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2017年04月28日

京都の桜 2017 平安神宮

4月17日 今年の桜の締めくくりは、平安神宮にしました。13-768.jpg
ヨーロッパ系のような外人さん団体に挟まれ、神苑に入りました。13-767.jpg
団体さんと一緒にしては、静かなのは、お国柄なのでしょうか。声も低めで気にならないところがいいです。13-766.jpg
名残の桜はハレーションを起こしたような色合いです。13-765.jpg
13-764.jpg13-763.jpg13-762.jpg13-761.jpg
直に杜若の季節を迎えそうですね。13-760.jpg13-759.jpg13-758.jpg13-757.jpg
茶店前では、鷺が忍び足。13-756.jpg13-755.jpg
ゲットしました。13-754.jpg13-753.jpg13-752.jpg13-751.jpgやはりここは、”ザ 京都の桜”感がありますね~。13-750.jpg13-749.jpg
結婚式が行われているようで、白無垢姿や正装着物姿の方が、いらっしゃいました。13-748.jpg13-747.jpg13-746.jpg13-745.jpg13-744.jpg13-743.jpg13-742.jpg13-741.jpg13-740.jpg
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また来年、この雅な桜を眺める事が出来ますように。13-733.jpg
予報通り雨がちらついてきたので、今年の桜は、これにて見納めとしました。


2017年04月07日

京都の桜 2017 清水寺

4月5日 
清水寺は、枝垂れ桜以外まだあまり咲いていないようですが、ライトアップが10日に終了、明日以降は雨も降るという予報なので、取り急ぎ、修復準備の丸太による足場のライトアップなどを見ようかと出掛けました。13-959.jpg
夜桜の着物にしてみました。13-958.jpg
日没に間に合いました。13-957.jpg13-956.jpg
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染井吉野はところどころ咲いていたり、蕾だったりとまだ賑わいはありません。13-953.jpg
地主神社は立ち入り禁止13-952.jpg
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今年の平安神宮薪能の番組、1日目に『田村』があります。舞台は3月半ばの清水寺です。東国の僧が、爛漫と咲くたそがれ時の桜花に見とれていると、箒を手にした一人の童子が現れ、清水寺建立の縁起を語り、あたりの名所を教え、ともに桜月夜の風情を楽しむというのが前半場面です。13-950.jpg
後半では、僧が夜通しで桜の木陰で経を読んでいるところへ、威風堂々たる武将姿の坂上田村麻呂の霊が現れ、朝敵を討つ為に、軍勢を率いて観音に参り、願をかけたことを語ります。その後、見事に賊を討ち果たした有様を見せて、これも観音の仏力によるものだと述べて、物語を終えます。13-949.jpg
今からそのイメージを膨らませて置こうと思います。13-948.jpg
白木蓮が照らし出されて、独特の空気感です。13-947.jpg
花が無くても、ライトアップだけで、写真的には雰囲気は出るような…。13-946.jpg13-945.jpg13-944.jpg13-943.jpg13-942.jpg
産寧坂13-941.jpg13-940.jpg
生八橋にお茶などを頂いて(^^)東寺へと急ぎます。


2017年04月05日

京都の桜 2017 平安荘跡・妙傳寺

4月2日 早咲き系といえば、岡崎疎水沿いの平安荘跡の桜もその一つです。12-011.jpg
こちらは、ずっとフェンスの中のままですね~。有効利用してほしいところです。12-010.jpg
妙傳寺 二条通りを西へ、東大路通の角にあるこちらのお寺 日蓮大聖人像がすっくと立ってらっしゃるのが印象的です。ガレージ側から立派な桜が見えます。ちょっとお邪魔してみました。12-009.jpg12-008.jpg


2016年09月08日

京の夏の旅 2016 和中庵

京の夏の旅 2つ目は、ノートルダム女学院中学高等学校 和中庵 を訪れました。12-115.jpg
坂を上がったところのこちらが受付12-114.jpg
左奥に入っていくと、お庭が開けています。写真に写っているのは、蔵です。12-104.jpg
昭和初期に建てられた和中庵は、かつて近江商人・藤井彦四郎の邸宅でしたが、現在はノートルダム女学院中学高等学校の所有となっています。外観を撮り忘れてしまいました。
一階 応接間12-113.jpg
玄関頭上には、阿吽の狛犬12-112.jpg12-102.jpg
クラシックな大理石階段が素敵です。12-103.jpg12-105.jpg

二階12-107.jpg12-106.jpg12-108.jpg

渡り廊下を渡ると、和の空間12-110.jpg12-111.jpg
確か、2階だったはずが、木造平屋のお庭に出てしまうという不思議12-109.jpg
傾斜の強い地面に建てられているのですね~。かつては、立派な桜の木がお庭にあったそうです。

2016年08月04日

真如堂宝物虫払会

7月25日 真如堂では、恒例の宝物虫払会が行われていました。年に一度、宝蔵に納められている200点ばかりの書画の掛軸や書状の巻物の虫干しとあって、本堂のいたるところに、掛軸が掛けられ、その箱が足元に置かれています。12-158.jpg
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『真如堂縁起』(公開されるのは写本)の前では、僧侶がその由来や内容を説明してらっしゃいました。
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『安倍晴明蘇生之図』の前では、『結定往生印』を頂く事が出来ます。

安倍晴明は一度は不慮の死をとげ閻魔大王の前に引き出されるも、その念持物である「不動明王」の進言により、民を救う秘印を授かり、生き返ったという伝承があるそうです。
真如堂に伝わる「極楽之宝印」がこの秘印の印影といわれていて、貫主によって、真言を唱えてもらい、額に印を受けると、極楽浄土行きが保証されるというものです。額に押してもらった印は、この世では見えませんが、閻魔大王の前に出た際には、ちゃんと見えるようです。(水族館の再入場の際に押してもらったスタンプと似たような仕掛けでしょうか?)目に見える形で頂いてきた朱印は、常日頃、持ち歩くもよし、故人の棺に入れるもよしという事です。
掛軸を一通り拝見して、暑気払いの「枇杷湯」の無料接待を受けると、その冷たく効能ありげな香りに、とてもさわやかな気持ちになりました。

2016年07月02日

建仁寺 両足院

7月6日まで、建仁寺 両足院では、庭園の特別公開が行われています。
6月20日、恒例となった半夏生のお庭の公開に、今年も出掛けました。12-243.jpg12-242.jpg12-241.jpg12-240.jpg
ちょっと、今年は葉が小ぶりのような?12-239.jpg12-238.jpg
雨が上って、蒸し暑さもそれほどでもないお天気12-237.jpg
また、自作の半夏生の着物で、お茶をよばれました。12-236.jpg12-235.jpg
年に一度のこの薄緑の餡が、なんとも堪りません。12-234.jpg12-233.jpg
混んでいた茶室が昼時のせいか、人気がなくなって、贅沢な時間を過ごす事が出来ました。12-232.jpg
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同じ着物なので、2014年の写真より転載12-227.jpg12-230.jpg
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2016年06月10日

第67回 京都薪能 2日目

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薪能2日目 昨日と同じ席をキープして、開演を待ちます。今日は、エンディングの「大瓶猩々」に合わせて、猩々の帯にしてみました。12-279.jpg
開場待ちの間に、目の前を、大瓶や狂言に使う3本の柱が、運び込まれて行きました。ちょっと照れくさそうに通られるところが、面白いところです。今日はしっかり寒さ対策の防寒具を多めに持ってきました。12-285.jpg
薪が入ると最前列ゆえ少し暖かくはなるのですが、昨日のような風の強さではそれも一瞬の事になってしまいます。
狂言「三本柱」いつも、会場待ち時間を盛り上げてくれる茂山宗彦・逸平兄弟が出演します。今年は千五郎さん・正邦さん親子が揃って、千作・千五郎を襲名されるそうです。襲名披露に行けるといいのですけどね~。
「翁」は、いつも愉快な井上裕久さん
「養老」「三輪」「大瓶猩々」はそれぞれ、やはり半能です。
「養老」はやはり、老父と孝行息子が出てきて、説明しないとなにやら、いきなり感がありますね~。
「三輪」運び込まれた作り物に、内側から衣が掛けられました。前場がないから、衣の意味わからないじゃないと突っ込みながら、鑑賞。
「大瓶猩々」大勢の猩々が出て来て、酒盛りです。面がそれぞれ違っています。ちょっと小さい方が一人、鷲尾世志子さんという女性の能楽師の方でしょうね。飲むほどに皆がふらつくさまが、愉快な能です。「コップのフチ子さん」というのがありますが、是非、「杯の猩々」を作って頂きたい。可愛いと思うのですが…。骨董品で、それを見つけたのですが、猩々の姿がいまいちでした。美しい面立ちで、可愛いしぐさの猩々が欲しいな~と改めて思った能でした。
松野奏風 作12-278.jpg

2016年06月09日

第67回 京都薪能 1日目

6月1日 今年も京都薪能を観に行きました。12-287.jpg
今年は天候に恵まれ、雨の心配もなく、暑くもなくいい具合だと思っていたのですが、風が強く、暮れるにつれ、寒くなってきて、取り敢えず、いろいろ羽織ってしのぐという、思いがけない事態になりました。12-286.jpg
今年も、最前列をキープして、開演を待ちます。12-283.jpg12-282.jpg
(五輪開催年に復興と平和を祈る)という副題が付いた今年の薪能、金剛流の「翁」に始まり、神様が主役の番組が多いのですが、如何せん、半能ばかりのようです。12-280.jpg
コーディネートは、翁に合わせ、松の帯に翁面の帯留にしてみました。

短時間に多くの番組を盛り込むとはいえ、これまでは、後半のみの半能もありましたが、ところどころはしょりながらも、前場、後場と演じられる番組もあるという構成でした。今年は、すべて後半の盛り上がるところだけを演じるという形になっていました。ワキ方が出て来て、ちょっと説明したかと思うと、すぐ後シテが出て来て、気持ちが付いていけず、とまどってしまいました。初心者には、やや退屈な前場を端折り、賑やかな場面を見せた方が、受けがいいのかもしれませんが、個人的には、気持ちの早送りが間に合わず、サビ場面に、感情のピークが来ないまま、終盤へと向かってしまう感じです。
月岡耕漁 「杜若」12-281.jpg
「杜若」在原業平を偲ぶ内容で、好きな演目の一つです。この春には、業平寺(十輪寺)にて、散る花を眺める事も出来たので、いっそううれしいです。愛知県知立にある無量寿寺の八橋かきつばた園も、訪れてみたいものです。
ワキ方は、原大さん!杜若の精の舞に酔いしれているさなか、観客の一部がざわっとして、はたと舞台全体を見渡すと、笛の帆足正規さんが、静かに静かに横に倒れられました。後見の方が少しばかりその寝姿を舞台わきへと引きずられ、舞台側に背を向けて、隠されました。人工呼吸が始まりAEDが持ち込まれた様子が、隙間から見え、ただ事ではない様子ですが、舞台は何事もないかのように、終盤へと。能は何事があろうと続行するという習わしなので、次の演目の笛方である左鴻康泰弘さんが静かに座られて、粛々と舞台はエンディングを迎えました。
やがて、救急車の音が近づき、大勢の後見が幕を張る中、タンカで運ばれて行かれました。しばしの休憩の後、最後の演目「春日龍神」が始まりました。
翌日のニュースで、大動脈弓部破裂で死去されたと知りました。享年85歳。さぞやおもてになったであろう面立ちのすっきりした素敵な方でした。最後のお舞台、序の舞を務められた御姿が目に焼き付きました。お冥福をお祈り申し上げます。

2016年04月22日

2016 京の桜 哲学の道ライトアップ

4月6日
日本画家橋本関雪が、アトリエ兼住居「白沙村荘」を構えてから今年で100年となることを記念して、関雪が植えた桜がライトアップされるという話を知り、雨になる前に出掛けてみました。
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白沙村荘前の東西にかけての約150メートルの間の疎水沿いの桜が、LED電球で照らし出されていました。12-334.jpg12-333.jpg12-332.jpg
下流の水面を、花びらが絨毯のように覆い尽しています。12-331.jpg12-330.jpg12-329.jpg
水面に映り込んだ木々が、異次元空間に存在するかのように見え、ちょっと飛び込みたいような気分になりました。12-328.jpg
今年の桜は、これでおしまいです。また来年、穏やかに眺める事が出来ますように・・・。

2016年04月05日

2016 京の桜 円山公園・祇園白川・高瀬川

4月2日 円山公園12-448.jpg
枝垂れが元気になってきたようで、何よりです。12-447.jpg12-446.jpg
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さすがに土曜の夜、大賑わいです。
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白川沿いも花盛り12-442.jpg12-441.jpg
高瀬川沿いまで、足を延ばしました。12-440.jpg12-439.jpg12-438.jpg12-437.jpg


2016年02月25日

第50回 京の冬の旅 南禅寺 天授庵

もみじの美しい 南禅寺 天授庵 今回の京の冬の旅では、公開日が限られていたので、早めに伺いました。12-498.jpg
建物の中に入るのは今回が初めてです。12-497.jpg
本堂には、禅の逸話を題材とした長谷川等伯筆の障壁画 「禅宗祖師図」や、「商山四皓図(しょうざんしこうず)」「松鶴図」の複製が納められていました。
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襖16面にわたり描かれた禅宗祖師図には、皇帝の使いがやってきても、おかまいなしに鼻水や涙をぬぐわず、芋を食べている懶瓚(らいさん)和尚の姿や、争いの種となった猫を切り棄てんとする南泉和尚の姿などが描かれていて、興味深いものでした。
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寺を再興した武将で歌人の細川幽斎とその夫人の肖像画も展示されていました。幽斎の三回忌に描かれたという肖像画は、くつろいだ姿で、戦国時代を乗り越えて、穏やかな晩年の隠居生活を夫人と共に過ごした様子がうかがえるようでした。

2015年12月09日

吉田神社 今宮社 

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こちらは、吉田神社の入口の参道の階段下、左側に鎮座する境内末社の一つ「今宮社」です。
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メディアワークス文庫より刊行されているライトノベル「神様の御用人」という本は、京都が中心の神様関連の小説という事で読み始め、ちょっとはまってしまいました。12-538.jpg
サイトよりあらすじ引用

神様にだって願いがある! 神様と人の温かい絆の物語。神様の御用人シリーズ 著/浅葉なつ  イラスト/くろのくろ

フリーターの青年と狐神が神様のパシリとして東へ西へ駆け回る!

神様たちの御用を聞いて回る人間――“御用人”。ある日、フリーターの良彦は不思議な老人から一冊の本を託され、狐神の黄金とともに八百万の神々のもとを訪れて御用を聞くはめになってしまった。かくして、古事記やら民話やらに登場する、人間以上に人間味あふれる神様たちに振り回されることになり……。

本の中に描かれた舞台は、京都人ならすぐわかる神社や店なので、ちょっと出掛けて見たくなりました。でもって、やってきたのが、この今宮社です。1巻で登場する黄金(こがね)という名の狐の姿をした神様のお社で、主人公の良彦が黄金と出会う場所です。
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小説に描かれているように方位神を祀っています。12-543.jpg12-542.jpg
東南の隅 玄武石12-541.jpg
西南の隅 白虎石12-540.jpg
東南の隅 青龍石12-539.jpg
東北の朱雀石は今宮社の社殿内にあるそうです。
黄金は残念ながら、出て来てはくれませんでした(^^;)

2015年09月23日

日本酒条例サミット in 京都 2015

9月22日、みやこめっせで「日本酒条例サミット in 京都 2015」が開催されました。12-648.jpg
全国の自治体や酒蔵が集って、銘酒の飲み比べをするというイベントです。12-647.jpg
受付開始時間に行くとすでに大勢の人です。12-649.jpg
入口で、お猪口と京都市の水道水ボトルを貰い、11時半の始まりのお知らせと共に、それぞれの目的地へ人々が散らばります。取り敢えずお目当てのお弁当をゲットして振り向くと、座席確保合戦が…。そうか!座席確保が最優先問題だったか!大急ぎで確保。おもむろに、試飲コーナーへ。準備OK!12-646.jpg
しかし、小ぶりなお猪口、一口二口飲むとすぐ、次のお酒を入れてもらいに立たなくてはいけません。忙しい…。まぁ試飲が目的ですから、致し方ありません。座席が確保出来ただけ幸いです。立ち飲み、立ち食いの人も多いですから。12-639.jpg
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会場は熱気のせいか、やや暑くて、冷酒が心地よいです。配布された水道水のボトルはぬるくて飲む気にならないので、紙コップの冷えたお水をもらいに行きましたが、皆さん、同じのようで、冷やすのが追い付かないと、これまたぬるい。持参した麦茶をチェイサーにして飲み続けます。最初から冷えたボトルを配って頂きたいものですね~。
奈良県の5種類のお酒は制覇。12-642.jpg
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料理も追加。お酒は飲み放題ですが、料理はそれぞれの出店の方にその場でお支払です。人気のブースは行列です。12-645.jpg12-644.jpg
頂いた会場案内は、各ブースの酒蔵名のみで、それぞれのお酒の銘柄が記載されていないので、飲んだ順番に銘柄をメモってみましたが、これがなかなか大変。座席に戻ってきた頃には、名前がわからなくなってしまったり…。メモ代わりに片手で写真を撮ったりしたので、ブレブレ。銘柄もパンフレットに記載して頂きたい。感想を書き込むスペースなどあればなお良い感じ。12-650.jpg
結果、どれが美味しかったのか?って、いろいろ飲んでしまったので、よくわからなくなりました
(^^;)
200銘柄出ていたそうですが、10分の1程度で終わってしまいました。2時間半のイベント、会場外には2部の人達の行列が出来ていました。これで、日本酒がもっと浸透するといいですね~。

2015年09月19日

40回記念 京の夏の旅 南禅寺 大寧軒

朝夕、涼しくなってきて、「京の夏の旅」も、そろそろ終盤を迎えています。12-661.jpg
南禅寺の大寧軒にお邪魔しました。12-660.jpg
こちらは南禅寺の塔頭であった大寧院が廃仏毀釈により廃院となり、その後茶人の藪内家11代目透月斎竹窓紹智によって改修された池泉回遊式庭園です。現在はまた南禅寺の管理となっているそうです。12-659.jpg12-658.jpg
大日山を借景にした470坪の庭園の真ん中に大きな池が造られています。12-657.jpg
流れの中に立つ三柱鳥居がなんとも目につきますが、この鳥居は、「京都三珍鳥居」の一つである太秦の蚕ノ社の鳥居を模したものだそうです。その足元からは、水が湧き出しているそうです。12-656.jpg
その水面を絶えず揺らしているのが、奥にある滝で、琵琶湖疏水の豊富な水量が落差3メートルの岩肌をとうとうと流れ落ちています。12-655.jpg
待合の反対側に見えるのが、茶室「環翠庵」です。12-654.jpg
池の中を良く見ると、黒っぽい石?が無数に。しじみです。12-652.jpg
庭でしじみが取れるなんて!!12-653.jpg
灯篭や自然石を利用した手水鉢などがあちこちに配されていますが、この柱状の庭石は兵庫県城崎温泉近くの玄武洞の柱状列石を運び込んだものだそうです。現在は搬出不可の珍しい銘石となっているという話でした。12-651.jpg
なんとも優美なお庭でした。

2015年08月28日

明日をつくった男~田辺朔郎と琵琶湖疏水~

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琵琶湖疏水記念館で、8/23までの毎日曜日「明日をつくった男~田辺朔郎と琵琶湖疏水~」と題した映画が上映されていました。12-674.jpg
明治初頭、衰退の危機にあった京都を近代都市として再生させようとした取り組みの一つである琵琶湖疏水工事の竣工から125周年を記念して、この工事を指揮した若きエンジニア・田邉朔郎とその難工事の様子を、アニメ・CG、実写を交えて描いたものです。12-673.jpg
疎水にまつわる館内の展示を一通り見学した後、係員の方の説明などを聞きながら、2階のAVホールでの上映を待ちました。
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飛躍的な発展を遂げた明治期、こんな人々の活躍があったのですね~。なにげに使っている水道水ですが、この工事のおかげで、現在も不自由することなく、生活が出来ているのですから、感謝しなくてはいけませんね~。12-668.jpg
思わず、敷地内の自販機で、京都市水道水を買って飲んでみました。冷えてると結構おいしいですね。

2015年08月07日

40回記念 京の夏の旅 有鄰館 日本館

岡崎の観世会館のお隣にある、変わった建物。以前から気になっていたのですが、今年の京の夏の旅で公開されるとの事で、出掛けてみました。
有鄰館 12-703.jpg12-702.jpg
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門が閉まっているので、どこから入るのかしらんと、横へ回ってみると、看板がありました。12-700.jpg
公開されているのは、表の建物ではなく、奥にある日本館のようです。12-699.jpg12-698.jpg
日本館とありますが、アール・ヌーボ様式を残す二階建て木造建築の洋館です。国の登録有形文化財に指定されているとか。ルイ王朝風の凝った細工が施されています。昭和天皇の御大典の際、犬養毅元首相が宿泊していたそうです。応接室や、藤原期の木彫仏を安置した仏間、創設者のコレクションの展示がありました。12-697.jpg
周辺の建物も一族が所有されているようですね~。通り沿いの建物内部を見学できると思っていたので、ちょっと残念でした。12-696.jpg

2015年06月24日

両足院 半夏生 2015

6月22日 今年も見頃になったという半夏生を見に、両足院に出掛けました。12-844.jpg12-843.jpg
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宣伝効果も上がって、大勢の見物客です。庭に出るのは、茶券を買った人のみで、スリッパの数だけ20人ずつとなっていました。大勢が庭にいると、眺めが悪くなりますからね~。12-841.jpg12-840.jpg12-839.jpg
前日の雨でしっとりした庭園は、まさに見頃で、お手入れも行き届いていて、美しいです。12-838.jpg
この菓子がまたいいですよね~。12-837.jpg12-836.jpg
お抹茶の写真、撮り忘れてしまいました。12-832.jpg
着物は去年に引き続きですが、自作の半夏生です。帯は流水模様に変えてみました。緑石とパールのイヤリングを縫い止めて帯留にしてみました。簪も手持ちの緑石の物に もう片方のイヤリングを合体させてみました。半夏生に見立てたつもり?12-831.jpg
茶席に同席していらした方に、半夏生のお着物ですかと聞かれ、結構受けました。来年はどうしたものか!12-835.jpg12-834.jpg12-833.jpg
この季節のお気に入りのお庭、満喫しました。


 

2015年05月23日

青蓮院門跡

将軍塚から下りてきて、本院の青蓮院門跡の拝観に向かいました。12-899.jpg
大きな楠12-898.jpg12-897.jpg
新緑が眩いです。12-896.jpg
宸殿前には左近の桜12-894.jpg
右近の橘12-893.jpg
相阿弥の作と伝えられる龍心池を中心とする池泉回遊式庭園12-895.jpg
庭に降りて回遊出来るのですが、さすがに広そうで、今回は建物の内から。12-892.jpg
またの機会に、茶室 好文亭にお邪魔したいものです。

