子であったためです。天皇は良房をはばかられて、生後9ケ月の惟仁(これひと)親王を皇太子としました。この方がのちの第56代清和天皇です。

惟喬親王は、太宰帥、弾正尹(だんじょうのかみ)、常陸守、上野守、など諸国の国主を歴任した後、都から離れた辺境の地を転々と隠棲し、28才の時、剃髪して出家し、小野の里に幽居されました。小野の宮と呼ばれていた親王は、54才で亡くなりました。京都雲林院の傍らにしばらく住まわれたこともあるようです。

江州・小椋庄へ移られ、轆轤(ろくろ)を開発して、緒山の木地屋に使用を教えられたという話もあり、轆轤の始祖として崇拝されています。

在原業平が、親王と親しく交わっていた事が伊勢物語に記されています。惟喬親王の母と業平の義父紀有常は兄妹の関係である上に、不遇な境遇に相通じるところがあったのかもしれません。
業平は惟喬親王のお供をして、親王の水無瀬の別邸から、川向こうの交野の渚の院に至り、今や盛りと咲き匂う見事な桜の木の下で、下記の歌を詠んでいます。
世の中に たえて桜のなかりせば 
    春の心は  のどけからまし

冬の日に親王を訪ねた折に、業平の詠んだ歌もあります。
忘れては 夢かとぞ思う 思ひきや
   雪ふみわけて  君をみんとは

親王は
夢かとも 何か思はむ 浮世をば 
   そむかざりけむ 程ぞくやしき

と返歌されています。

この親王をお祀りしているのが、北区紫野雲林院町(北大路通り猪熊下ル)にある玄武神社です。 p7659.jpgp7658.jpgp7657.jpg

2010年02月18日

後堀河天皇と御苑の梅

建暦2年2月18日(1212年3月22日) 高倉天皇の第二皇子の守貞(もりさだ)親王(後高倉院)の第三皇子 茂仁(とよひと)後の後堀河天皇が生まれました。
承久の変で後鳥羽上皇らが流刑された後、10才で鎌倉幕府による推挙で天皇となりました。父親の守貞親王(行助)が後高倉院として、院政を行いました。貞永元年(1232年)、院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位しましたが、元来、病弱であったためか、2年足らずの天福2年(1234年)に23才で崩御されました。泉涌寺を御願寺とされ、崩御後、山内の観音寺陵に葬送されました。p7665.jpg
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孝明天皇の御陵へ向かう途中の山道を左に上ったところに御陵があります。p7677.jpgp7663.jpg
在位中の皇居は現在の京都御所です。御苑の梅が少し咲き始めています。p7672.jpgp7671.jpg
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あいにく、やっと雨が上ったばかりの曇り空でしたが・・・。
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2010年02月15日

船岡山 冬の朝

2月7日p7704.jpg

2010年02月06日

抹茶の日

2月6日は抹茶の日です。

愛知県の西尾市茶業振興協議会が西尾茶創業120年を記念して制定したそうです。
茶道で釜をかけて湯をわかす道具「風炉」から「ふ(2)ろ(6)」の語呂合せとなっているようです。

というわけで、1月に廻った京の冬の旅のスタンプラリーの接待所に立ち寄って、お茶を呼ばれた模様です。昨年同様、俵屋吉富さんにおじゃましました。p7720.jpg
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雨天の平日とあって、静かな室内です。p7725.jpg
実は先週立ち寄ろうとして、デイサービスのお年寄り団体さんに先を越されてしまい、日延べにした甲斐があって、貸切です。p7723.jpg
雲龍とお抹茶を戴きました。p7721.jpg
店先へと続く通路横は中庭になっていて、和みの空間です。p7722.jpg

2010年02月05日

西八条殿 若一神社

前日よりのつづき
出家後の清盛は、福原に在住することが多く、この西八条の邸宅には主に妻 時子が住まいする事となりました。清盛が没した2,3日後、蓬壺より出火、焼失。再興されましたが、都落ち(1183年)する際に、平氏自らが放った火で豪壮な邸宅は完全に焼失しました。

平清盛が、蓬(よもぎ)を愛し、壺庭に植えていたことから「蓬壺」とも称されていたそうです。

若一神社内には、銘水の若一神社神供水が湧き出ています。p7729.jpg

平清盛公熊野詣での折、御神託により仁安元年(1166年)11月10日、西八条殿内に隠れたる御神体を世に出し、社殿を建立し奉斎して以来、日供祭(にっくさい=毎朝行われる崇敬者の安寧を祈るお祭り)にて御神前に供えられてきた御神水だそうです。古くから銘水として知られる地下水で、開運出世の水として、新生児誕生に際しての産湯としても有名だそうです。

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樹齢800年を超す大樹が通沿いに植えられています。平清盛が太政大臣に任ぜられたのに感謝して手植えしたものだそうです。若一神社の御神木となっています。大樹の下には楠社(くすやしろ)が建てられ大楠を祀っています。
昭和八年(1933)の西大路通の開通整備の際に、敷地が大きく削られ、クスノキの根も一部切断されましたが、この御神木自体の撤去作業は清盛の祟りがあるとして作業が中止されたようです。西大路通が曲がっているのはこのためです。

2010年02月04日

平清盛 西八条殿

治承5年閏2月4日(1181年3月20日)平清盛が熱病で亡くなりました。九条河原口の盛国の家で亡くなったそうです。
清盛の邸というと、東の六波羅ですが、西の交通の要衝として仁安元年(1166年)西八条にも別邸を造営しました。p7731.jpg
下京区七条御所ノ内本町にある若一神社(にゃくいちじんじゃ)がその跡とされています。p7732.jpg
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西八条殿の鎮守社として造り、開運出世を祈ったところ、太政大臣に任ぜられたことから、開運出世の神と尊崇されるようになったということです。
現在、西八条第は、梅小路公園とJR東海道線と山陰線の線路敷地にあったといわれているので、ちょっとずれてはいるのですが。

白拍子の名手 祇王を寵愛し、この邸に抱えていましたが、あるとき、都で人気の高い白拍子の仏御前が「平家太政の入道殿へ召されぬ事こそ本意なけれ」と言って西八条を訪れました。仏御前と会おうとしない清盛を、祇王が取り成し、仏御前は今様を歌い舞を舞うことになりました。節回しも上手で、容姿も美しい仏御前を気に入った清盛は、祇王を追い出し、仏御前を邸に召しおく事としました。
祇王は障子に

 萌え出づるも枯るも同じ野辺の草
     いずれか秋にあはではつべき
(芽生えたばかりの草も枯れようとする草も、野辺の草は結局みな同じように、秋になると枯れ果ててしまうのです。)
との歌を書きつけて住みなれた西八条の邸を退いたのでした。神社内に、その歌碑が建てられていました。p7727.jpgp7726.jpg
その後、傷心の祇王のところへ、清盛から仏御前の前で歌い舞うようにとの使いがよこされ、邸に出向き舞を舞います。邸より帰った祗王は「かくて都にあるならば、又うき目を見むづらん、今は都を外に出でん」として、妹 祗女、母 刀自と共に尼となり、嵯峨の山里 今の祇王寺の地に世を捨て、仏門に入りました。
母子三人念仏している所へ、尼となった仏御前が訪ねてきます。 祗王の不幸を思うにつれ、わが身の先行きもどうなるものやらと無常を感じ、邸を出てきたというものです。
このあたりが、この一連の物語の舞台であるそうです。

唯春の夜の夢のごとし

明日につづく

2010年02月03日

本阿弥 光悦

寛永14年2月3日(1637年2月27日)本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)が亡くなりました。江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家です。

元和元年(1615年)、徳川家康から鷹ヶ峯の地を拝領し、芸術村(光悦村)を築きました。光悦は、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住し、創作三昧の日々を送り、その地で亡くなっています。

大坂夏の陣のおりに、豊臣方に内通したという罪状で古田織部が切腹を命じられたあとです。
光悦は、二条城において家康から板倉勝重を通じて、「近江・丹波抔より京都への道に、用心あしく辻切追はぎをもする所」を拝領しました。家康の真意がどのようなところにあったのでしょう。洛中所払いなのでしょうか?僻地とはいえ、えらく広大な土地ですが。

ではそれまでは、光悦はどこで暮らしていたのかと調べてみると、結構近所でした。
上京区油小路通五辻下る東側に石碑が建てられていました。 白峯神宮の東側の通を少し上ったところです。p7734.jpgp7733.jpg

2010年02月02日

蝋梅 雨ニモマケズ

2月1日 月曜 (雨)

引接山 極楽院 大蓮寺
(いんじょうざんごくらくいんだいれんじ)浄土宗
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 左京区東山二条西入1筋目下ルにて
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雨が降ろうが風が吹こうが、洛中洛外を走って走って走り通した大蓮寺の走り坊さんp7735.jpg
交通の便がなかった昔、歩いてお寺に訪れることが困難だった妊婦さんのために、走っていって、安産のお守りを届けたという通称「大蓮寺の走り坊さん」です。


雨ニモマケズ
風ニモマケズ
東ニ蝋梅が見頃との情報アレバ
行ッテ写真を撮り
西ニ新たな石碑が建ったとの情報アレバ
行ッテソノ所在を確かめ
南ニ特別拝観の寺アレバ行ッテこれを鑑賞し
北ニスタンプラリー達成接待所アレバ
行って茶をよばれ
切ない映画ノトキハ ナミダヲ ナガシ
サムサノ冬ハ オロオロ アルキ
ミンナニ 物好きブロガート ヨバレ
ホメラレモセズ
クニモ サレズ
サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ・・・??

2010年02月01日

節分 おばけ

「おばけ」とは、節分の日に行う仮装(コスプレ)で、古くは江戸時代までさかのぼることができる、京都の伝統行事のひとつです。
最近は花街の芸舞妓によるおばけが有名ですが、高度経済成長期以前の京の町では、老若男女を問わず盛んに行われていました。昨今ブームのコスプレとは違い、この「おばけ」は節分の夜に出没する鬼の目をあざむいて、「福」を得るために非日常の格好をする、陰陽道的除災招福のまじないとして行われてきました。

京都精華大学主催の精華おばけプロジェクト
節分『おばけ』パレードが京都三条商店街(堀川~千本)にて行われるようです。

2010年02月02日(火) 13:00~18:00 おばけカフェ
      02月03日(水) 14:00~16:30 おばけパレード
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我が母校の学生の乗りそうなプロジェクトです
(^^)

仕事中なので行けないのが残念ですが、ご興味のある方は是非お出かけください。

2010年01月29日

光格天皇御胞塚

清荒神 護浄院には、光格天皇の御胞塚(おんえなづか)がありました。p7750.jpg
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胞衣とは、胎児を包んでいた膜や胎盤のことで、後産として体外に排出されるものですが、これを、かわらけに入れ、のし結びや小刀を副えて吉方の土中に納める習俗があったそうです。健やかなご成育を祈願するものだそうです。

そういえば、西院の春日神社にも、仁孝天皇御胞衣塚があったようです。

光格天皇(1771~1840)は、東山天皇の孫 閑院宮典仁親王の第六皇子です。明治天皇の3代前です。後桃園天皇の養子となって、第119代の天皇となりました。天皇は、天明の大火で焼失した京都御所を平安京大内裏の古制に則って再建し、朝儀復興を図るなど朝廷の権威の復興に努めました。実父親王に太上天皇号を贈ろうとした事件(尊号一件)で江戸の幕府との関係に緊張をもたらしています。

2010年01月28日

護浄院 初荒神

毎月28日は三宝荒神の縁日で、一年で最初の縁日である1月28日は「初荒神」と呼ばれています。荒神は仏・法・僧の三宝の守護神とされるために三宝荒神とも呼ばれています。三宝荒神はまた、屋敷神、あるいは地神(じがみ)と考えられ、近世になると、カマドの神とされ、台所の火の用心の神さんとして祀られています。p7750.jpg
河原町通荒神口を西へ50mほど入った鴨沂高校の東側にある護浄院は、きよしこうじんさん呼ばれる荒神さんです。
宝亀2年(771年)に光仁天皇の子の開成皇子(桓武天皇の異母兄)が仏門に帰依し、摂津国勝尾山(現在の大阪府箕面市)の草庵にて修行中、現れた荒神に感得され、自らその荒神を模刻し三宝荒神尊として一宇を建て祀ったのが始まりとされています。
後小松天皇の勅命により明徳元年(1390年)に乗厳律師が下京の醒ヶ井高辻付近に移し、その後、慶長5年(1600年)に現在の地へ移転しています。p7749.jpg
火の用心の御札は、以前は愛宕さんのを、知り合いに頼んで買ってきてもらっていたのですが、引っ越した事から、このところ台所に無くて、どうもよろしくないと感じていたものですから、これからはこちらのを貼っておこうかと、求める事にしました。p7748.jpg
火の用心 御札 小 300円なり。


 

2010年01月21日

京の冬の旅 2010 東寺 五重塔 続編

五重塔に合わせて、通常公開の金堂・講堂の拝観をしました。
金堂p7784.jpg
金堂は、東寺一山の本堂で、延暦15年(796年)に創建されたと伝えられています。平安京遷都とともに、朝廷の造営で最初に工事が始められています。空海が東寺を賜ったときには、すでにあったことになります。現存の建物は慶長8年(1603年)、豊臣秀頼の寄進によって再建したもので、本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されています。本尊の台座の周囲には、十二神将像が配されています。東寺とともに西寺も創建されたのですから、西寺には、どんな仏像が安置されていたのでしょう?
講堂p7783.jpg
現在の講堂は室町時代 延徳3年(1491年)に再建された建物です。中に入るとちょっとびっくりするほどの仏像の数です。大日如来を中心に二十一尊の仏様がいらっしゃいます。立体曼荼羅というそうで、弘法大師の密教の教えを表しているそうです。
(エンドレスについてしまう床の靴跡を、これまたエンドレスに拭き続ける清掃の人が、やたら気になってしまいましたが・・・。)

2010年01月20日

京の冬の旅 2010 東寺 五重塔

823年(弘仁14)1月19日、嵯峨天皇は 官寺だった東寺を、空海(弘法大師)に下賜されました。
空海50歳の時です。空海は東寺を真言密教の根本道場とし、講堂、五重塔の工事に着手しました。

世界遺産でもあり、幕末期 鳥羽伏見の戦い時に官軍の本営が置かれた事などから、今年も冬の旅の中に五重塔と、小子房が入っています。p7785.jpg
五重塔は過去に4回も焼失していて、現在の塔は5代目です。
1644年に徳川家光の寄進で再建され、現在に至っている総高55mの塔です。
大日如来に見立てた心柱を守るように4体の如来像などを安置した初層内部の拝観となります。
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ピラサンカの実が、重そうに木一杯になっていました。

身は高野 心は東寺に おさめをく  
      大師の誓い 新たなり

明日に続きます。

2010年01月16日

閻魔賽日

初閻魔 (閻魔賽日、十王詣)
正月16日をいい、獄の釜の蓋が開いて鬼も亡者も休むとされる日とされています。
正月16日と7月16日の閻魔賽日(えんまさいにち)に、寺院で十王図や地獄相変図を拝んだり、閻魔堂に参詣したりするそうです。
16日は仕事があるので、自分の休日に千本えんま堂に、拝みに行きました。
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しかし年2回のお休みでは、閻魔さんもさぞやお疲れではないでしょうか?p7801.jpg
(えんま堂狂言より)
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昨今のご時世に合わせて、週休2日にされてはどうかしらん?

2010年01月06日

武信稲荷神社と龍馬

今年の初詣は、中京区三条大宮西二筋目下るの武信稲荷神社にしました。p7831.jpgp7830.jpg
平安時代の初期、清和天皇貞観元年(859年)2月、西三条大臣といわれた右大臣左近衛大将藤原良相(ふじわらのよしすけ)公によって創祀された御社です。
後に、藤原武信という方がこのお社を厚く信仰されたことにより、武信稲荷と称されています。

境内の社に宮姫社(弁財天)があり、これは 御神木の榎に宿る弁財天です。
樹齢850年で、京都市の天然記念物に指定されています。p7829.jpg
平重盛が安芸の宮島厳島神社から苗木を移し植えたと伝えられ、旧京都最大最古の霊樹です。
榎は『えんの木』とよばれ縁結びの神としても知られています。

神社の南には江戸時代、幕府直轄の六角獄舎という牢獄があり幕末、勤王の志士が多数収容されていました。その中に 坂本龍馬の妻おりょうの父である楢崎将作(ならさきしょうさく)が勤王家の医師であったため捕らえられていた。
おりょうは父の身を案じ龍馬と共に何度か訪れましたが、当時女性が牢獄へ面会できることもなく龍馬自身も狙われる身であり面会はかなわない。その為、神社の大木の上から様子を探ったと言われています。

命を狙われていた龍馬は身を隠していて、おりょうとは離れ離れになっていたので、自分がここへ来た証にこの木に龍の字を彫り、それを見たおりょうが龍馬が京にいることを知ったそうです。p7828.jpg
今はその跡はありませんが、写真真ん中あたりだったそうです。p7826.jpgp7827.jpg
この葉っぱの縁結びのお守りが販売されています。p7832.jpgp7833.jpg
龍馬グッズも三条商店街の方によって販売されていました。龍馬の扮装の劇団員の人達が、寒空の中、待機されていて、今年の人気スポットになりそうです。


2010年01月05日

報恩寺 鳴虎

上京区小川通寺之内下ル射場町にある報恩寺 (ほうおんじ)では、寅年の正月三が日だけ、寺宝の大軸物「鳴虎図」が公開されました。p7837.jpgp7836.jpg
後柏原天皇より下賜されたその軸は、中国の仁智殿四明陶佾(とういつ)が宣により描いたもので、虎が谷川の水を飲んでいる絵柄です。これを、豊臣秀吉がゆっくり鑑賞したいと聚楽第に持ち帰ったところ、夜になって虎が吠えて眠れず、《これは鳴き虎じゃ、すぐに寺に返せ》と翌朝すぐに寺に返したという事です。p7835.jpgp7834.jpg
虎の毛が一本一本立体的に描かれていて、右手の方から観ると、頭が大きく、お尻が小さく観え、左手から観ると、お尻が大きくなって観えます。
顔は結構かわいい感じです。京都新聞などにも出ていたようで、大勢の人が鑑賞にいらしてました。

2009年12月27日

平 兼盛

正暦元年12月28日(991年1月21日)平安時代中期の歌人である、平 兼盛(たいら の かねもり)が亡くなりました。
「天徳内裏歌合」において、壬生忠見と対決したことで有名です。
しのぶれど 色にいでにけり わが恋は 
     物や思ふと 人のとふまで
邸は六条北高倉東と伝えられています。高倉会館と高倉幼稚園のあたりです。p7851.jpg

2009年12月25日

与謝 蕪村

江戸時代中期の日本の俳人、画家である与謝 蕪村は、 天明3年12月25日(1784年1月17日)に亡くなりました。
下京区仏光寺通烏丸西入ルに終の居宅がありました。p7856.jpg
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辞世の句

しら梅に 明(あく)る夜ばかりと なりにけり

墓所は左京区一乗寺の金福寺(こんぷくじ)にあります。p7849.jpgp7850.jpg
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2009年12月23日

小野篁

仁寿2年12月22日(853年2月3日)小野篁が亡くなりました。堀川鞍馬口上るに紫式部と並んで、その墓があります。p7866.jpgp7865.jpgp7864.jpg


2009年12月19日

富岡 鉄斎

天保7年12月19日(1837年1月25日)富岡猷輔(とみおかゆうすけ)  後の鉄斎(てっさい)は、生まれました。
明治・大正期の日本の文人画家であり、儒学者です。
富岡の家は、代々、三条衣棚で、曹洞宗御用達の法衣商を営む老舗でした。

鉄斎15歳の頃、太田垣蓮月の侍童として蓮月の身辺の世話などをしながら学問に励んでいました。
安政の大獄で、梅田雲浜などが投獄された際には蓮月は、鉄斎の身を心配して、長崎に留学することを助言してぃます。

47歳の時、上京区室町通一条下る東側に移り住み、画業に専念しています。p7871.jpgp7870.jpg

2009年12月17日

東山天皇と忠臣蔵 法住寺

宝永6年12月17日(1710年1月16日)東山天皇(ひがしやまてんのう)が天然痘にかかって34歳で崩御されました。江戸時代の第113代天皇で、長く廃絶していた大嘗祭の儀式を復活させた方です。

1701年3月、東山天皇が江戸へ派遣した勅使の接待をめぐって、あの忠臣蔵の松の廊下の刃傷事件が起こっています。
近衛基熙の日記に、近衛が東山天皇にこの凶事について報告をしたとき、天皇はお喜びになられた旨が記されています。天皇は、吉良義央を好ましく感じていなかったようです。

帰洛した勅使両名及び院使・清閑寺熈定の3人を、事件後将軍へ何の取り成しもせずに傍観し、浅野長矩及び浅野家を見殺しにしたのはけしからんとして参内禁止の処分を行っています。

12月14日、東山七条の法住寺でも、義士の法要が行われました。
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こちらの慈覚大師の建立と伝わる身代不動明王に、山科に閑居していた大石内蔵助(良雄)が仇討ち祈願をしたといわれています。同志との連絡・会合の場所でもあったそうです。その縁から四十七士の小像も安置されていて、毎年、この日に法要が営まれています。p7873.jpg

2009年12月15日

小野篁

承和5年(838年)12月15日 遣唐使の副使を断り、遣唐使制度そのものを批判したことから、小野篁(たかむら)は、嵯峨天皇の怒りに触れて隠岐へ流罪になりました。承和7年(840年)には帰京を許され、従三位にまで叙せられました。
わたのはら 八十島かけて こぎ出ぬと 
      人には告げよ あまの釣船
これは島へ渡る際の歌です。

初代・遣唐使の小野妹子の子孫で、小野道風・小野小町のご先祖でもありますが、冥府に通い、閻魔王庁で裁判を手伝っていた人物としても有名です。
井戸を通って地獄に赴いていたのですが、その入り口は東山の六道珍皇寺に今もあります。出口の井戸はというと、嵯峨の福生寺にあったのですが、現在は井戸も寺も存在しません。嵯峨釈迦堂の東のあたりは六道町といい、かつて福生寺のあったあたりです。

地獄で、苦しむ亡者のために罪を受けているという地蔵尊に出会い、現世に戻り福生寺を建立して地蔵尊を祀ったということで、嵯峨釈迦堂藤ノ木町の薬師寺にその地蔵尊は伝えられています。
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閻魔大王が、三熱の苦しみにあえいでいて、菩薩戒を受けたいと望んだ折には、満慶上人を案内し、上人の菩薩戒で閻魔大王の苦しみを除いたという話もあります。これは、寺町三条上るの矢田寺に伝わる話です。p7879.jpgp7878.jpgp7877.jpgp7876.jpg
布製のかわいいお地蔵さまのお守りがなんともいい感じです。p7875.jpg

2009年12月08日

右近の橘

『日本紀略』によると、京都御所の紫宸殿に天徳3年(959年)12月7日あらたに橘樹1本が植えられたそうです。
南階下西側に植えられ、朝儀のとき、右近衛府の武官の列する側にあたることから、右近の橘と呼ばれるようになったようです。p7953.jpg
写真は、御所ではなく、白峯神社のものです。
反対側は、左近の桜ですが、最初は梅だったそうですね。p7952.jpg
橘の実は、不老長寿の妙薬という言い伝えがありますが、かわいらしい実が鈴生りになっている様は、お雛さんで子供の頃からなじみ深いものです。p7951.jpg

2009年12月05日

晴明神社 紅葉

11月30日の晴明神社です。p7959.jpgp7956.jpgp7957.jpgp7958.jpg

2009年12月04日

藤原 行成

万寿4年12月4日(1028年1月3日))藤原行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい)が亡くなりました。 平安時代中期の廷臣で、当代の能書家として三蹟の一人に数えられています。

天皇の外戚である、一条摂政謙徳公・藤原伊尹の孫に生まれ、父はその御曹司で、美貌の歌人で知られた藤原義孝でしたが、相次いで、後ろ盾のこの二人を亡くし、出世の道を閉ざされていました。

ある時、天皇の御前で、藤原実方が自身の歌を行成に悪評されたことを怒り、行成の冠を地に投じる騒ぎが、ありました。行成は事を荒立てず、冠をひろわせ、被り直したということです。そのふるまいから、実方は、「歌枕を見てまいれ」との一条天皇の命で、陸奥国(東北)へ左遷となり、行成の方は覚えめでたく、その後、源俊賢の引き立てもあり、蔵人頭へ昇進することになったとも言われています。

問題の歌は、東山の桜狩りに詠んだものです。

桜狩 雨は降り来ぬ 同じくは
  濡るとも花の 蔭に宿らん

これに対し、行成は「歌はおもしろし。実方は痴(おこ)なり。」
(なるほど歌は風流だが、作る奴は馬鹿だ。)と評したということです。

*3年後、任地で実方は馬に乗ったまま笠島道祖神前を通り、乗っていた馬が突然暴れ、あっけなく死んでしまいます。

実方も行成も清少納言と交流があったようです。

行成が清少納言と深夜の長話の末、帝の御物忌のため、急いで帰っていき、翌朝の手紙に尽きぬ話があったのに、鶏の声に急かされて帰ってきてしまいましたとの後朝の文めいた美しい手紙が届き、あんな夜中に鶏が鳴くわけがない。それは、函谷関をだまして通った孟嘗君のあのそらなきでしょうと返し送った、清少納言の歌は、有名です。

夜をこめて 鳥の空音は はかるとも
    よに逢坂の 関はゆるさじ

行成も返歌を返しています。

逢坂は 人越えやすき 関なれば
 鶏鳴かぬにも あけて待つとか

上京区大宮通一条上る西側附近に、藤原行成の邸宅はありました。
長保3年(1001年)、邸宅内に世尊院堂を建立しました。p7962.jpg
このことから、行成の子孫の書流を世尊寺流と呼ぶようになったそうです。

2009年12月03日

黒田長政

永禄11年(1568年)12月3日に黒田(官兵衛)孝高の嫡男 松寿丸(長政)は生まれました。

天正5年(1577年)、父・官兵衛が織田信長に属したため、人質として近江国長浜の羽柴秀吉に預けられました。
天正6年(1578年)、荒木村重が信長に反旗を翻したとき(有岡城の戦い)、官兵衛が村重を説得する為に伊丹城に乗り込みましたが、捕われてしまいます。信長はいつまでも官兵衛が戻らないので、村重方に寝返ったと思い込み、幼い長政を処刑するよう命じますが、竹中(半兵衛)重治の計らいで匿われ、一命を落とさずに済みます。信長の死去の後、父と共に秀吉の家臣となります。
天正17年(1589年)、父が隠居したために家督を相続し、同時に従五位下、甲斐守に叙任します。

上京区油小路の中立売通から、上長者町通までの間は甲斐守町といい、長政の邸のあったあたりと言われています。p7964.jpg
これより上、堀川一条東入るには、諸侯屋敷・ 一条下り松 遺跡 の石碑が建っています。p7963.jpg
聚楽第周辺に諸侯の邸があった事を示しています。p7955.jpg

*一条下り松 遺跡 
 宮本武蔵との決闘で名高い吉岡の道場があったとされる場所でもあり、その裏庭に松があり下り松といわれ、そこで決闘がなされたと伝えられています。一乗寺下り松は、この一条下り松が誤り伝えられたものという説があります。

2009年12月01日

藤原 俊成

元久元年11月30日(1204年12月29日)平安時代後期から鎌倉時代初期の歌人である藤原 俊成(ふじわら の としなり)が亡くなりました。「しゅんぜい」とも読みます。定家の父親です。

有名なエピソードといえば、やはり平忠度が訪ねてきたことでしょうか。

平清盛末弟・平忠度は、歌人としても優れていましたが、1183年(寿永2)7月の平氏一門の都落ちの際に、忠度は従者6人と共に都に引き返し、歌の師である藤原俊成の邸を訪れました。
この後、勅撰和歌集を作るおりには、私の歌を一首でも入れていただけるとうれしいと巻物を手渡して、また落ち延びてゆきました。
まもなく忠度は一ノ谷の戦いで戦死。
1187年(文治3年)、後白河法皇の院宣を奉じて、『千載和歌集』を撰集した際に、俊成はその巻物の中より、次の一首を勅撰和歌集に載せました。
「故郷花」
さざなみや 志賀の都は あれにしを
      むかしながらの 山ざくらかな

忠度が勅勘の身であることから、「詠み人知らず」として載せられています。

後世に俊成の霊を祀って、その邸址に社が建てられました。
下京区烏丸松原の烏丸通沿いにあります。p7970.jpgp7968.jpg
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息子定家の選による百人一首には、下記の歌が収められています。

世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
      山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

                 皇太后宮大夫俊成

2009年11月29日

黒田官兵衛

天文15年11月29日(1546年12月22日)黒田官兵衛(孝高)は黒田職隆の嫡男として姫路に生まれました。若くして家督を継ぎ、姫路城主となっています。
秀吉にその才覚を恐れられ、44歳にして、名を黒田如水軒と改め、隠居しています。

関が原の戦いで、三成がもう少し踏ん張っていたら、あとから如水がやってきて、漁夫の利なんてことになっていたのでしょうか?

思いおく 言の葉なくて つひに行く
     道は迷はで なるにまかせて
                    辞世
  
(思い残す言葉が見つからないまま、ついに最後の時を迎える事となった。
   冥土への道は迷わずに、流れのままにまかせて逝こう。)という感じに解釈しているのですが?
死ぬ時は、ちょっと苦笑ったのかも?と思える辞世ですね。

‘つひに行く‘ というと、在原業平も辞世に使っています。

つひに行く 道とはかねて 聞しかど 
     昨日今日とは 思はざりしを
                在原業平

平安貴公子は、ちょっとニュアンスが違っていますね。

他にも、官兵衛の残した言葉に興味を引かれるものがありましたので、ここにあげてみました。

四角な器にも円い器にも、水は器に応じてはいる

我 人に媚びず 富貴を望まず    

身は褒貶毀誉の間にありといえども 心清きこと水の如し
   
乱世の時こそ 多くの書を読み 詩を作り 古書を覚え文字をたしなめ
それこそが真に通じる大事な道である

水五訓 
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり
一、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
一、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
一、自ら潔ようして他の汚れを洗い、清濁併せ容るるは水なり
一、洋々として大海を充たし 発しては蒸気となり雲となり
  雨となり雷と変じ霧と化し 凝っては玲朧たる鏡となるも 其性を失わざるは水なり

上京区一条通猪熊西入る南側にその邸跡の石碑が建っています。地名にもその名が残っています。p7973.jpgp7972.jpg

2009年11月28日

親鸞聖人

弘長2年(1262年)11月28日 親鸞聖人が善法坊(弟 尋有の住坊)において亡くなりました。享年90歳でした。
その跡地である中京区御池通柳馬場北の御池中学校前に、「見真大師遷化之旧跡」 の石碑が建っています。
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*明治9年11月28日に、明治天皇より親鸞聖人に「見真大師」の大師号が贈られ、「諡号」(シゴウ)として用いられていましたが、現在、真宗大谷派は、この称号の使用を見合わせています。

善法坊のあとには、法泉寺が建立されましたが、隣接する柳池小学校の拡張により移転、さらに現在は御池中学校に変わっています。

親鸞聖人が晩年、愛玩し「虎石」と名付けた庭の石が、聖人が死去されたときに涙を流したといわれています。現在、虎石は東山区の東大谷本廟に移っていますが、ここの地名は虎石町と呼ばれ、その名残を留めています。

遺骨は、鳥辺野北の大谷に葬られていましたが、文久9年(1272年)親鸞の弟子たちの協力を得た末娘の覚信尼によって「大谷廟堂」が建立され、改葬されました。東山区林下町にある、現在の知恩院塔頭 崇泰院(そうたいいん)のあたりです。p7977.jpg
元応3年(321年)、本願寺三世覚如により、「大谷廟堂」を「本願寺(大谷本願寺)」と名乗り寺院化されました。これが本願寺の発祥です。廟堂は江戸時代初頭東山五条坂西大谷に移りました。
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知恩院の方へ歩いていく途中で、美しい紅葉に出会いました。p7975.jpg
知恩院山門p7974.jpg


2009年11月27日

堀川通 銀杏並木

11月23日 出掛けようと堀川通の横断歩道を渡りかけて、真ん中で思わず立ち止まってしまいました。中央分離帯の銀杏並木が青空に美しく映えていました。p7985.jpgp7984.jpg
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2009年11月24日

待賢門院璋子

天治元年(1124年)11月24日、鳥羽天皇の中宮 璋子は、院号を宣下されて待賢門院と称しました。前年の保安4年(1123年)正月28日、5歳になった顕仁親王の践祚によるものです。鳥羽上皇から叔父子と呼ばれた崇徳天皇の即位です。
璋子は、藤原公実の末子でしたが、白河法皇の猶子となり、その寵愛を受けて育ちました。
成長した璋子は、白河院によって、孫の鳥羽天皇の嫁となり、後に崇徳天皇となる顕仁親王が生まれたのですが、この親王は鳥羽天皇ではなく、白河法皇の子であろうという話が定説となっています。璋子は、崇徳天皇を含め、5人の親王(4男が後白河天皇)と2人の内親王をもうけています。

白河法皇と鳥羽上皇、待賢門院は、三人そろっての熊野御幸を4回も行っています。仲睦まじかったと伝えられています。崇徳天皇を叔父子と呼んで、嫌っていたという話は、白河上皇が亡くなられて、美福門院を寵愛するようになってからなのでしょうか?
中京区姉小路烏丸東入ル南側(新風館前)に三條東殿の石碑があります。p8012.jpg
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崇徳天皇の天治2年(1125年)、白河法皇はこの地を得られ、ここに殿舎を造営し、院の御所とされました。法皇の崩後、大治4年(1129年)より鳥羽上皇の院政となり、三條東殿をやはり院の御所とされ、待賢門院と共に、長承元年(1132年)7月の焼亡時まで住まれていました。

この院政の行われていた時期に白河(現左京区岡崎)の地に建立された6つの寺院「六勝寺」のうちの一つである「円勝寺(えんしょうじ)」は、大治3年(1128年)璋子御願により、落慶供養されています。p8011.jpg
今は市立美術館北側に石碑を残すのみです。

その後、鳥羽上皇は後ろ盾を失った璋子にかわり、藤原得子(美福門院)を寵愛するようになり、保延5年(1139年)躰仁親王(近衛天皇)が生まれています。永治元年(1141年)鳥羽上皇は、崇徳天皇に譲位を迫り、近衛天皇を即位させました。
待賢門院は翌年の康治元年(1142年)、自ら建立した法金剛院において落飾しています。3年後、久安元年(1145年)8月22日、長兄・実行の三条高倉第にて崩じました。

没後10年目、久寿2年(1155年)に近衛天皇が17歳で夭折し、璋子の生んだ四宮 雅仁親王が天皇に指名されました。これが後白河天皇で、璋子の長子 崇徳上皇がこれを不服として争う保元の乱が起こっています。

璋子は、西行法師が愛した人であるとも言われています。なんとなく、西行さんが魅かれた理由もわかるような・・・。

2009年11月19日

吉井勇

1960年(昭和35年)11月19日 歌人であり脚本家であった吉井勇が亡くなっています。
あの「かにかくに~」の歌碑でおなじみの方です。祇園白川沿いに、吉井氏が古希を迎えた年の1955年11月8日に、この歌碑は建てられました。
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毎年、祇園甲部の芸舞妓が歌碑に白菊を手向けて吉井氏をしのぶ「かにかくに祭」が行われています。
かにかくに 祇園は戀し 寝るときも 
      枕の下を 水のながるる
勉強不足なもので、この歌しか知らなかったのですが、なかなか興味深い人物のようなのです。
伯爵家の生まれで、若くして胸膜炎(肋膜炎)を患って入院、
鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作に励み、『明星』に歌を発表。
耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋らと結成しています。
『スバル』に戯曲を発表して脚本家としても名をあげています。
耽美頽唐な歌が多く、「遊蕩文学」とも呼ばれました。
最初の妻・徳子と離婚して隠居し、高知県香美郡の山里に隠棲しています。
創る歌も変化していったようです。
浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた国松孝子と再婚。
翌年、二人で京都へ移住しています。
第一歌集『酒ほがひ』に先の歌は入っていますが、『先達賛歌』という自選歌集の中に過去の人物について詠っているものがあります。

(小野道風)
道風が 自在の筆の あと見れば 
       玉泉帖は 字ごと飛ぶらし
三跡の 一人と思へば 道風の 
       文字はかしこし ほのぼのとして

(本阿弥光悦)
光悦の すぐれし文字の 冴えも知る 
       本阿弥切れの たふとさも知る

(池大雅)
いまもなほ 書の仙として おほらかに 
九霞山樵(きゅうかさんしょう) うそぶきたまへ

(良寛)
つくづくと 良寛の字を 見ておれば 
       風のごとしも 水のごとしも

吉井氏が、先達の人々を想い、詠ったこれらの歌が、個人的に結構沁みる感じがして、もっと知りたいと思うようになりました。

2009年11月15日

坂本 龍馬

天保6年11月15日(1836年1月3日)現在の高知県高知市上町(土佐国)に、坂本龍馬は生まれました。
慶応3年11月15日(1867年12月10日)河原町蛸薬師の近江屋母屋の二階にて中岡慎太郎と共に暗殺されました。享年33歳でした。

「俺は脳をやられた。もう駄目だ。もう、いかん」p8040.jpg

河原町通蛸薬師下ル西側のコンビニ前の石碑周りも綺麗になりました。
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事件が血にまみれたものであることを嫌がった地権者の方が、地碑を建てるのを拒否されたため、石碑の位置は少しずれています。実際の近江屋は、この石碑よりわずかばかり南にあったようです。
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来年の大河が待ち遠しいです。龍馬は、どんな風に描かれるのでしょうね。

*明治39年(1906年)11月15日には、妻であったお龍が亡くなっています。
旧暦との違いはありますが・・・。

2009年11月10日

天皇即位の礼

1915年(大正4年)11月10日、京都・紫宸殿で大正天皇の即位の礼が行われました。
1928年(昭和3年)11月10日、昭和天皇の即位の礼が行われました。
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先日の御即位20年記念京都御所特別公開の際には、今上陛下の即位の礼のお写真が南側の回廊に展示されました。p8100.jpgp8099.jpgp8098.jpgp8097.jpgp8096.jpgp8095.jpg
1990年(平成2年)の即位の礼に際して、京都御所から皇居へ高御座が運ばれるなど大掛かりな準備が行なわれ、同年11月12日に即位礼正殿の儀が行われました。
関東の地で即位した初めての天皇です。
(個人的には、ちょっと不満を感じてしまうところですね~。)p8093.jpg

2009年11月08日

平安京

794年(延暦13年)11月8日に桓武天皇は「この都を平安京と名付ける」との詔を下しました。
10月22日に遷都した翌月のことです。p8112.jpg
京都アスニーのポーチ前庭には、幾何学的な文様が描かれています。p8110.jpg
これは、この下にある平安宮の造酒司(みきのつかさ)の倉庫の柱穴を模った図形です。アスニー設立前の発掘調査の時に明るみに出た物です。
少し上って六軒町通出水角には宴の松原の石碑が建っています。p8111.jpg
内裏造作の代替地ともいわれています。千本通に出て真っ直ぐ南に向かいながら、大極殿・朝堂院を通り越していく感じをイメージしながら、朱雀門に出ます。p8105.jpg
西ノ京小堀町に建つ朱雀門址の石碑です。これより大内裏を振り向いたところ、現在の千本通の様子です。p8104.jpg
当時の朱雀大路は、幅約84mですから、かなり広い通りです。二条駅東口には、その説明書きがあります。p8109.jpgp8108.jpg

2009年11月05日

大村益次郎

明治2年11月5日(1869年12月7日)大村益次郎が大阪で亡くなりました。
二ヶ月前の9月4日に京都で関西の軍事施設視察時に、反対派浪士に襲われ襲撃された際の傷の悪化によるものでした。

明治維新草創時、外国の侵略に耐えうる統制のとれた軍隊をつくる事が必須であると考え、日本の国は日本国民全てで守るべきだという考えのもと、武士を廃止して、新しく徴兵制をしき、近代的な軍隊の建設を計画しました。しかし、急激な改革の計画を必ずしも好ましく思わない武士たちの不満が高まり、襲撃される事となり、志半ばで亡くなりました。

中京区三条通木屋町北西角に、道標の碑が建っています。
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佐久間象山先生遭難之碑
大村益次郎卿遭難之碑
北へ約壱丁
そして、北に進んで、木屋町通御池上る西側に襲撃された宿の跡を示す石碑があります。p8117.jpg
さらに東側にも宿所の跡を示す石碑が建てられています。p8116.jpg

2009年11月03日

君が代とさざれ石

1880年(明治13年)、日本の国歌として「君が代」が採用され、11月3日の天長節の日、初めて公に披露されました。
平安朝時代、文徳天皇(在位850~858)の皇子惟喬親王(これたかしんのう)に仕えたひとりの木地師が、江州小椋郷(現在の滋賀県東近江市)の君ケ畑から木地椀の良材を求め春日村に移り住み、江州の君ケ畑へ通う途中、自然に凝固、苔むして巨巌となっている珍しい石の状態を見て、ありのまま、「わが君は、千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」(天皇の御代が千年も八千年もいついつまでも、さざれ石が大きな岩になってそれがさらに苔が生えるほどにまでに、長く長くずっと続きますように)と詠みました。
都では見かけぬ珍しい石であり、秀ぐれた歌であるとして『古今和歌集』に採録されました。しかし、その男は身分が低かったので、「読み人知らず」の歌と扱われましたが、その後、朝廷から歌の上手さを認められ、石にちなんで藤原朝臣石位左衛門(ふじわらあそんいしいざえもん)という名前を授けられました。
この歌が、上一句を替えて国家の原歌となりました。

上記にように、岐阜県揖斐郡揖斐川町春日村では、記されています。
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上の写真は、護王神社(上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町(京都御所蛤御門前))のさざれ石です。下鴨神社や北野の天神さんでも、見た事があります。
さざれ石は、学名を石灰質角礫岩と言います。これは石灰石が長い年月の間に雨水で溶解され、そのとき生じた粘着力の強い乳状液(鍾乳石と同質)が次第に小石を凝固して、だんだん巨石となり、河川の浸食作用により地表に露出したものです 。

2009年10月31日

日本茶の日 栄西

10月31日は日本茶の日とされています。

建久2年(1191年)10月31日、臨済宗の開祖・栄西が、宋から帰国し、お土産に持参したお茶を日本に広めた事に因んでいます。

我が国に茶の種が入ったのは、この時が初めてではなく、古く奈良朝時代ではないかとも言われています。平安時代には、貴族・僧侶の上流社会の間にのみ喫茶の慣わしがありました。

広く喫茶を奨励し、一般社会にまで拡大したのは、栄西によるものです。
『喫茶養生記』の序で、栄西はこう述べています。
「茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。」

僧においては、座禅の際、眠気覚ましには特効薬であり、一般の人に対して茶は保健上から良薬であると薦めています。

東山区大和大路通四条下る小松町の建仁寺に茶碑が建てられています。p8154.jpgp8153.jpgp8152.jpg
平成の茶苑p8149.jpg

桑の碑p8150.jpgp8151.jpg
『喫茶養生記』の上巻には茶の効用、下巻に桑の効用を詳述しているそうです。
病には五種の相あり。一に飲水病、二に中風、三に不食、四に瘡病、五に脚気。
そしてこれらの諸病を治する妙薬は『桑』であり、これを服すれば長寿無病を得られるということです。
現在でも桑茶は美容・ダイエット・健康に良いと広く販売されてますものね~。
そしてこれらを囲む垣根は全部、茶の木ですp8133.jpgp8147.jpgp8146.jpg
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かたわらで洗顔中の猫p8144.jpgp8143.jpgp8142.jpgp8141.jpgp8140.jpgp8139.jpgp8138.jpg
顔は洗ろたけど・・・。p8137.jpg
やっぱ、眠い・・・。p8136.jpg
ちょっと、さっきぃからそのシャッター音うるさいねんけど!p8135.jpg
目ぇ、覚めてしもたやんか!p8134.jpg

2009年10月30日

香道

10月30日は香りの記念日です。

平成4(1992)年、七尾市で第7回国民文化祭「世界の香りフェアIN能登」が開催されたことにちなみ、石川県七尾市が制定しました。
七尾市のシンボルにもなっている丁子は、香辛料や薬として利用されているクロープのことです。

という訳で、日本における香りの歴史を少し調べてみました。

推古3年(595) 香木が淡路島に漂着して以降、仏教に利用されるようになったと日本書紀にあります。それ以前に仏教と共に伝わっっていたのではないかとも云われています。

天平勝宝6年(754) 鑑真和尚が渡来の際に、蜜を用いての合香〈あわせこう〉の方法を伝え、これが薫物〈たきもの〉として発展してゆきます。

薫物とは、現在も用いられる練香にあたり、沈香や丁子・白檀・甲香などの香木を粉末にして、好みに応じて麝香(じゃこう)などを加え、梅肉や蜂蜜で練り固めたものです。

天平勝宝8年(756) 聖武帝崩御後、遺物として「蘭奢待(黄熟香)」が正倉院へ納められています。

平安時代以降、貴族達の楽しみとして、衣服・髪・手紙等に香をたきこめるようになります。

左大臣藤原冬嗣が、「梅花(ばいか)」「侍従(じじゅう)」・「黒方(くろぼう)」の三種の薫物〈たきもの〉を創案し、「荷葉(かよう)」「菊花」「落葉」もこの頃、作られたようです。
これらを、特に「六種の薫物(むくさのたきもの)」と呼び、現在にも伝えられています。

薫物の香りをたき較べて鑑賞し、優劣を競う「薫物合」(たきものあわせ)という貴族の遊びへと発展していきます。「黒方」「梅花」「荷葉」「侍従」は源氏物語にも登場しています。

鎌倉時代には薫物から沈香へ移行してゆきます。禅宗の影響等により、練って作る薫物よりも沈香という香木を薄片に削ったものを加熱して芳香を楽しむ方が武士の嗜好に合うようになったのです。

そして、二種以上の香木を用いる「組香」(くみこう)に発展し、「名香合」(めいこうあわせ)といわれるものになります。
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室町時代の東山文化のころ、茶道や華道が大成するのと時を同じくして作法なども大成されてゆき、現在の形に近いものとなったようです。p8159.jpg
下京区堀川通西本願寺前の薫玉堂(くんぎょくどう)さんでは、「香道」体験を気軽に楽しむ事ができます。
歴史を教わったあと、香室にて「三種香」を、体験します。

三種類の香木から、それぞれ3つの薄片を切り取って、9個の包みを作ります。
それらの香包みの中から無作為に3つの包みを取り出して、それぞれの香を聞きます。
一回目から、3回目までに同じ香りのものがあったか、全部同じか、もしくは全部違う香りであったか?を聞き分けるというものです。
座敷に座った人たちが順に香を聞いて、3つの香炉を隣に廻してゆきます。

記紙(きがみ)に三本の縦線を引きます。  
|||
右から、一回目、二回目、三回目の意味です。
そして、同じ香りであったと考える回の線の上を横棒で繋ぎます。
組み合わせは5通りです。
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それぞれに名前が付いていて、香の図の下にその名前も記載します。  
確率は5分の一ですから、初心者でも、まぐれであたるかも?と期待出来たりします(^^)

よくデザインとして見かける「源氏香之図」は、5種類の香によって聞き分けるもので、52種類の図に源氏物語の巻名がつけられています。p8158.jpgp8157.jpg
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2009年10月29日

武野 紹鴎

室町時代後期 弘治元年閏10月29日(1555年12月12日)、堺の豪商で茶人の武野 紹鴎(たけの じょうおう)が亡くなりました。茶道中興の祖といわれています。


上洛して連歌師を志し三条西実隆に学ぶかたわら、村田珠光の愛弟子である藤田宗理に茶の湯を学び、連歌の美意識をもって、珠光の侘び茶をより深める事となりました。

定家の『詠歌大概之序』の講義を聞き、

見渡せば 花も紅葉も なかりけり
     浦のとまやの 秋の夕暮

この定家の歌のなかに草庵の侘び茶の理想を見いだしたと云われています。

享禄5年(1532年)、世俗を棄て茶人として生きようと剃髪し、紹鴎と名乗ります。
このとき
種まきて おなじ武田の 末なれど
    荒れてぞ今は 野となりにける
と詠み、姓を武田から武野に変えたそうです。

後に堺に戻り、父が経営していた皮革問屋を引継ぎますが、経営は番頭たちに任せ、ひたすら堺の茶道の興隆と門人の育成に尽力しました。その一人が千利休です。

中京区室町通四条上る東側に菊水の井と呼ばれた名水があり、この地に紹鴎の邸宅があったそうです。p8162.jpgp8161.jpg

隣に夷堂があったため恵比寿大黒に掛けて「大黒庵」と名付けられたという事です。
「菊水」と掘り込んだ石の井戸枠が発掘されています。
菊水の名は能楽「菊慈童」にある菊の露を飲んで不老不死となったという中国の故事に起因しています。
祇園祭の「菊水鉾」はこの名水に因んでいます。

2009年10月26日

後白河天皇 即位

久寿2年(1155年)近衛天皇が崩御すると、鳥羽上皇は美福門院(得子)の養子となっていた守仁親王(二条天皇)を即位させたいと考えますが、守仁はまだ年少であり、尚且つ存命中である実父の雅仁(後白河天皇)を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったため、やむなく中継ぎとして雅仁を立太子しないまま29歳で即位させる事としました。

7月24日、後白河天皇、高松内裏(高松殿)にて践祚(せんそ)
9月、鳥羽法皇主導によって守仁の立太子
10月25日、もしくは26日、後白河天皇即位

(桓武天皇以後、三種の神器を先帝から受け継ぐことを践祚、皇位についたことを天下に布告することを即位というようになりましたが、現在はその区別は無くなっています。)

本来、新帝践祚→即位→立太子の順で行われるものが、この時は順序が逆であったそうです。
中京区姉小路通釜座東入北側(高松神明社前)
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この付近が高松殿址となっています。p8172.jpgp8173.jpg
その後の保元の乱(1156年)では、ここが天皇方の拠点となり源義朝や平清盛が参集しましたが、平冶元年(1159年)に焼失しました。

2009年10月25日

松林寺

平安京の内裏跡を歩いていて、真新しい門に出会いました。中をのぞくと、よくブログで目にしていた風景が・・・。p8178.jpgp8177.jpg
聚楽第の遺構(外堀の一郭)が残ることで有名な、松林寺です。門が新しくなってしまったのですね。p8175.jpg
通称「やす寺」と呼ばれる浄土宗鎮西派寺院です。
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大内裏の諸殿舎は、火災や大風などでたびたび被害を受けその都度復興されましたが、11世紀になって天皇が大内裏外の里内裏に常住するようになり、豊楽院は康平6年(1063)年焼失、朝堂院は治承元年(1177)年焼失、ともに再建されませんでした。

13世紀になるとほとんどの殿舎を失い、大内裏の跡地はいつしか内野(うちの)と呼ばれる荒れ野になりました。
聚楽第は豊臣秀吉の京都における邸宅として、この内野に建築されました。天正13年(1585)に関白に任官後、翌年から聚楽第の造営を始め、同15年年に完成しました。聚楽とは「長生不老の楽しみを聚(あつ)」めるという意味です。
文禄4年(1595)の秀次の謀反の疑い、高野山に追放、切腹の後、聚楽第は破却されました。

江戸時代初期,二条河原町付近に創建された松林寺は、元禄(1688~1704)の初年にこの地に移転したそうです。

さらに、興味を引かれるのは、幕末期に京都見廻組の与頭・佐々木只三郎がこの松林寺に寓居していたと伝えられている事です。
慶応3年(1867)の近江屋での坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺に関与していたとも言われる人物ですからね。

なんとも忙しい歴史がここに眠っています。
頭の中で、光源氏と姫君がた、秀吉に秀次、佐々木只三郎が走り回ってしまいます(^^)

2009年10月23日

出雲阿国

寛永六年(1629年)10月23日、江戸幕府が風紀を乱すとして、女歌舞伎・女舞・女浄瑠璃を禁止しました。
歌舞伎といわれる最初の演者は出雲阿国であるといわれています。
出雲大社の巫女であった阿国は、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回しました。最初は「ややこ踊り」といわれるものであったようです。

慶長八年春、京都に小屋をかけた出雲阿国は、男装をして茶屋遊びをする男をまね、流行歌に合わせて、踊りを披露する「かぶき踊り」を始め、大衆の心を虜にしてゆきます。
後にこれを真似た「遊女歌舞伎」が流行しましたが、風紀上、好ましくないと禁止、若衆歌舞伎も慶安5年 (1652年)に禁止され、野郎歌舞伎となり、現代へと連なってゆきます。
川端四条上るに南座を見上げるように、出雲阿国の像が建てられています。p8212.jpg
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桜も咲き始めていました。多分、十月桜かと?p8209.jpg

2009年10月22日

平安遷都

泣・く・よ(794) 坊さん 平安遷都
794年(延暦13年)10月22日は、平安遷都の日です。

翌月、11月8日に桓武天皇は、「この都を平安京と名付ける」と詔を下されました。

平安京の造営は、まず大内裏から始められ、続いて京(市街)の造営を進めたと考えられています。
船岡山を背に、大内裏は築かれました。平安京四神(しじん)の玄武にあたる山とされています。

北に高い山・丘や建物(玄武の相)   船岡山p8216.jpg

東に川の流れ(青龍の相)   鴨川 p8215.jpg

南に低地(朱雀の相)   巨椋池(おぐらいけ)p8214.jpg

西に道・道路(白虎の相)    山陰道 p8213.jpg

四神相応(しじんそうおう)(天の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいとされる地形が存在する土地)の理に則って建都されているそうです。
この四つの相を持つ土地を「四神相応の土地」と言い、平安京は最高の地相と考えられました。

大内裏を巡ってみました。p8219.jpg
画像の拡大
赤丸白抜きの番号順に
①朝堂院(ちょうどういん) 大極殿と14棟の殿社から構成された正庁p8236.jpg

②大極殿(だいごくでん)p8239.jpgp8240.jpg
大極殿にて草を食む猫p8238.jpg
ちょっと、カメラ目線をお願いしました。p8237.jpg
③内裏 弘徽殿(こきでん)p8225.jpgp8224.jpg
④豊楽殿(ぶらくでん)p8235.jpgp8234.jpg
国家的饗宴に使われていました。p8233.jpg
⑤内裏 承香殿(じょうきょうでん)p8223.jpgp8222.jpg
⑥内裏 昭陽舎p8221.jpg
後宮五舎のひとつ。
⑧内裏 宜陽殿(ぎようでん)p8230.jpg
累代の重宝を納めたところp8229.jpg
⑨内裏 内郭回廊p8226.jpg
⑩内裏 綾綺殿(りょうきでん)p8228.jpg
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⑬酒司倉庫(みきのつかさそうこ)p8220.jpg
(34)一本御書所(いっぽんごしょどころ)p8232.jpg
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(35)大蔵省p8217.jpg

2009年10月21日

池大雅

玉瀾の夫 池大雅は、享保8年(1723年)に京都で生まれ、はじめ二条樋ノ口(二条木屋町)に住んでいましたが、後に聖護院や、知恩院西の袋町に移り、結婚して、真葛ヶ原に定住しています。
与謝蕪村とともに、日本の文人画(南画)の大成者とされています。

ある日の事、絵の仕事で難波に出立した大雅は、かんじんの筆を家に置き忘れ、気づいた玉瀾が、追いかけて行き、建仁寺の脇で、夫に追いつきました。「筆をお忘れです。」と差し出した妻に、大雅は「どちらのかたですか。よく拾ってくださいました。」と鄭重に礼を言って、足早に立ち去ったそうです。絵のことしか頭にない夫に苦笑しながら、そのまま見送ったという、愉快なエピソードが残っています。

悠々自適の晩年を過ごし、53歳で没しています。遺言により、上京区千本寺之内東入るの浄光寺にお葬られました。p8243.jpgp8244.jpgp8242.jpgp8241.jpg
その8年後、玉瀾も亡くなりましたが、なぜか、夫と一緒の墓ではなく、黒谷さんに埋葬されています。

2009年10月16日

藤原道長 

寛仁2年10月16日(1018年11月26日)は、道長の三女 威子の立后の日です。この日、道長の邸宅では諸公卿を集めて祝宴を開き、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠みました。
この歌を詠んだのは、道長の邸宅 土御門第で、現在の京都御苑内 仙洞御所のあたりです。

一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)とし、次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となすも、三条天皇と対立、天皇の眼病を理由に退位をせまり、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。
摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固め、後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」と驚嘆されたというのが、この歌に至る道長のサクセスストーリーです。ただ、この歌は自身の日記には記されてはいません。実資の日記に書き残されて現代に伝わっているものです。

退位を迫られた三条天皇が、月を見て詠んだ歌は、小倉百人一首にも入っている次の歌です。

心にも あらでうき世に ながらへば
    恋しかるべき 夜半の月かな

長和4年(1015年)12月に詠まれたもので、翌年正月に退位、さらにその翌年に崩御されています。

もっとも、道長の月もすぐに欠け始めたようで、その後間もなく、病がちとなった道長は、出家して、土御門殿の東に御堂を立て、法成寺阿弥陀堂を完成させ、来世の幸福を望むようになりました。
上京区荒神口通寺町東入北側に石碑が残るのみです。
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2009年10月13日

大政奉還

慶応3年10月13日(1867年11月8日)、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜は二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問。
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10月14日に慶喜が統治権返上を明治天皇に上奏。
翌15日に天皇が上奏を勅許しました。

ここに土佐藩士 後藤象二郎(ごとうしょうじろう)が活躍しています。
龍馬の案である「船中八策」をもとにした大政奉還案を土佐藩の藩主 山内容堂に伝え、それを藩論とし、徳川慶喜に京都二条城にて受け入れさせています。

土佐藩大監察として武市瑞山を党主とする土佐勤王党の断罪を行った人ですが、後に龍馬と親交を深め、龍馬の脱藩の罪を許されるよう、尽力しています。
 
二条城へ向かう後藤象二郎を、龍馬が励ます書簡も残っています。そこには、大政奉還がなされなければ、切腹するよう勧め、あなたが城から出てこない時は、海援隊を率いて慶喜を討つ覚悟である事が書かれています。これに対し、後藤はあまり早まるなと諌め、二条城に向かっています。

そして、夕方、後藤から「只今下城、大樹公政権を朝廷に帰す之号令を示せり」という手紙が届き、龍馬は涙を流して「良くぞご決意遊ばされた。」と喜んだといいます。

この後藤さんがもう少し細かい気配りのある人で、龍馬を土佐藩邸に入れていたら、龍馬も死なずに済んだかも~。

ところで、小松帯刀は天保6年10月14日(1835年12月3日)の生まれですから、大政奉還の日は32回目のお誕生日にあたりますが、どんな思いで、この日を迎えたのでしょうか?