2015年05月16日

将軍塚青龍殿

昨年10月に落慶した将軍塚の青龍殿の見学に行ってきました。12-934.jpg
こちらが西の展望台から見た青龍殿です。12-933.jpg
北野天満宮前にあった「平安道場」(旧大日本武徳会京都支部武徳殿)を移築再建したものだそうです。立派な護摩堂で、青不動明王が奥に小さく見えます。12-932.jpg
北野展望台には、吉岡徳仁作の ガラスの茶室—光庵がきらきらしています。12-931.jpg
ガラスのベンチはひんやりして気持ち良いものでした。こんなに解放感あふれる茶室は、いまだかつてなくて、利休さんもびっくりといった感じです。ちょっとベンチに正座してみましたが、やっぱり痛いですね~(^^)ガラスの草履なんか、置いておきたいような…。12-930.jpg
舞台模型12-929.jpg
実物の足元12-928.jpg
将軍塚12-926.jpg
どんな将軍像が埋められているのか、見てみたいものです。12-925.jpg
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お庭も立派に造られたようですね~。12-924.jpg
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2015年04月14日

2015 京の桜 岡崎疎水

4月6日 自宅ランチを終えて、岡崎に向かいました。11-072.jpg11-071.jpg
あいにくの小雨となってしまいましたが、ネット予約していた十石舟めぐりに乗ります。11-070.jpg
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琵琶湖疏水記念館近くの乗船場に降りてきました。11-067.jpg
鵜がいるんですね。初めて見ました。いえ、初めて鵜だと認識したのかもしれません。11-066.jpg
橋の高さが低いところがあり、その度に舟の天井を上げ下げする仕組みになっているようです。なるほど、それで嵐山と違って、2人も係りの人が乗船されているのですね。11-065.jpg11-064.jpg
木の上にも、鵜11-063.jpg11-062.jpg
周辺の建物や歴史など、ガイド付きです。11-061.jpg11-060.jpg11-059.jpg
今まで、見下ろしてばかりでしたから、目線が変わって、ちょっとうれしいですね。11-058.jpg
思ったよりスピードがあるので、画像が流れてしまいがちです。11-057.jpg
夷川舟溜りにて、Uターンです。11-056.jpg11-055.jpg
テンションがハイになってしまって、写真を一杯撮ったので、ちょっとアレンジ11-054.jpg
ノスタルジックバージョン11-053.jpg11-052.jpg11-051.jpg11-050.jpg11-049.jpg
次の舟とすれ違います。11-048.jpg
近代美術館11-047.jpg
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約25分の運航を経て、船着き場に戻ってきました。11-042.jpg


2015年04月08日

2015 京の桜 円山公園・祇園白川

3月30日 次第に暮れかかるころ、円山公園にやって来ました。11-176.jpg11-175.jpg
頑張って咲いてはいますね。11-174.jpg
はい、ポーズ11-173.jpg
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木々の周りに柵が増えて、宴会スペースが減っています。桜の為には、良い事でしょうね。11-171.jpg11-170.jpg11-169.jpg11-168.jpg
晩御飯を終えて、白川をそぞろ歩き11-167.jpg11-166.jpg
大勢の人で、賑わっています。言語も色々。11-165.jpg11-164.jpg11-163.jpg
11-162.jpg11-161.jpgさて、バーで一杯飲んでから帰るとしましょう。


2015年04月05日

2015 京の桜 岡崎

3月30日 岡崎へとやってきました。武道センターの桜が、見頃です。11-196.jpg11-195.jpg
疎水沿いはこれからといった所です。今年は、ネット予約が出来るようになったので、船に乗ってみようと思います。
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平安荘跡11-193.jpg
今年も、おおらかに咲いています。人が近づかないのがよいのかしらん?11-192.jpg
平安神宮 入口右横のお気に入りの桜は、ちょっと早かったようです。11-191.jpg11-190.jpg


2015年04月04日

2015 京の桜 聖護院・真如堂

3月30日聖護院の桜も満開でした。11-204.jpg
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真如堂の五重塔横の枝垂れが見頃とのネット情報があったので、そちらに移動11-201.jpg
門前も結構咲いています。11-200.jpg
この陽気であちこち一気に咲き始めたようですね。11-199.jpg
枝垂れ11-198.jpg11-197.jpg

2015年03月13日

東山花灯路2015

今年も15日まで、東山花灯路イベントが開催されています。11-315.jpg
少しずつ、見どころも増えてきたようです。
粟田大燈呂11-314.jpg11-313.jpg11-312.jpg
現代いけばな展11-311.jpg
協賛事業として、祇園大茶會が催されていたので、覗いてみました。場所は円山公園内の市民の森で、白テントの中に数寄茶人達が趣向を凝らしたオリジナル呈茶席を設けていました。何やら興味深い一期一会な感じです。11-310.jpg
こちらのお茶席にお邪魔してみました。堺の茶人だそうで、縁あって、こちらの御席を担当される事になったそうです。11-309.jpg
八坂神社境内の絵馬堂前では祇園甲部・東の舞妓さんによる呈茶席が設けられていました。11-307.jpg
背景は《琳派400年記念祭」に合わせての、木村英輝氏の作品です。11-306.jpg11-305.jpg11-308.jpg11-304.jpg11-303.jpg11-302.jpg
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立ち姿が、まだなんとも おぼこいですね~。これからお稽古を積んで、場数を踏んで、色香が漂うようになってゆくのでしょうね~。おきばりやす(^^)

2015年03月07日

第49回 京の冬の旅 東福寺 龍吟庵

6か所目の京の冬の旅は、東福寺 龍吟庵です。こちらは、東福寺第3世住持・大明国師の住居跡で、墓所ともなっています。
臥雲橋から通天橋を望む。11-335.jpg
 方丈横を抜け、北東の奥の方、偃月橋(えんげつきょう)にやってきました。11-334.jpg
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応仁の乱にも焼けずに残ったこちらの方丈は、現存最古の方丈建築で、書院造りと寝殿造りの融合された建築となっています。11-321.jpg
方丈正面の南庭は「無の庭」一面の白砂敷きです。11-331.jpg
竹垣に稲妻模様11-330.jpg
西庭は龍が海中から黒雲を得て昇天する姿が表現されているそうです。11-329.jpg11-328.jpg
雷紋11-324.jpg11-323.jpg
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三つ目の東庭は「不離の庭」中央の長い石が山中に置き去りにされた幼少期の国師を現し、その前後の白黒の石がオオカミに襲われそうな国師をお守りしている2頭の犬を現しているそうです。11-325.jpg
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これら3つの枯山水庭園は、昭和の作庭家 重森美玲の作です。こちらのボランティアガイドさんは、最初から最後まで一人で何も見ずに流暢に説明されていました。す、すばらしい・・・。11-320.jpg
偃月橋に戻ってきました。通天橋、臥雲橋とともに「東福寺三名橋」の一つといわれ、重文に指定されています。慶長八年(一六〇三)の架設。11-319.jpg
単層切妻造・桟瓦葺きの木造橋廊です。1603年に再建されています。11-318.jpg

2015年02月19日

第49回 京の冬の旅 智積院

第49回 京の冬の旅 5か所めは、智積院を訪れました。11-351.jpg
昨年6月にさつきを見に来て以来です11-349.jpg
大書院では、障壁画のコピーが眩いばかり。11-350.jpg
大好きなお庭の池が干上がっています。11-348.jpg
3月5日~12日まで庭園の整備(治水調査)の為、特別拝観休止となっていたので、早めに来たつもりが、すでに準備が始まっているのですね。11-347.jpg
始めて見る池底。鯉たちは何処に避難しているのでしょう?11-346.jpg
奥の宸殿が今回の特別拝観区域11-345.jpg
賓客を迎える建物で、なんともモダンな堂本印象の襖絵を観る事が出来ました。11-344.jpg
日差しが暖かで、このまま春になればいいのに~といった気持ち良さです。11-343.jpg
梅もほころび始めています。11-342.jpg11-341.jpg11-340.jpg


2015年02月07日

第49回 京の冬の旅 建仁寺 霊源院

第49回 京の冬の旅 3か所めは、建仁寺 塔頭 霊源院です。建仁寺の南東に位置するこちらの塔頭、冬の旅では、初公開となります。11-363.jpg
南北朝時代に作られた「中巌円月(ちゅうがんえんげつ)坐像」が正面に鎮座されていました。その体内にあったのが、チケット写真に使われている胎内仏「毘沙門天立像」です。
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鎌倉時代の慶派の仏師が手がけたもので、左手に掲げた水晶の中には伝教大師最澄が持ち帰ったという仏舎利が納められているそうです。もう少し近くで見たいものです。
木村英輝氏の描いたこちらの毘沙門天像や、書家の金沢翔子氏の屏風「毘沙門天」が奉納され、両脇に飾られていました。
2つの茶室が公開されていて、四畳半の「也足軒」(やそくけん)では、住職によるお点前も頂けるとの事でした。鶴屋吉信の生菓子が頂けるとの事でしたが、お昼前でもあり、1000円という事もあり、ご住職の後ろ姿の立派さにも気が引けて、遠慮してしまいました。茶室横には、足利七代将軍義勝10歳の時の作という墨画「達磨図」が掛けられていて、その非凡さを窺うことが出来ました。11-362.jpg
枯山水庭園「甘露庭(かんろてい)」は、冬枯れの季節とあって、寂しい感じでしたが、違う季節に訪れると、また良いようです。

「心ころころ ころころ こころ」もう一つの茶室に掛けられていた御軸です。妙に印象に残りました。近い距離に2つの茶室ですが、その間のお部屋も炉が切ってあったので、3室とも茶室な造りということになりますね~。

2015年01月23日

第49回 京の冬の旅 頂妙寺

恒例の京の冬の旅がまた始まっています。11-378.jpg
一つ目に、仁王門通にある頂妙寺におじゃましました。うっかりカメラを忘れてしまい、携帯での撮影です。11-377.jpg
今年は「琳派400年記念祭」ということで、こちらは琳派の絵師 俵屋宗達ゆかりのお寺です。すぐ近くには、昨年6月にオープンしたうどんの「うね乃」さんがあり、その行列も気になるところですが、またの機会に・・・。11-375.jpg
室町時代に日祝上人によって開かれた日蓮宗本山のひとつで、仁王門通の由来となったこちらの門の左右には、伝運慶作の持国天像と多聞天像が安置されています。11-376.jpg
俵谷宗達の水墨画「牛図」を観る事が出来るのですが、前期は立ち姿のみ、後期に座っている牛図を公開するそうです。え~!
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宗達のものと伝わるお墓です。11-373.jpg

2014年12月10日

無鄰菴・西尾八ッ橋別邸

ランチの後は、無鄰菴へと。シーズン中の京都は、近場で移動するのが何より効率的です。11-422.jpg
山縣有朋(やまがたありとも)の別荘であるこちらも、植治のお庭です。11-421.jpg
円山公園内を走り廻って育った私としては、植治の庭が、なんとも落ち着く感じがします。11-420.jpg
願わくば、植冶の庭付き老人ホームで、晩年を過ごしたいなどと考えてしまいます(^^)11-419.jpg11-418.jpg
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洋館2階は、「無鄰菴会議」が開かれた場所で、歴史をかいま見る風情。11-413.jpg
疎水沿いも、紅葉していました。11-412.jpg11-411.jpg
お茶タイムは、西尾八ッ橋別邸にて、お抹茶と白餅を頂きました。11-409.jpg11-410.jpg
ゆったりとお茶を楽しめました。

2014年12月03日

白河院

南禅寺から、岡崎法勝寺町にある白河院にやってきました。11-439.jpg
法勝寺跡であるこちらは、植治の庭がある私のお気に入りの場所です。11-438.jpg11-437.jpg
しがくの宿ですが、予約をしておけば、数寄屋造りの別館でランチが出来ます。11-436.jpg
テーブルからの眺め11-435.jpg
宿泊者以外でも利用できる事が、あまり知られていないので、平日ランチは穴場です。11-434.jpg
白河院という冷酒があったので、ちょっと寒いけど飲んでみました。11-433.jpg
この後、ご飯とお味噌汁・焼き物などが出て、デザートです。11-432.jpg11-431.jpg
食後に、まったりお庭拝見。11-430.jpg
入口の杉戸絵11-428.jpg
お隣のお部屋は、一面、絢爛豪華な襖絵11-429.jpg
回遊式のお庭に出ます。11-427.jpg
一階が先程、食事していた所です。11-426.jpg11-425.jpg11-424.jpg
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ゆっくり堪能出来ました。


2014年11月27日

南禅寺 紅葉

11月17日 天授庵を出て、南禅寺境内をぷらぷら。11-447.jpg11-446.jpg
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裏手の紅葉のグラデーションが見頃でした。
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死体もなく紅葉さんもいらっしゃいませんでしたが、観光客は一杯。11-442.jpg11-441.jpg11-440.jpg
ランチに向かいます。

2014年11月20日

南禅寺 塔頭 天授庵 紅葉

月曜だけ雨マークの天気予報となっていたのが、何とか北陸に逸れて曇り空となった17日。着物を着て、いそいそと紅葉狩りに出掛けました。11-448.jpg
おととし、ライトアップ準備中で入りそびれ、去年は「そうだ、京都行こう!」のキャンペーン中で、敬遠してしまった南禅寺 塔頭 天授庵が見頃との事で、今年こそはと意気込んで行きました。11-469.jpg
八千代さん前も綺麗なグラデーション。11-468.jpg
塀からあふれ出た紅葉に、期待が高まります。11-467.jpg11-466.jpg11-465.jpg11-464.jpg11-463.jpg
まずまずの紅葉具合。11-462.jpg11-461.jpg
奥へと進みます。11-460.jpg11-459.jpg

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豊富な色合いに包まれている空間が、なんとも贅沢です。11-457.jpg11-456.jpg11-455.jpg11-454.jpg11-453.jpg11-452.jpg11-451.jpg11-450.jpg
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秋明菊も愛らしい感じでした。


2014年11月15日

河井寛次郎記念館

東山五条から、少し入り込んだ処に、河井寛次郎記念館があります。11-475.jpg
大正・昭和にかけて京都を拠点に活動した陶工・河井寬次郎の住まい兼仕事場を公開したものです。月曜休みという事もあって、今まで訪れた事がなかったのですが、たまたま祝日の月曜に近くまで来たので、立ち寄りました。11-473.jpg11-474.jpg
明治23(1890)年島根県安来に生まれた寛次郎は、東京高等工業学校窯業科を卒業後、京都陶磁器試験所に入所しています。中国・朝鮮の陶磁の名作を範とした、技巧的な作品で、注目を集めた初期の作品から、実用的な陶器制作へと転換、「民藝運動」に深く関わる中期。11-471.jpg
より自由な造形へと展開する後期。と、その作風は大きく三期に分類されるようです。
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室戸台風で五条坂の自宅が損壊したことを契機に、自宅兼仕事場を自ら設計し、昭和12(1937)年に完成させたのが、この現在の記念館です。11-472.jpg

当時の雰囲気をそのままに保存された建物からは、その生活ぶりがが思い浮かべられるような感じで、振り向くと寛次郎さんが、座ってにこやかにお茶をすすっているかのようでした。

2014年10月26日

京都国立博物館

ぼちぼち空いたかしらんと、京都国立博物館へ、鳥獣戯画展を観に行きました。11-485.jpg
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50分待ちで入れるとの事で、行列に並びました。時代祭を明日に控え、観光客も多いので、やっぱり空いてはいないようです。11-491.jpg11-492.jpg
鳥獣戯画の部屋では、また うねうねと行列。昨年、高山寺でコピーの一部を観ましたが、全体を観るのは初めてです。裏表に描かれていたものをはがして、一巻の絵巻物に仕立て直していたものであることが分かったそうです。後世にその面白さに気付いた人が、細工して残そうとしたのでしょうかね~。さらに後世の人がまた修理して、こんなに多くの人が鑑賞する事になるなんて、描いた本人は想像だにしなかったことでしょう。
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9月13日にオープンしていた平成知新館の方は、すんなり入れました。取り敢えず、ランチ休憩11-489.jpg
お向かいのハイアットリージェンシーがレストランとして、入っています。待ちすぎて料理が来るや食べてしまったので、写真はありません。テラス席でまぶしい日差しの中まったりしすぎ、展示室へ入るとあまりの暗さに人にぶつかりそう。11-483.jpg
ようよう目も慣れて、最上階から順番に建物見学しながら、展示見学。11-482.jpg
結構時間が掛かり、出てきた時はこんな暗さ。11-488.jpg11-487.jpg
コンパクトカメラだったので、引いても全体が写真に納まらず、合成してみました。11-486.jpg


2014年08月09日

陶器まつり

五条坂の陶器まつりに久々に出掛けてみました。10-107.jpg
京阪五条駅は、現在「清水五条駅」という名称に変わっていたのですね。京阪に乗る機会がほとんどないので、気付きませんでした。その清水五条駅から五条通の北側を東へとぷらぷら歩き、突き当りの東大路通で信号を渡り、今度は南側を京阪の駅まで歩きます。10-106.jpg
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器類は、母親が好きでちまちま買い求めていたので、小料理屋が開けるほど在庫があります。引っ越しの都度、一苦労してきたので、陶器まつりもご無沙汰でした。よって単なる夏の風情を味わうだけの冷やかし散歩です。
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若宮八幡宮でお参り。陶器で作られた作品が飾られていました。10-103.jpg10-102.jpg
重りを付けて浮かせる金魚が売られていたので、思わず買ってしまいました。大文字デザインのうちわ型箸置きも一つ。これは、裏に金具を取り付けて、帯留にするつもりです。
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睡蓮鉢に浮かべてみました。大きい金魚たちが、新参者にびっくりしているような?10-100.jpg
下駄で一周すると結構足がじんじんしてしまいました。日々、運動不足ですから、いい運動になったようです。
なお、この陶器まつり、9日(土)10日(日)は台風の為、中止されたそうです。

2014年07月01日

両足院 半夏生

6月30日、ようやく着物も描き上げたので、両足院へ出掛けました。10-187.jpg
拝観入口が毘沙門堂側に変わり売店が出来て、お庭を回遊出来るのは、お茶券を買った人だけと変更になりました。10-163.jpg
団体客と入れ違いになったりして、メジャー感が出てきたようです。10-186.jpg
茶席も混んでいるようなので、ゆっくりめに10-185.jpg10-184.jpg10-183.jpg
すっかり白くなって、花も開いているようです。ピークを過ぎたところという感じです。10-182.jpg
昨日の雨で洗われ、薄曇りの空模様もあって、しっとりとした緑がとても美しいです。10-181.jpg10-180.jpg
雨の後で、朝は池に枯葉などが浮いていたはずですが、お手入れが行き届いているのでしょうね。10-179.jpg
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花が開いて、蠢いている感じがまた一興です。ピーク過ぎならではの面白さで、結構好きです。10-176.jpg
お昼時になり、茶室も空いてきました。10-175.jpg
この薄緑の餡が、いいですね~。
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前回は、湿度が高くて京都の梅雨を満喫した空気感でしたが、今日は時折さわやかな風が吹いて、心地良いです。10-173.jpg10-172.jpg
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風で揺らいだ裾から、下前の柄が見えるのがいいかも~と自画自賛。
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半夏生に包まれて、庭との一体感を味わってみました。10-169.jpg
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方丈襖絵制作の様子は13:00~16:00の間、廊下越しに見学可能なようですが、まだ時間もあるので、おいとますることにしました。完成が楽しみですね。10-164.jpg
飴まで出来ています。

2014年06月26日

真如堂

6月23日 真如堂では、静かな境内の中、沙羅の花が咲いていました。10-197.jpg
まだまだ、蕾が一杯。10-196.jpg
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日陰にいると、風がさわやかで、お昼寝したいような長閑さです。
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額紫陽花も綺麗です。10-199.jpg

2014年06月14日

6月の智積院 

6月9日 智積院を訪ねました。10-216.jpg
奥の方では、紫陽花が見頃を迎えていました。10-215.jpg
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サツキのお庭を見たくなって、中に。10-213.jpg
高浜虚子の句10-212.jpg
前日までの強い雨で、少し弱っているようですが、なんとか。10-211.jpg
室内は日が入らないので、風がさわやかです。10-207.jpg10-210.jpg

サツキがもう少し咲いているかと思ったのですが、なかなか難しいですね。利休好みのこの庭は、お気に入りの場所の一つです。10-209.jpg
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2014年04月20日

2014 京の桜 哲学の道

4月7日 哲学の道は、花見客で、賑わっていました。10-403.jpg10-402.jpg10-401.jpg
何やら、アジア色が強く、日本人観光客はどこに行ったのかしらん?といった感じの言語が飛び交っていました。
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レンタル着物姿に、ウエディング姿の撮影まで、アジアンな人達でした。10-399.jpg10-398.jpg10-397.jpg
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風が吹くと花びらが舞い散って、花筏となり、その儚さに酔いしれるのが、なんといってもこの道の醍醐味ですね。10-395.jpg
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2014年04月18日

2014 京の桜 平安神宮

4月7日 平安神宮にやってきました。10-420.jpg
屋根にあふれ掛かっている枝垂れを見ると、わくわくしてきます。10-419.jpg
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何度見ても雅な庭です。夜の幽玄な感じも良いのですが、お昼間のまったりした時間帯の様子も、「細雪」を連想して、なんとも素敵です。10-410.jpg

2014 京の桜 岡崎疎水

4月7日 疎水の桜が満開でした。10-425.jpg
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一度は十石舟に乗ってみたいものです。10-422.jpg10-421.jpg


2014年04月09日

2014 京の桜 岡崎

3月31日 岡崎へとやってきました。
旧武徳殿の枝垂れ9-012.jpg
疎水の桜は少し早め9-011.jpg
平安荘跡9-010.jpg
相変わらず、フェンスの中です。

平安神宮のお気に入りの桜9-009.jpg
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左近の桜も庭園の紅枝垂れもまだです。

俊寛僧都 ゆかりの満願寺9-007.jpg9-006.jpg9-005.jpg9-004.jpg9-003.jpg
ここは、静かに鑑賞できるスポットです。

2014年03月29日

大田垣蓮月尼 展

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4月20日まで、野村美術館において、「大田垣蓮月尼展 幽居の和歌と作品 」が開催されています。蓮月尼に関しては、以前に結構調べて、当ブログ内に記載しましたが、まとまった作品展を観た事がなかったので、すぐに駆けつけました。
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京都に長く住む二人の人物、アメリカ人学芸員ジョン・ウォーカーとオーストリア人社会学教授、ガブリエレ・ハードによって集められた「あめんぼコレクション」による作品群だという事です。京都では1984年以来となる規模の展示です。

前期・後期と若干の作品の入れ替えがあるようです。陳列作品のパンフレットを頂いたのですが、照らし合わせて観るには、ちょっとややこしい感じでした。とにもかくにも、これだけの作品を観る事が出来て、とても良かったです。江戸時代に想いをはせ、蓮月尼の生活を想像出来ました。

この野村美術館は、茶席があり、お抹茶とお菓子を楽しめるので、立ち寄ってみると、なんと!蓮月尼の茶碗で抹茶を頂けると言われて、びっくり!
4、5種ぐらいの写真の茶碗の中から好きなものを選べるという事で、「鶯は みやこにいでし 山ざとに 梅ひとりこそ 咲匂ひけれ」と書かれた茶碗にしました。9-129.jpg
末富さんの菓子と共に頂きました。600円ですから、すっごくお得感がありました。

2014年03月15日

東山花灯路

今年も東山花灯路が、14日より始まりました。9-149.jpg
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火の用心・お囃子組tが、円山公園の池の前で、わらべ歌を唄っていました。9-156.jpg
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各流派の生け花もライトアップされて、華やかです。「伝統の灯り」をテーマに、京都ゆかりの5芸術系大学の学生の作品も展示されています。9-154.jpg
竹灯り・幽玄の川9-153.jpg
小川に竹で作られた灯籠が、揺らめいています。9-152.jpg
知恩院山門前では、狐の嫁入り行列がスタンバイ中でした。9-151.jpg9-150.jpg
長楽館前では、ホットワインが販売されていたので、あまりの寒さに1杯頂きました。待つことしばし、行列がやってきました。
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どうしようかしらと思いつつも、結局高台寺まで、追っかけ。9-145.jpg
階段を上がって先に高台寺天満宮前で待っていると、人力車を下りた花嫁さんがやってきて、お参り。知恩院出発からするとちょうど30分で高台寺まで、やってきたようですね。もっと時間掛かるのかと思っていましたが、結構さっさと歩くのですね~。
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出来たらお付きの行列の方たちももう少し着物姿を増やして、もう一工夫ほしいところですね~。

2014年03月14日

日本画年鑑30周年記念展

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1984年から30年間続いた日本画年鑑という分厚い年鑑は、毎年活躍中の作家約300名を、その作品とともにご紹介していましたが、時代の変化により、紙を媒体とする事を今年で終了し、来年よりインターネット上に生まれ変わることになったそうです。記念展が東山の地で行われていました。
法然院9-166.jpg
梅に流水でしょうか。9-165.jpg
講堂が会場になっていました。参加した作家の方々の小品が展示されていて、ちょっと欲しくなってしまう感じでした。金額も示されていたので、販売もされるのでしょうか?まあ、個人的には、きびしい金額だったので、尋ねませんでしたけど・・・。9-164.jpg
安楽寺9-163.jpg9-162.jpg9-161.jpg9-160.jpg
境内の椛(もみじ)と命名された客殿 喫茶スペースと奥座敷での展示でした。
座敷には床の間に千住博氏の「ウォーターフォール」が掛け軸バージョンになって掛かっていました。きゃー!
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スタッフの方がちょっと作品説明して下さったので、より親近感が持てました。
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クラシックな版画の作品が多くて、興味深かったです。天気予報で、名残の雪景色を期待していたのですが、時折吹雪くものの、積りもせず、ちょっと残念な早春の休日でした。


2013年12月19日

新島八重 墓所

大河ドラマ「八重の桜」も終わったので、最後に左京区鹿ケ谷の墓所を訪ねてみました。9-271.jpg
まず、熊野若王子神社にお参り。9-293.jpg
宮司さんから、新島襄・八重と熊野若王子神社とのご縁という解説書を頂きました。神社横の山道を上ってゆきます。徒歩20分ぐらいとの事。9-292.jpg
解説書によると、八重さんの兄 山本覚馬氏が京都府顧問をされていた関係でこちらの26代宮司 伊藤快彦氏と接点があったという話です。山本氏から新島がアメリカから招いた宣教師の方々が亡くなった時、埋葬する場所が無く、耶蘇教という偏見が強く困っているという話を聞き、当時 社領地であった裏山を埋葬地にと申し出られ、同志社共同墓地として埋葬されたそうです。9-291.jpg9-290.jpg
女性の一人歩きはやめましょうとか、イノシシが出るとかの表示もあった通りの山道ですが、さすがに大河ドラマの余韻冷めやらぬ時期とあって、そこそこ墓参の人達とすれ違いました。9-289.jpg9-288.jpg
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暑くなってきたのでフリースを脱いで、腰に巻きつけます。9-286.jpg
当初、新島氏は父の民冶と同じ南禅寺に葬られる予定になっていたようですが、やはり断られ、こちらに運んだという事です。当時、画家であった伊藤宮司は、自己の社領に新島氏が葬られた縁を想い、肖像画を描いたという事です。同志社に寄贈されたその肖像画は、現在礼拝堂に飾られています。9-285.jpg
墓所が見えてきました。
新教初代宣教師ウィリアムス監督追慕碑9-284.jpg
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さらに進んでゆくと、ようやくありました。門の脇に、登り口に置いてあった杖が、返却されて一杯になっていました。9-280.jpg9-282.jpg9-281.jpg
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正面が新島襄の墓です。勝海舟の揮毫によるもので、現在の墓碑は1987年に再建されたものだそうです。9-279.jpg
向かって左側に八重さん 徳富蘇峰の揮毫9-278.jpg
そのお隣が新島民冶とその家族 南禅寺から移したのでしょうか?9-277.jpg
その横には、宣教師の方々の共葬墓やグリーン夫妻の墓が並んでいます。
徳富蘇峰の墓 本人の揮毫9-273.jpg
その隣が山本覚馬の墓です。9-276.jpg
覚馬・八重の両親と三郎9-275.jpg
覚馬の娘 久栄9-274.jpg
向かい側には同志社ゆかりの方々の墓が並んでいます。新島襄の右隣は、デイビス氏の墓です。9-272.jpg
この間まで観ていたドラマの登場人物が大勢いらっしゃるので、皆さんお疲れ様でしたと云ってしまいたくなりますね~。もちろん演じてらしたわけではなく、ご本人が眠ってらっしゃるのですけど・・・。

2013年12月06日

清閑寺 紅葉 2013

11月25日 曇り空の中、東山山中の清閑寺に出掛けました。9-334.jpg
六条天皇と高倉天皇の御陵も、静かに紅葉を迎えていました。9-333.jpg
階段を登りきったところが、清閑寺です。9-332.jpg
人っ子一人いない境内9-331.jpg
黒田清輝がここに立ち寄った際に感銘を受け、「昔語り」という作品を描いたそうです。9-330.jpg
高倉天皇の寵愛を受けるも、平清盛の怒りに触れ、清閑寺で出家させられた小督の物語が描かれています。9-329.jpg

要石 ここに立つと京都の街が扇を開いたように見え、その扇の要にあたる事から、「要石」と呼ばれています。9-328.jpg9-327.jpg
小督の桜9-326.jpg
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茶室「郭公亭」跡 幕末に西郷隆盛と清水寺成就院住職の月照上人が密談した場所ですが、腐食激しく、平成3年解体されたそうです。
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高倉天皇は、小督のいる清閑寺に葬ってほしいと遺言して21歳で亡くなられています。9-320.jpg
清水寺にほど近いこちらのお寺は、静かに平安の御代を想う事が出来る場所でした。

2013年11月06日

八坂神社 明治祭

11月3日 八坂神社わきを通りかかった際に、雅な調べが聞こえてきたので、ちょっと立ち寄りました。
ちょうど、明治祭という行事が行われていました。9-413.jpg
舞楽の奉納が行われている模様。9-412.jpg9-411.jpg
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空模様が怪しくなってきました。
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南楼門と舞殿の間に、音曲の方々が座って演奏されていましたが、小雨が降ってきました。テントが張られているものの、微妙・・・。
このあと段々、雨が激しくなり、舞殿から横の能舞台へと、ステージ移動が行われたようです。

2013年10月13日

京の夏の旅 2013 六道珍皇寺

第38回京の夏の旅 最終日に 冥界へ通ずる井戸で有名な六道珍皇寺にお邪魔しました。9-444.jpg9-443.jpg

薬師堂9-442.jpg
薬師如来坐像(重文)が安置されています。

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閻魔大王像 小野篁像などが安置されています。

迎え鐘9-440.jpg

左手にある賽の河原 石地蔵がズラリと並んでいます。9-439.jpg

本堂9-438.jpg
こちらは、臨済宗建仁寺派の寺院で、山号は大椿山。本尊は薬師如来。お盆時期には六道詣りの人々で賑わいます。
本堂内で、ボランティアガイドさんに、ご由緒や小野篁の話、地獄絵の説明などを受けました。

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
   人には告げよ 海人の釣り舟
参議篁と記載されている百人一首の中の歌ですが、小野篁が遣唐使として使わされる際のトラブルから、嵯峨天皇の怒りにふれ、隠岐に流された時の和歌です。自分には、なんら非がないのに、こうして流されていくのだという思いがあった篁の心の内が現れているようでもあります。
後に都に戻され、参議にまで出世しています。
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昼は朝廷に出仕し、夜は閻魔庁に勤めていたという伝説があり、冥土へ向かう際に、こちらの井戸を使っていたといわれています。井戸の中に、シダが生い茂っているのが見えました。
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帰路に使った井戸は、 今は廃寺となっている大覚寺門前六道町辺りにあった福生寺の井戸と伝えられていて、今はないという話を記憶していましたが、こちらの境内にも帰路に使っていた井戸があったそうです。
小野篁卿 冥土よりの帰路「黄泉がえりの井戸」として昨年8月末に推定地あたりより140年ぶりに出現し、整備されて公開されていました。写真撮影禁止ということでしたが、覗き込むと水面が光り、今も水を湛えていることが分かります。(帰ってくる時、濡れちゃうんじゃないかしらん?)

2013年10月04日

常林寺・迎称寺・真如堂の萩など

9月23日 梨木神社を出て、出町柳の常林寺に立ち寄りました。9-456.jpg
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こちらは、白色の萩が見頃でした。9-454.jpg
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迎称寺9-450.jpg
土塀の崩れかけた側が、咲き進んでいます。9-449.jpg
南側はまだまだ
真如堂 お彼岸とあって、お参りの方が多いようです。9-448.jpg9-447.jpg
彼岸花は、ちらほら9-446.jpg
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2013年08月24日

京の夏の旅 2013 祇園甲部歌舞練場庭園 続編

京の夏の旅 2013 祇園甲部歌舞練場庭園の方に下りてみました。8-084.jpg
立派な鯉たちが泳いでいます。
これまた立派な一枚石ですね。先日、池に落ちた人がいたとの事で、ちょっと無粋な注意書きが目立ちます。8-085.jpg
織田信長の弟で茶人であった織田有楽斎の邸跡と伝えられています。8-088.jpg
有楽斎の作った国宝の茶室にちなんで名付けられた茶室「如庵(じょあん)」8-087.jpg8-086.jpg
庭園の北東に位置する真ん中の大きな木の北隣が、崇徳天皇御廟です。8-083.jpg
こちらの庭とは、白い土塀で仕切られています。8-082.jpg
東の御廟側から
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菊の紋の扉で、歌舞練場敷地側と仕切られているのが見えます。8-074.jpg

崇徳上皇の寵愛厚かった阿波内侍が、このあたりに住まいしていて、院の遺髪を請い受け邸内に、一塚を築いて亡き上皇の霊を慰めたとの伝承があります。
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西田直二郎氏の『京都史蹟の研究』によると、歌舞錬場敷地内にも墳丘があり、そちらが「崇徳院御廟所」址で、現在の「崇徳天皇廟」は「御影堂」址というように推定されています。現在の「崇徳天皇廟」墳丘上にある石碑も、もともとは歌舞錬場の中にあったものが移されたものだという話です。
墳丘の上には、阿波の内侍の墓とも伝わる五輪塔が置かれていたと云います。
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この墳丘の位置が、見学した折にはよく分からなかったのですが、帰ってきてまたあれこれ検証してみて、思い至ったのが、この写真です。立ち入り禁止の向こう側、御廟からすると背後西側、別館の北の茂みが、どうやらそれではないかしらんと?8-069.jpg
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昭和36年の墳丘写真と比較してみて、撮った角度は違いますが、周りの建物・石積みなどから、間違いないかと?
さて、五輪塔も現存するのかしらん?8-071.jpg

2013年08月23日

京の夏の旅 2013 祇園甲部歌舞練場庭園

京の夏の旅 3つ目は、祇園甲部歌舞練場庭園です。
入って左手の建物は、ギオンコーナー8-093.jpg
本館8-094.jpg
都をどりは、こちらで上演されます。子供の頃、母に連れられて観ていた記憶があります。
槇村正直が日本で最初の博覧会「京都博覧会」の余興として、都をどりを考案した事に始まっています。

八坂倶楽部8-092.jpg
今回は、こちらの見学と奥の庭の公開です。
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都おどりの時のお茶席で使われる菓子皿です。お持ち帰りできるので、我が家にも何枚かあります。8-079.jpg
舞子はんの簪8-078.jpg
檜扇8-077.jpg
縫い上げが可愛い衣裳8-076.jpg
ヨーイヤサーの掛け声が聞こえてきそうです。

庭園を見渡せる座敷 都をどりの際、茶券付き特等席ののお待ち合いとして使われているそうです。8-091.jpg
吉井勇の掛け軸8-080.jpg
竹をあしらった欄間8-090.jpg
お庭見学は次回に8-089.jpg

2013年08月01日

京の夏の旅 2013 大雲院 祇園閣

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大雲院は、天正15年(1587) 烏丸二条南の地に織田信長・信忠父子の菩提を弔うために創建された寺院です。その後、秀吉により寺町四条に移され、さらに、昭和48年に、大倉財閥創始者・大倉喜八郎の別邸であった現在の地に移転されました。
大雲院という寺院名は、信忠の法名から採られています。
本堂8-183.jpg

釣鐘堂8-185.jpg
平和観音8-184.jpg
洛中の いづこにゐても 祇園囃子    山口 誓子8-182.jpg
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祇園閣8-180.jpg
大倉喜八郎の別邸の一部であった祇園閣は、国の登録有形文化財となっています。高さ36mの三階建て、祇園祭の鉾をかたどった造りで、昭和3年に建てられました。8-179.jpg
大倉喜八郎の幼名が、鶴吉であるところから、鶴の細工となっています。鉾先にも、鶴が羽ばたいています。8-178.jpg
寺地移転の際に、1階正面に阿弥陀如来像が安置され、昭和63年には、内部に敦煌の壁画が模写されました。閣上からは京都の町が一望でき、気持ち良い風が吹いていました。

信長・信忠 碑8-177.jpg
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石川五右衛門墓8-175.jpg

2013年07月18日

祇園祭 石見神楽

7月16日
宵山の夕刻6時半より、祇園さんの境内 能舞台で、毎年 石見神楽の奉納が行われています。
今年はこちらにスポットをあててみようと、出掛けてみました。8-242.jpg
南の楼門の東側にある能舞台の前には、長椅子が用意され、それを囲むように立ち見の人たちが上演を待ちます。今年は結構涼しい宵山となりましたが、人ごみの中はさすがに暑く、扇子が欠かせない状態です。私の前に一眼を持って陣取ってらした年配の方が、ふら~と倒れかかってこられ、びっくりしました。しばらく座り込んでらした後、上演前に断念して帰って行かれました。救急車の音は聞こえてこなかったので、なんとか神社は出て行かれたのではと思います。8-241.jpg
島根県人会によるこの奉納は、昭和48年から行われているそうです。8-240.jpg
一つ目の演目は、「塩祓」四方を舞い清めて、神さまをお迎えする舞です。
烏帽子・狩衣姿で、御幣と扇を持ち、舞い踊ります。8-239.jpg
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セリフはないのですが、結構動きが大きく、お舞台を動き回るので、体力消耗しそうです。8-235.jpg
続いての演目は「牛若丸」
外人の観客も多いのでと、日本語での解説の後、英語での説明が行われました。英語の説明だけで十分ではありましたが。
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鞍馬山での牛若と天狗8-233.jpg
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牛若、天狗と引っ込んだ後、弁慶登場8-231.jpg
なかなか派手ないでたちです。8-230.jpg8-229.jpg
ドライアイスの演出も。8-228.jpg
客席にも冷気を届けてほしいところです。ようよう牛若登場。8-227.jpg8-226.jpg
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参りましたm(_ _)m8-223.jpg
まだまだ演目は続き、フィナーレは祇園さんの神様である須佐之男命と大蛇の戦いなのですが、遅くなってしまうので、これまでとしました。ハードな動きと派手な姿が印象的な舞台でした。
舞殿には三基の神輿が。8-222.jpg
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暮れゆく祇園さんを後にしました。8-220.jpg
阪急電車を利用して、高倉までやってきました。

長刀鉾8-219.jpg

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四条通は人通りは多いのですが、連休明けのせいか、足早に歩ける程度です。8-217.jpg
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西洞院通 蟷螂山8-215.jpg
ここまでやってきたのは、近頃めっきり減ってしまったベビーカステラ屋さんが確か去年はここに出店されていたはず・・・。行列してゲット、つまみながら帰路に着きました。

2013年04月10日

2013 京の桜 銀月アパートメント

4月3日 夕刻 北白川の疎水沿い 駒井家住宅の少し北にあるレトロな洋館アパート 銀月アパートメント(ぎんげつアパートメント)の桜を見に行きました。7-151.jpg
映画「鴨川ホルモー」「クローズドノート」などにも使われた知る人ぞ知るアパートメントです。7-150.jpg
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外観だけ見ていても、ちょっと住みたくなってしまう建物ですね。キッチン、トイレ、シャワーなど共有部分が多い分、すっきりした部屋のようです。(って、思わず帰ってから調べてしまいました。別宅として、誰かとルームシェアするのもいいかも?なんて真剣に考え出してしまう自分が怖い・・・。一部の人たちに人気があって、空き待ち状態のようですが。)7-147.jpg
駒井家7-146.jpg
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2013年04月06日

2013 京の桜 円山公園

4月1日 夕刻 円山公園の枝垂れの様子が気になって、出掛けてみました。7-191.jpg
年々回復しているようで、何よりです。7-190.jpg
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暮れてゆく中の枝垂れを追いかけてみました。7-187.jpg
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今年から、ブルーシートが場所により禁止となり、ゴザの貸し出しが行われるようになりました。桜の根本にも囲いが施されたりして、保護されました。景観も良くなって、桜の環境も改善されるのなら、なによりです。7-183.jpg
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2013年04月05日

2013 京の桜 岡崎疎水・平安神宮

4月1日 蹴上インクライン7-215.jpg
船形が見えます。7-214.jpg
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十石船が行き交っています。7-210.jpg
船着き場を通りかかった時には、4時半のチケット販売中となっていました。2,3時間後に乗れる感じです。日曜ならもっと大変なのでしょうね。

平安神宮前の公園の枝垂れも見事です。
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屋根に零れかかる枝振りに期待感が・・・。7-208.jpg
『あの、神門をはいって大極殿を正面に見、西の廻廊から神苑に第一歩を踏み入れた所にある数株の紅枝垂、―――海外にまでその美を謳われているという名木の桜が、今年はどんな風であろうか、もうおそくはないであろうかと気を揉みながら、毎年廻廓の門をくぐる迄はあやしく胸をときめかすのであるが、今年も同じような思いで門をくぐった彼女達は、忽ち夕空にひろがっている紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、
「あー」
と、感歎の声を放った。この一瞬こそ、二日間の行事の頂点であり、この一瞬の喜びこそ、去年の春が暮れて以来一年に亘って待ちつづけていたものなのである。』 谷崎潤一郎 細雪より
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今年はほぼ満開になったところの紅枝垂れで、色も濃く、長女と次女のみの細雪ごっこです。7-205.jpg7-206.jpg
本日よりお茶席開始という事で、ちょっと一服。鶴屋吉信さんのお菓子「寒桜」に宇治小山園のお茶です。7-204.jpg7-203.jpg7-202.jpg
『貞之助は、三人の姉妹や娘を先に歩かして、あとからライカを持って追いながら、白虎池の菖蒲の生えた汀を行くところ、蒼竜池の臥竜橋の石の上を、水面に影を落して渡るところ、栖鳳池の西側の小松山から通路へ枝をひろげている一際見事な花の下に並んだところ、など、いつも写す所では必ず写して行くのであったが、此処でも彼女たちの一行は毎年いろいろな見知らぬ人に姿を撮られるのが例で、ていねいな人は態ゝその旨を申し入れて許可を求め、無躾な人は無断で隙をうかがってシャッターを切った。』 細雪より
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細雪のシーンを知ってか知らずか、幾人かの外人の人たちに写真を所望されたのは、ちょっと想定外でした。おばさんでも着物を着ていれば、まだ被写体になりうるのかしらん?まあ、日本人は若く見えるようですから。後でもうちょっと若かったら良かったのにとか思われているかもしれませんね~。気分だけは細雪でしたが。7-200.jpg
左近の桜7-199.jpg
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お気に入りの桜 なんと美しいそのたたずまい!7-197.jpg

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長女 鶴子?7-192.jpg
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2013年03月31日

2013 京の桜 祇園白川その2

3月25日祇園白川の枝垂れ桜も華やかになっていました。7-268.jpg7-267.jpg
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染井吉野も咲き始め7-265.jpg7-264.jpg7-263.jpg
木屋町はこれからといった風情でした。今頃は良い感じになっているかしらん?7-262.jpg


2013年03月24日

2013 京の桜 祇園白川

3月19日 所用があり、縄手通を歩いていたら、早や枝垂れが咲き始めていました。7-322.jpg7-321.jpg
このところの陽気のせいで、市内のあちこちでかなり咲いているようですね。仕事をしていても、気が気ではないこの頃です。7-320.jpg
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2013年02月04日

八坂神社 節分祭 2013

2月3日 今様奉納を観たかったので、AM11:00からの祇園さんの節分祭に出掛けました。7-377.jpg
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階段上に陣取って、待つうちに、日本今様謌舞楽会の方々が、舞台に上がってこられました。7-379.jpg
20年ぐらい前なら、会に入って、舞ってみたかったのですが・・・。7-375.jpg
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楽器の演奏はなく、横に並んだ方々は、舞の間に歌を書き止め、披露されました。7-373.jpg
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自毛の方は、先細の毛先に、カツラの方は直線的なぶつ切りの毛先になっているのでしょうか?7-369.jpg
左の方は、ゆるく纏められていますが、結い上げた後に、毛先が引き出されたようですね。7-368.jpg
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奉納舞の後は、豆撒きです。7-358.jpg
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帰り道、看板にふらふらと誘われてしまい、常盤新殿で善哉を頂きました。7-356.jpg

2012年12月01日

第48回京都非公開文化財特別公開 大統院

紅葉の記事を急いだため、前後してしまいましたが、11月4日 第48回京都非公開文化財特別公開の建仁寺塔頭である大統院におじゃましました。7-440.jpg
建仁寺の東南に端に位置する塔頭で、建仁寺夢想派の青山慈永(せいざんじえい 仏観禅師 1302~1369)によって、観応年中(1350~1352)に創建されたということです。7-439.jpg
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天文二十一年(1552)の火災で焼失の後、再建されていましたが、大正十三年(1924)秋に表門・唐門の二つを残して焼失し、昭和五年(1930)に本堂が再建され、その後の復興により、現在の姿となったということです。7-437.jpg
方丈前の庭園は、国際的な庭師として活躍する庭匠凮玄こと北山安夫氏によって作庭された、まだ新しい庭です。市松模様が目を引きますが、借景に周辺住宅が目に入り、ちょっと残念なようでもあります。建仁寺派管長小堀泰厳老大師によって「耕雲庭」と命名されています。「耕雲」とは、禅語で、自分の置かれた場に応じあるいは時に応じ、而処所縁を選ばず、本来の面目を発揮していく自由な境涯をいうそうです。(パンフレットより)
本堂内には、寺宝の掛け軸や陶磁器などが展示されていました。円山応挙筆「幽霊図」と、鈴木松年筆「髑髏図」は並んで掛けられていました。病気の遊女がモデルとなったというこの幽霊図は、以前見た応挙の綺麗系の幽霊図とはまた違ったニュアンスで、なんともインパクトがありました。野ざらしになっている髑髏はきっと美しい顔立ちだったのでしょうねと想像できる凛とした雰囲気があり、さわやかさなど感じてしまいました。こんな髑髏を残せたら、野ざらしもいいかもなんて思ったのは私だけでしょうか?