3日後の17日、西郷吉之助(後の隆盛)、大久保一蔵(後の利通)と共に京を出発し、鹿児島に向けて帰国しています。お誕生日どころではなかったのでしょうかね~。

2009年10月07日

櫛まつり 2009 -明治~現代舞妓-

第49回櫛まつり 安井金比羅宮 も、最終回となりました。
明治~現代の舞妓までです。

明治 

割かのこp8373.jpgp8374.jpg


花嫁p8372.jpgp8371.jpg


丸髷p8370.jpg
明治27,8年頃から大正、昭和にかけて大流行した主婦の代表的な髪型です。p8369.jpg


結綿(ゆいわた)p8368.jpg
18,9歳の娘の髪型として、明治20年頃まで結われました。p8367.jpg


芸者p8366.jpg
この京風の投げ島田は、現在では花街のおどりのお茶席で茶を立てるときに、襟を返して(正装)この髪型が結われています。p8365.jpg


大正

束髪p8364.jpg
日清戦争後、前髪を膨らし、鬢や髱を別々にふくらすのを止めて、一体とし膨らみを作るようになりました。はっきり写った写真がなかったので、過去のものを挿入しました。p8353.jpg


束髪(行方不明)p8363.jpg
毛流れがどのようになっているのか、毛先がどこに仕舞い込まれたのかよくわからないとして、このような名前が付けられました。p8362.jpg


耳かくしp8361.jpg
大正8,9年頃に広まりました。コテをあててウエーブをつけるようになり、大きな変化が訪れました。p8360.jpg


現代舞妓

割れしのぶp8359.jpg
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舞妓になってすぐに結われる髪型です。なりたて直後のあいさつ回りには、これではなく「店だし」という正装の髷が結われます。p8356.jpg


勝山p8357.jpg
祇園祭の期間中に結われる髪型です。p8355.jpg

現代舞妓のツーショットp8358.jpg

2009年10月06日

櫛まつり 2009 -江戸時代後期-

安井金比羅宮で行われた第49回櫛まつり 今日は江戸後期です。

葵髱・下げ上げ(あおいづと・さげあげ)
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公家の髪型です。髱が葵の葉に似ていることから、葵髱と言われています。p8402.jpg


葵髱・つぶ髷(あおいづと・つぶまげ)p8401.jpg
同じく公家の髪型です。p8400.jpg


長船(おさふね)武家母親p8399.jpg
丸髷から変化したもので、武家奥方の格式を示す髪形です。
鬢と髱をおだやかな円形にまとめた京風の特色を見せた髪形です。p8398.jpg


勝山髷(かつやままげ)武家姉娘p8397.jpg
中期のものに比べて、吹き輪の幅が平たく、殊に上部は幅広に変化しています。p8396.jpg


奴島田(やっこしまだ)武家妹娘p8394.jpg
島田髷も中期の細い髷から変化して、髷先が膨らんでいます。p8395.jpg


両輪(りょうわ)町家母親p8393.jpg
上方の町家の母親に多く結われました。アップの写真が撮れていなかったので、過去の写真をはさみました。(モデルは私です。)p8376.jpg


先笄(さっこう)町家若嫁p8392.jpg
京風の町家の若奥様などに結われ、その後明治の末頃まで結われたようです。p8391.jpg


娘島田(むすめしまだ)町家姉娘p8390.jpg
未婚の若い婦人の髪型で、上方では、少女も結い時には遊女も結いました。p8389.jpg


お染p8388.jpg
上方の若い12~17歳くらいの娘の髪型です。
あどけなさの漂う可愛い髪型です。p8387.jpg


おしどりp8386.jpg
上方の町家の娘の髪型で、15,6歳まで結われていました。p8385.jpg


結い綿p8384.jpg
つぶし島田に鹿の子をかけたもので、18,9歳の結婚前の娘の髪型です。
鹿の子が全然写っていないので、過去の写真を添えました。p8377.jpg


布天神p8383.jpgp8382.jpg


粋書(すいしょ)p8381.jpg
京都にしかない髪型で、24,5歳の女性の髪型です。これも過去の写真を付け加えました。p8375.jpg


割れしのぶp8380.jpg
毛先を二つに分け左右に広げ髷をつくり鹿の子を入れます。
手頃な写真が手近になかったのですが、明日の現代にまた登場しますので・・・。


お俊p8379.jpgp8378.jpg

引用  日本伝統の髪型 櫛祭り作品集 
       京都美容文化クラブ編

2009年10月05日

櫛まつり 2009 -江戸時代前期~中期-

昨日に続き、安井金比羅宮における櫛祭りの模様です。

江戸前期 

立兵庫(たてひょうご)p8426.jpg
摂津国兵庫の遊女から起こった「唐輪髷」(からわまげ)の変形で、次第に一般の婦人の髷としても見受けられるようになりました。p8427.jpg


島田p8424.jpgp8425.jpg


元禄笄髷(げんろくこうがいまげ)
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笄髷は従来の髷には使用されたことのない笄を使って結った髷で、形式も一定していません。根元近くに笄を通して周りに髪を巻きつけたものです。p8423.jpg


笄髷(中村蔵之助の妻)p8421.jpg
女子の外出時には、昔から被衣(かづき)が用いられていましたが、江戸前期の町屋では、このような輪帽子を当てたりしました。
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江戸中期

元禄島田p8418.jpg
天和(1681~84)~元禄(1688~1704)にかけて盛んに流行した髪型です。
髱(つと)は最初は太く丸めですが、だんだんと細く長く後ろへ突き出すように変化してゆきました。p8419.jpg


元禄勝山p8417.jpg
遊女勝山が結い始めて流行したものです。武家の出身であったといわれる勝山は、武家風を好みその髷も上品であったことから、一般の女性にも盛んに結われるように後の日本髪の系統の基本となる「丸髷」の原型となりました。p8416.jpg


横兵庫(よこひょうご)p8414.jpg
前期の立兵庫髷を横に倒したもので、堅気の女性ではなく、粋な商売女たちに結われた髪型です。p8415.jpg


お梶p8412.jpg
「ばい髷」といって、かんざしを立ててこれに髪を巻きつけて結び、残りを外に出したものです。p8413.jpg


春信風・島田p8411.jpg
町屋の娘に結われ流行した髪型で、当時の鈴木春信の浮世絵によく見られます。p8410.jpg


丸山鬢・笄髷(まるやまびん・こうがいまげ)p8409.jpg
髱(つと)の突き出した髪型の後に反動として出てきたのが、奥行きが短く鬢の張りを強調した(横に張り出した)髪型です。p8408.jpg


丸山鬢・島田p8407.jpg
鬢を張り出すことは、京都の祇園新地から明和(1764~72)頃に起こったものと考えられています。p8406.jpg


丸山鬢・丸髷(まるやまびん・まるまげ)p8404.jpg
歌麿の美人画に多く描かれています。勝山髷といわれることもあり、鬢や髱は比較的小さく、髷の大きさが目立っています。p8405.jpg

引用  日本伝統の髪型 櫛祭り作品集 
       京都美容文化クラブ編

2009年10月04日

櫛まつり 2009 -古墳時代~桃山時代-

9月28日 安井金比羅宮での櫛祭り 時代風俗の紹介です。

奉納舞の後、雅楽の演奏の中、時代風俗の解説が始まりました。p8449.jpg
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古墳時代 「美豆良」(みずら)p8443.jpg
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古墳時代 「島田髷」(しまだまげ)
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頭頂部で、髪を平たく畳んで束ねたもので、島田髷の原点とも言える素朴な髪形です。
飾りに頭の周りに巻いているのは、日陰の蔓という常緑多年生シダ植物です。
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奈良時代 高髻髷(こうけいまげ)
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奈良時代の貴婦人の髪型です。眉間と頬の紅の化粧は、花鈿(かでん)・花子(かし)といい、衣装と共に、唐の影響を強く受けています。
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奈良時代 双髻髷(そうけいまげ)
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同じく、貴婦人の髪型です。p8438.jpg


平安時代 白拍子(しらびょうし)
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今様や朗詠を歌いながら舞った男装の麗人です。
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鎌倉時代 虫の垂れ衣(むしのたれぎぬ)
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鎌倉時代の武家夫人が、神社参詣などで旅に出るときの姿です。

市女笠に、虫の垂れ衣という苧麻(からむし)で作った麻か、薄い絹の布と、白糸の総角を8本垂らしています。虫の多いところで、効果を発揮します。
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鎌倉時代 侍女(じじょ)
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身分の高くない人は、髪を腰のあたりで切り揃えて垂らし、首の下で元結で結んでいました。
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室町時代 巻き髪
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垂髪(すいはつ)を後頭部でくくり、その毛束を頭の周りにぐるぐると巻きつけています。その上から、白い布を巻いて包んでいます。勤労層の婦女子のスタイルです。


桃山時代 唐輪(からわ)
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遊女や歌舞伎役者の間で流行した髪型です。p8429.jpg

引用  日本伝統の髪型 櫛祭り作品集 
       京都美容文化クラブ編

2009年10月03日

櫛まつり 2009 -奉納舞 黒髪-

9月28日 第49回櫛祭りが東山安井の安井金比羅宮で行われました。

くし塚と風俗研究家の故・吉川観方氏の像p8481.jpg
あいにくの雨模様の為、行列は中止となり、神社内で式典と奉納舞のあと、時代風俗解説がゆっくり行なわれました。

忍者犬も現れました(^^)
Boo君という名前だそうです。p8480.jpg

南登美子先生と奉納舞を舞う松田あゆ美さん(結髪・着付は後方の山中恵美子先生です。)p8479.jpg

舞妓から芸妓に変わるときを「襟替え」と言い、その一ヶ月ほど前の挨拶まわりに結われる髪型が「先笄」(さっこう)です。舞妓として最後の髪型です。
櫛祭りでは、毎年、この「先笄」を結った芸妓が奉納舞「黒髪」を舞います。
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地唄「黒髪」

黒髪の結ぼれたる 思いをば とけて寝た夜の枕こそ 
独り寝る夜はあだ枕 袖はかたしく つまじゃと云うて 
愚痴な女子の心と知らず しんと更けたる鐘の声 
昨夕の夢の今朝覚めてゆかし 懐かしやるせなや 
積もると知らで積もる白雪


静かな冬の夜に、つもる想いを胸に寂しく一人寝るさまを切々と訴えている舞です。
「積もると知らで積もる白雪」という結びの詞章は、艶々とした黒髪も、いつかは雪のように白くなるという事を、雪に重ねて歌っています。
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2009年09月29日

徳川慶喜

天保8年9月29日(1837年10月28日)江戸幕府最後の将軍となった第15代征夷大将軍 徳川慶喜が生まれています。
第14代将軍家茂の後見職に任ぜられた慶喜は、文久3(1863)年1月5日に将軍の上洛の準備のため入京し、徳川家ゆかりの東本願寺を宿舎として京都での活動を開始しました。p8486.jpg
12月21日に、空き家になっていた小浜藩酒井家邸に移りました。二条城に近い地にあったことから選ばれたそうです。最後の将軍として二条城に入るまでの3年10ヶ月を過ごし、大政奉還への道筋を構想した場所とされています。
若狭小浜藩邸跡(中京区西ノ京池ノ内町 )
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江戸を明け渡したあと、水戸、ついで静岡で謹慎生活を送ります。1869年に謹慎がとかれた後は何も仕事がなく、多彩な趣味に没頭します。鷹狩り、投網、写真、サイクリング、油絵などです。

とりわけて いふべきふしは あらねども
     ただおもしろく けふもくらしつ 

達観した自然体の悟りの境地だったのでしょうか。

2009年09月28日

後土御門天皇

明応9年9月28日(1500年10月21日) 室町時代の第103代天皇 後土御門天皇(ごつちみかどてんのう )が亡くなりました。
在位は、寛正5年7月19日(1464年8月21日) - 明応9年9月28日(1500年10月21日)です。

応仁の乱が、応仁元年(1467年)(人の世むなし)から10年間ですから、在位の前半は乱の真っ只中であった訳です。p8489.jpg
文正2(1467)年正月17日、山名宗全の進言により将軍義政に出仕を禁じられた畠山政長は、自邸に火を放ち、内裏の北東に位置する御霊林(現在の上京区上御霊神社附近)に陣を張りました。これが、応仁の乱の発端です。p8488.jpg
将軍・足利義政は土御門東洞院殿(現在の御所)にあった後土御門天皇と後花園上皇をともに室町殿に移しました。
政長の撤退により、天皇はもとの内裏へ戻りますが、5月に細川勝元と山名宗全がそれぞれに与(くみ)する守護大名を全国から集め、東軍・西軍となって対峙する事となり、勝元は天皇と上皇を室町殿に向かえ、西軍を賊軍としようとしました。
これにより約10年間、天皇・上皇・将軍が同じところに住まいする事となり、天皇は何度も譲位を考えるほど身の上を憂う事となりました。
文明8年(1476年)室町殿の類焼により、あちこちを転々とし、12年に修理の済んだ土御門内裏に還幸する事となりました。中絶していた儀式の復興に尽力しましたが、費用の捻出が難しく、思うようには運びませんでした。享年58歳で崩御された時も、葬儀の費用がなく40日も御所に遺体がおかれたままであったという事です。
伏見区深草坊町の深草北陵に葬られ、遺骨の一部は、父・後花園天皇と同様に、上京区の般舟院陵(はんしゅういんのみささぎ)に分骨されました。p8487.jpg
写真は千本今出川東入るにある般舟院陵です。

2009年09月25日

萩 大聖寺門跡

9月22日 烏丸今出川上る西側の大聖寺門跡に立ち寄りました。御門を入ると、一面の萩が迎えてくれます。p8528.jpg
p8527.jpgp8526.jpgp8525.jpgp8524.jpg
赤い方はすでに見頃を過ぎていましたが、白い方はまだいい感じでした。p8523.jpg
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2009年09月24日

西郷隆盛

明治10年(1877年)9月24日 西郷隆盛は、亡くなりました。享年51歳(満49歳没)。

大久保利通・木戸孝允(桂小五郎)と並び、「維新の三傑」と称されました。

慶応2年1月21日(1866年3月7日)(22日説も)京都小松清廉邸において坂本龍馬を介して西郷隆盛、大久保利通、薩摩藩家老の小松清廉(帯刀)と長州藩の木戸孝允(当時は桂小五郎)らが、倒幕運動に協力する6か条の同盟を締結しました。いわゆる薩長同盟です。

堀川一条東入る南側に新しい石碑が建っています。この向かいあたりが、薩長同盟の結ばれた小松清廉邸のあったところとして、近頃では有力視されています。P9223505.gif

二本松薩摩藩邸跡 烏丸今出川上る東側 
同志社西門前p8533.jpg
二藩を仲介した龍馬は、両者の話し合いがうまくいっちゅうと思うちょったけんど、そうではなかったがです。桂に話を聞いた龍馬は西郷のもとにやってきます。
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「そうはいうても、長州がむごいろうが?(それでは、長州が可哀想ではないか?)」
龍馬はその無情を痛論し、西郷らも意を決し、「然らばこの方より、改めて同盟の儀を桂に申し込むべし。」と、感情的に敵対しちょった両藩は同盟を結ぶに到ったがです。
    土佐弁をまじえて、お伝えしました(^^)

2009年09月23日

頼山陽

江戸時代後期の日本を代表する漢学者である頼山陽(らい・さんよう)は、天保3年9月23日(1832年10月16日)に亡くなりました。
歴史・文学・美術などのさまざまな分野で活躍し、特に、没後に出版された『日本外史』は、幕末から明治初期の人々に大きな影響を与えました。木戸孝允や伊藤博文らもこの書を読み感奮したそうです。

文化8年(1811年)、32歳の時に上京して以後は、東山三本木の「山紫水明処」に住まいしました。p8536.jpgp8535.jpg
鴨川に面している書斎は、東山を望む風光明媚なロケーションで、現在も史蹟名勝天然紀念物として、保たれています。
鴨川沿いから見た様子は、なんとも昔話に出てきそうな感じです。
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病にかかってからも、執筆活動に励み、死ぬ直前まで、筆を離さなかったそうです。享年53歳でした。
円山公園の長楽寺に葬られています。

2009年09月22日

応天門の変

平安時代前期 866年(貞観8年)9月22日、伴善男らが応天門の放火の犯人であるとして、流罪が言い渡されました。
応天門は朝堂院(大内裏の正庁)の正門であり、朱雀門のすぐ北にありました。
中京区丸太町通千本西入る北側に朝堂院跡の石碑が建っています。この変の際に炎上し、再建されましたが、安元3年(1177年)の大火で、焼失しその後は再建されませんでした。p8538.jpg
平安神宮 応天門 平安京の応天門を5/8のサイズで模したものだそうです。p8537.jpg

4月28日(貞観8年閏3月10日)、応天門が放火炎上する事件が起き、朝廷は大騒ぎとなりました。

ほどなく、伴善男は右大臣藤原良相に源信が犯人であると告発し、藤原良相は源信の逮捕を命じて邸を包囲しましたが、太政大臣 藤原良房の進言で無罪となりました。

その後、備中権史生の大宅鷹取が応天門の前から伴善男とその子・伴中庸、雑色の豊清の3人が走り去ったのを見て、その直後に門が炎上したと申し出たため、伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となりました。

伴善男は、犯行を認めませんでしたが、放火犯と断定され、伊豆へ流罪となり、伴氏(大伴氏)は没落しました。

藤原氏による他氏排斥事件のひとつとも見なされています。

2009年09月21日

武市瑞山

文久3年(1863年)9月21日土佐藩では、 武市瑞山をはじめ尊王派が次々に投獄されました。勤王党の獄といわれています。

土佐藩の武士で、江戸で土佐勤王党を結成しました。龍馬の遠縁にあたります。
通称は半平太と言い、長身で、色白・美形・堂々たる風貌で、高潔で誠実、武士道を重んじるという、この上なくモテそうなタイプであったようです。詩歌をたしなみ、美人画にも巧みで、獄中で自画像も残しています。
「月様、雨が…」「春雨じゃ、濡れてまいろう。」で有名な行友李風の戯曲『月形半平太』のモデルとなった人物です。
市川右太衛門や長谷川一夫、大川橋蔵などの主演で、思い出されます。
実際は、色男という感じではなく、妻富子と仲睦まじく、かたくななまでに品行方正な人であったようです。
中京区木屋町通三条上る東側に京都滞在時の宅「四国屋丹虎」の跡があります。
p8541.jpgこの地に尊王派の志士達が集まり、昼夜を問わず激論が交わされていたのでしょうか。先生と呼ばれる存在であったようですが、龍馬とは、あだ名で呼び合う間柄だったようです。

藩全体をあげて勤王を行おうという「一藩勤王」の姿勢を貫こうとした点が、他の藩の尊王攘夷の志士と
は少し違っていたようです。文久3年(1863年)に京都留守居役に任じられていますが、同じ年に投獄される事となりました。p8540.jpg
中京区木屋町通蛸薬師西南角(旧立誠小学校前)p8539.jpg

融通の利かない頑固な気質が、彼の死を早める事になったようで、脱藩すればよいものを、藩命に従い投獄されています。

  花は清香に依って愛せられ、
  人は仁義を以って栄ゆ。
  幽囚、何ぞ恥ずべき、
  只赤心の明らかなるあり。

獄中で描いた自画像に添えられた詩です。

富子が縫いあげて届けた死装束を着て、三文字割腹という、いまだかつてない困難な切腹をして果てました。慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)、37歳でした。
獄中の夫に毎日差し入れをし、支え続けた富子は大正6年(1917年)まで存命し、高知市にある武市の墓の傍に葬られました。

時しあれば 吹かでも花は ちるものを 
     心みじかき 春の山風

富子の遺詠です。

2009年09月16日

東三条院(藤原 詮子)

第64代 円融天皇の女御であり、第66代一条天皇の生母である藤原 詮子(ふじわら の せんし/あきこ)は、寛和2年(986年)に一条天皇が即位すると皇太后となっていましたが、正暦2年(991年)円融法皇の崩御の後、同年9月16日に出家し、皇太后宮職を停めて院号宣下を受けました。
居宅の東三条邸に因んで東三条院と呼ばれました。
摂政関白・太政大臣藤原兼家の次女で、道隆・道兼・道長、冷泉天皇女御超子と同母の兄弟です。

中京区押小路通釜座西北角にその東三条殿の跡を示す石碑が建っています。
藤原良房が創設し、摂関家嫡流に伝領されました。
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寛弘2年(1005年)の内裏焼亡により一条天皇の里内裏として用いられ、以降も後院や里内裏として用いられました。

詮子は、4才下の弟・道長を可愛がり、道長と甥・伊周が関白を争った際に、渋る一条天皇を説得(夜中に天皇の寝所に押しかけて)して、道長の政権樹立に大きく貢献しました。その後、道長は長女彰子を一条天皇の女御として入内させ、その地位を確かなものとしてゆきました。
紫式部・和泉式部などの女流文学者を生み出した、華やかな時代の幕開けでした。

2009年09月12日

コムラサキシキブと銀杏

紫式部の墓所(堀川北大路を下がった西側、島津製作所の一角)
入り口にある墓碑の後ろのコムラサキシキブの実が美しく色付きました。p8580.jpg
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歩道のイチョウの木を見上げると、こちらも実が生っていました。p8575.jpg
秋の気配ですね(^^)

2009年09月11日

薬子の変と斎王

弘仁元年(810年)9月11日、平城上皇と嵯峨天皇の間に対立関係が生じた薬子の変が終結しています。

退位した平城上皇は旧都平城京へ移った後、嵯峨天皇と対立するようになり、復位を考えるようになりました。
二所朝廷の対立が深まる中で、平城上皇は平安京を廃して平城京へ遷都する詔勅を出し、これを知った嵯峨天皇は素早く対応、征夷大将軍・坂上田村麻呂と藤原北家の藤原冬嗣を平城京へ派遣しました。
平城京の周囲の関所を速やかに封鎖、平城上皇が地方から兵隊を集められないようにし、藤原仲成を捕らえ降格処分とし、藤原薬子は内侍の役職を剥奪し平安京を追放します。

平城上皇は藤原薬子と共に手近な兵を集めていったん東国に出て再起を図ろうとしますが、嵯峨天皇は9月11日に藤原仲成を処刑、坂上田村麻呂を総大将とする討伐軍を出動させ、平城上皇の進路を阻みます。

動きの取れなくなった平城上皇は平城京に戻り、内乱は終結します。
9月12日に藤原薬子は自殺、平城上皇は剃髪して仏門に入ります。

嵯峨天皇は、この対立に際し、空海に、上皇をそそのかしている者たちの調伏を依頼していますが、
賀茂大神にも「もし我に利あらば、皇女を"あれおとめ"として、奉仕させる」という誓いを立てました。
そして勝利を収めた事により、伊勢神宮の斎宮にならって賀茂斎院を設立、嵯峨天皇の皇女である「有智子内親王」を初代賀茂斎王として卜定させ、平安京の安泰を祈願しました。

紫野の斎院跡 上京区上御霊前通智恵光院東入(櫟谷七野神社内)p8581.jpg
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2009年09月10日

伊藤 若冲

江戸時代の京の絵師である伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう) は、寛政12年9月10日(1800年10月27日)に亡くなりました。
正徳6年(1716年)に錦高倉の青物問屋「枡源」もしくは「枡屋」の跡取り息子として生まれ、23歳のとき、父・源左衛門の死去によって、家業を引き継いでいますが、商売にはあまり関心がなかったようです。(問屋の仕事は、生産者や小売り業者などに場所を提供して、販売させて使用料を徴収するといったもので、本人が青物を取り扱っていたわけではありません。)
写真は高倉錦から上の方の生家のあったあたりを写しています。p8591.jpg
家業のかたわら、狩野派、光琳派や中国の宋・元の画法を学び、四十歳で家督を弟に譲り、隠居して、絵画の制作に専念しています。
果蔬涅槃図p8588.jpg
相国寺の禅僧が、若冲のことを「人の楽しむところ一つも求むる所なく」と評されています。
絵を描くことが人生の喜びの全てで、およそ世間の雑事に関心がなく、芸事も酒も女遊びも興味がなかったようです。
相国寺の真如蓮p8592.jpg
「若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常から与えられた居士号です。
境内の芙蓉p8593.jpg
数十羽の鶏を飼って生態をひたすら観察し、写生することによって、思うままに手が動くようになったという話です。
南天雄鶏図p8590.jpg
近年見直され、注目を集めているその独特の画風は、写生的でありながら、異才を感じさせる装飾性にあふれているように感じます。
雨龍図p8589.jpg
天明の大火で、居宅を焼失し、しばらく、大阪に滞在しています。晩年は、深草の石峯寺に隠棲し、裏山にユニークな石像群も造っています。
妻子も持たず、禅宗に深く帰依し、85歳の長寿を全うするまでに、多くの作品を生み出しています。
没後、石峯寺に埋葬されましたが、相国寺にも生前墓の寿蔵があります。p8594.jpg

2009年09月08日

梅田 雲浜 捕縛

小浜藩士の梅田 雲浜(雲濱)(うめだ うんぴん)(1815~59)は、1859年9月8日に京都で捕縛されました。
幕末期の儒学者で、上洛して、藩の塾 望楠軒の講主をしていましたが、藩政批判発言により、藩籍を剥奪されました。
尊皇攘夷を求める志士の指導者であったため、真っ先に捕えられ獄中で病死しました。
享年45歳でした。
大老・井伊直弼による安政の大獄の始まりです。
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石標は烏丸御池上る東側にある雲浜の宅跡です。

2009年09月07日

嵯峨天皇

桓武天皇の第二皇子である嵯峨天皇は、延暦5年9月7日(786年10月3日) に生まれています。

兄・平城天皇の即位に伴って皇太弟となった後、病気のため退位した平城天皇に代わり即位するも、平城天皇が復位を試みた「薬子の変」が発生する。

このことにより、異母弟の大伴親王(淳和天皇)を皇太弟に立てた事によって、また新たな火種を生み出しています。(承和の変へと)

退位後は冷然院さらには、嵯峨院を造営して住まいとしました。
冷然院跡の石碑 二条城北東p8598.jpgp8597.jpg
嵯峨院跡p8605.jpgp8604.jpg
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嵯峨院の庭園に設けられていた名古曽滝は大沢池の北方に位置しています。 p8599.jpgp8510.jpg
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北嵯峨赤阪町p8601.jpg
今は田園風景の広がる地域です。p8602.jpg

2009年09月04日

くしの日

9月4日は、美容関係者らが昭和53(1978)年に制定した「くしの日」です。

東山安井の安井金比羅宮には、櫛塚(久志塚)があり、櫛をお祀りしていて、美願のご利益があります。p8626.jpg
毎年、9月第4月曜日には、京都美容文化クラブによって、くし祭りが催されています。
古くなったり傷んでしまった櫛やかんざしに、感謝をこめて供養するお祭りです。p8625.jpg

日本髪を結い上げるつげ櫛は、その用途によって形が異なっています。ちょっと紹介してみましょう。
 (関西と関東では少し呼び名に違いがあったり、人によって違ったりもしています。)

荒櫛・とかし櫛p8615.jpg

中櫛
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鬢(びん)櫛p8623.jpg

深歯・びんだしp8618.jpgp8617.jpg

筋立・月形p8622.jpg

ねずみ歯p8621.jpg
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鬼歯p8620.jpg

なぎなたp8614.jpg

へら付き筋立てp8616.jpg

へらp8613.jpg

元結通しp8612.jpg
他に、はまぐり歯というものもあります。

2009年09月02日

和宮親子内親王

和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)は、明治10年(1877年)9月2日に亡くなられました。
孝明天皇の異母妹で、江戸幕府第14代将軍徳川家茂の正室になった方です。昨年の大河ドラマで、堀北真希さんが演じていた事で、記憶に新しい感じです。
堀川寺之内東入るの宝鏡寺には、幼少のころ遊ばれていたという“鶴亀の庭”や和宮さまの遺品も保存されています。p8636.jpgp8635.jpg
御所の特別拝観の際には、和宮さまが乗られたという板輿が展示されていました。P8634.gif
家茂が上洛の際、土産は何がよいかと聞かれた和宮は西陣織を所望したそうですが、形見として届けられることとなり、

空蝉の 唐織り衣 なにかせん
      綾も錦も 君ありてこそ

と歌っています。
家茂死後は落飾し、静寛院宮(せいかんいんのみや)と名乗られました。母・夫・兄と短い間に続けて亡くされ、時代が大きく変化する中に身を置き、32歳で亡くなっています。

2009年09月01日

坂本龍馬と乙女ねえやん

昨日分のエントリーと日時が、前後していますが・・・。

土佐藩士 坂本龍馬の姉である坂本乙女(さかもと おとめ)は 明治12年(1879年8月31日)に亡くなっています。
文武両道で、大柄な頼もしい感じのイメージの人です。龍馬の母親代わりとして、幼い頃は泣き虫だった龍馬を教育したそうです。

龍馬はこの姉を慕い、何度も手紙を書いています。
写真は龍馬の京都での住まいとなっていた河原町通三条下る一筋目東入北側にある材木商酢屋(中川嘉兵衛方)です。
ここを海援隊屯所としていました。この二階の部屋からも、乙女ねえやんに向けて、手紙を書いていたのでしょうか?
P7132358a.gif寄っていかんかえ?P7132356a.gif
写真内の龍馬は、合成ですので、ここに立っている訳ではありません。念のため(^^)

2009年08月30日

後追い地蔵さん

上京区御前通一条下ルの超円寺さんに、「後追い地蔵」というお地蔵さんがいらっしゃいます。
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太宰府へ流された菅原道真公が信心していたお地蔵さんだという話が残っています。
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京都の北野天満宮に道真公が祀られることになり、私もお供して京都に上りたいというお地蔵さんのお告げを受けた僧がお地蔵さんを太宰府から京都まで運び、超円寺に安置したということです。
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菅原道真公の後を追ってきた地蔵 すなわち「後追い地蔵」と呼ばれるようになり、心から信仰する者の願いを聞き届けてくれる地蔵さまとして、信仰されています。

*別の話も伝わっています。
信長の叡山焼き討ちの際、山門別院の観世音像を蓮阿弥という者が、背負って京へ逃れこの地に安置したところ、同じように山門別院に祀られていたお地蔵さんが、自分も京に行きたいと言われ、移したという話です。
どちらにせよ、後追い地蔵さんということではあります。

2009年08月28日

足利義昭

慶長2年8月28日(1597年10月9日)室町幕府の最後の将軍である第15代 足利義昭が亡くなりました。
仏門に入って「覚慶」と名乗っていましたが、兄義輝の暗殺により、奈良から脱出。織田信長に擁されて上洛し、第15代将軍に就任しました。
義昭は信長に命じて兄・義輝も本拠を置いた烏丸中御門第(旧二条城)を整備し、室町幕府を再建しました。P8650.jpgP8649.jpgP8648.jpg
やがて信長と対立して京都を追われ、室町幕府は滅亡したと思っていたのですが、信長の死後、備後から京都に戻ってるようですね。
豊臣政権が完全に確立するまで一応、将軍だったそうで・・・。豊臣政権確立後は将軍職を辞し、秀吉から、天正十六年(1588年)に山城槙島1万石をもらいうけ、61歳までの余生を送っています。

2009年08月27日

文徳天皇

天安2年8月27日(858年10月7日)、第55代文徳天皇が亡くなっています。

承和の変で皇太子恒貞親王が廃された後、伯父である藤原良房に推されて立太子し、嘉祥3年(850年)、仁明天皇の崩御に伴い即位された方です。

文徳天皇が東宮だった頃に嫁いでいた良房の娘 染殿后明子(あきらけいこ)にはなかなか子ができず、四条の地蔵菩薩が子宝にご利益があると聞き、早速地蔵堂に参り17日の願をかけたところ、満願の日に懐妊の兆候があり、男の子を出産しました。それがちょうど文徳天皇即位の年で、第四皇子惟仁(これひと)親王、後の清和天皇となり、藤原家の地位を安定させる事となりました。
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染殿院は空海(弘法大師)の開山で、十応心論を清書調巻されたことから十住心院とも称されていて、その他に 釈迦院、釈迦堂とも呼ばれていましたが、この願掛けによって、堂は*「染殿院」と称されるようになりました。庶民の間では「そめどのさん」と通称されるようになりました。

*良房の邸宅を「染殿」といい、娘の明子(あきらけいこ)は「染殿皇后」と呼ばれた事に因っています。
 

2009年08月26日

光孝天皇

仁和3年8月26日(887年9月17日)、第58代天皇である光孝天皇が亡くなっています。

陽成天皇が藤原基経によって廃位されたのち、55歳で即位されています。即位後も炊事を自分でしたというエピソードもあり、温厚で、聡明な人柄であったと伝えられています。
勅願寺創建を計画されましたが、存命中にかなわず、息子の宇多天皇が引き継いで仁和寺を創建されました。
小倉百人一首の歌が有名ですが、これは親王時代に作られた歌です。

君がため  春の野に出でて 若菜つむ
    わが衣手に  雪はふりつつ
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お生まれになったのは、小松殿であったそうです。
一遍が念仏踊りの道場とし、念仏踊りの中心道場としてさかえた時宗遊行派の聞名寺がその小松殿の跡と伝えられています。大炊御門大路(竹屋町通り)の北、室町通りの西にあたり、今に「道場町」の名が残るあたりですが、聞名寺も移転していて、現在はその跡形もありません。写真は、丸太町通から、南西の方角を撮っています。P8651.jpg

2009年08月25日

道元忌

曹洞宗の開祖・道元の建長5(1253)年の忌日は、8月23日夜半とか、25日とか、28日とか記されています。 
建長4年(1252)秋頃より道元禅師は病にかかり、翌5年7月、弟子懐弉禅師(えじょうぜんじ)に永平寺の住持を譲り、8月5日には療養すべく、高辻西洞院の俗弟子覚念の屋敷に入り、54歳で亡くなりました。P8655.jpg高辻西洞院西入る北側にある石碑です。P8654.jpgP8653.jpgP8652.jpg道元の生涯を描いた禅ZENという映画が、DVDになっているようですね。観てみようかと思います。


 

2009年08月24日

船岡山合戦

永正8年(1511年)8月23日夜から24日にかけて、船岡山において合戦がありました。
将軍足利義稙を擁立する細川高国・大内義興と前将軍足利義澄を擁立する細川澄元との間での室町幕府の政権をめぐっての戦いです。
応仁の乱の時の戦いと区別するため「永正の船岡山の戦い」とも云われています。P8661.jpg赤い丸のあたりに石碑が立っています。P8644.gif

今はのどかな風景の広がる船岡山です。
大文字山P8657.jpg妙法P8658.jpg
P8659.jpg左大文字P8660.jpg
建勲神社 本殿P8656.jpg

2009年08月23日

一遍上人

正応2年8月23日(1289年9月9日)時宗の開祖である一遍上人は亡くなりました。

延応元年(1239年)伊予国の豪族の子として生まれ、10歳の時の母の死をきっかけに、出家しています。
25歳の時、父の死に際し還俗して家督を継ぎ、豪族武士となりますが、33歳で再び出家し、伊予を出ます。
「南無阿弥陀仏」と書かれた念仏札を配って人々に念仏を勧める遊行(ゆぎょう)の旅を始めました。
熊野本宮に向かう道中、1人の僧に、信心の気持ちがおこらないからと、念仏札の受け取りを拒否され、自身の布教の仕方に疑問を感じます。
熊野権現から、「信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず、その札を配るべし」とのお告げを受け、念仏を無理に強いるのでなく、皆が自然に念仏を唱える気持ちになるように、導くことが肝要であると気付きます。
さらに諸国を巡るうち、人々が念仏を唱えながら、感極まり踊りだすようになり、それが踊り念仏の始まりとなります。
弘安7年(1284年)上洛して、四条京極の釈迦堂に入り、都の各地で布教活動を行ないます。
中京区四条通新京極上ル西側にその念仏賦算遺跡の石碑が立っています。P8662.jpg

 *四条京極の釈迦堂というのは、染殿院のことで、路地を入ると奥にお堂が再建されています。安産 守護の、そめどの地蔵尊が祀られています。
 *賦算(ふさん)とは南無阿弥陀仏と書いた算(ふだ)を配ることです。
 
応長元(1311)年、その教えを継ぐ金蓮寺が、染殿院のすぐ北側に創建され、時宗四条派の本山となり四条道場と称されました。現在は北区鷹峯に移っています。

2009年08月22日

足利義満 花の御所

足利義満は、南朝:正平13年/北朝:延文3年8月22日(1358年9月25日)に生まれました。

摂津の国に泊まった際に、その場所の景色が気に入り、「ここの景色は良いから、京都に持って帰ろう。お前らが担いで行け」と家臣らに命じたという4歳の頃のエピソードが残っています。

正平24年/応安2年(1369年)、11歳の時に義満は、細川頼之を後見人として、将軍の座に着きます。

1378年、義満は室町第を新築し、幕府の機構共々、移りました。内裏に近く、公家屋敷の多い地域です。庭園にはさまざまな花木が植えられ、四季折々に見事な花を咲かせた事から、人々は「花の御所」と呼び、足利氏の幕府を室町幕府と呼ぶようになりました。
現在の烏丸通と室町通、今出川通と上立売通に囲まれた地域です。
室町今出川の東南角に、その石碑が残っています。P8667.jpg
烏丸今出川上る西側の大聖寺内にも石碑があります。P8666.jpg
将軍邸としては始めての、連歌や茶会を催すための会所(客殿)も設けられたそうです。
室町殿内にあった花の御所八幡宮は、後に移され、石碑が上御霊神社に立っています。P8664.jpgP8665.jpg
尊氏の御所八幡宮とは、また別であるそうです。

2009年08月21日

お首地蔵さん

ぼちぼち、地蔵盆の季節ということで、お地蔵さんの話です。

北区北野東紅梅町、紙屋川橋の北西に、お首地蔵さんが祀られています。P8669.jpgP8668.jpg
この辺りが衣笠村と呼ばれていた頃のお話

当時は、人家もなく夜は人通りのない、うら寂しいところじゃったそうな。
そこに夜ごと辻斬りが現れ、犠牲者が出て、村人は怖くて、震え上がっておったそうな。

訴えでても、らちがあかず、自分たちで捕まえようにも、怖くてかなわず、どうしたものかと思案にくれておった。
皆で寄り合って考えたところ、仏様にすがるしか道はないじゃろうと、不幸にも辻斬りに殺された人々の菩提を弔い、併せて村人の安全を願って、お地蔵さんを祀る事に決めたそうな。
そして三体のお地蔵さんを祀り、辻斬りよけを願いました。
不思議なことに辻斬は途絶え、皆はお地蔵さんのおかげだと、お礼参りに訪れたところ、お地蔵さんの体が三体とも、ばっさりと切られていたそうな。
このことから、村人はお地蔵さんを身替り地蔵と崇めるようになり、特に首から上の病いには霊験あらたかと云われるようになり、「お首地蔵」と呼ばれるようになったということじゃ。

 

2009年08月20日

藤原定家

仁治2年8月20日 (1241年9月26日)「小倉百人一首」の選者で有名な藤原定家が、80歳で亡くなっています。
嘉禄2年(1226年)に二条京極より移り住み、晩年を過ごした地の石碑が、寺町二条上がる西側に立っています。P8670.jpgP8671.jpg
この屋敷に住まいしたことから、京極中納言と呼ばれました。ここに多くの歌人たちが集い、歌会などを催していたのですね。早くから歌の才に長けていたものの、出世には苦労したようで、貧しい時期が長かったようです。

自身の歌は97番目に載っています。

来ぬ人を  まつほの浦の 夕凪に
     焼くや藻塩の 身もこがれつつ
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今からウン十年前の小学校6年の夏休みの宿題が、この小倉百人一首を全部覚えるというものでした。歌の内容も今一理解できないまま、丸暗記した覚えがあります。

2009年08月19日

酔芙蓉の観察

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昔なつかしい夏休みの自由研究です。
妙蓮寺の酔芙蓉の変化する様を記録してみました。
時間が立つにつれ、白からピンクへと変化する花色が、お酒を飲んで酔っぱらって顔が赤くなる事にたとえられて、この名前がついている花です。
8月18日 7時⇒10時⇒13時⇒16時⇒18時の同じ花の移ろい写真です。
花AP8707.jpg
P8706.jpgP8705.jpgP8704.jpg
P8703.jpg

花BP8702.jpgP8701.jpgP8700.jpgP8699.jpgP8698.jpg

花CP8697.jpgP8696.jpgP8695.jpgP8694.jpgP8693.jpg

花DP8692.jpgP8691.jpgP8690.jpgP8689.jpgP8688.jpg

花EP8687.jpgP8686.jpgP8685.jpgP8684.jpgP8683.jpg

花F
全体の様子です。P8682.jpgP8681.jpgP8680.jpgP8679.jpgP8678.jpg
左寄り手前の低い木が一重の酔芙蓉です。右寄り奥の高さのある方が八重の酔芙蓉です。
一重ばかり撮っていて、隣にくっついて生えている木が八重の酔芙蓉である事を忘れてしまっていて、13時にかなりピンクに変わってしまってから気付き、写真を撮ったのが、次の花Gです。

花GP8674.jpgP8673.jpg
P8677.jpgP8676.jpgP8675.jpg

2009年08月18日

秀吉 北野大茶会と茶くれん寺

慶長3年8月18日(1598年9月18日)伏見城において、秀吉は亡くなりました。

天正15年(1587年)10月、北野の天神さん境内において、秀吉は大茶会を催しました。P8709.jpg
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九州平定と聚楽第の竣工を祝って催した大茶会で、当初、10日間催される予定でしたが、1日で終わっています。肥後の一揆のせいともいわれています。
秘蔵の名物茶器・道具がそろえられ、秀吉、利休、宗易、宗及らの茶人が亭主をつとめたそうです。
1000人もの人が参加したという事ですから、それは盛大なイベントだったことでしょう。

おもしろいのは、やはり茶くれん寺のエピソードですね。
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茶会の会場へ向かう途中、秀吉は千本今出川西入るの「浄土院」という尼寺に立ち寄っています。
豪華ないでたちであったであろう秀吉が、ふいに尼寺の前に輿を止め、つかつかと寺に入っていって、茶を所望したのですから、お寺さんもびっくりしたことでしょうね。
茶の心得のある恐れ多くて、気ままなこの天下人にどうして粗茶が出せようものか。
対処に困った住職が、白湯を差し出すこと三度。
秀吉は「よし、以後、此の寺の名を湯だくさん茶くれん寺とせよ。」と命じたとのことです。P8724.jpg

2009年08月17日

大文字送り火 2009

8月16日 大文字さんを、どこで観ようかと調べ考えたあげく、今年も近場でのお見送りとしました(^^)
P8723.jpg先日、下調べしておいた自宅から徒歩3分のところの穴場スポットです。P8722.jpg煙が立ち込めてきました。P8721.jpgP8720.jpg合掌。
P8719.jpgぷらぷらと、自宅に戻り、屋上へ。「法」の文字の「去」だけが、斜めに見えます。
P8714.jpg船形が、点き始めました。
P8718.jpgP8717.jpgP8716.jpgP8715.jpgなんのお構いもできませんでしたが、無事にお帰りください。P8713.jpg
左大文字は、船岡山の向こうに火の粉だけが見える感じです。P8712.jpg
天窓に消えかけの船形が、映り込んでいました。お盆に水を張ってみたのですが、うまくゆきませんでした。
来年は休みにあたるので、鴨川の床から観て、杯に映し飲もうと考えているのですが、この映り込み方を見るかぎりでは、角度とか結構むずかしそうな気がします。

船岡山にも行って見たいのですが、下見している暇がなかったので、今年はパスしました。いきなり行っても、混雑と方向音痴のせいで、あやしいでしょうから、またの機会に・・・。
P8727.jpg鶴屋吉信さんとこの京都限定お菓子です。包み紙に送り火がプリントされていて、中身は「つばらつばら」と同じです。P8711.jpg
できれば、お菓子本体に大文字の焼印を押してほしいところですけど、お山を食べてる気分は、味わえました。
今年の夏も終わりですねぇ。

2009年08月16日

後醍醐天皇

延元4年/暦応2年8月16日(1339年9月19日 )後醍醐天皇は亡くなっています。

「玉骨は縦(たとい)南山の苔に埋まるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほくけつ)の天を望まん」

・・・(骨は、たとえ吉野の苔に埋まるとも、霊魂は常に京を望まん。)と遺言されたようです。
そりゃぁ、尊氏さんも天龍寺ぐらい建てて祀らなくては、大変な事になりますよね。

中京区富小路通夷川下る西側に、二条富小路内裏址の石碑がありました。現在は工事中で、来年度、工事終了後にまた石碑が立てられるそうです。P8726.jpg
藤原実氏の邸宅であったところを、後堀川天皇が仙洞とされてから、四条・後嵯峨・後深草・亀山・伏見・後伏見・花園・後醍醐天皇までが、住まいされました。
隠岐より戻られた後醍醐天皇が、1333年(元弘3年/正慶2年)6月、建武の新政の政令を発せられたところです。

いい国(1192年)つくろう源頼朝 → 一味散々(1333年)鎌倉幕府 へと移り変わった年です。
近頃では、鎌倉幕府成立は1192年じゃないらしくて、困りものです(^^)
もうテストも受けないから構いませんけど・・・。

2009年08月15日

千本えんま堂 お精霊さん お迎え

13日夕刻 今年は千本えんま堂さんへ、お精霊さんのお迎えに行ってきました。P8735.jpgP8731.jpg閻魔さんP8732.jpg精霊流し供養池P8730.jpgP8729.jpgお迎えの鐘P8734.jpgP8728.jpg
P8733.jpg

2009年08月12日

妙蓮寺 芙蓉

8月10日の妙蓮寺さんの芙蓉の様子です。
午前中、生憎の雨の中、傘片手の撮影となりました。P8760.jpg
P8759.jpgP8758.jpgP8757.jpgP8756.jpgP8755.jpgP8754.jpgP8753.jpgP8752.jpg雨宿り?P8751.jpgP8750.jpgP8749.jpgP8748.jpgP8747.jpgP8746.jpgP8745.jpgP8741.jpgP8740.jpgP8739.jpg
酔芙蓉P8744.jpgほんのり、頬染めてP8743.jpgP8742.jpg

2009年08月11日

足利尊氏

延元3年 / 暦応元年(1338年)8月11日、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任じられ、ここに室町幕府が成立しました。
中京区御池通高倉上る東側(保事協会館前)にその邸宅跡の石碑があります。
P8765.jpg
三条坊門第といい、この邸で政務を執り、延文3年(1358年)にここで薨じました。
のちに等持寺という寺院に改められ、別院であった等持院(北区)に合併され菩提が弔われています。P8772.jpgP8771.jpgP8770.jpgP8769.jpg(等持院の写真は昨年10月のものです。)P8768.jpg
中京区御池通高倉東入の御所八幡宮社は、以前は御池堺町西南角の御所八幡町にあり、邸宅内の守護神として、祀られていましたが太平洋戦争中、強制疎開によって、現在の地に遷されています。

鳥居 P8763.jpg拝殿
P8762.jpg摂社 初音稲荷P8761.jpg


 

2009年08月09日

狩野元信

文明8年8月9日(1476年8月28日)に 室町幕府 の 御用絵師 狩野派の祖・狩野正信の子である狩野元信は誕生したそうです。応仁の乱の終末の頃です。狩野派2代目で、漢画様式に大和絵の技法を取り入れ、狩野派の基礎を築きました。
上京区元誓願寺通小川東入北側に、その屋敷跡の石碑が立っています。P8782.jpg
元信はここで生まれ、84歳で没しました。その後、狩野家歴代がこの地に住んだといわれています。この附近を俗に狩野図子と呼んだそうです。

昨日取り上げた退蔵院に、元信の作庭である枯山水庭園があります。方丈に面したお庭で、法要の為、正面から眺める事はできませんでしたが、通常拝観のコースから、写真を撮りました。P8781.jpg
P8780.jpgP8779.jpgP8778.jpgP8777.jpg元信の晩年の作品で、いわゆる枯山水の典型的な庭よりも、絵画的なメリハリがあるようです。
退蔵院の北に位置する霊雲院には代表作「山水花鳥図」が残されています。P8775.jpg

そして、随分ご近所にそのお墓がありました。
堀川上御霊東入の妙覚寺さんです。境内を入って左側の唐門前に墓の所在を記した石碑があります。P8783.jpg境内より出て北西の方角、紫明通小川下がる西側に妙覚寺さんの墓地があります。P8786.jpg左奥の方、大きな切り株の近くにその墓はありました。P8785.jpgP8784.jpg元信(2代)・永徳(5代)・貞信(7代)・安信(8代)・時信(9代)・高信(12代)・泰信(13代)の墓だそうです。
よぉ~お参りしといたら、絵が上達するかしらん?

2009年08月08日

ひょうたんの日

数字の「8」がひょうたんの形に似ていることから、全日本愛瓢会が8月8日を「瓢箪の日」と制定しました。というわけで、今日は瓢箪に関係したお寺を取り上げます。

〈福勝寺〉
千本出水西入の福勝寺は別名をひょうたん寺といいます。その由来には、2つの話があります。
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1つは、秀吉が、福勝寺の歓喜天を篤く信仰し、出陣の際に武運を祈願して瓢箪を奉納し、戦いに勝つとその瓢箪を頂戴して帰り、千成瓢箪を造って旗印にしたという逸話によるというものです。

又1つは、福勝寺の創建以来伝わる伝統的なお守りが、宝珠(ほうしゅ)を2つ重ねた形をしていることから、それがひょうたんの形に似ているとして、鎌倉時代ごろからひょうたんをお守りとして用いるようになったというものです。

〈退蔵院〉
右京区花園の妙心寺 塔頭である退蔵院は、如拙の傑作 国宝「瓢鮎図(ひょうねんず)」で有名です。
P8798.jpgP8788.jpgP8787.jpgP8797.jpgパンフレットからのコピー 瓢鮎図P8776.jpgP8796.jpg茶室にも瓢箪の意匠が施されています。P8795.jpgP8794.jpg内側からP8793.jpgお抹茶と瓢鮎菓子を頂きました。P8792.jpgご住職の手による掛け軸P8791.jpgP8789.jpgP8790.jpg

2009年08月07日

弥次喜多像

「東海道中膝栗毛」で有名な十返舎一九は天保2年8月7日(1831年)に、67歳で江戸長谷川町の裏長屋で病死しました。
自分の死を予期していて、前日、頭陀袋へ線香花火をいっぱい詰めておいたそうで、火葬場で弔いの人々を驚かせました。

 辞世の句

この世をば どりゃおいとまに せん香の    
              煙りと共に 灰左様なら
三条大橋の西橋詰に弥次喜多の像が造られています。P8804.jpgP8803.jpg撫で石の写真は撮り忘れてしまいました。P8802.jpg東側からP8800.jpg
三条大橋の西から二つ目の南北擬宝珠に池田屋事件の時についたものではないかという刀傷が見えます。池田屋とちょっと距離あるけど?
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2009年08月06日

持明院仙洞御所跡

天福2年8月6日(1234年8月31日)に後堀河上皇が23歳で崩御されています。
上京区新町通上立売上る西側(光照院門跡・恵聖院前)に、上皇の住まいされていた持明院仙洞御所跡の石碑が立っています。P8806.jpg
藤原基頼が邸宅内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけたのがその名の由来です。
基頼の孫 陳子が高倉天皇の子 守貞親王の正妃となり、守貞親王がこの家に寄宿して持明院の宮と呼ばれていました。

承久の乱の後、後鳥羽天皇につながる血統を排除、守貞親王の皇子 茂仁親王が後堀河天皇となったので、守貞親王に太上法皇の称号を奉り、この邸を仙洞としました。後堀河天皇は、当時10歳であったので、守貞親王が後高倉院として、院政を行いました。

後堀河院、御嵯峨院が持明院殿で死去し、その後も後深草、伏見、後伏見、花園、光厳、崇光、後光厳天皇の御所となりました。この帝の方々を持明院統と呼び、大覚寺統と皇位を争う事となってゆきます。

焼失の後に、光照院が移建されています。P8805.jpg

2009年08月04日

橋の日 一条戻橋

8月4日は昭和61年(1986年)に、「は(8)し(4)」の語呂合せで「橋の日」と制定されました。

生活と文化に密接な関りを持つ川や橋に感謝し、橋や河川との触れ合いを通して故郷を見つめ直す日だそうです。

市内の橋で、伝説に事欠かないのは、やはり一条戻橋でしょうか。P8814.jpg
平安時代より、位置が変わっていないというこの橋は、現在は架け替えられて、いささか趣きに欠けるデザインのように感じます。P8813.jpgP8809.jpg橋の由来は駒札の通りです。P8812.jpg戻橋の下より下流P8808.jpg
万葉の時代からさまざまな占いが行なわれてきたようですが、橋のたもとで往来の人の言葉を聞いて、吉凶を占う占いを橋占と云ったそうです。
清盛の夫人である二位ノ禅尼が、徳子(建礼門院)の難産の折、戻橋の東のたもとにて橋占をしたそうです。このとき12人の童子が手をたたきながら西から走ってきて、「榻(しじ)は何榻、国王の榻、八重の塩路の波の寄せ榻」と4、5回歌って橋を渡って東の方へ走り去ったと云います。
これを聞いた平時忠は、「国王の榻(牛車の乗降用の踏み台)ということはきっと生まれるのは皇子であろう。めでたい事だ。」と、考えましたが、後に安徳天皇が壇ノ浦に沈むことを歌った後半部分の意味までは、その時はわからなかったという話も残っています。
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かつての戻橋P8811.jpg

2009年08月01日

伏見城 落城とその遺構

関ヶ原の戦の前哨戦となった伏見城の戦いは、慶長5年7月18日(1600年8月26日)に始まり、8月1日(1600年9月8日)の鳥居元忠の討死、伏見城落城で幕を閉じました。後に、家康によって再建されましたが、次第に軍事的な必要性を失い、廃城となります。解体された遺構が、各地に残っています。
二尊院 嵯峨 
 総門 角倉了以が伏見城の薬医門を移築した門といわれています。
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観音寺 七本松通出水
 山門 伏見城の牢獄の門と伝えられています。
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堅牢な構えで、屋根の傾斜も美しく、朽ちかたも怪しい感じが漂い、歴女心をくすぐります(^^)P8828.jpgP8827.jpgP8815.jpg
門扉の左下(境内側から見て)に、くぐり戸があります。刑期を終えた囚人が牢獄を出る際に、ここをくぐって出たと云われています。P8820.jpg
門を出た囚人はこの門前で百たたきを受け、開放されたことから「百たたきの門」とも呼ばれていたといいます。
P8826.jpgP8819.jpgP8818.jpg
観音寺にこの門が移築されてより、夜ごと、風が吹くと人の泣き声がするといわれ、出水の七不思議の一つに数えられています。P8816.jpg

2009年07月31日

妖怪ストリート

平安京の最北端 一条通は、都の境界線、人と妖怪の出会う場所です。
古くなって打ち捨てられた道具類が妖怪(付喪神)に化けて行進したという百鬼夜行の伝説があります。ちょっと妖怪たちに会いに行ってきました。P8849.jpg
P8850.jpgP8851.jpgP8846.jpgP8847.jpgP8848.jpgP8672.jpg
P8845.jpgP8844.jpgP8843.jpgP8842.jpg
P8841.jpgP8840.jpgP8839.jpgP8838.jpgP8837.jpgP8836.jpgP8835.jpgP8834.jpgP8833.jpgP8832.jpg
一条通の七本松から西大路までの間にある大将軍商店街はいつも妖怪たちが迎えてくれます。
8月17日~23日まで、妖怪芸術展の開催や、妖怪喫茶も営業されます。嵐電の妖怪電車もまた運行される模様です。P8831.jpg

2009年07月30日

立本寺 蓮

7月27日 上京区七本松通仁和寺街道の立本寺の蓮を見に行きました。P8866.jpg
雨に洗われ、しっとりと潤った蓮が綺麗でした。P8865.jpgP8864.jpgP8863.jpgP8862.jpgP8861.jpgP8860.jpgP8859.jpgP8858.jpgP8857.jpgP8856.jpgP8854.jpgP8855.jpg

2009年07月29日

静御前

文治2年(1186年)鎌倉に送られていた源義経の愛妾 静御前は7月29日に男子を出産しましたが、赤子は取り上げられ殺されました。

源義経と静御前の出会いの場所は、二条城南にある神泉苑であるといわれています。

寿永元年(1182年)、後白河法皇による雨乞いの際、99人の白拍子が舞っても雨が降らず、100人目の静が舞を奉納した際、にわかに曇り大雨が降ったということです。
このときの静御前を義経が見初めたのが、始まりとされています。
わずか4年の後に静御前は涙に暮れることとなってしまうですねぇ。
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鮮やかな朱色の法成橋(願い事を1つ念じながら渡ると叶うといわれています。)と静が雨乞いの舞を舞ったといわれる舞台、その横には、恋みくじが置かれています。

この静御前の白拍子姿は、時代祭にも登場しますが、9月第4月曜の櫛祭りの際も、登場する定番の平安女性風俗です。P8853.jpg
一度は着てみたい衣装として、人気があります。P8852.jpg
こしらえはしましたが、自分で着なかったのが、いささか心残りではあります(^^)