奥田頴川作「赤絵十二支四神鏡文皿」(重要美術品)は、割と小ぶりな皿に細かく十二支が描かれていて、美しい色合いでした。
京焼磁器の祖・先駆者といわれている方だそうです。7-436.jpg
方丈前の庭の東側の借景に頭だけ覗いていた塔を眺めたくなって通へ出て、東へ向かいました。7-435.jpg
八坂の塔へ向かう坂道は観光客が多いですね。
途中にある八坂庚申堂に立ち寄りました。
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2012年11月21日

知恩院・南禅寺

11月19日 紅葉も見頃を迎えたようなので、少し散策してきました。
紬の着物に塩瀬の石榴に鳥の帯を締めてみました。7-441.jpg
知恩院7-454.jpg
こちらは本堂修復中で、奥の池の淵の木が一本紅葉していました。7-453.jpg
南禅寺7-451.jpg
狭い参道は車と人で混雑していました。7-450.jpg
天授庵を目当てに行ったのですが、ライトアップ準備の為、昼間の拝観を中止していました。ええ~!
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疏水あたりはいまいちの状況で、死体も転がってはいませんが、撮影のカメラは回っていました。
本堂に入ってみました。
方丈庭園7-446.jpg
奥のお庭では、色とりどりの紅葉を楽しめました。7-445.jpg7-444.jpg7-443.jpg
南禅寺まえの桜鶴苑にてランチ
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ミニ湯豆腐の付いたお弁当は、結構ボリュームがあり、紅葉が散りばめられていて美味しゅうございました。

2012年07月31日

祇園祭 その11 鷺舞 など

祇園さんあたりで、鷺舞が舞われるという事で、夕方、八坂神社へと向かいました。7-813.jpg
お参りをしている間に、人垣が増えてしまい、どうにか見えるかしらんという場所取りになってしまいました。7-812.jpg
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この鷺舞は京都では長く廃絶されていましたが、かつて京都より伝わり、津和野で継承されていた鷺舞を再び、取り入れて、再興されたものです。テレビなどでちらっと見たことがあったのですが、是非目の前で見てみたい思い、出掛けました。石段下で7時からのつもりで早めに出掛けたのですが、神社までやってくると境内の中でも5時半から舞われるという話で、半端に間に合ってしまい、後ろから撮る感じになりました。7-810.jpg7-809.jpg
故茂山千之丞さんが復活と指導に尽力され、今年初めて念願であった歌詞がつけられたそうです。狂言調の節回しになっていました。歌があるとないとではやはり趣が違いますよね。7-808.jpg7-807.jpg
西門を出て、石段下でしばらく待っていると、長刀鉾の一陣がさっそうと降りていらっしゃいました。西日を受けてまぶしそうです。7-806.jpg7-805.jpg
7月も今日で終わりとなってしまいましたが、明日まで、祇園祭ネタ延長です。

2012年06月23日

両足院 初夏の特別拝観 その2

靴を履いて庭に回ります。7-897.jpg
苔を踏まないように、飛び石を歩きます。
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池に映り込む半夏生もまた風情があります。7-891.jpg
茶室「臨池亭」はフル回転。しばしお待ち会いにて待機。曇り空とはいえ、微妙な暑さと湿度のこの空気感が、なんとも京の初夏らしいです。7-887.jpg
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お茶は、辻利さん、武家手前だそうで、茶碗が高杯に乗っています。
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お菓子は「半夏生」 松寿軒さんで作られたそうで、両足院の「日月」の紋が入っています。写真は焼印の月の部分が白飛びしてしまいました。7-888.jpg
餡が薄緑色で、さわやかです。7-886.jpg
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なかなか、よい時間を持てました。

2012年06月22日

両足院 初夏の特別拝観

6月18日 建仁寺の塔頭の両足院に、半夏生(はんげしょう)を見に行ってきました。

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しっとりと水分を含んだ苔が、目に気持ち良く感じられます。7-898.jpg7-905.jpg

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池を取り囲んで、涼しげです。7-902.jpg
浴衣姿で、白塗りの途中のような花街の艶めかしいイメージをふと連想してしまう光景でもあります。7-901.jpg
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本堂側から、じっくり鑑賞したあとは、庭に降りて、茶室へと向かいます。
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次回に続く。

2012年05月12日

新日吉神宮

新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、現在は東山七条の通称 女坂を上ったところにあります。6-104.jpg

延暦寺の東、大津市坂本の日吉大社は、平安京の表鬼門にあたるところから、方除、厄除の大社としてあがめられてきました。熊野大社とともに、後白河上皇の信仰篤く、1160年(永暦元年)10月16日、上皇の命により、日吉山王七社の神々を院の御所(法住寺殿)の鎮守社として御所内に祀られ、新日吉社とされました。6-103.jpg
現在より南にあったと伝えられています。その後、社地を転々とし、現在の社地となったのは、明治になってからということです。6-102.jpg
上皇は廃絶されていた宮中の行事、小五月会(こさつきのまつり)をこの社の祭礼として復興し、競馬や田楽等が盛大に行われていました。ご自身も親しく行幸されています。
現在は、5月の第2日曜に新日吉祭(いまひえまつり)が執り行われています。
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本殿の前には御猿さんが安置されています。大神の御使者ですが、豊臣秀吉とも関係の深い社ですから、何となく、秀吉を連想してしまいます。日吉丸という幼少の名前ともかぶりますし。6-99.jpg
本殿裏のスダジイの古木6-098.jpg

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1958年(昭和33年)、七社の神々に加え、後白河天皇を増祀し、翌1959年(昭和34年)に神社名を現在の新日吉神宮と改められています。

この手前の高校に通っていた頃は、全く関心がなく、「しんひよしじんじゃ」だと思っていたのですから、嘆かわしい限りです。もっと勉強しておけばよかったと今更、思うこの頃です。まぁ、今からでも遅くはないかしらん。

2012年05月09日

2012 春の特別拝観 法住寺

春の特別拝観の中から、平家物語ゆかりのところを訪ねてみました。

三十三間堂 東にある法住寺6-116.jpg
こちらは、平安時代中期に藤原為光によって創設され、その後、この寺を中心に後白河上皇の宮廷「法住寺殿」が営まれました。6-111.jpg
広大な敷地に広大な池。平清盛に命じて、法住寺殿内に蓮華王院(三十三間堂)を造営させ、御所を守る新日吉神宮・新熊野神社も建てられました。上皇の女御・建春門院(平滋子)が亡くなった際には、女御の御陵として法華堂が建てられました。6-115.jpg
清盛の娘 徳子 後の建礼門院はここから入内し、高倉天皇の中宮となっています。後に大原からこのあたりに移り住み、亡くなったと云われています。6-114.jpg
木曾義仲によって南殿が焼き討ちされた後、上皇は六条西洞院の長講堂に移り住み、そこで亡くなりましたが、焼失した法住寺殿の敷地にあらたに法華堂がつくられ、上皇の御陵と定められました。6-110.jpg
法住寺は後白河上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続、明治期に御陵と寺が分離され現在にいたっています。6-113.jpg
本尊の「身代不動明王」像は、義仲の放火の際に、上皇の身代わりとなったと伝えられています。
運慶作とされる法皇像の御前立の木像が公開されていました。
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親鸞のそば食い木像も、興味深いです。親鸞がまだ比叡山で「範宴」という名で修行していた頃、毎夜山を下りて六角堂へお参りし、明け方戻るというお百度まいりをしていたそうです。
皆に知られないようにと、自分の姿を彫り、その像に留守番をさせていたところ、不審に思った師の慈鎮和尚が、ある夜弟子を呼び集め、一人ずつ名前を呼び、そばを振る舞ったのですが、範宴も返事し、そばを食べたという。後で像を見ると、口にそばがついていたという話です。大学在学中に、出席を取る講義の時に友達に頼んで、返事しといてもらったことはありますが・・・。

この他、大石内蔵助がこの法住寺に参拝し、仇討成就を祈願したと伝えられ、その縁から四十七士木造も安置されています。 

2時から、住職の今様が披露されるという事でしたが、時間がなかったので、観る事が出来ませんでした。またの機会にぜひ見たいものです。

2012年05月08日

平成24年度 蹴上浄水場創設100周年一般公開

蹴上浄水場の一般公開が、創設100周年を記念して開催日を例年の4日間から7日間に拡大して実施しています。5月5日(土曜日)から5月11日(金曜日)までです。
5月7日 初めて見に行ってきました。6-152.jpg
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与謝野晶子の歌碑 このあたりに、かつて与謝野鉄幹と晶子が宿泊した粟田の辻野旅館があったので、こちらに歌碑が建てられています。

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「御目ざめの 鐘は知恩院 聖護院 
        いでて見たまへ 紫の水」
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つつじのトンネル6-135.jpg
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反対側出口から6-133.jpg
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つつじは丸くなくてはなりませぬ。

2012年04月26日

2012 京の桜 岡崎ライトアップ

4月12日 今年から、岡崎のライトアップを開始したという事なので、見に行ってきました。川端から疎水沿いを東へと進みます。
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白河南殿のあったあたりです。6-339.jpg
このあたりは、得長寿院跡です。6-338.jpg
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9日の昼間に撮った曲がり角あたりを飛ばして、京都会館、みやこめっせあたり。堀河天皇御願寺である尊勝寺、近衛天皇御願寺の延勝寺跡あたり6-335.jpg6-334.jpg
船がやってきました。6-333.jpg
すれ違います。6-332.jpg
角を東へ6-331.jpg
国立近代美術館横6-330.jpg

2012年04月20日

2012 京の桜 祇園円山

4月10日6-400.jpg
空の色が今一でしたが、円山公園の枝垂れのもとで、今年はお弁当にしました。6-399.jpg
枝垂れの前のベンチが空いたので、毛氈を敷きました。この公園はブルーシートが昼間も敷きっぱなしになっていたりして、景観を損ねているのが嫌いで、お弁当を食べるのはずいぶん久しぶりですが、ここの枝垂れが元気になってきたので、ベンチに座れたら、景色はまずまずかと思い、やってきました。
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座ったベンチから見上げた昔馴染みの桜です。花芽のつかない細かい枝先が目立っていた去年に比べると、いい感じです。6-397.jpg
お弁当はご近所の萬重さんにお願いして、作って頂きました。美味!6-396.jpg
お屠蘇用の杯で飲むと、お酒も進みます。6-395.jpg
奥の枝垂れ 6-394.jpg
4月12日 明日以降、天気予報では雨模様とあって、満開になったであろう夜桜を見に出かけました。6-393.jpg6-392.jpg
妖艶が売りのこの桜の真骨頂といったところでしょうか。6-391.jpg
奥の枝垂れは去年の方があでやかだったように思います。6-390.jpg6-389.jpg6-388.jpg6-387.jpg

2012年04月18日

2012 京の桜 養源院・ハイアットリージェンシー・三十三間堂

4月9日 後白河天皇御陵の参道横にある養源院では、山門をくぐった参道横の桜が見頃を迎えていました。6-425.jpg
近くのハイアットリージェンシー京都にあるイタリアン トラットリア セッテでランチ
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ここはボリュームがあるので、しっかり満腹になってしまいます。ダイエット中だというのに・・・。
このあたり一帯は広大な敷地を誇った後白河院の院政の地、法住寺殿跡になります。全盛期はどんな景色であったのか、見てみたいものです。

寿永2(1183)年、木曾義仲の襲撃により南殿に火をかけられています。1192年(建久3年)、上皇の死により、焼失した法住寺殿の敷地にあらたに法華堂がつくられ、上皇の御陵とされました。現存の蓮華王院(三十三間堂)は、長寛元(1163)年、平清盛が造立した法住寺殿の堂宇の一つです。でもって、三十三間堂に向かいました。
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満開の桜から、これから見頃を迎える桜まで、とりどりでした。6-416.jpg6-415.jpg6-414.jpg
後白河上皇はここで、どんな日々を送られていたのでしょう。

2012年04月15日

2012 京の桜 聖護院

4月9日 聖護院入口の桜も見頃を迎えていました。6-448.jpg

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2012年04月12日

2012 京の桜 岡崎

4月10日 得長寿院跡6-470.jpg
岡崎の東大路通と疎水とが交差するこのあたりは、清盛の父、忠盛が天承二年(1132)、鳥羽院の勅願により得長寿院を造営寄進した跡地です。
『平家物語』巻第一「殿上闇討」の段に、「忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願得長寿院を造進して、三十三間の御堂をたて、一千一躰の御仏をすへ奉る。」と書かれている地です。これにより但馬国の国守に任じられ、殿上人となり昇殿を許されたのは、先の大河ドラマに描かれていました。6-471.jpg
ここから、東へ疎水を曲がり、京都会館あたりまでが尊勝寺跡とされています。  康和四年(1102)堀河天皇の御願寺です。
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疎水後ろの旧武徳殿あたりは美福門院が創建した歓喜光院(かんぎこういん)があったあたりです。6-466.jpg
疎水を曲がって南にある平安荘あとの桜6-467.jpg
平安荘は現代にあったもので、平安時代の跡地の名称ではありません。今年は門が開いていなかったので、塀越しですが、足元まで、垂れ下がった枝振りが見事な桜です。6-468.jpg

平安神宮6-464.jpg
左近の桜はまだでしたが、入って右手の桜は見頃を迎えていました。6-463.jpg6-462.jpg
この桜のたたずまいも、やはり毎年見逃いたくないものです。
平安神宮前の道をさらに東へ、観峰美術館のさらに東に満願寺があります。6-458.jpg
門をくぐって左側には文子天満宮6-457.jpg
この辺りは法勝寺跡です。藤原氏の別荘だったものを師実が白河天皇に献上し、法勝寺が建立されました。6-461.jpg
この法勝寺の執行であったのが、後白河上皇の側近の僧である俊寛です。6-460.jpg
この石標は,俊寛の居所である法勝寺の跡を示しています。
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桜の足元にあるのが、法勝寺の井戸といわれ、俊寛荒行の井戸とされています。
「鹿ヶ谷陰謀」を企てたうちのひとりである俊寛は、自らの山荘で平氏打倒の密議を行い,その首謀として薩摩国鬼界島(現鹿児島県硫黄島)に流され、恩赦の際にも一人島に残され亡くなっています。

2012年03月27日

長徳寺のおかめ桜2

3月26日 出町の長徳寺にまた出向きました。6-578.jpg
一週間経って、いい感じに開きました。6-577.jpg
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めじろも、大忙しに動き回っています。6-573.jpg

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大きな望遠レンズを付けた男の人たちでも賑わっていました。6-569.jpg
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2012年03月19日

長徳寺のおかめ桜

3月19日 出町柳の長徳寺に立ち寄りました。門前のおかめ桜の様子を見るためです。6-608.jpg
昨年は3月22日に来ていますが、満開でしたから、ちょっと遅いようですね。
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開花宣言!

2012年02月14日

第46回京の冬の旅 長楽寺

京の冬の旅
丸山公園の奥にある長楽寺は、平清盛の娘徳子・建礼門院が髪をおろし出家した寺です。6-668.jpg
延暦24年(805) 桓武天皇の勅命によって伝教大師最澄を開基とし、観世音菩薩を本尊として創建されました。6-667.jpg
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頂いた寺の歴史概要には、関白藤原忠通が、詩歌管弦に興じたこともあったと書かれていました。6-665.jpg
そして崇徳天皇の念持仏・弥陀三尊が、巡り巡ってこちらにまつられ、収納庫に収められていました!
賢礼門院と安徳天皇ゆかりの品々が収められていることは、知っていましたが、崇徳院の念持仏がこちらにあるとは、全然知らなかったので、ちょっとどきっとしてしまいました。私が一人感動しているのに、ガイドさんは、簡単に解説をスル―してしまわれ他の拝観者の方も感心なさげであったのが口惜しい限りです。
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西行さんもこちらで修業されたようで、山家集に歌が残っています。

夜もすがらをしげなく吹く嵐哉 わざと時雨のそむる紅葉を

建礼門院御塔 6-663.jpg
建礼門院が剃髪した名残の御髪塔とも、御舎利塔ともいわれています。出家の際、布施として安徳天皇が今わのきわまで召されていた形見の直衣を結い直した十六旒の仏幡を進じ、菩提を弔ったといわれています。この幡のうち二旒が現在も残っていて、涙を誘います。
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幕末の文人・頼山陽(らいさんよう)の墓
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2012年01月11日

初詣

今年は、東山区本町にある瀧尾神社(たきおじんじゃ)に参拝しました。京阪電車の東福寺駅から北へ100m程のところにあります。
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瀧尾神社は大国主命を祭神とする神社ですが、創建年代や由緒についてはほとんど不明ということです。天正14(1586)年10月に、豊臣秀吉が方広寺大仏殿を建立したのに伴い、現在地に遷座したそうです。古くは、「源平盛衰記」にその名が見えるという話です。
拝殿6-692.jpg
こちらの天井に立派な龍の彫刻(全長8メートル)があるというので、やってきたわけです。6-704.jpg
江戸時代末期~明治時代の彫刻家・九山新太郎によるものだそうです。6-703.jpg6-702.jpg6-701.jpg6-700.jpg6-699.jpg
確かに圧巻です。夜な夜な抜け出し、近くを流れる今熊野川まで水を飲みに行くとの話が広がったため、拝殿の天井に網を取り付けて、龍が自由に動けないようにしたという話もうなずけます。
本殿6-697.jpg6-698.jpg
手水舎の屋根にも彫刻が施されていました。6-696.jpg6-695.jpg
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2011年10月15日

象彦所蔵の逸品 淀君から現代まで

岡崎の疎水べりにある漆器を取り扱ったお店「象彦」さんがリニューアルオープンされ、創業350年記念 象彦漆美術館開館記念特別展を開催されていました。

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久しぶりにお邪魔しましたが、モダンな感じに内装が変わっていて、すっきりした印象でした。
技術の継承、発展のために歴代当主が高度な技術・美しいデザインの品々を収集し、職人の手本としてきたそうで、それらのコレクションを2階奥に造られた美術館内に展示されていました。
パンフレットに載っているのは、淀君所持と伝わる面箱だそうです。どれも、細かな細工がなされていて、ため息ものです。よくもこんな手間暇かけて作れたものだと感心しきりでした。

ショールームの方も一通り、鑑賞させていただき、目の保養になりました。

2011年09月09日

白沙村荘 ―京の夏の旅―

京の夏の旅の特別公開のお屋敷の中に、白沙村荘も含まれていました。
こちらは日本画家 橋本関雪の邸宅で、東山を借景に美しい回遊式庭園を眺めることのできる大作を制作する大画室があります。
何度も訪れていますが、今回、仙台市の個人から寄託された大正時代に描いた屏風絵が公開されているということで、出掛けました。
鎌倉時代初期のもので、静御前の供養塔だと伝えられている国東塔6-754.jpg
存古楼(ぞんころう)大作を制作する画室です。6-753.jpg
萩の細い枝にしがみつく蝉6-752.jpg
茶室「問魚亭(もんぎょてい)」6-751.jpg
向かい側にある憩寂庵 倚翠亭(いすいてい)は、修復中で、見れませんでした。6-750.jpg
石灯籠など関雪が収集した石造美術品が、庭のあちこちに置かれています。6-749.jpg
画室からは、大文字が見えます。6-748.jpg
持仏堂6-747.jpg
側面に鬱勃縦横と彫られている舞台石6-746.jpg
羅漢さん6-745.jpg
そして展示室に入り、初公開の金屏風を、鑑賞しました。

中国・北宋の詩人蘇軾(そしょく)の赤壁賦(せきへきのふ)を題材にしていて、左隻には赤壁賦の詩と月、右隻には船上から月を眺める蘇軾らが描かれています。間に金色の空間がたっぷりとあるため、ゆったりとしたお月見の様子を感じることができます。出来れば、広々とした存古楼に飾って、眺めてみたいなと思ってしまいました。
 
この京の夏の旅は、冬の旅と違い、残念ながらスタンプラリーのおまけ(お茶とお菓子のサービス)が付いていないので、自主的にお茶しました。
虎屋さんにて6-744.jpg

2011年08月28日

駒井家住宅 ―京の夏の旅―

今年の「京の夏の旅」の中に駒井家住宅が入っていました。こちらは、いつも金曜日と土曜日の公開なので、曜日が合わず残念に思っていたので、今回はまたとないチャンス到来ということで、いそいそと出掛けました。6-768.jpg
大正末から昭和初期に形成された京都市左京区北白川の閑静な住宅地にあります。
京都帝国大学理学部教授であった遺伝学者の駒井卓博士の邸宅で、1927(昭和2)年に建てられました。設計は、ヴォーリズ建築事務所によるものです。
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こちらが本来の玄関口ですが、大勢の見学となるので反対側に廻ります。6-765.jpg
一階 なんとも落ち着く室内ですね。す、住みたい・・・・。6-766.jpg
手すりの曲線が、また素敵です。6-764.jpg

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どの部屋も差し込む光が優しく感じられてしまいます。6-762.jpg

サティなんか聞きながら、ゆらゆら昼寝したい・・・。6-761.jpg
窓からは大文字が!6-760.jpg
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廊下の天井には、三階物置へ上る階段が収納されていて、横のお部屋内のクランチで上げ下げする仕組みになっていました。6-758.jpg
勝手口まで、おしゃれ!6-757.jpg

2011年04月13日

京都の桜 2011 鴨川・祇園白川・円山

4月4日 鴨川沿い三条下がったあたりの枝垂れが、見頃を迎えていました。145.jpg
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舞妓体験や、ウエディングの撮影で、「人生の春」も、爛漫の様子でした。
知恩院139.jpg
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メインの枝垂れが、鳥よけの効果が出てきたせいか、元気を取り戻したようです。
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石のベンチに座って、暫し旧友(桜)と語らいました。136.jpg
奥の枝垂れは、怒涛のように美しく、圧巻でした。135.jpg
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龍馬像横の枝垂れも元気です。132.jpg

2011年04月10日

京都の桜 2011 真如堂・平安荘跡

4月3日 真如堂の枝垂れも咲いていそうなので足を延ばしてみました。184.jpg
枕抱えて、爆睡中。183.jpg
やはり花盛りでした。182.jpg
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本堂横はちらほらと。179.jpg
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岡崎の平安荘跡の桜も、この時期見事に咲いています。今年は生憎、中に入れませんでした。177.jpg
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2011年03月30日