2009年07月28日

木曽義仲 入洛

寿永2年(1183年)7月28日、木曽義仲が入洛し、行家と共に蓮華王院において、後白河法皇より平氏追討を命じられます。
蓮華王院 現在の三十三間堂P8869.jpgP8868.jpg
以仁王の令旨によって挙兵し、その遺児を北陸宮として擁護し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って上洛する朝日将軍(旭将軍)と称されたその活躍ぶりは、ここまでは、順調だったんですけどねぇ~。

2009年07月27日

天文法華の乱

天文5年(1536年)7月27日 法華宗と対立する延暦寺衆徒が京都の法華一揆を破り21の寺院を焼く 、天文法華の乱が終焉を迎えました。
強い勢力を持っていた法華宗と、細川晴元・茨木長隆らの軍勢が、一向宗徒の入京を聞きつけ、一向宗寺院を焼き討ちしたことに始まり、日蓮宗の宗徒(松本久吉)が比叡山西塔の僧の説法を論破した(松本問答)のをきっかけとして、比叡山と日蓮宗の対立が深まり、政治的思惑も絡み、六角定頼らを味方にした比叡山側が、二十一の寺を焼き、法華宗を京都から、追放した事件です。京都ではこの後6年間、日蓮宗は禁教となり、堺に逃れていた寺院は天文11年(1542年)に京都に帰還を許され、再建されました。

本圀寺(ほんこくじ) 山科区御陵大岩 
写真は下京区大宮花屋町上るの本圀寺跡 
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本能寺(ほんのうじ) 中京区寺町通御池下る 
写真は中京区油小路蛸薬師下るの本能寺跡P8874.jpg
本法寺(ほんぽうじ) 上京区小川通寺之内上る
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本隆寺(ほんりゅうじ) 上京区智恵光院通五辻上る
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妙覚寺(みょうかくじ) 上京区新町通鞍馬口下るP8870.jpg
妙顕寺(みょうけんじ) 上京区寺之内通新町西入
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妙満寺(みょうまんじ) 左京区岩倉幡枝町
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妙蓮寺(みょうれんじ) 上京区寺之内通大宮東入
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立本寺(りゅうほんじ) 上京区七本松通仁和寺街道P8866.jpg
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などです。豊臣秀吉による京都の都市改造の一環として、さらに移転し、現在に至っています。

2009年07月26日

幽霊の日

文政8年(1825年)7月26日、江戸の中村座で鶴屋南北作『東海道四谷怪談』が初演された事を記念して、7月26日を幽霊の日と定められています。

幽霊で思い出すのは、かの〈幽霊 子育飴〉 という事で、買いに行きました(^^)P8883.jpg
東山区松原通東大路西入ルのみなとやさんです。P8885.jpg
由来
「今は昔、慶長四年京都の江村氏妻を葬りし後、数日を経て土中に幼児の鳴き声あるをもって掘り返し見れば亡くなりし妻の産みたる児にてありき、然るに其の当時夜な夜な飴を買いに来る婦人ありて幼児掘り出されたる後は、来らざるなりと。
此の児八才にて僧となり修行怠らず成長の後遂に、高名な僧になる。寛文六年三月十五日六十八才にて遷化し給う。」P8884.jpg

2009年07月25日

平家 西国落ち

寿永2年(1183年)7月25日、後白河法皇に見放された平家一門は、京都を捨てて西国へ落ちていくことになりました。
平家一門は、めいめいの屋敷に火をかけ、6歳の安徳天皇を御輿にのせて、都を落ちてゆきました。

平家一族の屋敷は、北は松原通、南は正面通、西は鴨川、東は東山山麓あたりまでの広大な地域にありました。
六波羅蜜寺の周辺がその跡となり、三盛町、門脇町、池殿町などの、地名が残っているのみです。P8881.jpgP8882.jpgP8880.jpgP8879.jpg

2009年07月24日

藤原冬嗣

藤原冬嗣は、天長3年7月24日(826年8月30日)に亡くなっています。
嵯峨天皇の側近で、信頼も厚く、急速に他家を圧倒して、藤原北家の繁栄の礎を築きます。

仁明天皇の后となった娘の順子が道康親王(文徳天皇)を生んだのは、冬嗣の亡くなった翌年の事ですから、外孫の顔を見ずに亡くなっているのですね。
私邸が閑院邸と称されたことから、閑院左大臣とも言われていました。中京区押小路通小川の角に石碑、西入るに説明書きが立っています。P8995.jpgP8998.jpg
P8996.jpg妙顕寺城跡と、場所がかぶっています。

弘仁12年(821年)に勧学院を創建し、藤原氏の子弟の教育にも力を注いでいます。三条坊城上るに石碑が立っています。P8886.jpg

2009年07月22日

下鴨神社のみたらし祭

7月18日~21日まで、下鴨神社では、みたらし祭が行なわれました。
土用の丑の日に御手洗池の中に足をひたせば、罪、けがれを祓い、疫病、安産にも効き目があるといわれています。P8896.jpg
御手洗祭は平安貴族による禊払いが始まりとされ、「足つけ神事」とも呼ばれています。P8895.jpg
御手洗池で膝までを浸し、無病息災を祈ります。P8894.jpgかなり、冷たい水なので、結構冷えます。P8893.jpg
途中で、ろうそくに火をもらいます。P8892.jpg水から上がり、ご神水をいただきます。P8891.jpgP8890.jpgP8889.jpgP8888.jpgP8887.jpg
冷えた足が、だんだん、ほんわ~としてきて、気持ちよくなりました。

2009年07月20日

池田屋事件 2009?

池田屋事件は1864(元治元)年7月8日に発生。旅館池田屋で会合していた尊王攘夷派の土佐、長州藩士らを新選組が襲撃し、新選組の名を世間に知らしめるきっかけとなりました。

130年の時を経て、2009年7月8日、池田屋が復活したということで、沖田君を伴い?出掛けてきました。P8910.jpgP8908.jpgP8907.jpg
池田屋 見取り図をチェックしてP8909.jpg
いざ、襲撃です!?P8906.jpg
入り口を入るとすぐに大階段P8905.jpg
駆け上がる沖田君!P8904.jpg
帳場で、戦う沖田くん!P8903.jpg
アップ映像P8902.jpg
持病で、倒れてしまった沖田君です。P8901.jpg
平成の池田屋は、居酒屋チェーンのチムニーによる「海鮮茶屋 池田屋はなの舞」で、先頃オープンしたばかりです。東映京都スタジオなどの協力のもと、旅館の帳場を再現し、映画の「階段落ち」のシーンで知られる大階段も設置されています。しかし階段は横幅があまりないので、人間が階段落ちを試みるのはいささか難しい模様です(^^)

2009年07月19日

蛤御門の変

元治元年7月19日(1864年8月20日)に起きた禁門の変は、蛤御門付近が激戦区であった為、蛤御門の変とも呼ばれています。
P8914.jpg
尊皇攘夷派の長州藩は、文久3年(1863年)の八月十八日の政変で京都を追放され、池田屋事件で多くの仲間を殺され、長州藩では、積極派と慎重派の意見が対立、ついに挙兵となります。薩摩藩・会津藩など幕府側の守る御所の下立売御門、中立売御門、蛤御門の3方向から攻撃をしかけます。P8911.jpg
門の梁に残る弾痕って、これどすやろか?P8912.jpgP8913.jpg薩摩藩の軍勢に、あえなく長州軍は敗走し都から逃げる事になります。その際に火をつけた長州藩屋敷と、長州藩の生き残りを排除するために放たれた火が町に広がり、市内は焼け野原となりました。
ホテルオークラにある長州屋敷跡の石碑P9072.jpg

2009年07月18日

橘逸勢 

承和の変で、罪に問われた橘逸勢は、伊豆へ配流される途中(遠江板築)で、病で亡くなっています。
P8917.jpg
その屋敷跡の石碑が中京区姉小路通東堀川東入上る東側に立っています。
延暦23年(804年)には最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡っている人で、嵯峨天皇・空海と共に、三筆と称されたほどの達筆です。
承和の変に深くかかわった嵯峨天皇皇后である橘嘉智子は、いとこにあたります。
本人は最後まで罪を認めずに亡くなったようです。護送される後を追ってきた娘が、父の死を嘆き、その地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め、草庵を営み、菩提を弔ったそうです。
後にその罪を許され、上御霊神社と下御霊神社に祀られています。

2009年07月17日

承和の変と淳和院

承和9年(842年)7月15日に嵯峨上皇が崩御され、その2日後の17日に承和の変(じょうわのへん)が起こっています。
皇位継承者をめぐるそれぞれの思惑が交差する中、藤原良房によって、伴健岑・橘逸勢らが、謀反を企てたとして捕らえられ、皇太子恒貞親王を廃し、道康親王(文徳天皇)を立太子するという出来事です。
P8916.jpg画像の拡大

恒貞親王は仁明天皇の皇太子に立てられていたが、仁明天皇と藤原順子(藤原良房の妹)の間に生まれた道康親王を皇太子に擁立しようとの動きがあることを察し、皇太子の辞退を願い出ていたが、認められずにいました。
承和7年に父 淳和上皇が有力な後ろ盾のいない息子 恒貞親王の身を案じながら崩じ、さらには、嵯峨上皇が死の床につき、皇太子の身に危険がおよぶ不安が強くなり、皇太子に仕える伴健岑らが、東国に入って難を避けてもらおうと考え、7月10日 阿保親王に相談を持ちかけたところ、阿保親王が太皇太后橘嘉智子に上呈し、太皇太后は、中納言藤原良房に伝えることとなります。
この事件の結果、他氏を排斥した良房は出世を重ね、人臣初の太政大臣となり、藤原氏繁栄の基礎を築く事となります。
右京区西院 北東にある高山寺前の石碑P8923.jpg
淳和上皇は長男の恒世親王を在位中に亡くし、退位後は、淳和院(西院)に皇太后となった正子内親王(淳和太后・嵯峨天皇の皇女)と暮らしていましたが、崩御の際、薄葬にし、火葬の上、砕いて散骨するよう命じて亡くなっています。淳和上皇の終焉の心情には、感じ入るものがあります。大原野西嶺上(現在の小塩山)がその地であるそうですが、機会があれば訪れてみたいと思います。

承和の変の後、正子内親王と恒貞親王は淳和院で静かに仏道修行に専念しています。

貞観18年(876年)、嵯峨天皇の住まいされていた嵯峨院を、長女である正子内親王が大覚寺と号し、恒寂入道親王(恒貞親王)が初代門跡(住職)となっています。

佐井通四条上ルの春日神社境内には、淳和院の礎石と伝承されるものがあります。P8920.jpg佐井通四条北東角の大型電気店の壁に発掘の際の説明板があります。P8919.jpgP8918.jpg

2009年07月16日

西林寺のむくげ

7月13日 上御霊室町西入る北側の西林寺では、むくげの花が咲いていて、蒸し暑い中にさわやかな空気が漂っていました。P8933.jpg
P8932.jpgP8931.jpg
P8930.jpgP8929.jpgP8928.jpgP8927.jpgP8926.jpgP8925.jpgP8924.jpg

2009年07月15日

豊臣秀次の墓所 瑞泉寺 

文禄4年7月15日(1595年8月20日)豊臣秀吉の甥である豊臣秀次は切腹しています。
瑞泉寺は、三条大橋西畔に、秀次の菩提を弔うため建立された寺です。P8945.jpg
天正19年(1591年)秀吉の嫡男・鶴松の死去により、秀吉の養子となり、後継者として関白職を譲られました。
聚楽第に住まいして政務を執っていましたが、文禄2年(1593年)、秀吉と側室の茶々(淀殿)の間に秀頼が生まれると、次第に秀吉から疎まれるようになってゆきます。
上京区中立売通裏門西入南側に聚楽第跡の石碑があります。P8936.jpgP8935.jpg智恵光院中立売の石碑
P8934.jpg
謀反の疑いをかけられることになり、文禄4年(1595年)秀吉の命令で高野山に追放され、切腹を命じられ青巌寺・柳の間にて死亡しました。享年28歳です。P8944.jpg
秀次の首は三条河原に曝され、そこで秀次の家族や女人らも多く処刑されました。P8943.jpgP8942.jpgP8941.jpg
P8940.jpgむくげが涼しげに咲いていました。P8939.jpg
P8938.jpgP8937.jpg秀頼が秀吉の子であったかどうか、私としては疑わしく思っているので、秀次を殺してしまったことは、唯一の血縁者を自ら葬ったように思えます。戦国時代という歴史の1ページです。

2009年07月14日

山鉾建て 車輪の取り付け

祇園祭も、どんどん準備が進んでいるようですね。。
7月13日 岩戸山の車輪の取り付け場面に出会いました。P8959.jpg
車輪が荷台からゆっくりと下ろされます。P8958.jpg
単独で見ると、結構大きいです。P8957.jpg
山まで転がしていきます。本体のほうでは、大勢で長い棒を差し込みます。P8955.jpg
P8954.jpg
てこの原理で、持ち上げます。P8953.jpg
車輪軸に滑りを良くするものを塗っています。P8956.jpg
P8952.jpgP8951.jpgえいさ!えいさ!の掛け声と共に少しずつ車輪が入ってゆきます。
P8950.jpgP8949.jpg別の車輪もP8947.jpgP8946.jpg
4輪とも取り付けられました。P8948.jpg

2009年07月13日

上杉景勝・直江兼続の聚楽屋敷跡

今年に入って、上杉景勝と直江兼続の京都の屋敷跡に石碑が建ちました。
上京区黒門通一条上る西側に〈聚楽第 武家地 上杉景勝屋敷跡)の石碑。
同じ石碑北側には、〈此付近 応仁の乱ゆかりの地 細川勝久屋敷跡〉と刻まれています。
P8963.jpgP8960.jpg
上京区堀川通椹木町西入ル南側には、〈此南 聚楽第 武家地 直江兼続屋敷推定地〉の石碑が建ちました。
同じ石碑の南側には、〈此北 聚楽第 武家地 上杉景勝屋敷推定地〉
さらには、東側に、〈平安京左京二条二坊八町 春宮坊 東宮町跡〉と刻まれています。P8961.jpg
P8962.jpg
どちらも、歴史地理史学者の中村武生氏の解説が添えられています。実は、この方に先日偶然会ってしまいました。ブログで、お写真を拝見していたので、もしかしたら?と思ったらやっぱりご本人でした。
思わず、握手してもらいました(^^)かなり、ミーハーです。

2009年07月12日

鴨川納涼床

7月5日コンサートのあと、鴨川の床へ行きました。
夜はちょっと雲行きが怪しくなりそうな気配でしたが、とりあえず。
お隣の屋根に猫 発見!P8964.jpgゆば刺し、生麩田楽などのお気に入りメニューに加え、鱧のおとしに賀茂茄子の田楽、あゆ塩焼きなど京の夏の定番料理をいただきました。食べるのに忙しかったので、写真はありません。
暗くなってくると雰囲気も出てきます。P8969.jpg
私の後姿です。P8968.jpg途中、ぱらっと雨が降ってきて、屋内の席に避難しましたが、すぐ止んだので、しつこくもまた床に舞い戻りました。P8967.jpg
濡れた石畳がネオンの中に美しい先斗町でした。

2009年07月11日

保元の乱

保元の乱(ほうげんのらん)は、平安時代末期の保元元年7月に崇徳上皇と後白河天皇が対立して、上皇側に天皇側が奇襲を仕掛けた事件です。P8965.jpg7月11日(1156年7月29日)未明寅の刻(午前4時)、天皇方は清盛300余騎、義朝200余騎、義康100余騎の3隊に分かれて、崇徳上皇側の本拠地である白河北殿を奇襲しました。P8966.jpg
白河法皇が造営した御所・白河北殿跡の石碑は、京都大学熊野寮内の角っこにあります。

後白河天皇の本拠地は中京区姉小路通釜座東入ル北側にある高松神明社のあたりで、天皇の内裏となっていた高松殿でしたが、手狭となり、戦闘のさなかに、御池を渡った東三条殿に移っています。

双方ともに、夜討を仕掛ける案を出していたのですが、上皇側は、「夜討は身分のある人のすべきことではない。まして今回は、かしこくも上皇様と天子様のお国争いの御合戦である」として却下されたのに対して、天皇側は認められ、さらには火をかける事も認めたことが大きな勝因となっているようです。

ちょっとした判断の違いが、歴史を大きく動かしてゆく事になるのですね~。

2009年07月10日

本国寺跡

6月28日の大河ドラマ「天地人」の中で、初めて上洛した上杉景勝や直江兼続の宿舎となっていたのは、下京区にあった本国寺です。
北は五条小路(現松原通)、東は堀川小路(現堀川通)、南は七条坊門小路(現正面通)、西は大宮大路(現大宮通)の範囲にあった広大な敷地を有する寺だったようです。1680年代に、水戸光圀の熱心な外護を受けたことから、本圀寺と改められ、現在は山科区に移っています。P8972.jpg
堀川松原下るの堀川署南に東総門跡があります。P8971.jpgP8970.jpg
西総門跡は、大宮花屋町上るの淳風小学校北にあります。P8974.jpg
P8973.jpg
現在も多くの塔頭や墓所が、このあたりにあります。
西本願寺の駐車場あたりには、諸堂が建ち並んでいたようです。
天正14年(1586年)の6月に、景勝や兼続らはどのあたりに寝泊りしてしていたのでしょうね。洛中洛外図屏風(上杉本)の右隻 右下のほうに、当時の本国寺が描かれています。P8975.jpg
彼らの目に映った京の町並みはどんなものだったのか、興味深いところです。

2009年07月09日

堀河天皇

承暦3年7月9日(1079年8月8日)第73代天皇となる善仁親王(堀河天皇)は、第72代白河天皇と寵愛された藤原賢子の間に生まれています。
8歳で白河天皇から譲位され即位し、白河上皇の院政が始まります。
成人して関白が寛治8年(1094年)に藤原師通に代わってから、承徳3年(1099年)に師通が死去するまでの短い間は共に政務を行い、「末代の賢王」と評される賢帝であったといいます。
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堀河天皇が病弱だったこともあり、藤原摂関体制の弱体化と共に、白河上皇が再び政治の実権を握るようになってゆき、次第に政治から離れ、文化面にその才能を発揮していくこととなります。
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嘉承2年7月19日(1107年8月9日)に堀河殿において、二十九歳で崩御する様子が乳母子の典侍藤原長子「讃岐典侍日記」に記されています。P8976.jpg
二条城向かいの国際ホテル前に、内裏跡の石碑が建てられています。

千歳まで 折りて見るべき 桜花
          梢はるかに 咲きそめにけり

2009年07月08日

平滋子(建春門院)

安元2年7月8日(1176年8月14日)、後白河天皇の譲位後の妃であり、高倉天皇の生母である平滋子(建春門院)が亡くなっています。
低い身分から美貌と才覚、時の運によって権力者の寵姫となり、政治の上でも発言力を持ち、若くして亡くなった女性です。平清盛の妻 時子は異母姉にあたります。
院の御所である法住寺殿に住まいしていました。P8979.jpg
東山の三十三間堂の東隣にある法住寺は、平安時代中期に藤原為光によって創設され、この寺を中心に、法住寺殿がいとなまれました。木曾義仲によって焼き討ちされ、後白河上皇の亡くなったのち、法住寺は上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続しました。明治期に御陵と寺が分離されて現在にいたっています。現在改築中です。
蓮華王院(三十三間堂)は、もともとこの寺の御堂であり、法住寺殿は広大な敷地であったようです。
法住寺の北側に後白河上皇の御陵に向かう参道があります。
P8981.jpg女御の御陵として法華堂が建てられ、後に上皇の法華堂が建春門院の法華堂の南側に建てられ、蓮華王院に対面して二堂が並立していたと推定されているそうです。ということは、現在の養源院のあたりに女御の御陵があったのでしょうか?
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上皇が滋子を伴って熊野参詣を行った際のエピソードに、熊野本宮で滋子が「胡飲酒」を舞っていたところに突然大雨が降ったが、いささかもたじろがず舞を続けたというものがあります。信念が強く、気丈な性格であったようです。
滋子は平家一門の繁栄に大きく貢献しています。姉の時子の夫である清盛と後白河法皇の関係の親密さも、滋子の影響が大であったようで、その死後、後白河法皇は、清盛を遠ざけ、平家一門の勢力の削減に向かっってゆきます。

2009年07月07日

七夕飾り

7月6日 東山の警察署前を通りかかりました。七夕飾りの設置中でした。P8982.jpg

2009年07月06日

妙顕寺城跡

6月28日の大河ドラマ「天地人」の中で、景勝・兼続が秀吉に暇乞いの為に出向いたのが、妙顕寺城でした。
妙顕寺は、元享元(1321)年に日像が開いた京都における最初の日蓮宗寺院でしたが、移転を繰り返し、戦国時代には、二条西洞院にありました。
天正11(1583)年、秀吉は大坂城造営に着手すると共に、京都では妙顕寺を拠点としました。寺院としての妙顕寺は、この時に現在の地(上京区寺之内通新町西入)に移されています。
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中京区押小路通小川西入北側の西福寺の山門横に石碑が立っています。
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天正15年(1587年)9月に聚楽第が完成するまで、京都の政庁となっていました。周囲に堀をめぐらし、天守をあげていたことから、妙顕寺城と呼ばれています。平素は前田玄以が居住して京都の政務にあたり、秀吉の上洛の際の宿舎としていたようです。聚楽第の完成によって大阪城から秀吉が移り住み、その役割を終えています。
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現在、古城町という地名が残っているのは、この妙顕寺城に因んでいるようです。
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そしてこの地は閑院内裏跡でもあります。
平安時代前半は、藤原氏の邸宅として用いられ、後半は白河上皇・堀河天皇・高倉天皇・土御門天皇等の里内裏であり、鎌倉初期まで存続していました。
押小路通小川西北角に閑院内裏跡の石碑が立っています。
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6月29日 雨の中、しばし昨日の大河ドラマのシーンを思い出して戦国時代に思いを馳せ、楽しみました。


 

2009年07月04日

紫式部墓所

紫式部といえば、近くにお墓があります。P9006.jpg
堀川北大路を下がった西側、島津製作所の一角です。墓所の入り口には墓碑が立ち、後ろにムラサキシキブが植えられています。P9007.jpg秋には、紫色の実が生りますが、今は小さな花が咲いています。P9008.jpg奥へ進むと左手にP9002.jpg前にP9003.jpg
右手にP9005.jpg隣に小野篁の墓が並んでいます。P9004.jpg

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に
    雲がくれにし 夜半の月かな  (小倉百人一首)

2009年07月03日

廬山寺 紫式部と桔梗

6月29日 御所東側の廬山寺に立ち寄りました。
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こちらは、紫式部邸宅址で、源氏物語を執筆した場所といわれています。
歌碑P9014.jpg
かつてこの地に、紫式部の曽祖父、権中納言藤原兼輔(堤中納言)が建てた邸宅があり、式部はこの邸宅で育ち、結婚生活を送り、一人娘の賢子を産み、長元四年(西暦1031年)五十九歳ほどで死去したという事です。後に、廬山寺が建ち、そのゆかりから、源氏の庭が造られています。P9011.jpg
白砂が敷き詰められた中に、苔が点在し、この時期は桔梗が花開きます。P9013.jpgP9012.jpgP9010.jpgP9009.jpg
花が建物側からは後ろ向きになってしまうのが難点ですが、静かに平安の頃を思い浮かべ、執筆中にふと庭に目線をやると、こんな景色だったのかしらと想像してみるには、いい感じです。

2009年07月01日

渉成園 鴨 その2

渉成園の鴨の続編です。

片足立ちどすえ~。P9037.jpg
難易度の高いポーズどっしゃろ!P9036.jpg
キック!P9035.jpg
どないどす?P9034.jpgアップでも、余裕やし。P9033.jpg
けど、首 凝ってきたわ。P9032.jpg
う~ん。P9031.jpg反対向きも?P9029.jpg
どっこいしょ。P9030.jpg
こんな感じでどうどす~?P9028.jpg
背景も入れて。P9027.jpg
足疲れてきたみたい。P9026.jpg
もう、座るわ。P9025.jpgモデルも疲れるわ。P9024.jpg
ちょっと、昼寝するし~。ほな、おやすみやす。P9023.jpg

2009年06月30日

夏越 (なごし) の祓

6月30日は、ちょうど1年の半分の終わりです。半年分の穢れを祓う日です。
多くの神社では、「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われます。P9022.jpg
写真は左京区聖護院の熊野神社です。P9021.jpg
茅草で作られた輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うものです。
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人の形に切り取られた「人形(ひとがた)」に名前や年齢を書き込み、息を3回吹きかけ、
穢れ(けがれ)を移し、神社に納められたり、川に流されたりします。
写真は町内に回ってくる、水火天満宮の人形です。

そして、京都では、「水無月」を食べます。P9020.jpg
宮中で、冬の間に氷室に保存しておいた氷を切り出して、口にして暑気を払う行事が行われていたことに由来しているので、三角形をしています。
近頃では、抹茶味や、黒糖味もあり、私の大好きなお菓子です。P9019.jpg

2009年06月29日

渉成園 鴨 その1

6月22日 睡蓮を撮っていると、鴨が近づいてきました。P9051.jpg
何してんの~?P9050.jpg睡蓮の写真?P9049.jpg
ふ~ん。P9048.jpg面白いかなぁ~?P9047.jpg
う~ん、わからへんわぁ。P9045.jpg
ほな、またねぇ。P9046.jpg行くわ!P9042.jpg〈待ってぇ~。〉と声をかけると、P9044.jpg何?P9043.jpg〈もっと写真撮らしてくれへん?〉
はい、ポーズ。P9041.jpg
〈動きがないなぁ。)
ほな、歩こか~。P9040.jpgこんなんは~。P9039.jpgどや、見返り美人やろ?P9038.jpg
人慣れした鴨に遊んでもらいました。次回に続く・・・。

2009年06月28日

高山彦九郎

寛政5年6月28日(1793年8月4日)、江戸時代後期の尊皇思想家である高山彦九郎が自刃しています。享年46歳でした。P9054.jpg
高山彦九郎という人のことは、殆ど知らないのですが、三条京阪にある銅像は、よく知っています。
子供の頃、父親に聞いた記憶があります。
「あの人、何したはるの?」
「御所、拝んだはるんや。」
「ふ~ん?」P9052.jpg
以来、大変そうな顔して御所の方 向いて座ったはる人 というのが、私の認識のすべてです。
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この銅像は、2代目だそうです。初代は1928年に作られたようですが、1944年11月の金属回収令で供出され、現在の銅像は1961年の再建だそうです。東側にあるのが初代の台座跡です。ですから、私は、物心ついた頃より、今の銅像を眺めていることになります。P9053.jpg
三条大橋は、京の都に入る地点で、彦九郎は京に上る度に、ここから御所に拝礼していたことから、この像が造られたということです。

全国をくまなく遊歴した旅の思想家で、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物なのですから、尊王思想の先駆者ということなのですね。

2009年06月27日

渉成園 睡蓮

6月22日 久しぶりに東本願寺の飛地である渉成園(枳殻邸)を訪れました。入り口が変わり、りっぱなパンフレットが出来ていました。
P9056.jpgP9069.jpg目当ては睡蓮です。P9068.jpgP9066.jpgようよう、雨が上がったところで、足元がしっとりしてしまいます。P9067.jpgP9065.jpgP9064.jpgP9063.jpgP9062.jpgP9058.jpgP9061.jpgP9060.jpg睡蓮に近づくには、池の際まで乗り出す感じになり、雨でぬかるんでいた為、池ポチャ!しそうになって、ヒヤリとしました(^^)P9059.jpgP9057.jpg

2009年06月26日

桂小五郎

天保4年6月26日(1833年8月11日)に和田小五郎は生まれました。
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元服して、桂小五郎と呼ばれるようになり、慶応2年(1866年)に藩主毛利敬親から木戸姓を賜り、木戸孝允を名乗っています。個人的には、桂小五郎が親しみやすく感じるので、タイトルにしました。
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京都ホテルオークラの西側に銅像が建っています。結構、イケメンに造られています。身長6尺(約174センチメートル)だったというのですから、当時としては、長身です。
P9074.jpgP9073.jpg
オークラ南側には、長州藩邸あとの石碑が立っています。P9072.jpgP9071.jpg三条大橋の上から、幾松さんがお弁当を落とした話が残っていますが、現在の二条大橋の事だそうです。

2009年06月25日

菅原道真と文子天満宮

菅原道真公は、承和12年6月25日(845年8月1日) に生まれ、延喜3年2月25日(903年3月26日)に薨去されています。
北野の天神さんでは毎月25日を御縁日として、露天が立ち並び、大勢の人で賑わっています。

930(延長8)年6月26日には、平安京の清涼殿に落雷があり、大納言の藤原清貴が亡くなっっています。この落雷は太宰府に左遷され、亡くなった菅原道真のたたりであると信じられ、道真の怨霊は、雷の神「天神」と同一視されて、天神信仰が生まれました。
このことから、6月26日を雷記念日と称しています。ついでに、左遷の日というのもあり、1月25日だそうです。