京都の桜 2011 平野神社・長徳寺・祇園白川

あれこれと忙しくしている間に、ブログが延び延びになってしまいました。
3月14日 平野神社では、桃桜が咲き、河津桜が開き始めていました。281.jpg
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3月22日 出町柳の長徳寺のおかめ桜が満開でした。275.jpg
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祇園白川では、早咲きの桜が開花していました。274.jpg
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京都気象台の桜も開花したようで、そろそろあちこちで咲き乱れる姿を見ることができるでしょうね。

2011年03月26日

京都の桜 2011 壇王法林寺

東北・関東方面は、なおも余震が続き、原発問題も抱えたままの不安な状態が続いてます。被災していない関西でもさまざまな影響が出ているようです。日々の報道を見ているだけでも気が重く、苦しくなってしまうこの頃です。
「サバイバーギルティー」(助かった者が罪悪感、無力感を感じてしまうこと)に注意するようにという言葉も、聞かれるようになり、大好きな桜も咲き始めたようなので、ブログも日常に戻していこうと思います。286.jpg
3月14日、川端三条上るの壇王法林寺では桃桜が満開でした。昨年は、15日に立ち寄っていますが、すでに終わっていましたから、今年は1週間は遅いようです。285.jpg
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2011年02月25日

智積院の梅

2月21日 東山七条の智積院に立ち寄りました。
今日は、ぽかぽか陽気です。339.jpg
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結構、咲いている梅が多いようです。335.jpg
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ジョウビタキの雌を、枝の陰に見つけ、静かに横に回り込みます。332.jpg
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眼が合ってしまったような・・・。330.jpg
一瞬考えた風しぐさの後、飛び去られてしまいました(^^)

2011年01月15日

知恩院 お参り

1月4日 祇園さんから、円山公園に抜けて、桜に挨拶をしてから知恩院へ向かいます。409.jpg
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知恩院山門前はすっかり整備されて、堂々とした構えになりました。法然上人800年大遠忌も、もうじきですね。
男段を上がります。407.jpg
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大香炉脇に坊さんがしゃがみこんで、なにやら作業中。お線香代の集金中でした。405.jpg
宝佛殿の屋根には雪が残っていました。404.jpg
こちらの地下には、ロッカー式の納骨所があります。一度参考のために見せてもらったことがあります。案内所の自販機には、知恩院のお茶なるペットボトルが販売されていました。403.jpg
130円なり。

2011年01月13日

祇園さん お参り

日付が前後しますが、1月4日に祇園さんにお参りに行きました。411.jpg
近頃は、今宮さんが氏神さんなのですが、最もなじみのある神社である祇園さんは、やはり、新年に顔出ししなくてはと、出掛けました。410.jpg
そして、業界的にはこちらにもお参りです。413.jpg
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今年も1年、よろしゅうお頼申しますう~。

2011年01月11日

成人式

1月10日
昼過ぎ、成人式のお支度仕事を終え、閉店して、岡崎に出かけてみました。
都メッセ前は、大勢の新成人でごった返していました。418.jpg
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就活の厳しい時代ですが、頑張ってくださいね。

2010年12月17日

岡崎神社

左京区岡崎東天王町にある岡崎神社は、来年の初詣で賑わいそうな神社です。一足早くお参りしてきました。505.jpg
桓武天皇、延暦13年(794)の平安京遷都の際、勅願により王城鎮護のため平安京の四方に建立された社の一つで、都の東に鎮座することから東天王と称し方除け・厄除けの神として信仰されています。
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治承2年(1178年)中宮藤原高子の安産祈願の幣帛を賜ったことから安産の神として信仰されています。また都の卯(東)の方位にある付近一帯が野兎の生息地であったことから、うさぎが氏神様の神使いとされ、兎の多産にあやかって子授けにも御利益があります。
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本殿前の参道脇に今年10月に新しく、狛兎が登場しました。雄雌一対になっていて、雄が口を「あ」と開け、雌が「うん」とつぐむデザインになっています。
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台座には、平成23年奉納と記されています。
御手水の所には月の力を満たしたうさぎ像があり、水をかけてお腹を擦ると祈願が叶うということです。499.jpg
その周りを囲む絵馬も可愛いですね。
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社務所には、うさぎグッズがいっぱいで、どれにしようか、しばし悩みました。497.jpg
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こちらのお守りを買い求めました。

2010年12月15日

京の師走景色-南座まねき-

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12月に入ってから、架け替えられたまねきです。506.jpg
「外郎売」曽我五郎役といえば、市川家のお家芸で、立て板に水という感じの早口セリフが印象的ですが、片岡愛之助が演じることになり、どんな風なのかしらんと興味が湧きますね。ニュースでちらと見かけた限りでは、そつなく相勤められているようで、なによりです。今回のこの代役で、さらに芸に磨きがかかり、大きな役者さんになられるのではないかと、期待が高まります。

仁左衛門と玉三郎との競演が観られるというのもなんとも大歓迎で、昔懐かしいこのコンビを見逃したのは、ちょっと残念な気分です。


2010年12月03日

将軍塚 夜間拝観

11月29日 青蓮院門跡 将軍塚大日堂の夜間拝観に出掛けました。
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子供の頃、八坂神社から知恩院一帯は私のテリトリーで、将軍塚は、よく駆け上がった裏山でした。
知恩院の階段(男段)を「チ・ヨ・コ・レ・イ・ト ジャンケン ポン!」とか言いながら上がり、釣鐘横の山道を、友達と競争で走って頂上を目指したものです。
あれから、ウン十年ぶりです。542.jpg
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将軍塚539.jpg
展望台より、庭園を見下ろした様子です。538.jpg
展望台からの眺め537.jpg536.jpg
神戸や函館に比べると、静かな眺めです。
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2010年11月26日

清水寺 夜間拝観

11月24日 夜の清水寺は、相変わらず、大勢の観光客で賑わっていました。成就院の特別拝観を目当てにやってきたのですが、そちらへの近道は通行止めになっていて、清水さんの夜間特別拝観料を払って入ってから、成就院では別料金を払うというシステムになっていました。580.jpg579.jpg
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夜の池を覗き込むのは、何やら怪しげな感じがします。567.jpg
帰り道、生八つ橋をあれこれ食べて、お茶をよばれて帰ってきました。期間限定の栗あん入りが、美味しかったです(^^)

成就院は、また後日。こちらは写真不可なのが、残念ですが・・・。

2010年11月20日

『マザーウォーター』 ロケ地めぐり その4

左京区北白川小倉にあるカフェ「shizuku」さんは、タカコ(小泉今日子)の営むコーヒーショップのロケ地です。602.jpg
疏水沿いにあるこのお店は、昼過ぎという事もあり、学生や観光客・ロケ地めぐり客?で大賑わいでした。601.jpg
こちらは、結構そのまま使われていたようで、映画の雰囲気を味わえます。忙しすぎて、映画ののんびり・まったり感までは、体験出来ませんでしたが・・・。
タカコが丁寧にコーヒーをたてる様子が描かれていました。表で待っているお客さんまでいたので、軽くお茶して4百円テーブルにおいて、出ました。600.jpg
いえいえ、ワンシーンを真似てみただけです。レジで支払って、疏水沿いを北上します。少し、北に上がると、疏水東側に青いベンチが見えてきます。599.jpg
どうも、真ん中のがロケに使われたベンチのようですね。598.jpg
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マコト(もたいまさこ)さんの持っていたバスケットはフィンランドの白樺のハンドルバスケットだそうですね。カップも北欧製でした。北欧というのは、ちょっとした憧れがありますね。空気が澄んでいるような気がしますから。
焼き餅を置いて撮影してみました(^^)(そこまでやるか。)597.jpg

2010年11月16日

『マザーウォーター』 ロケ地めぐり その3

『マザーウォーター』の映画の中で、疏水べりをぷらぷら歩くシーンや、白川の静かな流れが、幾度か登場しました。622.jpg
個人的にも子供の頃から慣れ親しんだこの川の流れやにおいが大好きです。621.jpg
映画がでは桜の季節でしたが、秋のたたずまいも落着きます。617.jpg
岡崎の仁王門通りから疏水沿いに下がったあたりが、撮影に使われていたようですね。
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そして唯一、京都弁を聞くことができたシーンが、八百屋さんです。619.jpg
こちらは、仁王門通りにある昔ながらの八百屋さんで、同じくロケ地めぐりをしていた方からの「多分あそこの八百屋さんだと思うけど・・・。」という情報で伺ってみました。
マコトが、かき揚げの材料を買うシーンで、全く違和感のない京都弁だったのは、こちらのお店の方が、映画に登場されていたからだったのですね。
「えー、よく分かりましたねぇ。」と驚かれ、銭湯のシーンにも出られたお婆さんも出てきてくださって、記念撮影させていただきました。618.jpg

2010年11月04日

そうだ 京都、行こう。 -泉涌寺 観月とハーブの調べ- 続編

御座所前もライトアップされていました。668.jpg
勅使門が開いていました。舎利殿への通路として使われている様子でしたが、勅使の方がいらしてたのではないような・・・!?662.jpg
御座所側から663.jpg
庭園667.jpg
本日の限定品として境内でも販売されていた菓子が供えられていました。666.jpg
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名残を惜しみつつ大門まで戻り、横の楊貴妃観音様を拝み、帰路に着こうと今一度、月を振り返ると、さきほどまでの朧月夜に変化が表れていました。表面をボーと覆っていた雲が消えたようです。
これはもう一度撮り直さねばと、しつこくも舞い戻り(^^)
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人影もまばらになり、試飲カウンターの後ろの菊の展示にも近づけました。657.jpg656.jpg
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月見を満喫できた夜でした。

2010年11月02日

そうだ 京都、行こう。 -泉涌寺 観月とハーブの調べ-

遅くなりましたが、先日、ちらっと載せた10月23日のJR東海企画の「泉涌寺 観月とハープの調べ」の模様をお届けします。
「そうだ 京都、行こう。」のカード会員向けのイベントですが、一般参加可能というネット告知を見て出かけました。679.jpg
泉涌寺へ向かう道がライトアップされていて、期待感が高まります。受付で500円払って、門を潜ります。ここのゆるやかな下り坂から仏殿を望む景色はとても趣があって好きです。678.jpg677.jpg
仏様もライトアップ
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お参りを済ませて、奥へと進みます。
舎利殿では、すでにハーブの演奏が始まっていたので、人だかりが出来ていました。横で、フレンチスパークリングワインの無料試飲が行われていて、こちらも大賑わい。675.jpg
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生ハムや、チーズのおつまみ付です。境内が広いのと一般に広く宣伝されていない企画の為か、そこそこの人数なので、結構ゆったり楽しめます。
試飲を重ねているうちに、一回目の演奏が終わりました(^^)何しに来たんだか・・・。673.jpg
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2回目の演奏 澄んだ音色が、ひんやりとした空間の中を伝わっていって、月に波紋を起こすかのようです。670.jpg669.jpg
御座所庭園もライトアップされて公開されているという事で、次回に続きます。

2010年10月24日

泉涌寺 観月とハープの調べ

平城宮跡の途中ですが、昨夜10月23日 JR東海企画の「泉涌寺 観月とハープの調べ」に、出掛けた写真を一枚、挿みます。
「そうだ 京都、行こう。」のカード会員向けのイベントですが、今回はホームページから招待状を印刷して持ってゆけば、会員で無くても入る事が出来るという事で、楽しみにしていました。
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泉涌寺へ向かう途中、月は何処へ隠れているのというぐらい、雲に覆われてしまっていてどうなる事かと危ぶまれましたが、ようよう朧月夜になり、イベント終了頃には、随分すっきり見え出してきて何よりの月見となりました。続きは、また後日。

2010年10月09日

宗忠神社

左京区吉田下大路町に宗忠神社(むねただじんじゃ)があります。774.jpg
陽成天皇神楽岡東陵のすぐ近くです。773.jpg
主祭神は、黒住教の教祖・黒住宗忠です。772.jpg
北社祭神は天照大神、768.jpg
南社祭神は黒住宗忠です。

黒住宗忠という人は現代の岡山県、備前国の禰宜の家に三男として生まれました。
親孝行で有名であったそうですが、両親を流行病で相次いで亡くし、ショックから自身も肺病になりました。
死を覚悟する中、自身の病の根源が陰の気から起こった事を思い、正装をして、冬至の朝の太陽の光を浴びます。
そこで天照太神と同魂同体となるという「天命直授(てんめいじきじゅ)」と呼ばれる霊的な体験をします。
天命を悟った宗忠は、病も癒え、宗教活動に励むことになったということです。
黒住教は、幕末の新興民衆宗教で、天理教・金光教と共に幕末三大新宗教の一つに数えられています。
皇室や公家からも厚い崇敬を受けたということで、慶応元年(1865)には孝明天皇の勅願所となりました。771.jpg
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2010年10月07日

陽成天皇陵

左京区浄土寺真如町に、陽成天皇 神楽岡東陵があります。真如堂から宗忠神社へ向かう途中です。775.jpg
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第56代清和天皇の第一皇子で、母は藤原高子です。
貞観18年(876年)27歳の清和天皇が突然譲位。
9歳で陽成天皇は帝位に就いています。
父である上皇、母高子、摂政藤原基経が協力して政務を行っていましたが、
元慶4年(880年)上皇の死後、基経が出仕しなくなり、政局が混乱したといわれています。
元慶7年宮中で天皇の乳母であった紀全子(きのまたこ)の子、源益(みなもとのすすむ)が殴殺されるという事件が起き、翌年、17歳(満15歳)で退位しています。
病気による自発的退位となっていますが、基経に退位を迫られたためとも言われています。
陽成天皇は暴君であったといわれていますが、真実は定かではありません。
その後、55歳の光孝天皇が即位しましたが、病のため、58歳で崩御。
いったん臣籍降下した定省親王(宇多天皇)が父、光孝天皇の後をうけ即位しました。
元侍従であった宇多天皇のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話が残っています。
妃の一人、釣殿宮綏子内親王(宇多天皇の妹)にあてた歌が百人一首に入っています。

つくばねの 峰よりおつる みなの川
   恋ぞつもりて 淵となりぬる
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上皇として長生きし、天暦3年(949年)に亡くなっています。

2010年10月05日

後一条天皇陵

左京区吉田神楽岡町に、後一条天皇陵があります。第一皇女である章子内親王と共に葬られています。780.jpg
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一条天皇と道長の娘 彰子との間に生まれた敦成(あつひら)親王です。
なかなか懐妊しなかった彰子が定子所生の敦康親王を手元に引き取って養育している中、生まれた道長待望の外孫皇子でした。8歳で即位、道長が摂政となって権勢を振るいましたが、世継ぎの皇子に恵まれないまま、29歳の若さで崩御されました。
同母弟である敦良(あつなが)親王が即位、後朱雀天皇となりました。
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母である彰子が後一条院崩御の年に読んだ歌が残っています。

後一条院かくれさせ給うての年、時鳥の鳴きけるに詠ませ給うける

一こゑも 君につげなむ 時鳥 
     この五月雨は 闇にまどふと

時鳥は死出の山を越えると信じられていたそうで、死んだ息子への伝言を、ほととぎすに頼んだものです。
この五月雨の夜に、子を思う闇に惑っていると、一声だけでも、亡きわが息子に告げてほしいという内容です。

2010年09月30日

真如堂・迎称寺・極楽寺 ―彼岸花と萩など―

9月27日
真如堂 彼岸花はちらほらと点在。798.jpg
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迎称寺の萩は、まだこれからのようですね。791.jpg
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少し西の極楽寺では、紅白の彼岸花が見頃を迎えていました。789.jpg
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蝶たちも飛び回っていました。787.jpg
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2010年09月26日

高島屋百華展・日本画の前衛

現在、京都市美術館では「高島屋百華展」が、国立近代美術館では「日本画の前衛」が開催されています。

「高島屋百華展」
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1831年に京都で創業した高島屋は、呉服商を営むかたわら、当代一流の画家の協力を得て美術染織品を制作し、主に海外向けに販売したそうです。
そして1909年には美術部を創設し、多くの優れた作品を収集してきたようです。
今回はその中から100点を選び出してのコレクション展の開催です。
日本の近代美術の名立たる作家の作品が集められていました。811.jpg
右から「ベニスの月」 竹内栖鳳 ・ 「吉野の桜」 都路華香 ・ 「ロッキーの雪」 山元春挙

1901年にロンドンの日英博覧会に高島屋が出品した「世界三景」の下絵だそうです。染織の図柄を描いた作品で、大きな画面に圧倒されます。

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「風神雷神」冨田渓仙
愛嬌のある表情が楽しい軽快な作品です。

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高島屋マスコット人形のローズちゃんの着せ替えバリエーションも展示されていて懐かしくもありました。

「日本画の前衛」812.jpg
日本画というと一般的には花鳥風月などを描いたものをイメージしがちですが、その伝統的なスタイルから脱却し、新たな日本画を目指そうとし始めた時代がありました。
1938年(昭和13)4月に「歴程美術協会」という集団が結成されたそうです。
太平洋戦争開戦前夜のことですから、不安定な時代のさなか、シュールレアリスムやバウハウスなどの海外の動きを取り入れ模索した、前衛の始まりであったようです。
今回はその時代に活躍した作家を集めた展覧会で、あまり観たことがなかった時代の日本画なので、一応観ておこうと、美術館のはしごをしました。

変革しようといろいろ試みた作品の数々、戦争関連の作品などもあり、前衛と呼ばれた時代の空気に少し触れられたように感じました。

2010年09月14日

とり新さんの親子丼

うちの龍馬君が、親子丼というものを食べてみたいというので、高杉君と桂君も伴い、出かけてみました?!
なにせ、親子丼という料理は、明治になってから考案されたものだそうで、鶏肉好きの龍馬も、食べた事がなかったそうです。832.jpg
ここ、縄手通りの大和橋北詰東側は、高杉晋作が馴染みにしていたお茶屋・魚品楼(うおしなろう)があったあたりだそうです。現在は「鳥新」さんという、水炊き・鶏すきのお店が縄手側に、白川側はお昼が親子丼、夜は焼き鳥を出す「とり新」さんにわかれて営業されています。831.jpg
鳥新さんといえば、坂本龍馬が暗殺される直前に、軍鶏を買いに、峰吉に買いに行かせたというお店です。当時は四条小橋にあったそうで、場所も経営も変わっていますが、ゆかりのお店として、以前から食べに行きたいと考えていたお店です。でもって、お手頃な親子丼で、幕末に思いをはせてみました。

カウンターで、親子丼を待つ3人(^^)
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龍馬君「なんちゅうか?これが親子丼かよ、
ほんで なんとなにが親子ぜよ、
なんぼいうたちハイカラやのう、
親子円満でまっこと うまいぜよ。」
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それにしても、客のほとんどが、まず親子丼の写真を撮って、それから食べ始めるという光景は、ちょっと変な感じではあります。
私もですけど・・・(^^)

2010年09月04日

北白川石仏 子安観音と大日如来

北白川バス停近くの旧道、かつての白川村の入口にあたる辻の角に、大きな石の仏像が座ってらっしゃいます。874.jpg
阿弥陀如来座像ですが、「子安観音」「安産の地蔵さん」と呼ばれ、地域の信仰を集めています。873.jpg
別名を「太閤の石仏」とも呼ばれているそうです。 これは太閤秀吉が昔この地を通りかかった時、この大きな石仏を気に入り、聚楽第に運ばせたところ、夜になると不気味なうめき声をあげるので、石仏がもとの地に戻りたいのだろうということで、早速もとの北白川の地に戻されることになったというものです。872.jpg
後ろ側にも石仏が、たくさんいらっしゃいます。

今出川通を渡った南側にも大きな二体の大きな石仏が祀られています。871.jpg
共に大日如来像です。
その横には、江戸時代末の嘉永二年(1849)に立てられた大きな道標があります。
どちらも街道沿いに祀られ、人々の安全を祈願されていたのでしょうね。

2010年09月02日

田中神社 と くじゃく

左京区田中に田中神社という神社が、あります。888.jpg887.jpg
祭神は大国主命です。この付近は、古くから田中村と呼ばれる村があり、その産土神として、村民の信仰を集めてきたようです。875.jpg
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鳥居を潜り、左手に孔雀と白孔雀がいます。884.jpg
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本殿879.jpg
くじゃくみくじ878.jpg
伊勢神宮遥拝所
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明治25年に、氏子の要望によって建立された玉柳稲荷社などがあります。876.jpg

田中神社 と くじゃくの続きを読む

2010年08月31日

福山龍馬 写真展

今日まで、霊山護国神社において、「福山雅治 坂本龍馬 写真と辿る旅」展が開催されていました。この前、 霊山歴史館も墓参りも行った事だし、どうしようかと考えたのですが、ミーハーな私は、やっぱりグッズ欲しさに出かけてきました。
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坂の途中の京大和は、志士たちの会合場所となっていました。896.jpg
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ここの坂は結構こたえますね。本殿前にたどり着いた頃は、汗だくです。グッズだけ、ネットで買った方が良かったような?
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それにしても、日曜の薩長同盟は、ちょっと拍子抜けというか、なんというか、ずいぶんアレンジされていましたね。
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帰り道、京都のシンボルの塔が二つ並んで見えました。890.jpg
観音様を外から拝んで・・・。
でもって、ゲットしたのは、リリーフランキーさんデザインの「リーダー龍馬くん」タオルです。889.jpg
使うのもったいないから、しばらく飾っておく事にしました。

2010年07月31日

都の大殉教

1619年10月6日、鴨川の六条から七条の間、現在の正面橋のあたりで、将軍秀忠の命により、52人の信者が火あぶりの殉教を遂げました。うち11人は子供であったそうです。日本の大殉教と呼ばれる殉教は三つあります。1622年9月10日の長崎の殉教、1623年12月4日の江戸の殉教、そしてこの京都の大殉教です。いずれも元和年間のことで、元和の大殉教とも呼ばれています。
川端通正面橋の少し北に石碑が建てられています。p6571.jpg

2010年07月21日

上田秋成 その7 崇徳天皇陵

雨月物語の巻の1は「白峯」です。西行さんが、生前縁があった崇徳院の白峯御陵を訪ね、経文を唱え歌をよみます。

松山の 浪のけしきは 変らじを
     かたなく君は なりまさりけり

と、そこへ院の亡霊が現れ、返歌をよみます。

松山の 浪にながれて 来し船の
     やがてむなしく なりにけるかな

近頃世に兵乱の続くは朕がなす業であると、その深い怨恨を語ります。西行が仏法を説くも、院のお心は変わらず、この後も祟り続けると告げられます。

よしや君 昔の玉の 床とても
     かからん後は 何にかはせん

ふたたび、西行のよんだ歌を聞こし召して、だんだんお顔の色もやわらぎ、ついにお姿もかき消すように見えなくなり、夜が明けます。

保元の乱(1156年)により、讃岐の国へ御配流の悲運に遭われた院は、血書をもって京都への御還幸を願われたのですが、それを拒まれ、憤怒の御姿のまま、長寛2年(1164年)に46歳にてその地で崩御され、白峯山陵に奉葬されました。上皇の寵愛厚かった阿波内侍は、御遺髪を請い受けて、東山に塚を築いたといわれています。p6597.jpg
祇園花見小路甲部歌舞錬場の東側です。p6596.jpgp6595.jpg


2010年07月08日

上田秋成 その4 呉春

秋成は、画家の松村呉春とは特に交友が深かったようです。
呉春の画に秋成が賛を寄せたものや、書簡も残されています。「胆大小心録」には、「くい物の解せぬ者は、なんにも上手にならぬ」というのが呉春の持論で、いろいろと食べ好みをした食通であったと書かれています。
寛政5年(1793)6月、60歳の秋成が妻の瑚璉尼とともに京都に出たその落ち着き先は、知恩院門前袋町でしたが、以後、南禅寺山内、東洞院四条、衣棚丸太町と市内を転々としました。寛政7年頃には、呉春と同じ長屋に住んだこともあったそうです。
寛政8年には、また袋町に戻り、9年の12月、そこで妻の瑚璉尼が急死しています。
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呉春宅址としては、晩年に住まいしていたところとして、東洞院通錦小路上る西側 元竹田町にその石碑が建っていますが、『平安人物志』には、四条東洞院東入る北側となっています。応挙宅と近いですね。その門下から、異母弟の松村景文や岡本豊彦・横山清暉らの多くの画家を輩出しています。四条界隈に画室を構えたことから、四条派と呼ばれ、のちに応挙の円山派をしのぐようになってゆきました。

秋成の死の2年後、文化8年(1811)7月17日、呉春は60歳で亡くなって西九条の大通寺墓地に葬られましたが、その地が荒地となっていったので、明治22年(1889)一乗寺の金福寺に改葬されました。p6645.jpg
景文の墓と並んでいます。p6646.jpg

2010年07月07日

上田秋成 その3 若冲・応挙らとの交流

昨日の秋成の墓の蟹の台石は、伊藤若冲が深草山石峰寺の五百羅漢を安永・天明年間に造った残りの石で彫ったものだといわれています。秋成の生前に寺に運んだもののようです。p6650.jpg
墓標は十三回忌に建てられ、碑表の隷書は森川竹窓の筆によるものです。
晩年の随筆『胆大小心録』には、当時の文人や画家たちとの交流の様子が屈託のない毒舌ともいえる独特の口語体で描かれています。

円山応挙についても、「衣食住の三つにとんと風流のない、かしこい人じやあった」「絵は応挙の世に出て、写生といふことのはやり出て、京中の絵が皆一手になつた事じや」と書かれています。また画代が高くなったことのついては、「応挙が俗慾ではじまった」とも書いています。

四条通堺町東入南側 木曽路の看板横に、円山応挙宅址の石碑が建っています。p6649.jpgp6648.jpg

2010年07月06日

上田秋成 その2 京都の墓

怪異小説 雨月物語の作者として知られる上田秋成の終焉の地を先日取り上げましたが、今日はお墓参りです。
南禅寺の参道北側のパーキング横の小道の奥にある西福寺(さいふくじ)さんにその墓はあります。源智山という浄土宗寺院です。(左京区南禅寺草川町)
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親交のあったこちらの寺内に、生前から自身の墓をと定めていました。p6656.jpg
ご住職に墓を見せていただきたいのですがと窺ったところ、墓は見るものではなく、お参りするものですとのご注意を受けました。確かに・・・。失礼致しました。p6654.jpg
門内におとなしい犬が昼寝中でした。p6655.jpg
上田秋成の墓は、墓地ではなく本堂の左の内庭にあり、ご住職の案内のもと、本堂を通っていかなくてはなりません。p6653.jpg
現在の墓石は、文政四年(1821)の秋成の十三回忌に建てられたもので、墓には、「上田無腸翁之墓」と刻まれています。p6651.jpg
この「無腸」とは、腸のない蟹のことを意味していて、秋成が自身の性格をたとえて、「人皆縦に行けば、余独り横に行くこと蟹の如し」と表現し、自身の筆名としていたことに因っています。p6652.jpg
台座も蟹の形をしています。

2010年07月05日

坂本龍馬のお墓参り

霊山歴史館を出て、北側の京都霊山護国神社に向かいます。坂本龍馬と中岡慎太郎のお墓参りです。階段が多くてきついですが、大勢の人が上ってゆきます。p6662.jpgp6660.jpg
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お墓の横には、坂本龍馬と中岡慎太郎の像が建てられています。
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山の中腹にあたるこの像の位置からは、市内が一望でき、まるで二人が京都市内を眺めて、語らっているようです。


2010年07月04日

霊山歴史館 

少し前に霊山歴史館の『大龍馬展 第2期 〔翔る!龍馬〕』を、観て来ました。さすがに大勢の人で賑わっていました。河田小龍の絵も観ることができて、池田屋の模型などで場面を想像し、楽しめました。
何人かの幕末の人達の和歌が、書かれていたコーナーがあったのですが、最も記憶に残ってしまったのが、芹沢鴨の下記の歌でした。
雪霜に 色よく花の さきがけて
   散りても後に 残る梅の香
入獄中に、指を噛んで流れる血で書いたとされる辞世のようですね。
さすがに、色香のある歌ですね(^^)。p6663.jpg
悪役イメージの人物ですが、先のドラマで佐藤浩市さんが演じてから、ちょっと好きになってしまったのですが、また少し好きになってしまいました

2010年06月26日

目疾地蔵 仲源寺

祇園の大和大路四条を少し東入ったところでは、目疾地蔵さんを祀ったはります。仲源寺が正式ですが、大概この辺の人らは、目やみ地蔵はんて呼ばはります。
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門に「雨奇晴好」と記した扁額がかかっています。降るもよし、晴れるもよしという意味ですが、これは、蘇軾(そしょく 北宋)の下記の詩の一遍を引用したものだそうです。

飲湖上初晴後雨 (湖上に飲す、初め晴れるも後に雨ふる)

水光瀲灔晴方好(すいこう れんえんとして はれ まさによし)
山色空濛雨亦奇(さんしょく くうもうとして あめもまた きなり)
欲把西湖比西子(せいこをとって せいしに ひせんと ほっすれば)
淡粧濃沫總相宜(たんしょう のうまつ すべて あいよろし)


さざなみを浮かべて広がる湖水の光は、晴れた日こそ美しい。霧のように山をつつんだ雨の景色もまた格別の眺めである。この西湖をあの西施にたとえてみれば、薄化粧でも厚化粧でも似合うように、西湖は晴れても雨でも、趣があってよい、という意味です。

この扁額は、お寺の来暦をあらわしているようです。
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鴨川の氾濫をしずめるために、地蔵菩薩を安置したのが、そもそもの起こりとされていて、八坂神社にお参りする人々がここで雨宿りしたことから、雨やみ地蔵と呼ばれるようになったともいわれています。ところが、この地蔵尊は玉眼入りで、風眼にかかっているように見えることから、眼病平癒祈願の信仰が生まれ、「雨止」が転じて「目疾」になったとされています。

門をくぐって左手は、水子供養地蔵です。p6697.jpg
正面が目疾地蔵です。p6696.jpg
ガラスで見えにくいのですが、大きなお地蔵様で、眼がうるうる。パソコン疲れで、すぐ充血してしまうので、ここはしっかりとお参りせねば・・・。p6695.jpg
本堂脇檀には、恵心僧都作と伝える山越の阿弥陀如来像が安置されています。

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走り大黒とよばれていて、俵にじかに足を踏み込んでいて福をまくといわれています。
その手前の観音堂内に千手観音菩薩。重文だそうですが、ガラスでよく見えなくて残念です。p6693.jpg
洛陽三十三所観音霊場第16番札所です。

2010年06月25日

洗い地蔵さん 寿延寺

東山区大黒町通松原下ル西側の寿延寺内に、洗い地蔵さんと呼ばれるお地蔵さんがあります。
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山門を入った所には大黒堂、p6700.jpg
さらに路地を進むとお地蔵さまがいらっしゃいます。
正式には、浄行菩薩といって、釈迦の弟子の四大菩薩の一人で、水の神様であり、水徳で体の苦患や心の悩みを洗い清めるとされています。p6705.jpg
元は本堂にあったそうですが、多くの人々にじかに触れてもらおうと外に置かれたということです。
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このお地蔵さんに水をかけ、体の悪い部分をたわしでこすると治ると云われています。昔懐かしいポンプがあり、これで水をくみ上げ、備え付けのたわしで、お地蔵様を磨きます。
このところ、左肩の調子が思わしくないので(医者の診断は五十肩でしたが、たいしたレベルじゃないので、たまに湿布するぐらいですが。)左肩をたわしで、洗ってみました。ついでに、やっぱり頭も・・・(記憶力低下防止の為)
お隣は、弁財天がまつられています。p6703.jpg
奥に進むと本堂です。p6702.jpgp6701.jpg

2010年06月14日

楽町楽家と鍾馗さん

今年も、楽町楽家のイベントが市内の町屋で開催されました。
岡崎の好日居さんで行われた金継ぎ作業見学会「繕いの作業を見る」におじゃましました。
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金継とは割れや欠けた器の傷をあえて隠さず、修復し景色にみたてて楽しむ日本人ならではの粋な繕い技術です。
破片を漆でつなぎ合わせ成型した上に金、銀などを蒔き仕上げます。天然の漆を使い日本古来の方法で修復するため、乾くまでの時間待ちもあり、結構手間と時間を要します。漆を使うため、かぶれるかも?という不安もあります。
器を割るのは得意な方なので、いつか金継ぎをしようなどと水屋の片隅に欠けた器を取り置きしてあるのですが、この作業を見せてもらって、大変そうかも・・・と、先延ばし決定してしまいました。
まあ、本漆を使わないお手軽修復の方法もあるそうですが・・・。

帰りがけに、金継ぎならぬキンキラの鍾馗さんに出会いました。金を取り扱っているお商売屋さんのお家のようですね。p6782.jpg
ちなみに我が家の鍾馗さんはこちらです。p6781.jpg

2010年06月04日

新熊野神社

新熊野神社は、熊野信仰の盛んな平安時代末期、永暦元年(1160年)、後白河上皇によって創建された神社です。p6827.jpg
後白河上皇は退位後、院政を敷き、現在三十三間堂の東側にある「法住寺」を住まいとしました。「法住寺殿」のその鎮守社として創建されたのが新熊野神社、鎮守寺として創建されたのが三十三間堂です。
一般の人が、熊野に参詣することは大変なため、熊野の新宮・別宮として創建され、長らく京の熊野信仰の中心地として栄えました。p6824.jpg
「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の認識が、その由来となっているそうです。p6823.jpg
八咫烏(やたがらす)が、かわいいですね。
もう一つ、この神社の歴史の中で、興味深いのが、能楽発祥の地とされている事です。
観阿弥・世阿弥親子がこちらで催した猿楽を、将軍足利義満が目にとめ、その後、義満は観阿弥・世阿弥親子を庇護するようになり、やがて能楽という芸術の域に大成させたというものです。p6826.jpg
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後白河上皇のお手植と伝わる大樟さんが見守る中、ここで猿楽が催され、発展していったかと思うと感慨深いものがあります。p6821.jpg
この木を見ていると、後白河上皇が義満をここに連れてきて、猿楽をバックアップするように仕向けたのではないかと思ってしまいますね。
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2010年06月03日

第61回 京都薪能 

6月1日 恒例の京都薪能に行ってきました。開場前に小雨が降り出し、会場変更が危ぶまれましたが、何とか通り過ぎた模様で、無事開場入りできました。今年から、雨天順延が取りやめになり、雨天時は京都会館で開催されることになったので、空しく帰るという事態が無くなったのは、一安心です。かなり前のことですが、何時間も並んでやっと会場入りしてお弁当だけ食べて中止が発表され、翌日は急用が入り、行けずじまいになった年がありました。p6828.jpg
1日の演目は、鞍馬天狗 白頭 (能 観世流)・半蔀 (半能 観世流)・六地蔵(狂言 大蔵流)・舎利(能 金剛流)でした。p6833.jpg
今年も、かぶりつきの席をゲットして、取り合えずお弁当とお酒。p6832.jpg
魚常の太子道支店さんにお願いしておいた観劇弁当です。p6831.jpg
ご飯はわさびのなめしご飯だそうです。p6830.jpg
隣のプロカメラマンの仕事をちら見しながら、近年、写真撮影が許可を受けた報道関係者だけで、一般は禁止になってしまった事をちょっと恨めしく思いました。
演目については、また後日・・・。

2010年06月01日

龍馬伝 外伝 -お龍と家族の引越し-

龍馬伝では、いよいよお龍さんが登場しましたね。

お龍さんは、青蓮院宮に仕える内・外科医 楢崎将作の長女として生まれました。
天保12年(1841年)に富小路六角付近で誕生し、しばらくして柳馬場通三条下るに移り住んだと云われています。p6843.jpgp6842.jpg
弟妹が4人いたそうですが、良家の娘としてお稽古事などして暮らしていたようです。
文久2年(1862年)父楢崎将作の死去により、生活が一変することとなります。
お龍は「京都の木屋町」もしくは「四条、うら通りの 借家」に移住することとなります。p6841.jpg
木屋町通六角下る東側(高瀬川山崎橋東詰下る)p6840.jpg
正確な場所はわかっていないため、このあたりということですが、この都会館1Fには、「龍馬」というお店があり、京都龍馬会の事務所でもあります。龍馬とお龍に扮したオーナー夫妻のもと、龍馬ファン・龍馬研究者が集っている場所でもあります。
こののち一家は離散し、お龍は単身七条新地の扇岩という店に奉公に出ます。母と妹君江は、洛東大仏南門前(現東山区本瓦町付近)の河原屋五兵衛(五郎兵衛)隠居所の土佐亡命志士の居所に住み込みで働くことになります。p6839.jpg
この5月、東大路通塩小路西入る北側に、新しく石碑が建ちました。三十三間堂南の方広寺の南大門を少し東に入ったところです。p6838.jpg
母の働くこの場所で、龍馬とお龍は、出会いました。
石碑 説明書き p6837.jpg画像の拡大

2010年05月22日

御辰稲荷神社

東山丸太町を東へ、平安神宮の北にある御辰稲荷神社(おたついなりじんじゃ)は、宝永年間、東山天皇の側室・新崇賢門院の創祀です。祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、猿田彦神(さるたひこのかみ)、天宇受賣神(あめのうずめのかみ)です。p6899.jpg
社伝によると、ある夜、新崇賢門院の夢枕に白キツネが立って、「禁裏御所の辰(東南)の方角に森があるから、そこに私をまつっておくれ。夢、夢、疑うことなかれ」と、お告げを残して消えたそうです。この狐が、琴を得意とする風流狐・お辰狐だったそうで、聖護院の森に小祠を建て御辰稲荷と呼ぶようになりました。森を通るとお辰キツネの琴の音がしたといわれています。p6898.jpg
江戸時代にはいって、御辰の″辰″は達成の″達″に通じると、願望成就に人々の信仰を集めるようになりました。p6897.jpg
「京の風流キツネは、碁の好きな宗旦キツネと、琴の上手な御辰キツネ…」と謡われ、芸事をする人たちが多く参拝したそうで、芸事上達・商売繁盛のご利益があります。p6894.jpg
境内には末社として、願をかけ石を授かったという説話から願い事が叶うとされる福石大明神の祠もあります。p6896.jpg
真黒の小石を持って参拝すると幸せになれるといわれています。

亀に似た大石を祀る亀石大明神や、「御辰稲荷」の「辰」にかけた辰年生まれの守護神「初辰大明神(はつたつだいみょうじん)も祀られています。p6895.jpg
いろいろなお狐さまが、あちこちで活躍していたのですね。


2010年05月21日

相槌稲荷

三条粟田口に、相槌稲荷さんがあります。p6904.jpgp6903.jpg
小ぶりな鳥居をくぐり、左に曲がって少し入ったところに神社があります。p6902.jpgp6901.jpg
お能の「小鍛冶」に出てくる三条小鍛冶宗近の相槌となって御剣を打った明神さんを祀ってあるところです。
「小鍛冶」
一条帝がある夜不思議な夢を見られたので、橘道成を勅旨として、名工三条小鍛冶宗近に御剣を打つことを命じます。
宗近は突然の宣旨を承ったものの、相槌を打つ者がいないため途方にくれ、氏神である稲荷明神へ祈願に出かけます。
すると一人の童子が現れ、不思議にもすでに勅命を知っており、君の恵みによって御剣は必ず成功すると言って安心させます。そして和漢の銘剣の威徳や故事を述べ、神通力によって力を貸し与えることを約束して、稲荷山へ消えて行きます。
宗近は七五三縄を張った壇をしつらえ支度を調えて、祝詞を唱えて待ちます。すると稲荷明神が狐の姿となって現れ、相槌となって御剣を打ち、表に小鍛冶宗近、裏に小狐と銘を入れ勅使に捧げると再び稲荷山に帰ってゆきます。

道を隔てた南側、仏光寺や粟田神社のあたりが当時、宗近の邸があったところだそうです。p6900.jpg
こちらは、またの機会に・・・。

2010年05月20日

日向大神宮

蹴上浄水場の北側に、日向大神宮(ひむかいだいじんぐう)があります。p6916.jpg
一の鳥居をくぐり、坂を登ると大神宮橋、そして二の鳥居が見えてきます。p6915.jpg
参道には、シャガが群生していました。p6914.jpgp6913.jpg
さらに坂道を登り続けて、左手に本殿への階段が見えてきます。p6912.jpg
顕宗(けんそう)天皇の時代に日向国(宮崎県)の高千穂峰から天照大神の神蹟を勧請したのが創建とされています。
階段を上ると、境内には、多くの神様が祀られていますp6905.jpgp6906.jpg
外宮p6911.jpg
さらに階段を上り、内宮p6910.jpgp6909.jpg
左の山道を少し上ったところには、天岩戸p6908.jpg
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伊勢神宮への代参として、また粟田口という場所にあることから、東海道を旅する人々の安全を祈願する神社として、古来より親しまれてきたようです。
境内は、帽子にスニーカー姿の山歩きの方々が行き交うぐらいで静かでしたが、茶屋などが並んでいたかつての賑わいを想像してみるのも楽しいものでした。


2010年04月09日

京都の桜 2010 平安神宮・岡崎疎水

4月4日 岡崎あたりは大変な賑わいでした。左近の桜が見頃となっていて、記念撮影の切れ間がありません。因って、桜の上半身のみの撮影です。p7269.jpgp7268.jpg
門を潜って、右手の桜も見頃となっていました。この木は斜めに伸びた樹形にとても風情があり、近寄れないこともあって、静かなたたずまいに魅了されます。
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疎水べりの桜は咲き加減にばらつきがありますが、まずまずの見頃でした。p7265.jpgp7264.jpg
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2010年04月07日

京都の桜 2010 豊国神社 他

4月4日 絶好の花見日和となったこの日曜は、人込みで動きが取れなくなりそうなところを極力避けて廻る事にしました。
豊国神社 p7288.jpg
p7293.jpgp7292.jpgp7291.jpgp7290.jpgp7289.jpg
養源院p7287.jpg
この山桜はすっかり葉っぱになってしまっていました。紅枝垂は咲き始めたところでしたが、花芽が少ない様子です。今年の天気はこの遅咲きの紅枝垂に特に影響したのでしょうか。あちらこちらの紅枝垂の状況がよくないようです。p7286.jpg
三十三間堂p7285.jpg
博物館p7284.jpg
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ハイアットリージェンシーホテル内のイタリアンレストラン「トラットリア セッテ」p7282.jpg
庭の桜を愛でながら桜色のシャンパンでランチタイムp7281.jpg
外資系の為か、ボリュームがあります。この日の着物は薄墨の夜桜にしてみました。p7280.jpg


2010年04月05日

京都の桜 2010 若王子神社・武徳殿・岡崎疎水

3月29日昼
哲学の道の南端を山手に行くと若王子神社があります。その奥の山道を上っていくと、桜花苑に着きます。個人の願いを込めた植樹による桜が一面に植えられています。丸太町通から東山を見て中腹に見えるピンクの塊がそれです。境内は咲き始めたところでしたが、こちらは満開になっていました。p7309.jpg
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岡崎にある武徳殿は平安京大内裏の北西にあったとされる故事に倣い、明治32(1899)年 平安神宮の北西の地に建てられたものです。こちらの桜はとても背が高く立派なものです。p7307.jpg
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疎水を船が通ってゆきました。p7303.jpg

4月4日 御苑の螺旋洞桜が開花していました。p7296.jpg

2010年03月30日

京都の桜 2010 真如堂

3月22日午後
真如堂山門前の桜が開き初めていました。p7367.jpg
境内の桜はまだの様子でしたが、塔の横にある枝垂桜が見頃を迎えていました。p7366.jpg
p7365.jpgp7364.jpgp7363.jpgp7362.jpg
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2010年03月29日

京都の桜 2010 金戒光明寺・西雲院

3月22日 午後
金戒光明寺の山門を潜り、上ったところに、檀家さん用の駐車場があります。こちらの桜が、満開になっていました。p7374.jpgp7373.jpgp7372.jpg
枝垂れも静かに咲いていました。
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境内の桜はまだ先のようです。
塔頭である、西雲院の彼岸桜も見頃となっていました。p7370.jpgp7369.jpgp7368.jpg


2010年03月28日

京都の桜 2010 三年坂・岡崎・祇園白川

3月22日 午後~夕刻
三年坂の明保野亭の桜が見頃を迎えていました。坂を下りつつ、撮ってみました。p7384.jpgp7383.jpgp7382.jpgp7381.jpg
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岡崎疎水沿いの桜はまだ早いのですが、細見美術館北の空き地になっているところ(平安荘跡)の桜が早咲きなのを思い出し、立ち寄ってみました。p7379.jpg
背景がちょっとかわいそうな感じですが、案の定、見事な咲きっぷりでした。

夕方近くの祇園白川p7378.jpgp7377.jpgp7376.jpg
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いい感じになってきました。


2010年03月22日

真如堂 山茱萸など

3月15日 真如堂にも立ち寄りました。
顔、どうしたの?p7462.jpg
裏手の方に、山茱萸(サンシュユ)が咲いていました。p7468.jpg
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落ち椿もp7465.jpg
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傍らを猫が通り過ぎてゆきました。p7461.jpg
戻ってくると、もう一匹p7463.jpg

2010年03月14日

平忠盛

長承元年3月13日(1132年4月7日)平忠盛(平清盛の父)が、武士として初めて御所への昇殿を許可されました。
鳥羽上皇勅願の観音堂である得長寿院を造営し、落慶供養に際して、千体観音を寄進しました。その功績により内昇殿を許可されたものです。
岡崎の疎水沿い、東大路通を東に入ったあたり、徳成町に得長寿院跡の石碑が建っています。p7507.jpg
蓮華王院(三十三間堂)と同規模の建築であったといわれています。

2010年02月24日

長谷川 等伯

慶長15年2月24日(1610年3月19日)、安土桃山時代から江戸時代初期の絵師である長谷川 等伯が亡くなりました。
大回顧展「没後400年 特別展『長谷川等伯』」が、4月10日(土)~5月9日(日)まで、京都国立博物館で、開催されます。(東京展は昨日、開催されたところです。)
p7614.jpg「楓図〔かえでず〕」(智積院)p7613.jpg「松林図屏風」(東京国立博物館)