この北野の天神さんの、前身の神社とされているのが、東本願寺の東の方(下京区間之町通七条上る)にある文子天満宮です。P9088.jpgP9087.jpg
道真の乳母をしていた(巫女や童女説もある)多治比文子(たじひのあやこ)のもとに、「われを北野の右近の馬場に祀れ」とのお告げがあったのですが、貧しかったため、すぐには実現できず自分の家の庭に小さな祠をもうけ道真公を拝んでいました。P9085.jpg
その後、近江比良宮禰宜神(みわ)良種の子の太郎丸にも「北野辺に鎮座したい」とのお告げがあり、太郎丸と文子は北野朝日寺の僧・最鎮と相談して祠を設けたのが北野天満宮の始まりとされています。P9086.jpg
道真公の御霊が北野に移された後の文子の住居跡は文子天満宮となり、現在に至っています。P9084.jpg道真公腰掛石P9083.jpg
太宰府へ向かう時に、文子に別れを告げに立ち寄った際、腰掛けた石だそうです。P9080.jpg天神さんお決まりの牛P9082.jpgP9081.jpg
文子天満宮は上京区上ノ下立売通御前西入上ル北町にもあります。P9079.jpg明治6年に北野天満宮境内に遷座したため、現在は御旅所となっています。
そして、俊寛ゆかりの満願寺(岡崎)にも文子天満宮があります。P9078.jpg

2009年06月23日

立本寺・福壽院

6月22日 どしゃぶりのち晴れ
七本松通仁和寺街道の立本寺さんの蓮の様子を見に行きました。P9116.jpg
2・3の花が開き切って、雨でくずれてしまっていました。蕾が2つで全体的には、これからといったところでした。P9115.jpgP9114.jpg
少し下がって出水通手前の福壽院さんに立ち寄ってみました。P9113.jpg
沙羅の花がしとど濡れていました。P9112.jpg
P9111.jpgP9110.jpgP9108.jpg雨の日の撮影は大変です。完全防水カメラカバーを買わないと危険ですねぇ。P9109.jpg
どしゃぶりの雨の中、カメラ持って出掛ける事自体が、異常かも~(^^)

2009年06月15日

空海

宝亀5年(774年)6月15日を、真言宗の伝承では空海の誕生日をとしています。

淳和天皇の頃、全国的な旱魃や疫病の流行がありました。
天長元年(824年)東寺の空海に雨乞いの祈祷をさせようとしましたが、西寺の守敏僧都の願い出により、守敏が7日間の修法に入りました。満願の日、一天にわかに掻き曇り、大雨となりましたが、全国的な旱魃を解決できるものではなく、空海が呼び出されました。
この舞台となっているのが、二条城南側の神泉苑です。P9169.jpg
空海の祈祷を妨げようと、守敏が諸龍を封じ込めていた為、天竺より善女竜王を勧請して、祈りをささげたところ、大豪雨となり、旱魃を解消することができたそうです。P9170.jpg写真右の方に善女龍王を祀るほこらがあります。
この話はここで終わらず、恨みに思った守敏が空海を狙うようになり、ある晩、空海が羅生門前を歩いているところに、矢を放ったと言われています。矢はどこからともなく現れた僧の肩にあたり、空海は何も知らずに東寺へ、帰っていったということです。P9166.jpg
空海の危機を救ったのはお地蔵様で、「矢取地蔵」と呼ばれ、九条通の羅生門跡の公園へ向かう入り口に祀られています。P9167.jpg
肩の矢傷も痛々しいそうですが、頭巾をかぶられているので、確認できませんでした。P9165.jpg
守敏のいた西寺は、その後荒廃し、現在では、石碑と礎石が公園の丘の上に残っています。P9164.jpgP9163.jpg建保年間に証空上人が西寺を復興し、浄土宗に改宗、西方寺としたそうです。後に、また西寺と改め、現在は旧西寺跡の西北の方に位置しています。P9162.jpg

2009年06月11日

古田織部 

慶長20年6月11日(1615年7月6日)に、古田織部は自害したそうです。
墓は、大徳寺塔頭の三玄院と堀川上御霊の興聖寺にありますが、どちらも、拝観はできません。P9205.jpgP9206.jpg
天文13年 (1544年 )に美濃(岐阜県)で生まれ、織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将で、茶を千利休に学びました。正式には古田 重然(ふるた しげなり/しげてる)という名前です。
P9204.jpgP9203.jpg
利休七哲の一人で、1591年の秀吉による利休追放の際、秀吉の勘気に触れる事もいとわず、細川忠興と共に、見送りに駆けつけたという話が残っています。

利休は、堺の自宅での謹慎中に2本の茶杓をつくり、二人に贈っています。
「ゆがみ」という茶杓を細川忠興に、「泪」という茶杓を、古田織部にそれぞれ贈っています。

利休の「人と違うことをせよ」という教えを実行し、利休とは対照的な茶の湯の世界を創造したところが、魅力的ですね。

1615年(慶長20年)の大坂夏の陣のおりに、豊臣方に内通したという罪状で切腹を命じられ、「かくなるうえは 申し開きも見苦し」と一言も弁明せずに、自害しています。

最近では、『へうげもの』という山田芳裕作の漫画の主人公として知られているそうですが、まだ読んだことがありません。この機会に古田織部氏について、もっと調べてみたいと思いました。

2009年06月08日

鴨長明と河合神社

鴨長明は、久寿2年(1155年)賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)通称、下賀茂神社の禰宜(ねぎ)、鴨長継の次男として生まれ、建保4年(1216年)閏6月8日に没したとされています。
父を早くに亡くし、和歌・管弦の道に進みます。

瀬見の小川P9248.jpg
石川や 瀬見の小川の 清ければ
       月もながれを たづねてぞすむ

後鳥羽上皇のサロンの一員として、和歌所の寄人に選ばれますが、下賀茂の摂社・河合社の禰宜の地位につくことができず、本来の出世の道が閉ざされてしまいます。

河合神社P9247.jpg
元久元年(1204年)50歳で出家して大原に隠遁。各地を転々として、承元2年(1208年)山科の日野山に落ち着きます。P9246.jpg
「方丈記」を執筆した「方丈の庵」の跡が、日野の法界寺より奥の山中にありますが、下鴨神社の摂社・河合神社境内に復元された方丈庵が置かれています。移動に便利なように、組立式となっています。
P9242.jpgP9244.jpgP9243.jpgP9245.jpg
本社P9241.jpg

2009年06月03日

光琳・乾山忌

昨日、6月2日は、尾形光琳・乾山兄弟の命日でもあり、上京区寺之内通小川東入北側にある大本山妙顕寺の塔頭・泉妙院では、光琳・乾山忌が営まれました。P9271.jpgP9270.jpg
光琳は 享保元年6月2日(1716年)、乾山は寛保3年6月2日(1743年)死亡とされています。
光琳は万治元年(1658年)、京都の呉服商「雁金屋」の当主・尾形宗謙の次男として生まれました。光琳30歳の時、父が死去。雁金屋の経営は破綻していたが、遊び人であった光琳は兄藤三郎とともに遊興三昧の日々を送っていたため、智恵光院通中立売下がる西側にあった広大な屋敷を売り払い、上京藪内町とよばれていたところに転居することになりました。上御霊神社の鳥居から北西の方角にその屋敷跡の石碑が立っています。P9266.jpgP9267.jpg
40歳前後から、画業に力をいれるようになり、遊び人ならではの軽やかさや、華やかさのある作品を多く残しています。「紅白梅図屏風」「燕子花図屏風」などは、最も有名な作品ですね。

いっぽうの乾山は三男として生まれ、兄・光琳とは対照的に、地味なイメージがあります。元禄2年(1689年)、仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励んでいましたが、この仁和寺門前には野々村仁清が住んでおり、仁清から本格的に陶芸を学んだようです。37歳の時、二条綱平が京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与え、ここに窯を開く。その場所が都の北西(乾)の方角あたることから、「乾山」と号し多くの作品を手がけています。
乾山が器を作り、光琳がそこに絵を描くという兄弟合作のスタイルの作品も有名です。二人がどんなやりとりをしながら、作品作りをしていたのか、興味深いですね。

2009年06月02日

本能寺の変

天正10年6月2日 旧本能寺において、明智光秀に襲われた織田信長は、自害しました。小川通蛸薬師の角に古い方の石碑が立っています。P9273.jpg
現在の本能寺は、寺町御池下がったところにありますが、「本能寺の変」の頃には、このあたりにありました。
本能寺は、応永22年下京区五条坊門(仏光寺通)油小路に創建された本門法華宗の寺で、本応寺と号していましたが、後に改められました。
市内各地を転々として、天文14年に、この地に移っています。
当時は、東は西洞院通から西は油小路通、北は六角通から、南は錦小路までの広い範囲にあり、周囲は堀がめぐらされて、城郭風の造りとなっていました。
焼け失せたあと、天正17年(1589)、この地に再建しようとした上棟式の当日に、豊臣秀吉より鴨川村(寺町御池)の地に移転を命ぜられ、現在に至っています。P9272.jpg
この跡地には現在、老人ホームが建ち、新しい石碑が、油小路蛸薬師下がったところに造られています。
石碑にあるように、本能寺の「能」の字は、火災を避ける意味から、右側のつくりが「ヒがふたつ重なったもの」ではなく、「去」という漢字が使われています。
昨日、17代目の織田家末裔として知られるフィギュアスケート男子の織田信成さんが現在の本能寺を参拝されたようです。バンクーバー五輪での“天下統一”へ向けて、信長パワーをもらったそうです。

2009年06月01日

薪能 「正尊」

あたりもしっかり暗くなる頃、第六十回記念京都薪能 1日目の最後の演目は「正尊」です。
あらすじ
梶原景時の讒言により義経の忠誠心に疑いを抱いた頼朝は義経を殺害する為に土佐坊正尊(昌俊ともいう)を都へ差し向けた。自分を狙った上洛であると思った義経は、弁慶を使いにやり、正尊を屋敷に連れてこさせた。上洛の目的を詰問された正尊は熊野参詣の為と説明し、起請文を書いて読み上げる。その場は、ひとまず、酒宴を催して、お開きとする。その夜、正尊は軍勢を整えて義経を討つべく、堀川の義経邸へ攻め入るが、待ち受けていた義経勢に迎え討たれて、捕らえられる。

この夜討ちの舞台となったのは、六条堀川館といい、堀川五条下がったあたりにあったようです。義経が頼朝に追われて京都を去る際に焼き払われています。P9275.jpg
名水「左女牛井」(醒ヶ井)は、この邸内の井戸といわれ、江戸時代には茶の湯に用いられていたそうです。
正尊は六条河原で処刑される際に、「後世、忠義立てのために偽りの誓いをする者の罪を救わん」と願をかけたといわれています。
四条寺町東入ル南側 八坂神社の御旅所の西側にある冠者殿社(かんじゃでんしゃ)は、祭神は天照大神と素戔嗚尊を祀っていますが、俗説では土佐坊正尊をも祀っていると伝えられています。
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誓文返しの神といい、駆け引きなどでやむをえず嘘をつくはめになった商人の罪を払うといわれています。
祇園や先斗町など花街の姐さん達も、偽りの恋文、証文を書いたこと、嘘をついたことを清める参詣を行なっています。この参詣は一切無言で行わなければ願いは破れるといわれ「無言詣」と呼ばれています。

一通り、予習して、気分の盛り上がったところで、いよいよ今日を迎えました。
天気もよさそうで、マスクもしなくてもよさそうで、なによりです。
近頃は上演中の写真撮影ができなくなってしまったのが、とっても残念ですが、
シャッター音に邪魔されないのも悪くはないです。行ってきます(^^)

2009年05月28日

在原業平 邸跡

5月28日は在原業平の命日です。晩年を過ごしたとされる大原野の十輪寺では業平忌が営まれます。
十輪寺を訪れようと考えていたのですが、ちょっと遠いので、中京区間之町御池の東南角にある史跡を眺めて、平安のプレイボーイを偲ぶ事にしました。(怠慢!)P9280.jpg
平安末期の鴨長明の著した「無名抄」に、業平の住まいは、三条坊門(御池通)より南、高倉より西にあったと記されているそうです。P9281.jpg
父は平城天皇第一皇子の阿保親王、母伊都内親王は桓武天皇の皇女で、臣籍降下して在原氏を名乗りました。歌人として有名で、六歌仙、三十六歌仙のひとりです。また『伊勢物語』の主人公ともみなされています。元慶4年(880)5月28日、56歳で亡くなり、遺言により、吉田神楽岡に葬ったと伝えられています。吉田山山上の竹中稲荷神社の裏に、塚があるそうです。

ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川
            からくれなゐに 水くくるとは

小倉百人一首には、この歌が収められています。
個人的には、次の歌が好きです。

世の中に 絶えて桜の なかりせば 
            春の心は のどけからまし 『古今集』

能の演目にもよく登場しています。
「井筒」「雲林院」「杜若」「隅田川」などです。
狂言の「業平餅」は結構、愉快です。
6月1日の平安神宮の薪能では、「杜若」が演じられる予定です。

唐衣 きつつなれにし 妻しあれば 
            はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ

火入れ式の後の演目となり、日の刻々と落ちる中、薪の明かりの強まる頃ですから、とっても幽玄で、趣のある感じになるはずです。
業平の冠をつけ、伊勢物語に出てくる唐衣を着て舞うシテは、杜若の花の精でもあり、業平その人でもあり、高子の后でもあり、歌舞の菩薩の化現でもあるという4重の映像が、薪の中に揺らめくことになります。P9279.jpg
薪能ファンとしては堪りません(^^)。ひたすら雨の降らぬよう祈りつつ、心待ちにしているところです。

2009年05月26日

源 頼政 鵺退治

5月26日は源頼政の命日にあたります。
宇治の平等院の塔頭で、 墓所のある最勝院において、『頼政忌』が営まれるそうです。
頼政は源頼光の系統の摂津源氏で、保元の乱・平治の乱の際は、勝者の側となり、中央政界に留まりました。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇っています。

その後、平清盛が高倉天皇に譲位させ、高倉天皇と清盛の娘・徳子との間に生まれた3歳の安徳天皇を即位させたことに不満を持った後白河法皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)の側について、平家打倒の最初の挙兵を行ないましたが、宇治平等院の戦いで自刃しました。

頼政には2度の鵺(ぬえ)退治を行ったという伝説があります。
最初は仁平年間(1151~1154)、毎夜丑刻になると東三条の森の方から、黒雲が沸き立って御所の上に覆いかぶさって、鳥の鳴くような奇妙な声がし、近衛天皇がひどくおびえ、警護を任された頼政が頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎という妖怪「鵺」を退治しました。
描いてみましたが、変な感じです(^^)P9285.jpg

2度目は応保年間(1161~62)、二条天皇をおびえさせた怪鳥を退治しました。
二条城の北側、二条児童公園には、鵺退治に関わる「鵺池跡」があります。P9286.jpg
頼政が鵺を射た血のついた鏃(やじり)を洗った池の跡だと伝えられています。
2005年4月にリニューアルされた公園の人口池に古い「鵺池碑」があります。
P9288.jpg
公園の北側に鵺大明神・玉姫大明神・朝日大明神を祀る祠があり、復元した「鵺池碑」が建っています。P9287.jpg
源 頼政は、頼光と同様に、武術に長け、すぐれた歌人でもあったようです。

おのづから 花の下にし やすらへば
           逢はばやと思ふ 人も来にけり
 
辞世
埋木の 花咲く事も なかりしに
           身のなる果ぞ 悲しかりける

2009年05月25日

新島襄旧邸

寺町丸太町上ったところの新島襄旧邸は、春の京都御所一般公開日と同じ日に公開されていたので、御所見学のあとに、立ち寄りました。P9302.jpg明治7年(1874年)アメリカより帰朝した新島襄が、翌年この地に同志社英学校を開校。
さらに翌年、英学校は相国寺門前に移転したため、新島の住居として改築されました。木造2階建ての洋風住宅で、宣教医テーラの助言のもと、新島自身が、設計したといわれています。
奥さんの八重さんが、弾いていたオルガンです。P9301.jpgP9300.jpg八重さんが、同志社の学生のために作って、鍵のかかるこの戸棚にしまっておいた御菓子を甘いもの好きの襄が、1人で食べてしまったそうです。P9299.jpg襄の死後、改造した茶室P9298.jpg
書斎P9297.jpg廊下P9296.jpg
2階居間P9295.jpg床の四角い板は、はずすとセントラルヒーティングの吹き出し口になります。
寝室P9294.jpg
写真を撮り忘れましたが、横に高さの低いベットがあり、洋風に慣れない八重夫人用となっていました。
キッチンP9293.jpg高さは夫人にちょうど良いように造られています。
P9292.jpg
日本発の洋式トイレ 和洋折衷な感じに造られています。P9291.jpg
お風呂P9290.jpg
オルガンの生演奏を聞かせていただきました。P9289.jpg
なんとも絵になる方です。足踏みフイゴとカタカタと音のする鍵盤。のすたるじっく!素敵な時間でした。

2009年05月24日

くぎ抜き地蔵さん(石像寺)

千本上立売上がったところに、くぎ抜き地蔵さんで有名な石像寺(しゃくぞうじ)があります。P9312.jpg弘仁10年(819)に弘法大師が唐より持ち帰った石で、地蔵尊を刻み、寺を開いたという事です。この地蔵さんは、本来、苦抜き地蔵という名前が、正しいのですが、現在では、釘抜き地蔵の名で親しまれています。P9311.jpgP9310.jpgP9304.jpg
室町時代の終わり頃、油小路上長者町に、紀ノ国屋道林という商人がいました。
両手の甲に激しい痛みを感じていたが、どんな治療をしても効果がなく、霊験あらたかな石像寺の地蔵菩薩に7日間の願かけをしたところ、満願の日の夢に、お地蔵さんが現れた。
「汝の苦しみの原因は、前世において人を呪い殺そうと、わら人形を作ってその手に八寸釘を打ち込んだことにある」と告げて、その人形から抜き取った八寸釘を差し出しました。
夢から覚めると、両手の痛みは、うそのように消えていたという伝説があります。P9309.jpg地蔵堂の壁に、お礼の絵馬(釘抜きに二本の釘)が掛けられています。P9305.jpg
地蔵堂の裏の小祠に鎌倉時代の石像の阿弥陀三尊像があります。P9306.jpg
P9307.jpgP9308.jpgP9303.jpg

2009年05月21日

花山天皇陵

北区衣笠北高橋町にある紙屋川上陵(かみやかわのほとりのみささぎ)に花山天皇陵があります。
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花山天皇は、安和元年(968年)冷泉天皇の皇子として、藤原懐子(かいし:太政大臣藤原伊尹の娘)との間に生まれました。
安和2年(969年)、叔父円融天皇の即位と共に皇太子になり、永観2年(984年)、同帝の譲位を受けて即位。
17歳で即位の時には既に外祖父伊尹は亡くなっており、有力な外戚を持たなかった。
寛和2年(986年)寵愛した女御藤原?子が妊娠中に死亡。
19歳の若さで宮中を出て、剃髪して仏門に入り退位しました。

藤原兼家が、外孫の懐仁(やすひと)親王(一条天皇)を即位させる為に陰謀を巡らした為と言われています。
兼家の息子の道兼が、御出家されて女御様の菩提を弔われるようにと勧め、その説得に心を動かされた花山天皇は、道兼の導きで秘かに宮中を脱出。ところが剃髪の直前、道兼は「父に最後の挨拶をしたいので」と言い出し、寺を立ち去り、あざむかれたと気づいたという事です。
その道中を、護衛していたのが、源満仲や、源頼光だったようです。
安倍晴明の屋敷の前を通ったとき、中から「帝が退位なさるとの天変があった。」と晴明の声が聞こえたという話で、花山天皇の退位を予知した逸話が晴明神社にあるパネルに記載されています。
在位中も退位後も、女性がらみの逸話が多いようですが、芸術的才能の持ち主でもあり、優れた歌人でもあったようです。
木(こ)のもとを すみかとすれば おのづから
            花見る人と なりぬべきかな
出家後、各地を仏道修行していた頃、桜の花の下で一休みしての歌です。
寛和元年(985年)の桜の時期に平野神社で祭りを行ったという事で、花山天皇が桜の木を自ら手植えしたという話も残っています。
西国観音巡礼の再興者で、寛弘5年(1008)2月8日、四十一歳で亡くなっています。

長き夜の はじめをはりも しらぬまに
            幾世のことを夢にみつらん

2009年05月20日

晴明神社

5月18日 晴明神社内の戻橋の横の紫蘭が、咲いていました。P9337.jpgP9334.jpgP9336.jpgP9335.jpg
晴明神社は天文陰陽博士として活躍していた晴明公の屋敷跡です。
晴明公の遺業を称え、寛弘4年(西暦1007年)に一条天皇によって創建されました。
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今年4月6日に奉納された安倍晴明公像が、本殿横に安置されていました。
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安倍晴明公像は、神社所有の「御神像」(安倍晴明公の肖像画)を基に、出雲の阿国の銅像など制作で著名な彫刻家の山﨑正義氏によって制作されたそうです。P9331.jpg

2009年05月19日

白峯神宮と含笑花

5月18日 白峯神宮では、霊木の含笑花(ガンシュウゲ)が甘い香りを漂わせていました。P9342.jpg
和名をカラタネオガタマ・トウオガタマというそうです。P9340.jpg
本殿の前に左右に1本ずつ植えられています。P9341.jpg
中国原産の木で、日本への渡来は江戸時代中期頃だそうです。P9339.jpgP9338.jpgこちらは、小賀玉(オガタマ)の木です。招霊(おぎたま、霊を招くの意)が、なまったものとも言われています。樹高約13mで一説では樹齢800年と言われています。P9350.jpg
この日も、境内は修学旅行生で、賑わっていました。P9347.jpg
蹴鞠・和歌の宗家飛鳥井家の邸跡で、同家の守護神「まり精大明神」が祀られている関係で、近頃では、球技全般の守護神として人気の神社となりました。
地 主 社
P9346.jpg伴緒社(とものおしゃ)P9345.jpg源為義と源為朝の親子を祀っています。
保元の乱で、崇徳上皇方につきましたが敗れ、父・源為義は京都船岡山辺で斬られ、息子・源為朝は伊豆の大島に流罪となり、自殺しました。
潜 龍 社 P9344.jpg
 

2009年05月18日

崇徳天皇と白峯神宮

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怨霊伝説で有名な崇徳天皇 元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))日本の第75代天皇(在位1123年 - 1142年)は、堀川今出川東入るにある白峯神宮に祀られています。P9349.jpg
父は鳥羽天皇。母は藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)。鳥羽天皇の第一皇子であるが、真実はそうではなかったというのが、崇徳天皇の悲運の始まりです。P9348.jpg
白河上皇が、愛妾である璋子を孫の鳥羽天皇の皇后にしたという事です。そして生まれたのが崇徳天皇で、父親は鳥羽天皇ではなく、白河上皇であると噂され、鳥羽天皇は子を疎ましく思うようになったというのです。
治天の君である曾祖父の白河上皇の意志により、保安4年(1123年)、鳥羽天皇は20歳の若さで退位させられ、わずか5歳で崇徳天皇は即位しました。

白河上皇の死後、鳥羽上皇は永治2年(1142年)22歳の崇徳天皇を退位させ、異母弟である近衛天皇(わずか2歳)を即位させます。

久寿2年(1155年)に近衛天皇が16歳の若さで、世継ぎをもうけることなく死去すると、鳥羽上皇は、後白河天皇(崇徳の同母弟)を29歳で即位させ、後白河の子を皇太子(のちの二条天皇)として、どうしても、崇徳上皇を阻害しようとします。

崇徳上皇は翌年、1156年(保元元年)鳥羽上皇の死をきっかけにして、後白河天皇から皇位を奪うべく挙兵します。これが保元の乱です。

藤原摂関家や武家の源氏や平氏が二手に分かれ、戦いましたが、後白河天皇側の勝利に終わり、上皇側についた藤原頼長は戦死、源為義・平忠正は斬首、そして 崇徳上皇は仁和寺に入って髪を下ろし、そののち讃岐国(香川県)に配流されました。

思ひきや 身をうき雲と なしはてて
       あらしの風に まかすべしとは

うき事の まどろむ程は わすられて
       さむれば夢の ここちこそすれ
「崇徳天皇欽仰之碑」P9343.jpg
小倉百人一首には、情熱的な恋の歌が、選ばれています。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
       われても末に あはむとぞ思う

結構、好きな歌です。

2009年05月17日

式子内親王塚

千本今出川東入る、嘉楽中学校の西隣りに般舟院陵墓があります。
御柏原天皇の母源朝子陵をはじめ、一陵三分骨所十墓からなる陵墓で、平日のみ、入り口の扉が開いています。P9356.jpg
その西北奥に小さな塚があり、その前に石仏(阿弥陀如来坐像)が一体と地蔵尊が数体並んでいます。P9355.jpg
塚は木々に覆われていますが、よく見るとその上に五輪塔が建っています。P9354.jpg
古くからこの塚は「式子内親王墓」と伝えられています。P9353.jpg
『応仁記』に「千本にては両歓喜寺、この寺に定家葛の墓ありという是なり」と記されています。

般舟院の地は、もと嵯峨天皇の御願寺として建てられた大聖歓喜寺の境内であったが、応仁の乱で、焼失し、この塚のみ残ったということであるらしいとの事です。(雨宝院の前身がこの大聖歓喜寺であり、天正年間(1573~92)に現在の地に再建されたという話です。)

「定家葛の墓」というのは、藤原定家が式子内親王に恋慕の情を抱き、その執心が葛になって内親王の墓に巻きついたという伝説で、謡曲『定家』の物語になっています。

定家葛P9352.jpgこれは平安神宮内のものです。

式子内親王 (のりこ・しょくし・しきし)ないしんのう)久安5年(1149年) - 建仁元年1月25日(1201年3月1日)
後白河天皇の第三皇女で、永暦二年(1161)、斎王として初めて賀茂の祭に奉仕し、それ以後、十六、七歳の年ごろまで斎院生活を送っていますが、後に出家しています。歌人としても有名です。

玉の緒よ 絶えなばたえね ながらへば
忍ぶることの よわりもぞする   式子内親王

式子内親王の忍ぶ恋の相手ですが、院御所の家司をつとめていた藤原定家といわれていましたが、法然上人とも長年の親交があったことから、近年では法然がその相手であるとも云われています。

2009年05月16日

和泉式部と誠心院

5月11日 藤原保昌の妻となった和泉式部にも、興味を覚え、ゆかりのある誠心院を訪ねてみました。P9364.jpg生没年不詳ですが、天延二年(974)~天元元年(978)の間の生まれとするのが通説だそうです。中古三十六歌仙の一人です。 
大江雅致の娘。和泉守の橘道貞の妻となり、父の官名と夫の任国とを合わせて「和泉式部」と呼ばれた。道貞との間に娘 小式部内侍を儲けるも、後に別れる。
冷泉天皇の第三皇子である為尊親王(977年 - 1002年)との熱愛発覚。
為尊親王の死の翌年、今度はその弟である敦道親王(981年 - 1007年)の求愛を受ける。
二人の相次ぐ早世の後、一条天皇の中宮 藤原彰子に女房として出仕。
40歳を過ぎた頃、主君彰子の父藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下った。万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍に先立たれる。
晩年の詳細は知られていないが、この世の無常を思い、誓願寺に参籠し、出家したそうです。P9363.jpg
女人の身でも六字の名号をお唱えすれば、身の穢れも消えて往生できる事を聞き、六字名号を日々お唱えして、阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられ、浄土へ往生したとの事です。
法名を誠心院専意法尼といい、誠心院の初代の住職であるとされています。P9358.jpg
和泉式部が女人往生を遂げたことに由来する二十五菩薩来迎の像P9361.jpgP9360.jpgP9359.jpg式部千願観音P9362.jpg
水かけの行者 神変大菩薩像P9357.jpg

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
            今ひとたびの 逢ふ事もがな

病床にあって、死期が近いと予感し、愛する男に贈った歌とされていますが、お相手は誰なのでしょうね。

2009年05月12日

千本えんま堂狂言 その3

最後の演目は、人気の「土蜘蛛」です。病に伏せる源頼光P9402.jpg見舞いの訪れる渡辺綱と平井保昌P9401.jpg能の舞台では、見舞いに訪れるのは、胡蝶という侍女で、もう少し妖しく色っぽい感じになります。P9400.jpg二人の下がったあとに、僧に身を変えた土蜘蛛の登場P9399.jpg頼光は名刀「膝丸」で戦いますが、取り逃してしまいます。私も肝心の蜘蛛の糸のシーンを撮り逃してしまいました(^^)P9398.jpg騒ぎを聞き駆けつけた渡辺綱と平井保昌は、松明を持って血の跡を辿り、土蜘蛛退治に出掛けます。P9397.jpg
能では、警護の独武者とか従者とかあり、渡辺綱と平井保昌の名前は出てきません。P9396.jpg土蜘蛛登場P9395.jpgP9394.jpgP9393.jpgP9392.jpgP9391.jpgついに土蜘蛛を切り伏せます。P9390.jpg
パンフレットには、この狂言でまかれる糸の一部をを持って帰ると、災難や盗難よけになり、お金が溜まると言い伝えられていると書かれていて、演目が終了すると、拾いに集まる人たちが多くいます。糸を持ち帰る人が多くて、今回は、先端の鉛玉をたくさんゲット出来ました(^^)糸と鉛玉、どちらにご利益が多いのやら?P9389.jpg