2月末日まで、お得なペアチケットが、2000円で販売されています。楓図をデザインしているのは、このチケットだけで、2人でも、前期・後期と1人で使うこともできます。p7612.jpg
プレイガイド・コンビニなどで、購入して、当日、このチケットと引き換えることができますが、現物を今すぐ手に入れるには、京都国立博物館か、京都駅表2階の京都市観光案内所へ行く必要があります。
ちなみに普通の前売りは1200円・当日は1400円です。

2010年02月07日

平 敦盛

元暦元年2月7日(1184年3月20日)平 敦盛が、17歳で亡くなりました。
一ノ谷の戦いにおいて、源氏側の奇襲を受け、平氏側が劣勢になり、騎馬で海上の船に逃げこもうとしたところを、敵将を探していた熊谷次郎直実に「敵に後ろを見せるとは・・・」と呼び止められ、首を取られた謡曲にもなっている物語です。信長の好んだ歌「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか」も幸若舞の『敦盛』の一節です。

戦いの無情を感じた熊谷次郎直実は、敦盛の供養のために出家を志して黒谷に至り、鎧を洗い、それを松の枝にかけ、法然上人の門を叩きました。p7794.jpg
金戒光明寺の紫雲の庭のこちらの池が、その鎧を洗った池といわれています。p7719.jpg
御影堂横の松が鎧かけの松です。もとの松は枯れて、二代目という話ですが。
そして、右手前奥、蓮池の向こうにある勢至堂の前に向かい合って、建てられているのが、二人の供養塔です。p7714.jpg
手前側が熊谷次郎直実です。p7718.jpgp7717.jpg
向かい側が平 敦盛の塔です。p7716.jpgp7715.jpg

2010年01月30日

孝明天皇祭

孝明天皇祭 (一般では何回忌というところを、天皇及び皇族では「何年祭」という言い方をするそうです。)
慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇(こうめいてんのう) が亡くなりました。享年36(満35歳没)。死因は天然痘と診断されましたが、毒殺説もあります。
父・仁孝天皇の崩御を受け践祚しました。祖父(光格天皇)・父の遺志を継いで公家の学問所である学習院を創設しました。
お生まれになった時には、やはり胞衣を埋納されています。東山区五条通東大路西入北側(若宮八幡宮内)にありました。p7744.jpgp7746.jpgp7745.jpg
横の木は、2本の木が、交わって1本になってしまったものです。p7743.jpgp7742.jpg

2010年01月18日

京の冬の旅 2010 金戒光明寺 続編

冬の旅のパンフレット表紙になっている文殊菩薩や吉備観音、そして平成23年の法然上人八百年大遠忌記念として整備された紫雲の庭も見学しました。p7789.jpg
紫雲の庭は、法然上人の生涯と浄土宗の広がりを枯山水の中で表現したものです。三つの部分に分かれた構成になっています。
「幼少時代 美作の国」p7796.jpg
それぞれの石が、父・母・本人(勢至丸)など、人物を表しています。
「修行時代 比叡山延暦寺」写真左上p7795.jpg
「浄土開宗 金戒光明寺の興隆」p7794.jpg
池は琵琶湖を表していますが、元々は熊谷直実がこの地で出家した時、鎧を洗った池で、「鎧池」といわれています。
法然上人43歳の承安5(1175年)、比叡山の修行を終えてこの地で念仏をされた時、紫雲が全山にたなびき、光明があたりを照らしたことから、ここに浄土宗最初の念仏道場を開いたとのことで、この庭の名前の由来となっています。

2010年01月17日

京の冬の旅 2010 金戒光明寺

今年も非公開文化財特別公開の京の冬の旅が始まっています。
法然上人がはじめて草庵を営まれた地である金戒光明寺も、幕末というテーマの中で、公開されています。p7799.jpgp7798.jpg
幕末期、幕府から京都守護職に任命された会津藩主・松平容保(かたもり)は、ここに本陣を構えました。「謁見の間」では、近藤勇・芹沢鴨らが容保に拝謁し、新撰組が誕生しました。
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(芹沢さ~ん、ここで、刀 抜かないでくださいね。拝謁するんですから~。)

ここに、千名の軍隊が駐屯していたそうです。当時を想像してみると、感慨深いですね。軍隊のその後も・・・。
裏山の墓地には黒谷会津藩墓地がありますが、龍馬の暗殺舞台となった近江屋の主・井口新助(いぐちしんすけ)の墓もあるそうです。 

冨岡鉄斎の屏風や、しかけのある虎の襖絵も圧巻でした。p7797.jpg
つづく

2010年01月14日

毘沙門天堂

両足院北側には、毘沙門天堂があります。こちらの毘沙門天は、鞍馬寺毘沙門天の胎内仏だったそうです。
戦国時代 比叡山が織田信長によって焼き討ちにあった際、鞍馬の僧が尊像の安全を危惧し、比喜多養清のところへ、尊像を疎開させたものだそうです。
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香炉にも寅がいます。p7804.jpg

2010年01月13日

両足院

建仁寺の塔頭 両足院の新春特別拝観も、17日までとなりましたので、取り急ぎ観てきました。p7808.jpg
石段を登るときれいに整えられた石畳と白砂が目に止まります。p7807.jpg
長谷川等伯の「竹林七賢人図」「水辺童子図」、伊藤若冲の「雪中雄鶏図」、そして嘷虎図(李義養筆 1811年)などを観ることができました。若冲の「雪中雄鶏図」は、クリアファイルになっていたので、思わず買ってしまいました。p7803.jpg
嘷虎図は、北区紫竹上岸町にある高麗美術館で開催中の「朝鮮 虎展」において、1/19(火)~2/14(日)まで、もう一度観ることができます。

先日観た、報恩寺 鳴虎之図(四明陶佾筆)は 1/13(水)~2/14(日)の間、

正伝寺蔵 虎図(伝李公麟筆) 1/9(土)~1/17(日) 2/2(火)~2/14(日)
鹿苑寺蔵 竹虎図(伊藤若冲画) 全期間
展示されるようなので、合わせてもう1度、虎尽くしを楽しめそうです。

2010年01月12日

ゑびすさんの残り福

11日、成人式を終えて、恵比寿さんに出掛けました。p7811.jpg
残り福でも、まだまだ、ゑびすさんは大賑わいです。p7810.jpg
右端に並んでしまったため、お参りの後、左へ抜けるのに、一苦労してしまいました。やっぱり、裏手に回って、板戸をドンドンしないといけませんからね(^^)p7809.jpg

2009年12月20日

福玉

師走の花街の風物といえば、福玉ですね。
年の瀬に舞妓さんがお茶屋さんに一年の挨拶回りに行く際に、お茶屋さんからお年玉替わりにもらったり、ごひいきの旦那さんからもらったりするものです。干支の置物などの縁起モノや、ちょっとした小物が入っているそうです。貰った福玉は、大晦日に開けるのが慣わしとなっています。
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切通しの進々堂さんや、南座のお向かいの井澤屋さんで売ってらして、一般でも購入できるそうですが、いまだ買ったことがありません。
子供の頃、これをぷらぷらと下げて歩いたはる舞妓さんを、うらやましく眺めていたように思います。
かじってみたい・・・。

2009年12月13日

岩屋寺の猫

山科の岩屋寺の石段を上ります。p7915.jpgp7914.jpg
本堂にお参りした後、右手の方を見ると鳥居が・・・。p7913.jpg
通路には猫が待っていました。p7912.jpg
おこしやす。ご案内役のお軽どす~。(勝手に命名してしまいました。)
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これは「大石弁財天」言うて、内蔵助はんが祀らはったといわれてんのどすえ~。
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池の鯉は、ちょっと大きぃなり過ぎて、手に負えしまへんわ~。p7910.jpg
本堂に安置されているご本尊は、内蔵助良雄はんの念持仏といわれてます~。p7908.jpg
ちょっと、ごめんやっしゃ~。p7907.jpg
冬場は、乾燥してますよって、痒うてなぁ~。p7906.jpg
え~と、p7905.jpg
話どこまでやったかいな~。p7904.jpg
ちょっとまた、待っとおくれやっしゃ~。p7903.jpg
気持ちよぉなったわ。p7902.jpg
まぁ、そんなわけで・・・。p7901.jpg
奥の茶室、御案内しますわ。内蔵助はんの邸宅の廃材で建立されたもんどっせ。p7899.jpg
こちらへどうぞ。p7900.jpg
外部は、後から直してますけどなぁ~。p7897.jpg
手前に植わってるのんが、内蔵助はんの手植えの梅どっせ~。p7898.jpgp7883.jpg
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ご飯はもろてんのどすけど・・・。p7894.jpg
中へは入れてもらえへんのどすわ~。p7893.jpg
まぁ、しゃ~おへんわ。ほなここで、失礼させてもらいます~。p7892.jpg
石段には、明日催される、義士祭ののぼり旗が、ゆらゆらと。p7890.jpg
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木像堂
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近道を大石神社の方へ戻ってきました。p7885.jpg
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年の瀬や 水の流れと 人の身は
          明日またるる その宝船

 

2009年12月12日

大石神社

「時は元禄15年12月14日! 江戸の夜風を震わせて・・・。」
ご存知、忠臣蔵討ち入りの日も間近に迫ってきました。近頃では、あまりドラマにならず、ちょっと物足りない気もしますが・・・。
というわけで、山科にある大石神社に行ってきました。p7929.jpgp7928.jpg
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境内の大石桜の紅葉は、綺麗さっぱり、終わっていました。p7926.jpg
向かって左には、赤穂義士討入りに際し、必要な武器を調達した大阪の豪商 天野屋利兵衛を祀った義人社があります。「天野屋利兵衛は、男でござる。」 の名台詞で有名ですね。
商売の神様ということなので、ここはしっかりお参りしなくては。p7925.jpgp7924.jpg
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その奥の山道が大石良雄遺髪塚への近道になっています。p7922.jpgp7921.jpg
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大石良雄隠棲旧址碑p7916.jpg
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大石良雄を偲んだ句碑や歌碑が点在していました。p7919.jpgp7918.jpg
明日は、石段を上って、岩屋寺です。


2009年11月28日

親鸞聖人

弘長2年(1262年)11月28日 親鸞聖人が善法坊(弟 尋有の住坊)において亡くなりました。享年90歳でした。
その跡地である中京区御池通柳馬場北の御池中学校前に、「見真大師遷化之旧跡」 の石碑が建っています。
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*明治9年11月28日に、明治天皇より親鸞聖人に「見真大師」の大師号が贈られ、「諡号」(シゴウ)として用いられていましたが、現在、真宗大谷派は、この称号の使用を見合わせています。

善法坊のあとには、法泉寺が建立されましたが、隣接する柳池小学校の拡張により移転、さらに現在は御池中学校に変わっています。

親鸞聖人が晩年、愛玩し「虎石」と名付けた庭の石が、聖人が死去されたときに涙を流したといわれています。現在、虎石は東山区の東大谷本廟に移っていますが、ここの地名は虎石町と呼ばれ、その名残を留めています。

遺骨は、鳥辺野北の大谷に葬られていましたが、文久9年(1272年)親鸞の弟子たちの協力を得た末娘の覚信尼によって「大谷廟堂」が建立され、改葬されました。東山区林下町にある、現在の知恩院塔頭 崇泰院(そうたいいん)のあたりです。p7977.jpg
元応3年(321年)、本願寺三世覚如により、「大谷廟堂」を「本願寺(大谷本願寺)」と名乗り寺院化されました。これが本願寺の発祥です。廟堂は江戸時代初頭東山五条坂西大谷に移りました。
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知恩院の方へ歩いていく途中で、美しい紅葉に出会いました。p7975.jpg
知恩院山門p7974.jpg


2009年11月26日

円山公園

11月23日夕刻の円山公園です。p8002.jpg
大道芸人の周りを大勢の観客が取り囲んでいました。p8001.jpgp8000.jpgp7999.jpg
西日が差し込むところが、スポット的に赤く燃え上がるようです。
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賑やかな人込みを避け、池の北側から反時計回りに廻って戻ってきました。p7994.jpg
青鷺が、モデルを買って出てくれてので、しばらく撮影会です(^^)p7993.jpgp7992.jpg
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2009年11月24日

待賢門院璋子

天治元年(1124年)11月24日、鳥羽天皇の中宮 璋子は、院号を宣下されて待賢門院と称しました。前年の保安4年(1123年)正月28日、5歳になった顕仁親王の践祚によるものです。鳥羽上皇から叔父子と呼ばれた崇徳天皇の即位です。
璋子は、藤原公実の末子でしたが、白河法皇の猶子となり、その寵愛を受けて育ちました。
成長した璋子は、白河院によって、孫の鳥羽天皇の嫁となり、後に崇徳天皇となる顕仁親王が生まれたのですが、この親王は鳥羽天皇ではなく、白河法皇の子であろうという話が定説となっています。璋子は、崇徳天皇を含め、5人の親王(4男が後白河天皇)と2人の内親王をもうけています。

白河法皇と鳥羽上皇、待賢門院は、三人そろっての熊野御幸を4回も行っています。仲睦まじかったと伝えられています。崇徳天皇を叔父子と呼んで、嫌っていたという話は、白河上皇が亡くなられて、美福門院を寵愛するようになってからなのでしょうか?
中京区姉小路烏丸東入ル南側(新風館前)に三條東殿の石碑があります。p8012.jpg
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崇徳天皇の天治2年(1125年)、白河法皇はこの地を得られ、ここに殿舎を造営し、院の御所とされました。法皇の崩後、大治4年(1129年)より鳥羽上皇の院政となり、三條東殿をやはり院の御所とされ、待賢門院と共に、長承元年(1132年)7月の焼亡時まで住まれていました。

この院政の行われていた時期に白河(現左京区岡崎)の地に建立された6つの寺院「六勝寺」のうちの一つである「円勝寺(えんしょうじ)」は、大治3年(1128年)璋子御願により、落慶供養されています。p8011.jpg
今は市立美術館北側に石碑を残すのみです。

その後、鳥羽上皇は後ろ盾を失った璋子にかわり、藤原得子(美福門院)を寵愛するようになり、保延5年(1139年)躰仁親王(近衛天皇)が生まれています。永治元年(1141年)鳥羽上皇は、崇徳天皇に譲位を迫り、近衛天皇を即位させました。
待賢門院は翌年の康治元年(1142年)、自ら建立した法金剛院において落飾しています。3年後、久安元年(1145年)8月22日、長兄・実行の三条高倉第にて崩じました。

没後10年目、久寿2年(1155年)に近衛天皇が17歳で夭折し、璋子の生んだ四宮 雅仁親王が天皇に指名されました。これが後白河天皇で、璋子の長子 崇徳上皇がこれを不服として争う保元の乱が起こっています。

璋子は、西行法師が愛した人であるとも言われています。なんとなく、西行さんが魅かれた理由もわかるような・・・。

2009年10月28日

鈴木其一

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細見美術館の琳派展XII 「鈴木其一 ― 江戸琳派の風雲児 ―」前期の部を観てきました。

琳派の幕開けは江戸初期、俵屋宗達と本阿弥光悦の出会いに始まり、尾形光琳・乾山とその作風を継承した酒井抱一へと移り、その門下筆頭の弟子 鈴木其一へと受け継がれ、変化してゆきます。

その軽やかな優美さと斬新さは、気持ちを高揚させてくれるように思います。

文読む遊女図 p8168.jpg
其一の軽快な人物描写に師の抱一の漢詩と俳句が添えられた師弟合作の作品です。

雪中竹梅小禽図 双幅p8167.jpgp8166.jpg
吹きつけられた胡粉(ごふん)が平坦な画面から少し盛り上がっていて、あたかも今この画面に雪が降りかかったかのようです。

歳首の図p8164.jpg
賑やかな描表装とシンプルな本紙のからみ具合がユニークでめでたい作品です。

糸瓜に朝顔図p8165.jpg
真ん中に据えられた糸瓜と単純化された朝顔、細やかな蔓の流れが美しくもユーモラスな印象を受けます。
弓張月図p8163.jpg

天皇を脅かした鵺(ぬえ)を射落とした源三位頼政は近衛天皇から、獅子王という御剣を賜りました。

取次ぎの任にあたった左大臣藤原頼長は、頼政にむかってこう詠みました。

「ほととぎす名をも雲井にあぐるかな」

(ほととぎすが空高く鳴き声を立てているが、それと同様に
そなたも宮中に武名をあげたことよ)

これに対して頼政は、すぐさまこう受け答えしました。

「弓はり月のいるにまかせて」

(弓を射るにまかせて、偶然にしとめただけです)と謙遜したという文武両道に秀でた頼長の逸話を描いています。

2009年10月27日

吉田松陰

後に明治維新に貢献する多数の門下生を輩出したことで有名な「松下村塾」の師「吉田松陰」は、理想の教育者として現在でもよく引き合いに出されます。
安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処せられました。享年30歳でした。

岡崎の府立図書館前に松蔭の50回忌にあたる明治41年(1908年)に建立された勤皇の思想を著す詩碑が建っています。江戸から長崎への途中、京都御所を拝したときの作だそうです。全然、読めませんが・・・。p8170.jpg
略歴
文政13年(1830年)長州藩の下級武士・杉百合之助の二男として生まれました。

嘉永7年(1854年)ペリー2度目の来航の際、密航計画を企てるも失敗、萩の野山獄に幽囚されます。

安政2年(1855年)、生家で預かりの身となるが、安政4年(1857年)叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き継ぎ、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、幕末の志士を育てます。

安政5年(1858年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結んだため、これを非難し、老中・間部詮勝の暗殺を企てます。長州藩は警戒して再び松陰を投獄。

安政6年(1859年)、幕府の安政の大獄により江戸に送られ、松陰は老中暗殺計画を自供し、斬首刑に処せられました。獄中にて遺書として門弟達に向けて「留魂録」を書き残しています。

その冒頭にある辞世の句

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
    留め置(おか)まし 大和魂


家族宛の『永訣書』には

親思う 心にまさる 親心 
    けふのおとずれ 何ときくらん


他にこのような歌も詠んでいます。

かくすれば かくなるものと しりながら  
    やむにやまれぬ 大和魂

2009年10月24日

桜鶴苑庭園

南禅寺一帯に点在する庭園の監修及び、作庭を行ったことで有名な「7代目小川治兵衛」の庭の一つである「桜鶴苑庭園」が無料公開〔10月20日(火)~30日(金)の内の、月・火・木・金曜日のみ〕されているという事で出掛けてみました。

南禅寺三門に至る道の北側(金地院向かい)にワタベウエディングの桜鶴苑(おうかくえん)はあります。
ウエディングだけでなく、食事利用もできるそうです。p8179.jpg
門を入って、玄関の方へは行かず、すぐ右手のくぐり戸から入り、「植治の庭」のみの見学となります。
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茶室p8207.jpgp8206.jpgp8205.jpgp8204.jpgp8203.jpg
お庭へとp8202.jpgp8201.jpgp8200.jpgp8199.jpg
回遊式庭園p8198.jpgp8197.jpgp8196.jpgp8195.jpgp8194.jpg
池の中にはタニシの作った文様がp8193.jpg
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一周しました。p8180.jpg

2009年10月20日

玉瀾(ぎょくらん)

享保12年頃、百合の娘 町は生まれました。祖母や母の影響を受け、才女であったようです。
絵画を柳沢淇園に学び、早くから母百合の和歌に絵を添えてもいたようです。
女流画家、歌人として玉瀾と号しました。別名を遊可(ゆか)とも松風とも言いました。結婚して、池玉瀾、書画において、父方の姓の、徳山玉瀾とも称していました。

現在の円山音楽堂のあたり、真葛ヶ原に夫 と共に暮らしていました。

仲睦まじい大雅と玉瀾(近世畸人世)p8247.jpg

当時の歌壇の権威である冷泉為村に入門を許された玉瀾は、ごわごわの木綿の衣服に、手土産のビク(魚籠)を下げて行き、女房達をおどろかせたようです。冷泉卿は後に、玉瀾に赤い前垂れを贈ったそうで、喜んだ玉瀾は外出にもその前垂れをして歩いたということです。

なつの夜の あさ沢ぬまの みなぞこに 
     影もみだれて ほたるとびかふ

子のなかった彼女の没後、母の名残の水茶屋は途絶えたと言われています。
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夫婦の没後、その住まいの近くに弟子達が大雅の遺品を整理して、大雅堂を建てました。
「拾遺都名所図会」などにも残る洛東の名所となったいたその建物は、明治になって取り壊され、今は石碑がそのあとに建てられています。p8253.jpgp8252.jpg

2009年10月19日

百合女

梶女の養女 百合も、水茶屋の合間、母から手ほどきを受けた歌を楽しみとしていました。筆もなかなかのもので、短冊に書いた彼女の歌を求めて立ち寄る客も多かったようです。
祇園社のあたりの賑わい (拾遺都名所図会)p8248.jpg

その頃、真葛ヶ原に徳山という元、幕府直参の武士が細々と暮らしていました。百合はこの貧乏浪人と添い、一人娘 町と共に暮らすようになりましたが、徳山の本家筋が絶え、その跡継ぎにと江戸からの使者がやってきました。共に江戸へ帰ろうという夫に、百合は身分の違いから、夫のさまたげになることを案じて、町と共に京に残る事を決意しました。
町の成長を楽しみに、「あなたの父は武士です。決して自分を軽んじないように」と言い聞かせていました。この百合の生涯は頼山陽の「百合伝」に残っています。

歌集「佐遊李葉(さゆりば)」は、享保12年(1727)に版となっています。

春雨
   さびしさも いかでいとはむ 春雨に
       ひもとく花の さかり待たれて

花風      
   見るひとの をしむ心を さぞとしも
       しらずや花を さそふはるかぜ

寄河戀
   うきしずむ 身こそつらけれ 戀ひわぶる
       なみだの河の 深き淵瀬に

春夜戀
   春のよは 軒もる月の かげだにも
       なみだにかすむ ひとりねのとこ


この頃、祇園社近くの道端にムシロを敷いて自作の書画を売る貧乏画家がいました。
百合はこの青年の天分を感じ取り、娘 町を嫁がせます。

彼がやがて、江戸中期の文人画の名手となる池大雅です。
町も、玉瀾と号して画家、歌人として知られるようになります。

百合さんにとって、二人の仲睦まじい姿を見て過ごす晩年は、幸せな日々だったのではないでしょうか。
娘 玉瀾と共に金戒光明寺 西雲院の墓に眠っています。p8246.jpg
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2009年10月18日

梶女

櫛まつりの女性風俗の中に出てきたお梶さんについて、まとめてみました。
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江戸時代中期の歌人で、本名は梶。梶女とも祇園梶子(ぎおんかじこ、生没年不明)とも呼ばれています。祇園社の門前の簡素な水茶屋の娘でした。

梶女の‘歌人茶屋‘のたたずまい
        (近世畸人伝より)
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「祇園石之下鳥居下之方」に、その水茶屋「松屋」はあったそうです。
祇園社いまの八坂神社には、昔、石段下と東大谷参道の中ほどに東山通に面して〈下の鳥居〉があり、その脇あたりにあったのではないかということです。(南の正門脇とも?)
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独学で学んだ和歌が評判となり、通称‘歌人茶屋‘と呼ばれるほどで、彼女の歌を目当てに訪れる客が多かったといいいます。