2009年05月11日

千本えんま堂狂言 その2

二つ目の演目は、「ほうらく割」です。
一の森の朝市で一番の棚に店を出した者に永代供養が与えられると聞いた鞨鼓屋(かっこや)は、夜明け前にやってきます。P9418.jpg鞨鼓を一番の棚に飾りつけ、そのまま寝込んでしまいます。ほうらく屋が、遅れてやってきます。P9417.jpgP9416.jpg鞨鼓屋に先を越されたことに気づき、一番になれなかった事をくやみます。
P9415.jpgP9414.jpg鞨鼓屋の寝ているすきに鞨鼓を下げ、ほうらくを一の棚に飾って、一番に来たように装い、寝てしまいます。P9413.jpg
気づいた鞨鼓屋はほうらくを下げ、鞨鼓を元に戻します。P9412.jpgP9411.jpg二人のけんかが始まります。P9410.jpg
さわぎを聞きつけ仲介に入った庄屋は、どちらの言い分が正しいか調べようとします。P9409.jpgP9408.jpgP9407.jpg鞨鼓を転がし、派手な振り付けで踊る鞨鼓屋に対し、ほうらく屋は、ほうらくを割らないよう、恐る恐る踊りますがP9406.jpg鞨鼓屋に割られてしまいます。P9405.jpgP9404.jpgおしまいP9403.jpg願い事を書いて奉納されたほうらくを舞台から落として割ります。ほうらくが割れると願い事が叶うという事です。

2009年05月10日

千本えんま堂狂言 その1

5月1日 えんま堂狂言を観に出掛けました。
今年は60年ぶりに「ほうらく割」が演じられるということなので、それを目当てに、初日の1日、夜の部にしました。
戦後の物不足の時代に、舞台で使う炮烙(ほうらく)が手に入らなかったことをきっかけに途絶えていたようです。

最初の演目は、お決まりの「えんま庁」です。これは、カンデンデンのはやしにのって、無言で演じられます。
えんまさん登場P9425.jpgえんまさんと帳付が着座します。P9423.jpg
鬼が亡者をいじめますが、亡者の持つ巻物の力に負けてしまいます。巻物を取り上げ、帳付に差し出します。P9424.jpg内容を読んだ帳付は、亡者が善人である事を知ります。P9422.jpg亡者を開放、鬼を懲らしめます。P9421.jpg縛り上げた鬼の番をするよう、亡者に言いつけ、えんまさんと帳付は退場P9420.jpgえんまさんの退場したのをいいことに、鬼はまた亡者をいじめようとしますが、巻き物の力にはかなわずP9419.jpg巻物を受け取るかわりに、亡者を極楽へと背負っていきます。めでたしめでたし。

2009年05月08日

京都御所特別公開 2009

旬の花を先にアップしてしまったので、4月27日に出掛けた御所公開のアップが遅れてしまい、説明を入れるにも、忘れてしまったというか、多すぎて面倒になってしまったので、簡単に順路に沿って並べました。P9442.jpg両陛下金婚のお祝いという事で、今年はいつもより順路を延長されたそうです。
P9460.jpgP9459.jpg諸大夫の間P9458.jpg
P9457.jpgP9456.jpgP9455.jpg承明門P9454.jpg紫宸殿P9453.jpgP9452.jpg清涼殿P9451.jpgP9450.jpg御池庭P9449.jpgP9441.jpg
P9448.jpg御常御殿と人形(三献の儀)P9440.jpg
P9447.jpgP9439.jpg
皇后宮常御殿と人形(束帯・十二単)P9446.jpg玄輝門内に置かれた牛車P9445.jpg肝心の初公開らしき若宮・姫宮御殿をなんか、北向きで暗くて寒そうだなぁと思っているうちに写真を撮らずに通り過ぎてしまいました。明治天皇が、幼少期に住まわれていたそうですが、子供部屋は、やはり南向きにすべきではないかしらん。
板輿P9444.jpg新緑が目に心地よかったです。P9443.jpg

2009年05月06日

上御霊神社の一初

5月3日 上御霊神社の拝殿には、御霊祭に使われる3基の神輿が飾られていました。
1日から18日まで行なわれるこの御霊祭は京都で最古の祭礼といわれています。P9471.jpg
そしてこの時期、境内やその周囲には、一初が満開になります。P9470.jpgP9469.jpgP9468.jpgP9467.jpgP9466.jpgP9465.jpgP9464.jpgP9463.jpgP9462.jpgP9461.jpg

2009年05月05日

本満寺の牡丹

日付が前後しますが、4月27日の本満寺の牡丹の様子です。P9481.jpgP9480.jpg
土曜の雨で、大半の花がだめになってしまっていて、これから開く遅めの花だけがしっとりと美しく開花しようとしていました。P9479.jpgP9478.jpgP9477.jpg
桜の絨毯P9476.jpgP9475.jpgP9474.jpgP9473.jpgP9472.jpg
牡丹の時期は、ほんとに短いですね。

2009年04月30日

京都の桜 2009 ~平野神社パート6~

4月も今日で終わりとなりました。
石光寺の途中ですが、27日の平野神社の様子を挟んで、今年の桜を終わります。
突羽根がしっかり開いて、最後を飾っていました。P9530.jpg
普賢像桜が散り桜となっていました。土曜日の雨でだいぶ形が崩れてしまっていました。P9529.jpg
代わって、小手鞠や一初が見頃を迎えていました。P9528.jpgP9527.jpgP9526.jpgP9525.jpg
そうそう、例の筍は抜かれていました。やっぱり…。

2009年04月27日

京都の桜 2009 ~妙蓮寺~

4月20日 妙蓮寺さんでは、御会式桜に代わって、八重桜がまだ咲いていました。P9569.jpgP9568.jpgP9567.jpg
足元は花びら一杯で、角っこには溜まって残っていました。思わず放り上げて、花吹雪にして遊んでしまいました(^^)
P9566.jpgP9565.jpg

2009年04月25日

京都の桜 2009 ~白峯神社~

4月13日 白峯神社では左近の桜は、すでに葉桜でしたが、蹴鞠の砂場の奥にある黄桜(鬱金の桜)が美しく咲き誇っていました。P9578.gifP9577.gifP9576.gifこちらは崇徳天皇と淳仁天皇という非運の天皇の御神霊をお祀りされている神社ですが、「まり」の守護神として「精大明神」が祀られている事で、サッカーブームなどから修学旅行生が多くなりました。P9575.gifP9573.jpg

2009年04月24日

京都の桜 2009 ~千本えんま堂~

4月13日 千本えんま堂の桜も見頃を向かえていました。
関山桜P9587.gifP9586.gif
琴平桜P9585.gif
P9584.gif
そして、二本ある葉化した雌しべを象の牙に見立て、まるで普賢菩薩が象に乗っているように見えることから名がついたといわれている普賢象桜P9582.gifP9583.gif近づいてみると2本の牙が見えます。P9579.gifP9581.gifP9580.gifそろそろ、今年の桜も終わりに近づいたと知る花ですね。

2009年04月23日

京都の桜 2009 ~平野神社パート5~

4月13日 また平野神社に立ち寄りました。
こちらは桜の品種が多く、早咲きから遅咲きまで長く楽しめます。桜苑の方は葉桜が多くなりました。P9603.gifP9602.gifおけさP9601.gif境内の紅枝垂も葉桜です。P9600.gif胡蝶P9599.gif
大内山P9598.gifP9597.gif
この大内山は本殿に向かって右側の木ですが、その横の社の前に、ひょっこり筍が顔を出していました。P9596.gifお社の後ろが竹林になっていますから、そこからやってきたのでしょうが、すでに食べ頃を過ぎています。今頃は、掘り起こされているのでしょうか?気になるところです。
この日、一番咲き誇っていたのが、本殿横、反対側の白雪でした。P9595.gifP9594.gifP9593.gif平野妹背P9592.gif突羽根P9591.gif御衣黄P9590.gif
朱雀P9589.gif庭桜P9588.gif
まあ、ひとくちに桜といっても、随分あるものですね。

2009年04月20日

京都の桜と春の花 2009 ~雨宝院パート2~

13日の雨宝院の様子です。
御衣黄桜P9640.gifP9639.gif
P9638.gifP9637.gif
牡丹が開花していました。3月30日に訪れた本満寺でも、一輪咲いていて、早すぎじゃないのって、思いましたが、そろそろそんな季節になりました。P9636.gif
椿 2種P9635.gifP9633.gif
石楠花P9634.gifこれは何?P9631.gifP9632.gif松月桜P9630.gif
P9629.gif

2009年04月19日

京都の桜 2009 ~雨宝院~

4月10日 早朝の雨宝院です。
観音桜P9651.gifP9650.gif
お隣の本隆寺の塀を入れたお決まりアングルP9649.gif
枝垂P9647.gif
葉の黄緑と花色のコントラストが、また綺麗に思えます。P9648.gifP9646.gif
歓喜桜P9645.gifP9644.gif
里桜P9643.gifP9642.gif
御衣黄P9641.gif
11日に開花したようですね。

2009年04月18日

京都の桜 2009 ~若宮神社・本隆寺~

4月10日 早朝の若宮神社・本隆寺の桜です。
若宮神社P9659.gif枝が大きく広がっていて、お社が見えません。
P9661.gif
P9660.gif
本隆寺P9652.gifP9653.gifP9654.gifP9655.gif早朝の広々として静かな境内は、とても爽やかです。P9656.gif
P9657.gifP9658.gif

2009年04月17日

京都の桜 2009 ~上品蓮台寺パート3~

4月10日 早朝の上品蓮台寺の様子です。P9671.gifP9670.gif染井吉野が終わり、紅枝垂が満開でした。P9669.gifP9668.gifP9667.gifP9666.gifP9665.gifこの地に眠る多くの亡者も、深夜には目覚めて、花見の宴を催すのでしょうか?ちょっと想像してしまいました。P9664.gifP9663.gifP9662.gif

2009年04月16日

京都の桜 2009 ~妙顕寺・妙覚寺・本法寺~

4月9日 夕刻の妙顕寺・妙覚寺・本法寺の桜状況です。
妙顕寺P9680.gifP9679.gif
P9678.gifP9677.gif現在、本堂の修復工事の為、ちょっと写真を撮りにくい状態です。

妙覚寺 北の奥にある塔頭 善明院の枝垂桜が美しく咲いていました。P9676.gifP9675.gif

本法寺P9674.gifP9673.gifP9672.gif
それにしても、仕事を終えてのちょっと散歩の距離に、こんなに静かに桜を満喫できる寺々があるというのは、なんて贅沢なことでしょう。

2009年04月15日

京都の桜 2009 ~高瀬川ライトアップ~

8日、祇園さんの帰り、高瀬川 四条~五条間のライトアップされた桜を見ようと、立ち寄りました。P9692.gifP9691.gifP9690.gif
P9689.gifP9687.gifP9686.gifP9684.gifP9683.gif
P9682.gif
6日のお昼に通りかかった時の写真です。昼と夜では、だいぶ表情が変わりますね。P9681.gif

2009年04月08日

京都の桜 2009 ~平野神社パート4~

平野神社は桜の種類が多く、開花時期も差があるので、
いろいろ見てみようと考えると何度も足を運ぶことになります。
今回は3月30日と4月5日の様子です。

3月30日 おけさRIMG9791.gif
寝覚RIMG9790.gif
紅枝垂RIMG9789.gif
彼岸枝垂RIMG9788.gifRIMG9787.gif
寒桜RIMG9786.gif
鳥居横の枝垂RIMG9785.gifRIMG9784.gifRIMG9783.gif
祇園御親桜RIMG9782.gif

4月5日
ゆすら梅RIMG9799.gif寝覚RIMG9797.gif
紅枝垂RIMG9798.gif嵐山RIMG9796.gif
魁 葉桜となりつつありますRIMG9795.gif
桜苑内は、染井吉野が満開ですRIMG9794.gifRIMG9793.gif枝垂RIMG9792.gif

2009年04月07日

京都の桜 2009 ~上品蓮台寺パート2~

4月5日の上品蓮台寺です。RIMG9801.gif
先週、開花した紅枝垂が3~5分咲きほどになっていました。隣の冷蔵保存されていた、桜とのコントラストも、よくなってきました。RIMG9807.gif全体の紅枝垂の満開は何時頃になるのでしょう?1週間後で間に合うかどうか、お天気次第といったところです。RIMG9806.gifRIMG9805.gifRIMG9804.gifRIMG9803.gifRIMG9802.gifなんという花だったか、隣にいらしたご婦人に教えていただいたのに、忘れてしまいましたが、とても綺麗でした。RIMG9800.gif

2009年04月06日

京都の桜 2009 ~水火天満宮パート2~

30日の水火天満宮の桜の様子です。RIMG9820.gif奥の枝垂れはかなり見頃です。RIMG9819.gifRIMG9818.gifRIMG9817.gifRIMG9816.gif上ばかり見ていたら、誰か足に触ってるような?RIMG9815.gif時々会う、ここの猫でした。RIMG9814.gifRIMG9813.gifRIMG9812.gif
RIMG9811.gif朝日が眩しいて、目ぇ開けられへん。RIMG9810.gif手前の枝垂れはまだ開花し始めたところでした。RIMG9809.gif
RIMG9808.gif

2009年04月05日

京都の桜 2009 ~上品蓮台寺~

千本鞍馬口にある上品蓮台寺の30日の桜の様子です。
入り口の桜がそこそこ咲いていました。RIMG9829.gif
RIMG9828.gifRIMG9827.gifRIMG9826.gif中のほうの紅枝垂RIMG9825.gif開花が始まったところでした。RIMG9824.gifその隣の一本が、咲いていました。RIMG9823.gifRIMG9822.gifRIMG9821.gif

2009年04月04日

京都の桜 2009 ~本満寺~

葵橋西詰にある本満寺の30日の桜です。RIMG9844.gifRIMG9843.gifRIMG9842.gifRIMG9841.gif落ち着いた庭の佇まいがとても安らかな気持ちになる場所です。RIMG9840.gifRIMG9839.gifRIMG9837.gifRIMG9836.gifRIMG9835.gifRIMG9838.gifお隣の妙見宮さんの山桜RIMG9834.gifRIMG9833.gif葉の色合いとのコントラストが綺麗ですね。RIMG9832.gifRIMG9831.gifRIMG9830.gif

2009年04月01日

京都の桜 2009 ~京都府庁旧本館 枝垂れ桜~

27日お昼の府庁の様子です。RIMG9899.gifRIMG9898.gifRIMG9897.gifRIMG9884.gif この桜は、昭和30年代に円山公園の枝垂れ桜の実生木(みしょうぼく:種から育った木)を植えたもので、円山公園の初代しだれ桜の「孫」にあたるそうです。
RIMG9896.gifRIMG9895.gifRIMG9894.gifRIMG9893.gifRIMG9892.gifRIMG9891.gifRIMG9890.gifRIMG9889.gifRIMG9888.gifRIMG9887.gifRIMG9886.gifRIMG9885.gif東門から入って、正門から出ました。クラッシックな建物は、いいですね。いつまでも残してほしいものです。RIMG9881.gif烏丸通りへ向かう途中の、平安女学院の桜も、校舎に映えて美しかったです。RIMG9883.gifRIMG9882.gif

2009年03月31日

京都の桜 2009 ~妙覚寺~

堀川上御霊の水火天満宮を少し東に入っていくと、日蓮宗のお寺が密集しています。
その1つ、妙覚寺の門前の枝垂れ桜が満開の様子なので、30日に見てきました。RIMG9915.gifRIMG9913.gifRIMG9914.gifRIMG9911.gifRIMG9912.gifRIMG9910.gifRIMG9909.gifRIMG9908.gifRIMG9907.gifRIMG9906.gif境内の中のも一本咲いている桜があるようです。RIMG9903.gifRIMG9901.gifRIMG9905.gif枝垂れに比べると、力強い印象です。RIMG9900.gifRIMG9904.gifやっぱり青空だと、さくらも引き立ちますね。RIMG9902.gif

2009年03月30日

京都の桜 2009 ~千本釈迦堂 おかめ桜~

今日、30日にまた桜の追っかけをしてきました。
千本今出川の交差点の街灯が可愛い感じだったので、撮ってみました。RIMG9934.gifRIMG9933.gifRIMG9932.gif
千本釈迦堂 RIMG9931.gif
ここのメインの桜 おかめ桜が、満開を迎えています。RIMG9917.gifRIMG9930.gifRIMG9929.gifRIMG9928.gifRIMG9927.gifRIMG9926.gif平日の朝の為か、人が少なくて、ゆっくりできます。RIMG9925.gifRIMG9924.gifRIMG9923.gifRIMG9922.gifRIMG9921.gifおかめさんです。
RIMG9920.gifRIMG9919.gif
RIMG9918.gifRIMG9916.gif

2009年03月29日

京都の桜 2009 ~祇園白川~

23日、祇園白川の早咲きの枝垂れが咲いているようなので、様子を見に行きました。川端から、入ったところの桜はまだこれからといったところです。RIMG9950.gifRIMG9949.gifRIMG9948.gif白鷺がやってきました。RIMG9947.gifRIMG9946.gifRIMG9945.gif黒猫も登場です。RIMG9944.gifRIMG9943.gifRIMG9942.gifRIMG9941.gifRIMG9940.gifRIMG9939.gifRIMG9938.gifRIMG9937.gifかにかくに祇園はこひし寝るときも
        枕の下を水のながるる     吉井勇RIMG9936.gifRIMG9935.gif

2009年03月28日

京都の桜 2009 ~京都御苑パート2~

RIMG9975.gifRIMG9974.gifRIMG9973.gifRIMG9972.gifRIMG9971.gifRIMG9970.gifRIMG9969.gifRIMG9968.gifRIMG9967.gifRIMG9966.gif桜色と御所の金色の組み合わせは、なんとも雅です。RIMG9964.gifRIMG9965.gifRIMG9963.gifRIMG9962.gifRIMG9961.gifRIMG9960.gifRIMG9959.gif
木蓮も咲き誇っていましたが、少し雨にやられてしまっていたりして、かわいそうでした。RIMG9958.gif桃林は今が真っ盛りの様子です。RIMG9957.gif
それにしても、桃の枝というのは、えらく真っ直ぐです。RIMG9956.gif
出水の枝垂れ桜にたどり着きました。RIMG9955.gif
一本だけ、通りに面して咲いているので、とっても目立ちます。RIMG9954.gifRIMG9953.gif春の小川RIMG9951.gifRIMG9952.gif

2009年03月27日

京都の桜 2009 ~京都御苑パート1~

3月23日 お昼の京都御苑の桜状況です。RIMG9999.gifRIMG9995.gif近衛邸跡の糸桜が見頃です。RIMG9998.gifRIMG9997.gifRIMG9996.gifRIMG9994.gifRIMG9993.gifRIMG9992.gifRIMG9991.gifRIMG9990.gifRIMG9989.gifRIMG9988.gifRIMG9987.gifRIMG9986.gifRIMG9985.gifRIMG9984.gifRIMG9983.gifRIMG9982.gifRIMG9981.gifRIMG9980.gifRIMG9979.gifRIMG9978.gifRIMG9977.gifRIMG9976.gif
 昔より名にはきけども今日見れば

    むべめかれせぬ糸さくらかな   孝明天皇

2009年03月26日

京都の桜 2009 ~妙蓮寺・水火天満宮~

23日、最初に立ち寄ったのが、妙蓮寺さん。そして水火天満宮でした。御所の前に、そちらの様子をお伝えします。 
妙蓮寺の御会式桜RIMG032330.gif
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奥の方の木蓮も花盛りでした。RIMG032333.gif
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水火天満宮RIMG032335.gif
奥の紅枝垂れがそこそこ開き出しています。RIMG032336.gif
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手前の枝垂れは、まだまだ蕾でした。

2009年03月25日

京都の桜 2009 ~平野神社パート3~

23日の平野神社 桜の続編です。
神社内や周辺に、ピンク色の大振りの桜が、魁と時を同じくして、咲いていました。
陽光と名づけられたその花は、確かに日の光の似合う感じの花です。RIMG032317.gif
RIMG032318.gifRIMG032319.gif
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桜苑内の枝垂れRIMG032323.gif
たぶん魁RIMG032324.gif
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寝覚は、まだお眠です。RIMG032327.gif
鳥居横RIMG032328.gif
鳥居を出て、見返りの魁RIMG032329.gif
御所へ、移動です。

2009年03月24日

京都の桜 2009 ~平野神社 魁桜~

3月23日の平野神社 魁です。RIMG032301.gifRIMG032303.gifRIMG032304.gifRIMG032305.gifRIMG032306.gifRIMG032307.gifRIMG032302.gifRIMG032308.gifRIMG032309.gifRIMG032310.gifRIMG032311.gifRIMG032312.gifRIMG032313.gifRIMG032314.gifRIMG032315.gifRIMG032316.gif

2009年03月21日

京都の桜 2009 ~加茂川沿い~

長徳寺から、鴨川を渡ろうとして、対岸に桜色の木を見つけました。早速降りてみました。RIMG031638.gif
やっぱり、桜でした。RIMG031635.gif
RIMG031636.gifRIMG031637.gif
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河の中には鴨の夫婦?RIMG031640.gif
華麗なるシンクロの妙技の始まりです(^^)RIMG031644.gif
RIMG031642.gifRIMG031641.gif
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2009年03月20日

京都の桜 2009 ~水火天満宮~ 

3月16日 水火天満宮の桜の様子を見に、中まで入ってきました。RIMG031632.gif
日差しの最も差し込むところだけ、少しばかり赤く膨らんでいました。RIMG031633.gif
大半はまだまだです。RIMG031634.gif
でも、今日あたりは、もしかしたら、咲き始めていたりするかも?

2009年03月18日

京都の桜 2009 ~平野神社~

3月17日 夕方、平野神社の桜状況を見にゆきました。
入り口横の河津桜は、葉桜です。RIMG031701.gif
桃桜RIMG031707.gif
RIMG031702.gif蕾ふくらむ かと思いきや…RIMG031703.gif
神社の方に、教えてもらって、上の方を見上げると!RIMG031704.gif
今日、開花したそうです。RIMG031705.gif
京都新聞に明日言わなくてはって、言われてたから、新聞より早い速報です(^0^)RIMG031706.gifアーモンドRIMG031708.gif
名前は知りませんが、綺麗だったので、RIMG031709.gif
寒桜RIMG031710.gifRIMG031711.gif
RIMG031712.gifRIMG031713.gif
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2009年03月17日

京都の桜 2009 ~長徳寺 おかめ桜~

3月16日 ねこづらどきのなおくんに教えてもらった、出町柳の長徳寺のおかめ桜を見に行ってきました。RIMG031601.gifRIMG031602.gif
満開です\(^0^)/RIMG031604.gif
基本的に下向きに咲いているので、真下に入ると、花が降って来る感じです。RIMG031608.gif
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ひよちゃんも来ていました。RIMG031606.gif
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おかめ桜が、こんなに満開に咲いているのは、初めて見ました(^^)RIMG031607.gif

2009年03月16日

東向観音寺 蜘蛛塚

蜘蛛塚といえば、やはり、天神さんの手前左手にある東向観音寺にある蜘蛛塚の方も、見ておかなくてはと、北野まで、歩いて行きました。RIMG030939.gif最初、東西向き合って堂宇があったそうですが、西向きの堂が廃絶したため、このような名前で呼ぶようになったようです。RIMG030940.gif
入った右手に白衣観音を祀る堂宇があり、子授け観音・世継観音という名前で知られています。RIMG030941.gif左手奥に大きな五輪の石塔があります。道真公の母、大伴氏を祀っているものです。RIMG030942.gifその手前奥にある古い石塔がお目当ての蜘蛛塚です。RIMG030943.gif
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妖気漂う感じがなんともいえません。RIMG030953.gif
観音寺を出て、天神さんに向かう途中に伴氏社があります。RIMG030945.gif梅園は、散り初めているようですが、境内には、まだ多くの梅が咲いていて賑わっていました。RIMG030946.gif
さらに進んで、中門 RIMG030947.gif
こちらを入った左手に、関連した灯籠があります。RIMG030949.gif
源頼光の四天王の1人、渡辺綱の奉納した石灯籠だといわれています。RIMG030948.gif
一条戻り橋のあたりで、美女に化けた鬼を自らの馬に乗せてしまい、愛宕へ連れていかれそうなそうなところを、鬼の腕を切り落として、ようよう難を逃れ、気づくと、天神さんの回廊の屋根であった。という話で、そのお礼に奉納された石灯籠だそうです。RIMG030950.gif
真新しい覆屋は、昨年11月に、洛中ライオンズクラブによって寄贈されたものだそうです。ライオンズクラブの方も鬼に出会ったのかしらん?って、そんな事はないか(^^)RIMG030951.gifRIMG030952.gif

2009年03月15日

上品蓮台寺 源頼光朝臣塚

源頼光伝説を追いかけて、千本北大路下がったところの上品蓮台寺に足を延ばしました。RIMG030930.gif
RIMG030931.gifこの地域は、蓮台野と呼ばれる古くからの葬場です。上品蓮台寺は応仁の乱の後、復興し、12の子院を造った事から、俗に十二坊と呼ばれています。こちらの墓地に源頼光朝臣の塚があります。RIMG030933.gif
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椋の巨木の根元に石碑があるのみです。RIMG030934.gif
この老木が、ひたすら怪しい感じをかもし出しています。RIMG030935.gif
しかし、この土蜘蛛は古代の辺境の民をさす蔑称だったとも伝えられています。身長が低く背中が曲がっていて、手足が長く、穴居に住んで未開の生活をしていて、朝廷に抵抗する異民族として、討伐すべき凶賊であるとみられていたようです。そうなってくると、妖怪退治とは、また違ったニュアンスが、生まれる話ではあります。RIMG030936.gif
怪しい話ばかりなので、去年の春の上品蓮台寺の境内の写真で、ちょっと気分を変えておきましょう。こちらは、観光客の比較的少ない、穴場お花見スポットだと思います。RIMG030937.gifRIMG030938.gif

 
 

2009年03月14日

若宮八幡宮

北大路大宮を少し下がったところに、若宮神社があります。RIMG030926.gif
石清水八幡宮の若宮で、清和源氏の祖、清和天皇を祀っています。丹波の大江山の酒呑童子征伐や土蜘蛛退治でも知られる源頼光(みなもとよりみつ・らいこう)の邸跡であり、その邸内にあった鎮守社が、現在でも祭られているそうです。
酒呑童子RIMG030929.gif
土蜘蛛RIMG030925.gif
境内には、左手に権太夫大明神、白菊大明神、吉丸明神、久高明神も祀られています。RIMG030927.gif謡曲「土蜘蛛」でおなじみの源頼光の邸がここにあったのですねぇ。なんとも怪しい気配がするような・・・。RIMG030928.gif

2009年03月12日

建勲神社

北区の船岡山に、信長の霊を祀っている建勲神社があります。RIMG030917.gif
平地を歩くのは、得意ですが、縦方向の移動、いわゆる階段は苦手です。RIMG030918.gifここは、石段を上がっていかなくてはいけません。RIMG030919.gif説明書によれば、徒歩3分ということなので、意を決して(そんな大層な事ではありませんが)上がってみました。階段途中で、休憩して、横を見ると、かつて焼き払った比叡のお山が見えました。RIMG030920.gif
信長が出陣の際に歌ったという幸若舞の敦盛の一節が、刻まれていました。RIMG030921.gif人生50年を待たずに、48歳で死んでしまったのですが、普通の人の何倍ものスピードで大急ぎで生きた人生だったような気がします。RIMG030922.gifRIMG030923.gif
先日の大河ドラマで、上杉謙信も、49歳という同じような歳で亡くなりましたが、 「四十九年  一睡の夢  一期の栄華  一盃の酒」 という辞世の句が強く印象に残りました。RIMG030924.gif
青く霞む大文字を見ながら、遠い戦国武将たちの生き様に思いを馳せた時間でした。

2009年03月11日

観世稲荷社 観世井

西陣中央小学校の南側に観世稲荷社があります。RIMG030905.gif
ここに祀られているのは一足稲荷と観世龍王です。RIMG030903.gif
境内に観世井があります。RIMG030902.gif
龍が降りて、この井戸に入り、水が渦をまくようになったと伝えられています。この波紋を観世水といい、能楽観世流の紋様となっています。RIMG030904.gif
ここは能楽宗家の観世家が足利義満から拝領した屋敷地でしたが、西陣が焼けたあと観世井だけが残されていたといいます。RIMG030901.gif
観世家は大和猿楽の結崎(ゆうざき)座の大夫でしたが、新日吉社、あるいは新熊野神社で舞った観阿弥らの猿楽舞に感嘆した足利義満の保護を得ることによって能楽が成立するきっかけとなりました。RIMG030907.gif
3月9日こちらで年に一度の式典がありました。RIMG030908.gif
今宮神社の宮司さんのもと、観世流の7世 大江又三郎さんをはじめとする観世流の方、西陣中央小学校関係者、日頃、社のお守りをしてらっしゃる鶴屋吉信さんなどが、列席されました。RIMG030909.gif
一般参加も可能ということで、以前は近所の人たちも多くいらしていたようですが、今回は、私だけでした。RIMG030910.gif昨年の小学校内での能楽学習の折り、この日の事をお聞きして、楽しみにしていたのです。RIMG030911.gif
能楽への興味と、なにより龍が降りた話が、私的には、想像力を駆り立てられるところです。RIMG030912.gif部外者1人だけというのは、なにやら気後れして、写真も撮りにくい感じがしたのですが、大江先生に手招きしていただいて、玉ぐし奉納までしてしまいました(*^^*)
校内の展示RIMG030906.gif
そして帰り際に、お土産まで頂いてしまいました。お赤飯と紅白饅頭に、鶴屋吉信さんの「観世井」。RIMG030914.gif
この井戸の由緒にちなんで作られた菓子です。京観世を薄く切って焼いた感じのこの菓子は本店のみで販売されていて、私のお気に入りでもあります。
そしてなんといっても一番のお宝おみやは、観世稲荷さんの御札でした。RIMG030913.gif
きゃ~、これって、めったにお目にかかれないものじゃないかしらん!貴重~!
大満足の日となりました。
早々に描いてみました。RIMG030915.gif
画像の拡大

2009年03月10日

本隆寺 千代の井

智恵光院通の五辻上がったところ、雨宝院のお隣に、法華宗の寺 本隆寺があります。RIMG022361.gif
応仁の乱の後、延徳元年(1489)に四条大宮の地に日真上人によって開創されたが、法華一揆の際、焼き討ちにあい、天文11年(1542)に堀川一条に再建。さらに、天正12年(1584)、秀吉の聚楽第造営により、現在の地に移転された。と読んだ本には、書いてありましたが、高札とは、微妙に違うみたい?RIMG022355.gif画像の拡大

RIMG022358.gifRIMG022360.gif
夜泣止の松RIMG022357.gif
RIMG022356.gif本隆寺は、尼寺五山の1つに数えられる禅宗のお寺、景愛寺の旧跡と伝えられています。開山は如大和尚。出家前の名は、城陸奥守泰盛の娘で、千代野姫といい、金沢越後守貞顕の妻となり、その後、足利讃岐守貞氏の夫人となった人です。鎌倉では、仏光国師に師事、京では、東福寺の聖一国師に師事したそうです。その如大和尚が、悟りを開いたという井戸が、こちらに残っています。RIMG022359.gif
  とにかくにたくみし桶の底ぬけて
        水たまらぬは、月も宿らず
大尼は、この井戸の澄んだ水を汲み、茶をのむことを楽しみとしていたそうです。月夜の夜に、つるべの綱をたぐり、からからと、音をたてて上がってきた桶の中には、澄み切った水にゆらゆら映る月の影。
想像するに、少しどきどきする想いがしたのではと感じられます。
子供の頃、私の住んでいた路地には、井戸がありました。あのしっとりと水分を含んだ綱を、手繰り下ろすと、暗い井戸の底から、ゆらゆら輝きながら上がってくる、つるべは、とても甘美なものでした。
月など写っていたりして、それを飲み干せば、なんともいえない感覚に襲われることでしょう。
その桶の底が一瞬に抜け、井戸の中に大きな水の反響が起こったりしたら、さすがにハッとすることでしょうね。もっとも、そこで、悟りを開くのは、凡人には難しいかもですけど。(^^)

2009年03月08日

称念寺

近所を歩いていて、ひょっこり出くわしたのが、称念寺さんです。猫寺の話は聞いていたので、あぁここだったのかと、あまりの近さに、あれっといったところです。RIMG022350.gif
慶長11年(西暦1606)に伏見城代職、松平信吉公が岳誉行阿上人に帰依して建立された寺です。その当時 300石の寺領があり寺は栄えていたようですが、信吉公が没すると共に、松平家とだんだん疎遠となり、3代目住職の頃には、絶縁状態で、荒れ果てた寺に猫1匹と住職が暮らすのみとなっていたそうな。RIMG022349.gif
月夜の夜に和尚が托鉢を終え寺へ帰ってくると、美しい姫が、舞を舞っていました。本堂の障子に映し出された姿は、猫の影。愛猫の化身と気づいた和尚は「自分がこんなに苦労しているのに、踊り浮かれているとは」と立腹し、猫を追い出してしまいました。数日後、その猫が和尚の夢枕に立ち、「明日、寺を訪れる武士を丁重にもてなせば寺は再び隆盛する」と告げました。翌朝、松平家の武士がやってきて、姫がお亡くなりになり遺言により、葬儀を頼みたいとの事、和尚は快く引き受け、以後松平家と復縁した寺は以前のように隆盛しました。
めでたし、めでたし。
というお話です。RIMG022351.gif
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境内に愛猫を偲んで植えたと伝えられる老松があります。猫が伏した姿を表わしているそうです。
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現在では、称念寺は動物の霊を供養してらして、ペット供養の寺として親しまれています。
時間がなかったので、走り描きですが、イラストにしてみました。RIMG022354.gif

2009年03月04日

報恩寺

宝鏡寺さんから、小川通りを少し下がると、りっぱな町屋が目に付きます。RIMG030206.gif
そのお向かいに報恩寺があります。RIMG030201.gif
門前の石橋には慶長7年(1602)架橋の刻銘があり、本法寺の石橋とともに、今は埋められた小川(こがわ)の名残を止める貴重な遺産だそうです。豊臣秀吉の侍尼 仁舜尼の寄進によるものだそうですが、かなり、傷んでいました。RIMG030202.gif
門を入って左手に平安時代末期の鋳造による重要文化財の鐘と、墓地があります。鐘には西陣の悲しい話が残っています。
RIMG030203.gif右手はお稲荷さんRIMG030205.gif
その隣に新しそうな地蔵堂がありました。
RIMG030204.gif本堂は1788年(皇紀2448)天明8年の天明の大火で類焼し、それ以後、再建されていないようです。
この寺は、鳴虎(なきとら)の報恩寺と云われています。中国の画人四明陶?(しめいとういつ)が描く猛虎の絵を豊臣秀吉の所望により聚楽第の床へ飾ったところ、夜中に虎が鳴きだし、秀吉は一晩中眠れなかったので、すぐに寺へ返されたという話です。この絵は寅年の正月三が日に限り公開されるという事らしいので、来年の三が日に、再び、訪ねてみようと思います。

2009年03月03日

宝鏡寺 人形展

宝鏡寺は、日頃は非公開ですが、春と秋にのみ公開されています。
春のひな祭りは、「御所の春-天皇陛下御即位二十年・御成婚五十周年奉祝記念-」と題して3月1日(日)から、4月3日(金)まで行なわれています。RIMG030151.gif
門をくぐると、右に人形塚があり、10月14日には、この前で人形供養祭が行なわれます。RIMG030154.gif
      
     人形よ 誰がつくりしか
   誰に愛されしか 知らねども
     愛された事実こそ
   汝が成仏の誠なれ
            
              実篤

その横には、お向かいの日吉屋さんの傘」がディスプレイされています。RIMG030152.gif
人形寺とも言われていますが、皇女が歴代の住職となるところから、百々御所や門跡と称され、現在は臨済宗単立寺院となっています。RIMG030153.gif
皇女和宮が、幼少の頃、こちらの鶴亀の庭で遊ばれていたそうです。
寺内は撮影禁止となっていて、入り口近くの部屋にのみ、撮影用の人形が置かれていました。RIMG030156.gif
RIMG030155.gif宝鏡寺の北に隣接して、浄土宗の大慈院が、明治初期までありましたが、今はこちらに受け継がれています。応仁の乱の火付け役となった日野富子が出家して妙善院となり、この大慈院に入ったことから、日野富子の木像も祀られています。宝鏡寺第15代世渓山禅師は、義政と富子の息女でもあるようです。RIMG030159.gif画像の拡大
応仁の乱といえば、この宝鏡寺の東に百々橋跡があります。礎石のみが残されていますが、この百々橋を挟んで東西両陣が対峙したそうです。RIMG030158.gif
堀川を渡って上立売を一筋下がったところには、西軍を率いた山名宗全の邸跡の石碑もあります。RIMG030157.gif

2009年03月02日

宝鏡寺 ひなまつり

堀川寺之内に人形寺として親しまれている宝鏡寺があります。写真は、2月に小雪の舞った時のものです。RIMG030101.gifRIMG030102.gif
3月1日 その宝鏡寺において、ひなまつりイベントが行なわれました。雛人形が飾られ、雅楽の奉納と島原太夫の奉納舞を観ることができます。日曜ということもあり、大勢の観客となりそうなので、9時過ぎに、家を出ました。徒歩5分の距離ですから、即着いてしまいました。さすがに報道の人と一番乗りの人が待っていただけでした。11時からのイベントですからねぇ。近所を散歩して、戻ると10人ぐらいに増えていました。10時に寺内に入り、正面側の廊下に場所を確保して、さらに待つこと1時間、ようやく住職方が、席につかれました。RIMG030103.gif太夫登場RIMG030104.gifまずは、雅楽の奉納です。
RIMG030105.gifRIMG030106.gif観客はいっぱいで、痺れてきた足の向きを変えるのも一苦労です。後ろの方では、不満のブーイング騒ぎです。
RIMG030107.gif3曲演奏されました。RIMG030108.gif
いよいよ太夫の舞です。まずは住職にあいさつRIMG030109.gif
御本尊に礼拝RIMG030110.gif
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奉納舞は「いにしえ」です。よい場所を確保出来たので舞をコマ送り状態に撮れました。RIMG030112.gifRIMG030113.gif
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満喫しました。

2009年03月01日

首途八幡宮

智恵光院通りの今出川を上がったところに、首途(かどで)八幡宮があります。RIMG022341.gif
もとの名を「内野八幡宮」と呼び、宇佐八幡宮より御神霊を勧請し祀られた社だそうです。RIMG022342.gif
1174年3月3日未明に、源九郎義経が、牛若丸の頃、この地から奥州平泉の藤原秀衡の元へ出発する際、道中安全を祈願したということです。「首途」とは出発の意味で、この由緒により首途八幡宮と呼ばれるようになったという事です。RIMG022343.gif
境内は、一説によると、金売り吉次の屋敷跡と伝えられ、鞍馬を抜け出した牛若丸がこの屋敷で吉次と落ち合い、出立したと言われています。RIMG022344.gif
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2009年02月27日

東寺 梅 桜

東寺の五重塔のそばの桜が咲きだしていると、ネットで見たので、ちょっと見てきました。RIMG022333.gif ♪梅は咲い~たか♪RIMG022334.gif
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♪桜も~咲いてるよ♪RIMG022336.gif
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確かに~(^^)

2009年02月26日

智恵光院 梅

智恵光院通りを、ぷらぷら下がっていくと、一条通りの手前に、通りの名前となった、智恵光院があります。RIMG022323.gif
快慶作と伝わる本尊の阿弥陀如来像や、小野篁作と伝わる六臂地蔵尊があります。
こちらにも、一本ですが、枝垂れ梅があります。RIMG022324.gifRIMG022325.gif
RIMG022326.gifやや、盛りを過ぎた感じもしますが、薄桃色が綺麗です。RIMG022327.gifRIMG022328.gif
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RIMG022331.gifRIMG022332.gif

2009年02月25日

祐正寺 枝垂れ梅

2月23日 自宅から、徒歩で近くのお寺などを、散策しました。もっとも遠かったのですが、今まさに見頃だったので、下立売の七本松にある祐正寺から、紹介します。
門は閉まっていましたが、ガレージ側が開いていて、ちょうど帰ってこられた住職が、ご自由にどうぞと、言われたので、境内に入りました。RIMG022301.gif
同寺は浄土宗大本山百万遍知恩寺の末寺で、妻取地蔵さんで親しまれています。
RIMG022310.gifこちらの枝垂れ梅は、芳しい香りを放ちながら、なんとも風情がある感じです。RIMG022302.gifピンクの花びらが、愛らしいです。RIMG022303.gif
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静かな境内の中、初!めじろゲットしました(^^)vRIMG022311.gif
RIMG022312.gif激写!?RIMG022313.gif
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RIMG022318.gif満足したのか、飛んでいってしまいました。RIMG022319.gif
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梅の他には水仙も沢山咲いていました。RIMG022322.gif

2009年02月21日

妙蓮寺 桜 雪?

2月17日 目覚めると、雪がちらついていました。急がねば、融けてしまう・・・。ダッシュで、支度をして、飛び出しました。とりあえず、妙蓮寺さんを覘きました。屋根の白いのは、光っているのではなく、雪です。説明しなくてはいけないほどに、積もっていません。RIMG021706.gif
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2009年02月18日

水火天満宮 梅

2月16日
バスに乗ろうと、水火天満宮の前までやってきたら、紅白の梅が、見頃をむかえていました。RIMG021601.gif
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2009年02月13日

菅大臣神社 飛梅

2月9日 しつこくも梅を追いかけ、買い物帰りに菅大臣神社に寄りました。RIMG020930.gif
道真のいる大宰府に飛んでいったという、飛梅 こちらは、硬い蕾がちらほらしている程度です。RIMG020932.gif
市内でも品種によってか、随分ちがうものなのですねぇ。RIMG020931.gif

2009年02月12日

下賀茂神社 光琳の梅

2月9日 家の梅が、随分開いて、もうすぐ満開の態なので、あちこち咲き始めてるのかも?と下賀茂神社に、足を延ばしました。RIMG020923.gif
光琳の梅RIMG020924.gif
御手洗池RIMG020925.gif
こちらは、まだ蕾ふくらむといったところでした。RIMG020926.gif
RIMG020927.gifわずかに開いているのもRIMG020928.gif
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2009年02月10日

妙蓮寺 御会式櫻

2月9日 妙蓮寺の桜の様子を見に行きました。
先月の方が、花数が多かったようです。RIMG020901.gif
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2009年01月27日

雨宝院

1月26日 目が覚めた時、雪がちらついていたのですが、すぐに、日が射してきて、晴天かと思いきや、冬曇りの空模様となりました。雪景色になったら、写真撮りに行こうと考えていたので、拍子抜けです。ともかく、雨宝院まで、散歩しました。
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わずかに、椿が咲いている他は、花はありません。RIMG012602.gif
RIMG012603.gifまた、桜の時期に、訪れることにしましょう。

2009年01月22日

御所

御所の中の宗像神社には、水仙の花が咲いていました。天候が悪かったためか、結構倒れてしまっているものもありましたが。RIMG011916.gifRIMG011917.gifRIMG011918.gif
神社北側の梅RIMG011919.gif
素心蝋梅RIMG011920.gif
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烏丸通りを渡って、菅原院天満宮の牛RIMG011922.gif

北野の天神さん

1月19日 北野の天神さんへ出かけました。RIMG011911.gifRIMG011901.gif
牛のお出迎えRIMG011902.gif
境内では、梅の剪定が行われていました。RIMG011903.gif
蝋梅も、咲き始めていました。RIMG011904.gif
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RIMG011912.gif鳩の集団うたた寝

2009年01月14日

妙蓮寺の桜

1月12日 妙蓮寺さんに、立ち寄りました。
昨年より、御会式桜が、多く咲いているように、感じました。RIMG011202.gif
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春がやってきたような錯覚を起こしてしまう景色です。

2009年01月06日

なで牛

錦天満宮のなで牛
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頭がよくなりますように・・・というよりは、
若年性認知症になりませんように・・・。

2008年12月17日

千本釈迦堂

12月7日 千本釈迦堂の大根だきを、ちらっと覗きました。RIMG120705.gifRIMG120701.gif
買い求める人の行列も、多かったですが、写真に収めようとするカメラマンも大勢群がっていました。報道だけでなく、ブロガーも多いようです。RIMG120702.gifRIMG120703.gifRIMG120704.gif
湯気が上がって、おいしそうですが、1000円もするのはちょっと高くないかしらん?ご利益分の付加価値でしょうか(^^)

2008年11月05日

お千度参り

11月2日 町内の今宮神社へのお千度参りがありました。
良い日にお参りすると、千日分のご利益があるということです。
これまでの町内では、そういった行事がなかったので、
ものめずらしさも手伝い、紬の着物を着ていそいそと出掛けました。RIMG2011021.gif
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木々は少しばかり紅葉し始めています。RIMG2011023.gif
境内は七五三のお参りも多く、賑わっていました。RIMG2011024.gif
帰りにあぶり餅を皆さんで、食べました。2軒のお店がありますが、今回はかざりやさんです。RIMG2011026.gif玄関を入ったところに、つわぶきが今が盛りと咲いていました。
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ここの風景はよく京都サスペンスに使われていて、片平なぎささんが、事件の決着後、あぶり餅を食べてお茶している景色を思い出します。RIMG2011027.gif

2008年11月04日

弘法さん

10月21日
弘法さんに出掛けました。RIMG2010211.gif
歩き回ると暑いぐらいのお天気で、大勢の人で賑わっていました。天神さんより出店数が多いのか、主に呉服を見て回ったのですが、結構くたぶれました(´Д`)収穫は!?RIMG2010212.gif
お店のタピストリー代わりの帯を、秋バージョンにチェンジしました。1本1000円でお買い得?招き猫のお供にと、ねずみの置物も、買いました。RIMG2010213.gif
拝んでいるようなポーズが組み合わせると面白いとおもったのですが、招き猫の方は、我、関せずといった感じです。

2008年09月25日

妙蓮寺の彼岸花

9月24日 妙蓮寺さんの境内の彼岸花が見ごろとの情報で、仕事を終え、ちょっともう暗すぎるとは思ったけれど、カメラを持って走りました。宝物殿の横に紅白の彼岸花が咲いていました。092401.gif
高感度モードで撮りましたが、撮ってる本人が、構図が見えない暗さなので、翌朝、仕事前に出直しました。092402.gif092403.gif092404.gif092405.gif
境内の芙蓉の間にも赤いのが、入り混じっています。092406.gif092407.gif092408.gifちょっと芙蓉の葉の緑とのコントラストが強烈な感じなので、しっとりとした芙蓉で お口直し092409.gif
営業時間 間近なので、急いで帰る道すがらの植木鉢092410.gif

2008年09月10日

妙蓮寺の芙蓉 

9月8日 しばらくぶりに、妙蓮寺の芙蓉の様子を見に行きました。RIMG91001.gif
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咲いている花が、増えました。RIMG91003.gifRIMG91004.gifRIMG91005.gifRIMG91006.gif
複雑な花びらのものも。RIMG91007.gif
空が少し秋色です。 ♪ コバルトが目に染みますね~♪これは、ジュリー~~の歌の1節です。空が秋空になると、どうしてもこの歌が、口をついて出てきます。最近の歌は、覚えてもすぐ忘れてしまうのに、昔、覚えた歌は脳に定着しています。RIMG91008.gif
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2008年08月23日

六斉念仏

8月20日 出町柳の干菜山光福寺へ、六斉念仏の奉納を観に行きました。重要無形文化財に指定されているようですが、生で見るのは初めてです。RIMG82103.gif
住職や、小山郷の会長さんのご挨拶のあと、皆さんで集合写真です。RIMG82104.gif
オープニングは四つ太鼓
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小さい子達から順番に、四つ太鼓のソロ演奏です。RIMG82106.gif
天性のリズム感なのか、練習の成果なのか、すっごく早くて上手な子もいます。RIMG82131.gif
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金髪のおにいさんも、頑張ってます。RIMG82109.gifRIMG82110.gif
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祇園ばやしのコンチキチンは、小学生~中学生の女の子たちです。RIMG82113.gif
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後ろで演奏している笛の人たちの中には、はじめっからず~と吹いてる人もいて、酸欠で倒れないかしらって感じです。
RIMG82117.gif最後はお獅子の登場です。RIMG82118.gifRIMG82119.gif
逆立ちしたり、くるくる回転したりと、技の連続ですRIMG82120.gifRIMG82121.gif
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愛嬌も振りまいた後は、観客の頭をかじります。子供は、頭が良くなるようですが、この歳にもなると無理かも?RIMG82124.gif
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いよいよ碁盤の上に上がります。RIMG82126.gif
RIMG82127.gif終盤で、土蜘蛛が出てきて、糸をぱーっと撒いて、獅子と戦うわけですが、シャッター押すの早すぎで、糸は矢印の先に点々とあって、まだ広がっていません。(((^_^;)次の瞬間を撮ろうとあせって、余計なときに押してしまい、肝心の瞬間に、フラッシュが間に合わず、シャッターが切れずに、終わってしまいました。しまりのないエンディングです(- - ;)・・・。
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2時間弱ぐらいの間でしたが、結構見ごたえがあり、おもしろかったです。京都は、あちこちで、さまざまな催しがあり、それぞれに伝承していく努力をされていて、すばらしいことです。

2008年08月14日

芙蓉

7月16日 妙蓮寺 
早咲きの一輪が咲いていました。RIMG81301.gifRIMG81302.gifRIMG81303.gif
8月5日 妙蓮寺
ちらほら、咲いています。
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蝉の集団脱皮RIMG81308.gifRIMG81310.gif
8月11日 市内RIMG81311.gifRIMG81312.gifRIMG81313.gifRIMG81314.gifRIMG81315.gif
祇園 白川沿い
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小学生の頃、学校帰りに、ぷらぷら歩いた懐かしい道です。RIMG81319.gifRIMG81320.gif

2008年07月16日

7月14日 蓮の花を観に、朝から出かけました。
立本寺RIMG71401.gifRIMG71402.gifRIMG71418.gif
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金戒光明寺 西雲院RIMG71410.gifRIMG71411.gifRIMG71412.gifRIMG71413.gifRIMG71414.gif金戒光明寺 蓮池RIMG71415.gifRIMG71416.gifRIMG71417.gif

2008年05月06日

千本えんま堂狂言

5月4日 千本閻魔堂へ、念仏狂言を観に行きました。天気が良すぎて、野外観覧席は直射日光でまぶしいばかりです。早めに出かけたので、なんとか日陰の前列を確保できました。
京には、4つの念仏狂言がありますが、せりふ付きは、ここだけです。古くから伝わる伝統芸能で、市の無形民俗文化財に登録されています。狩野永徳筆の『洛中洛外図』にも最古の狂言図として描かれているほどです。
洛中洛外図 (左隻第二扇) 〔えんま庁〕上演中ennmadou.gif

まずは〔えんま庁〕RIMG541.gifRIMG542.gifRIMG543.gifRIMG544.gifRIMG545.gif〔鬼の念佛〕RIMG546.gifRIMG547.gifRIMG548.gifRIMG549.gifRIMG5410.gif
〔末廣〕RIMG5411.gifRIMG5412.gifRIMG5413.gifRIMG5414.gifRIMG5415.gifRIMG5416.gifRIMG5417.gifRIMG5418.gifRIMG5419.gif

2008年04月30日

牡丹

4月28日
この時期は、なんといっても、牡丹です。
その前に近くの若宮神社の八重桜です。RIMG4281.gifRIMG4282.gif
本満寺
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RIMG4284.gifRIMG4285.gifRIMG4286.gifRIMG4289.gifRIMG42872.gifRIMG42810.gifRIMG42811.gifRIMG42812.gifRIMG42814.gifRIMG42815.gifRIMG42816.gifRIMG42817.gifRIMG42818.gifRIMG42819.gifRIMG42820.gifRIMG42821.gifRIMG42822.gifRIMG42823.gifRIMG42824.gifRIMG42825.gifRIMG42826.gifRIMG42827.gifRIMG42828.gifRIMG42829.gifRIMG4288.gif
金戒光明寺 西雲院RIMG42830.gifRIMG42831.gifRIMG42832.gifRIMG42833.gifRIMG42834.gifRIMG42835.gifRIMG42836.gifRIMG42837.gifRIMG42838.gifRIMG42839.gifRIMG42840.gifRIMG42841.gifRIMG42842.gifRIMG42843.gifRIMG42844.gifRIMG42845.gifRIMG42846.gifRIMG42847.gifRIMG42848.gifRIMG42849.gifRIMG42850.gifおまけに 真如堂RIMG42851.gifRIMG42852.gifRIMG42853.gifRIMG42854.gifRIMG42855.gifRIMG42856.gif
そば処 茂平さんにて
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お庭の牡丹を、手折られたそうです。

2008年04月23日

遅咲きの桜

4月21日 ご近所の桜などを、また見て回りました。
宝鏡寺RIMG4211.gifRIMG4212.gif
雨宝院RIMG4213.gifRIMG4214.gif御衣黄桜RIMG4215.gifRIMG4216.gifRIMG4217.gifRIMG4218.gifRIMG4219.gifRIMG42110.gif
千本えんま堂RIMG42111.gifRIMG42112.gifRIMG42113.gif普賢象桜RIMG42114.gifRIMG42115.gifRIMG42116.gifRIMG42117.gifRIMG42118.gifRIMG42119.gifRIMG42120.gif
壬生通八条角 六孫王神社 
ここはご近所ではありませんが、新都ホテルに用事があったので、その前に立ち寄ってみました。RIMG42121.gif鯉のぼりが青空に気持ちよさげです。RIMG42130.gifRIMG42123.gifRIMG42126.gifRIMG42128.gifRIMG42129.gifRIMG42127.gif神龍池では、やんちゃ盛りのひな達が元気に泳ぎ回っていました。RIMG42122.gifRIMG42132.gifRIMG42135.gif
好奇心旺盛の1羽が、池のふちに上がろうとして、勢い余って外の庭に転がり落ちるハプニングがありました(゜□゜;)…RIMG42133.gif親、兄弟の呼びかけと、はらはら見守る人々の声援の中、自力で池に戻りました(^_^)vRIMG42134.gif


この陽気で、藤の花まで咲いて、蜂は大忙しです。RIMG42124.gifRIMG42125.gif

2008年04月18日

二条城 名残の桜

皆さん、それぞれの春?RIMG4161.gifRIMG4162.gif
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4月16日

2008年04月15日

桜 続編

法金剛院RIMG4141.gifRIMG4142.gifRIMG4143.gif妙心寺 境内RIMG4148.gif
RIMG4144.gif退蔵院RIMG4145.gifRIMG4147.gifRIMG4146.gif
裁判所 外回りRIMG4149.gifRIMG41410.gif
RIMG41411.gif御所RIMG41412.gifRIMG41413.gifRIMG41414.gifRIMG41415.gif螺旋洞桜 すでに、散ってました。RIMG41416.gifRIMG41417.gifRIMG414118.gif
山吹が、咲き始めています。RIMG0033.gifRIMG41419.gif4月14日

2008年04月08日

桜日和

4月6日 日曜日 この上ない桜日和です。          本法寺RIMG0013.gifRIMG0014.gif雨宝院  RIMG0017.gifRIMG0018.gifRIMG00202.gif
上品蓮台寺
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RIMG0038.gifRIMG0025.gif 千本釈迦堂RIMG00422.gifRIMG0043.gif
平野神社RIMG0044.gif
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上賀茂神社RIMG0056.gif
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植物園RIMG0064.gifRIMG0065.gifRIMG0066.gifRIMG0067.gifRIMG0070.gifRIMG0075.gifRIMG0076.gifRIMG0078.gifRIMG0086.gif
きらきらひかるさん 店内よりRIMG0092.gif
御所RIMG0101.gifふくろうさんの命名によるところの『螺旋洞桜』です。満開はもう少し先です。RIMG0098.gifお花見のはしごでした。

2008年04月01日

水火天満宮

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ご近所の水火天満宮の紅枝垂桜です。

2008年03月22日

二条城の梅見

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少し、春めいてくると、お花見計画を立てなくてはと、例年の事ながら、そわそわしてしまいます。桜がなにより好きで一度、桜前線を北上する旅をしてみたいと思いながらも、その機会を得られずにいます。今年は北野の梅花祭に出かけたこともあり、梅見も結構、おつなものだと知り、二条城にも出かけてみました。RIMG0031.gifRIMG0042.gif

源平咲きの梅や枝垂れ梅が満開で、香りも好いものでした。RIMG0032.gif

2008年02月28日

梅花祭

25日、天神さんに行ってきました。tennjinn.gifRIMG0015.gif天神さんも雲に乗り、梅見にいらしてました?mitizane.gif
このところの寒さ続きで梅は三分咲きでしたが、大勢の人で賑わっていました。RIMG0020.gif降る雪に 色まどはせる 梅の花                 うぐひすのみや わきてしのばむ     菅原道真RIMG0010.gif花と散り 玉と見えつつ あざむけば              雪ふるさとぞ 夢に見えける     菅原道真
maiko.gif小雪のちらつく中、上七軒の綺麗どころによる野点は、あまりにも長い行列で、パスしました。よって、写真は撮れなかったので、イラストでお茶を濁しておきます。

2008年02月05日

宗旦狐

1月に宗旦狐を拝みに相国寺に出かけました。soukokuji2.gifsoukokuji1.gif
宗旦に化けて、見事なお点前を披露し、客人をもてなしたというだけあって、賢そうなお狐さまです。私など細かい手順など習ったしりから、忘れていきますが。ちょっとイラストにしてみました。本当は白狐のようですが・・・。%E3%81%8D%E3%81%A4%E3%81%AD%E3%81%8A%E7%82%B9%E5%89%8D%E3%80%80%E8%89%B2.gif