こひこひて また一とせも くれにけり
     なみだの氷 あすやとけなん

14歳の時に‘歳暮恋‘との題を与えられて詠んだこの歌は、一躍、京中に知られました。

歌人冷泉為村にも歌才を愛されるほどで、伴蒿蹊著『近世畸人伝』などにも取り上げられています。その歌才は、旅人の口伝えに、全国に広まることとなりました。

市井の女性として初めての歌集『梶の葉』を上梓し、その挿絵は宮崎友禅斉が描きました。
序には宝永3年(1706)秋文月の日付があります。

七夕によみて手向け侍りし、
    世の人の あだし心に うつばさや
        一夜の星の たえぬちぎりを

菊と題して、
    つゆになほ にほいもふかく さきそふや
        秋のいろなる 庭の白菊


春帰らんといひて、故郷へ行きける人のもとへ、
    春こんと いひし言のは たがへずば
        さかでや花も 人をまつらん

夕立
    ゆふたちの はれて涼しき くさむらは
        秋とやいはん つゆのつきかけ

立秋、
    秋きぬと けさより袖に ふく風の
        おとはかはらで 身にやしむらん

むかしを思い出づる事侍りて、
    つらくのみ すぎこしかたを しのべとや
       うきひとりねに たてる俤(おもかげ)

言い寄る人も多かったようです。
    君故に まよひ来にけり あづまじの
        しのぶこころを 哀ともみよ
と、恋の歌を手渡されて、さらりと返しています。
返し
   われにのみ なにかはまよふ あづまじや
        また異方に 人忍ぶらん

生涯独身で、百合子という女児を養女とし、店を継がせました。百合子とその娘の町子(池大雅の妻、玉瀾)も歌人として知られています。
                         

2009年10月15日

西行法師

鳥羽院の北面の武士であった佐藤義清は保延6(1140)年10月15日、23歳で出家し、円位を名乗り、後に西行と名乗りました。
北面の武士とは、白河上皇が院政を開始してほどなく創設された、院御所の北面を詰所とし、上皇の側にあって身辺の警護あるいは御幸に供奉した廷臣・衛府の官人らの事です。

武勇にも秀で、蹴鞠に和歌にと非凡な才覚を持つ、何不自由ない権力者の嫡子が若くして出家したことは、当時突然の出来事であり、驚かれたようです。
出家理由は、友人の急死にあって無常を感じたという説が主流ですが、失恋説もあり定かではありません。
西行さんゆかりの地はあちこちにありますが、祇園円山公園南側にも西行庵が再建されて残っています。
入り口p8268.jpgp8269.jpg
「西行堂」p8266.jpgp8265.jpg
西隣 西行庵の母屋「浄妙庵」
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さらに西隣 芭蕉堂p8263.jpg
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この堂は、江戸時代中期、松尾芭蕉を忍ぶため、芭蕉にゆかりの深いこの地に加賀の俳人高桑闌更が営んだことに始まっています。西行を心の師とし、西行を慕っていた芭蕉のために、この地を選んでいます。

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西行庵は、この双林寺の飛び地となっています。p8260.jpg


鈴鹿山 浮き世をよそに ふりすてて
 いかに成り行く 我が身なるらむ

出家して、伊勢の方へ行ったときの歌です。平安から鎌倉時代へとその時代の変化の中に、感受性の強い人が、悩みながらあちこち旅をしてゆく様は、和歌に凝縮されて残っているようです。

西行さんの歌は、桜や月・恋を詠ったものが多いですが、自然を愛し人を想い、それを歌に託す事が、経を唱える事と同意義であるかのようです。
松山を訪れ、崇徳院の足跡を訪ね歩き、なにも残っていない事を嘆き、次の歌を詠んでいます。

松山や 波に流れて こし舟の
     やがてむなしく なりにけるかな


もっとも有名なのは、やはりこの歌でしょうか。

願はくは 花の下にて 春死なむ
    その如月の 望月の頃


このように歌い、まさにこの時期に亡くなっています。これは結構、うらやましい話です。理想の死に際を迎えられるなんて、やっぱり修行のなせるわざかしらん?


月を見て 心浮かれし いにしへの
    秋にもさらに めぐり逢ひぬる

夜もすがら 月こそ袖に やどりけれ
     昔の秋を 思ひ出づれば


月を眺めて昔を思いやる歌も多いようですね。


ちなみに、この西行庵の東側には、その昔 円山幼稚園がありました。
私にとっても懐かしい一帯です。
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2009年09月22日

応天門の変

平安時代前期 866年(貞観8年)9月22日、伴善男らが応天門の放火の犯人であるとして、流罪が言い渡されました。
応天門は朝堂院(大内裏の正庁)の正門であり、朱雀門のすぐ北にありました。
中京区丸太町通千本西入る北側に朝堂院跡の石碑が建っています。この変の際に炎上し、再建されましたが、安元3年(1177年)の大火で、焼失しその後は再建されませんでした。p8538.jpg
平安神宮 応天門 平安京の応天門を5/8のサイズで模したものだそうです。p8537.jpg

4月28日(貞観8年閏3月10日)、応天門が放火炎上する事件が起き、朝廷は大騒ぎとなりました。

ほどなく、伴善男は右大臣藤原良相に源信が犯人であると告発し、藤原良相は源信の逮捕を命じて邸を包囲しましたが、太政大臣 藤原良房の進言で無罪となりました。

その後、備中権史生の大宅鷹取が応天門の前から伴善男とその子・伴中庸、雑色の豊清の3人が走り去ったのを見て、その直後に門が炎上したと申し出たため、伴善男父子に嫌疑がかけられ、有罪となりました。

伴善男は、犯行を認めませんでしたが、放火犯と断定され、伊豆へ流罪となり、伴氏(大伴氏)は没落しました。

藤原氏による他氏排斥事件のひとつとも見なされています。

2009年09月06日

高台院

豊臣秀吉の正室である北政所(出家して高台院湖月尼)は、寛永元年9月6日(1624年10月17日)に亡くなりました。
名前については、「ねね」「おね」「ねい」など、説が分かれていますが、東山の高台寺あたりでは、ねねの道という通りの名が、定着しています。
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豊臣秀吉の死後、北政所はその菩提を弔うための寺院の建立を発願しました。
北政所の実母・朝日局が眠る康徳寺(寺町通御霊馬場にあった曹洞宗の寺)を移築して新たに高台寺を開創しました。
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秀吉没後の権力者となった徳川家康は、北政所を手厚く扱い、財政的援助を行なったので、寺観は壮麗をきわめたといいますが、たびたびの火災にあって多くの堂宇を失い、現在に至っています。
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高台寺の西側にある塔頭の圓徳院は、伏見城の化粧御殿を移築したもので、北政所の居所とされました。北政所は慶長10年(1605年)から亡くなるまでここに住まいしました。p8610.jpg
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ともなひて 眺めにあかし 深雪山
    帰るさ惜しき 花の面影

醍醐の花見の際に、ねねの詠んだ歌です。

2009年08月29日

市川 雷蔵

1931年8月29日、八代目市川 雷蔵 は、生まれています。亡くなったのは、1969年7月17日ですから、ちょうど祇園祭です。37歳でした。

中京区西木屋町神屋町で誕生し、生後6か月の時に歌舞伎役者市川九團次の養子となり大阪へ移っています。さらに1951年、子供がいなかった三代目市川壽海の養子となり、雷蔵を襲名しています。

その育ての親ごさんがたと、雷蔵の寄進した灯篭が祇園さんの西の楼門を潜ったすぐの両側に立っています。
鳥居から左手 市川九團次夫妻P8645.jpg右手P8647.jpg
市川壽海さんと八代目市川 雷蔵 の名が記されています。P8646.jpg

1954年に大映所属の映画俳優に転身した後、スター俳優として大活躍します。
「花の白虎隊」 以降、「忠臣蔵 」「大菩薩峠」「炎上」「弁天小僧」「薄桜記 」「初春狸御殿 」「眠狂四郎シリーズ」「忍びの者 シリーズ」「陸軍中野学校 シリーズ」「華岡青洲の妻 」などなど、多くの出演作品があります。
何を隠そう大ファンで、ビデオテープをかなり持っています。
眠狂四郎から入って、その怪しい艶っぽさに魅かれたのですが、他の作品を見るうちに、その明るい素朴な感じや、現代劇になると、いきなり銀行員みたいな感じになってしまう不思議さが面白く、メーク取ったら地味なのに、着流し姿になると、もう虚無感と哀愁あふれるエロチシズム・・・。はまってしまいました(^^)
今年は、没後40周年ということで、「没後40年特別企画 大雷蔵祭」と題して出演作100作を一挙公開するという催しが10月に企画されているようで、楽しみです。

2009年07月23日

京の伝統野菜 パート3 鹿ケ谷かぼちゃ

ひょうたん型をした、けったいなかぼちゃを鹿ケ谷かぼちゃといいますが、日常的にはあまり見かけません。絵的には結構おもしろい素材です。P8897.jpg
京の伝統野菜の1つで、今が収穫の時期です。
毎年7月25日に、安楽寺では中風まじないの鹿ケ谷カボチャ供養が行われます。この日、安楽寺に参拝された方には炊いた鹿ケ谷カボチャを振る舞われます。

2009年07月05日

蒲生君平

林子平・高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人に数えられる蒲生君平は、文化10年7月5日(1813年7月31日)に亡くなっています。下野宇都宮出身の尊皇論者です。
油屋と農業を営む家に生まれましたが、祖先が立派な武士(蒲生氏郷公)だと聞かされ、学問で身を立て立派な人になろうと子供心に決意したそうです。

京都では歌人小沢蘆庵の邸に滞在して天皇陵(古墳)を研究しています。
丸太町通岡崎道西入る北側、ちょうど平安神宮の後ろ側 北東に小沢蘆庵の邸はありました。
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貧困の中で、享和元年(1801年)『山陵志』を完成。その中で古墳の形状を「前方後円」と表記しています。現在の前方後円墳という呼び名はここからきているそうです。P9000.jpg

2009年06月24日

智積院の桔梗

6月22日 
午前中のどしゃぶりの雨が嘘のようにあがって、東山七条の智積院に着いた頃は蒸し暑くなっていました。
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2009年06月22日

俊寛

左京区の岡崎法勝寺町にある満願寺は、平安時代に白河天皇が建立した法勝寺の跡地にあり、法勝寺執行であった俊寛僧都の住んでいた跡と言われています。P9124.jpgP9123.jpg
こちらは法勝寺の井戸といわれ、俊寛荒行の井戸とされています。P9122.jpg
満願寺は天台宗の僧・最珍を開山として北野に創建されたのが起源で、その後、日蓮宗に改宗し元禄15年にこの地に移っています。
本堂P9120.jpg
見返り美人P9121.jpgP9119.jpg
哲学の道の東、霊鑑寺の南側に「此奥俊寛山荘地」の石標が立っています。P9118.jpg
後白河法皇の側近であった俊寛は、治承元年(1177年)6月、藤原成親・西光らの平氏打倒の陰謀に加わって鹿ヶ谷の山荘で密議を行っています。P9117.jpg山荘跡はかなり、山の中のようなので、パスしました。
藤原成経・平康頼と共に鬼界ヶ島に流されたのち、御赦免の船に俊寛だけが、乗れなかった物語は、能や歌舞伎の演目になっています。
十七代目中村勘三郎(現・勘三郎の父)さんが、南座の顔見世で、演じられたのを、小学生の時に観て、あまりの嘆きように、子供心に、ものすごい!と感じました。目に焼きついてしまったようで、崖の上の勘三郎さんの姿は今でも思い出せます。

2009年06月21日

白河院庭園

P9125.jpg東山を借景にした七代目小川治兵衛の池泉回遊式庭園であるこちらのお庭は、静かでゆったりした気分に浸れる場所です。P9126.jpgP9138.jpg大きな一枚ガラスの窓が、広々とした印象をあたえます。お庭を眺めながら、お抹茶とお菓子を頂きました。すぐ食べてしまったので、写真はありません。P9137.jpgお庭に出てみました。P9136.jpg早速、鯉たちが近づいてきました。P9135.jpgP9134.jpgP9133.jpg池の周りを廻ってゆきます。P9127.jpg
半夏生(はんげしょう)
P9132.jpgP9131.jpgP9130.jpgP9129.jpgP9128.jpgちょっとお食事か、お泊りかしてみたくなりました。

2009年06月20日

白河院と法勝寺跡

承保2年(1075年)藤原氏の別荘地であった「白河院」を、藤原師実(もろざね)に献上させ、白河天皇はこの地に法勝寺を建立しました。1086年、院政を始める少し前です。P9142.jpg
岡崎の私学共済事業団の旅館「白河院」に石碑が建てられています。P9141.jpg
法勝寺は「国王の氏寺」と呼ばれ、広大な敷地に、高さ八十二メートル余の八角九重の塔を始め、金堂、講堂、阿弥陀堂などの諸堂が立ち並んでいました。P9140.jpg

動物園内にも、法勝寺の塔の跡の碑が建っています。
後白河上皇の頃、側近である俊寛が、この寺の執行を務めています。

法勝寺建立の後、この付近に皇族の祈願により、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺と創建され、これらを総称して六勝寺といいました。
尊勝寺 - 1102年堀河天皇の御願により創建。
最勝寺 - 1118年鳥羽天皇の御願により創建。
円勝寺 - 1128年鳥羽天皇の皇后待賢門院(藤原璋子)の御願により創建。
成勝寺 - 1139年崇徳天皇の御願により創建。
延勝寺 - 114年近衛天皇の御願により創建。

2009年06月19日

白河法皇と忠盛の灯篭 

白河天皇は天喜元年6月19日(1053年7月7日)生まれの第72代の天皇です。
20歳で即位。応徳3年11月(1086年)、白河天皇は8歳のわが子の善仁親王(第73代堀河天皇)を皇太子に立て、即日譲位。白河院として自ら政務を執る、いわゆる院政を行ないました。
中宮賢子の死後は、女性関係のうわさが多く、崇徳天皇や平清盛が「白河法皇の御落胤」であるという話もあります。
寵愛する祇園女御のもとへ向かう途中のエピソードです。
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五月雨の降る暗い夜、女御の住まいの近くの御堂のあたりで、前方に闇の中に光る怪しい化け物を見つけた法皇は、供の者に、殺すよう命じます。平忠盛が射殺そうと近づいたところ、どうも様子が違うと生捕りにしてみると、鬼と見えたのは老僧で、灯篭に火をつけようとして雨除けの笠をかぶり、灯明の火を入れたものを持っていただけであったということが分かります。P9145.jpg
法皇は、忠盛の思慮深さを褒め、褒美として、祇園女御を下賜された。この時、女御はすでに身ごもっていて、男の子なら、忠盛の子として育てるがよいと、おっしゃったそうです。P9144.jpg
生まれたその男の子は夜泣きをしていたので、法皇が

夜泣きすと ただもりたてよ 末の代は
        清く盛ふる こともこそあれ

と詠まれたので、清盛と名づけた。
これが平清盛=白河法皇の御落胤のストーリーです。

一説には、清盛の生母は、祇園女御の妹ともいわれています。

鎌倉期のものともいわれるこの忠盛灯篭は、今も祇園さんの本殿東側に怪しく建っています。

2009年06月18日

真如堂の菩提樹と沙羅

6月16日 真如堂の境内では、菩提樹の花の香りが漂っていました。P9152.jpgP9151.jpgP9150.jpg
沙羅の花も、ちらほら咲き始めています。P9149.jpgつぼみが一杯でした。P9148.jpgもうお帰りどすか~。P9147.jpgほな、さいなら。P9146.jpg

2009年06月17日

斉藤利三

天正10年6月17日(1582年7月6日)に、明智光秀の家臣である斉藤利三(としみつ)は六条河原で斬首となっています。春日局の父としても知られている武将です。

本能寺の変に際して、光秀から事前に謀反の意図を伝えられていたが、反対していたという説や、斉藤利三こそが首謀者であるとの説もあったりします。

利三は最初は稲葉一鉄に仕えていたが、故あって(お互い、頑固者だった為とか・・・。頑固一徹という言葉はこの人の名前からきているそうで。)光秀に仕えるようになったそうです。
後に一鉄が信長に利三の帰参を願い出た為、信長は光秀に利三を返すように言ったところ、光秀は「良い部下をもつことは私のためではなく、上様のためである。」と言って断りました。
これに立腹した信長は、光秀の額を敷居に押しつけて折檻したということで、これ以降、利三は光秀に対し並々ならぬ忠義を尽くしたという話が残っています。
P9154.jpg
利三の首は親交の深かった絵師の海北友松や、東陽坊らによって、左京区浄土寺真如町の真正極楽寺(真如堂)に葬られたということです。

おこしやす。よ~う、お参りしていっとおくれやす。P9155.jpg
本堂の南側の墓地に、その墓があります。P9157.jpg
辞世
消えてゆく 露のいのちの 短夜の
          あすをも待たず 日の岡の山

隣には海北友松の墓があります。P9156.jpg
少し奥には東陽坊の墓もあるようです。
墓地の入り口には、春日局が父の供養の為に植えた「たてかわ桜」があります。P9158.jpg元は直径1メートル余りの巨木でしたが、1958年の伊勢湾台風で折れ、接ぎ木で、甦ったとのことです。
お隣の金戒光明寺に家光の弟の忠長とその母お江与の供養塔を春日局は建てています。

逆臣であった父の墓参りを公にできなかったため、お江与を参る折に、そっと父の墓参りをしようと、その地にお江与の供養塔を建てたのではないかとも言われています。

2009年06月14日

明智光秀 首塚

天正10年6月13日~14日(1582年7月2~3日)の深夜、明智光秀は 山崎の合戦で敗れ、敗走中の小栗栖で農民の竹槍に刺されて最期を遂げました。

ゆかりの寺では、14日を命日として、光秀公忌が営まれます。

三条白川橋を少し下がったところの東側、餅寅さんというお饅頭屋さんの横の路地を入ったところに、明智光秀の首塚というものがあります。P9174.jpgP9171.jpg「わが首を斬り、知恩院にて灰にせよ」という光秀の最後の言葉に従い、家来がその首を抱えて知恩院近くにまで逃れたが、この地で夜が明けたため、やむなく首を埋めたと伝えられています。
この話には諸説あり、この塚も移動しており、また他にも首塚は存在していて、真実は小栗栖の藪の中といったところではありますが・・・。

光秀の木像と位牌を祀った小祠と、五輪塔の笠石を重ねた光秀の首塚、後に光秀を演じた歌舞伎役者によって建立された「長存寺殿明窓玄智大禅定門」(光秀の戒名)と刻まれた石碑があります。
P9173.jpg
角の餅寅さんはこの首塚の管理をしてはるそうで、「光秀饅頭」という銘菓もあります。
P9172.jpgこの首塚は、首から上の病気にご利益があると信仰されているようです。

「洛中に桔梗の花が三日咲き」という川柳があります。光秀の家紋であるこの花はどこか寂しげでもあり、涼しげで凛としているようでもあります。P9175.jpg

2009年06月04日

第60回記念 京都薪能

第60回記念 京都薪能は、晴天のうちに終了しました。
1日のお昼に平安神宮に着いたときは、まだ一組で、敷物にフロアクッション、日傘、本にお茶と完全装備で、開場を待ちました。今年は月曜のせいか、はたまたインフルエンザのせいか、集まり方が随分遅いようでした。パンフレットは、豪華版で、ファイルケース付きでカラーページが一杯でした。P9263.jpg顔見世のパンフレットみたいに、演者の顔写真もあるといいのにと考えるのは私だけでしょうか?長~い待ち時間のあと、4時半にやっと開場です。チケット片手に、気分は運動会です。「走らないでください。」と注意されながら、一目散に、目当ての席をゲット!報道の人達が何人もセンターを先に抑えてしまっているのは、やっぱりちょっと不愉快な感じだなと思いながら、その隣をキープしました。
P9261.jpg舞台の床、真ん中あたり、ちょっと木が浮いてるのが、引っかかりそうで気になります。
お酒とお弁当を食べながら、待つことさらに1時間。ようよう始まりです。
「翁」
1日目は観世流、2日目は金剛流で演じられ、両方観る人はその違いがよく分かって面白いでしょうね。粛々とした翁の舞の後、三番三の舞はとても、力が入っているように感じました。

「絵馬」
天照大神が、作り物の宮の中に入り、またそっと少し開けるのですが、あの中って入ってしまうと暗いのでしょうか?まぁ、面をつけているから、最初から暗いでしょうけど。暗くて狭くて暑そう・・・。

副市長さんのあいさつでは、和装を奨励されてました。しっかり着物で来てるんだから、奨励するなら割引して~(^^)
理事長の七五三さんは、いつもにこやかなお顔です。P9262.jpg

「杜若」
謡本を見ながら観ているので、はしょられると、「えっ!」という感じでページをめくらなくてはいけません。薪能は結構、飛ばすので、言葉を辿っているのも、考え物です。この演目は、ぼ~と観ている方が幽玄の世界に、はまり込めてよいかもしれません。

「福の神」
じっちゃん方が演者で、親父たちが後見、孫連中が地謡です。千作さんの登場で、一気に会場が和みます。一回り小さくなられたようにも思いますが、その一挙一動は、おかしくて目が離せません。
P9260.jpg
「正尊」
こちらは、金剛流になりますから、持ってきた観世流の謡本とは、少し異なります。
シテが、観世流では、正尊ですが、金剛流では弁慶になります。
それにしても、何時になく、イケ面の義経です!
金剛流 若宗家の金剛龍謹さんです!きゃ~!また声の良いこと!(*^^*)追っかけしようかしらん?
静御前は、子方が演じます。小さい頃からこうして、舞台に上がって、力をつけていくのですねぇ。
切られ役の倒れ方が、すごくて、歓声が上がります。スローモーションを観ているように後ろに仰け反っていって、溜めてからバッタリと倒れます。
良い子は真似してはいけません(^^)結構、危険です。P9259.jpg
パンフレットに恒例の、茂山もっぴー・逸平兄弟のサインをもらって、(龍謹さんのサインもほしかった。)今年もお終いです。

2009年05月29日

薪能 「翁」

6月1日・2日と平安神宮において、第60回記念の京都薪能が、行なわれます。P9278.jpg
演目は、チラシ写真の通りです(雨天順延)。
私は、1日に行く予定ですので、演目について予習しておくことにします。
昨日は、「杜若」についてイメージを膨らませましたので、今日は、「翁」について、検証してみます。

「翁は能にして能にあらず」と言われ、他の曲とは別格の扱いです。
演劇性を持たない、天下泰平、国土安全、五穀豊穣を祈る儀式としての舞で構成された能です。

お正月の新春能で、よく演じられるのを見かけます。
出演者は舞台に先立ち、精進潔斎するそうです。
そして、翁・千歳・三番叟の3人がそれぞれ別に舞を舞います。
翁は、楽屋ではなく、舞台の上で面をつけ、また、はずします。これは、その間、神になるということのようです。囃子方・地謡方共に、熨斗目の着物に、素袍(すおう)、侍烏帽子という最高礼装になります。
颯爽たる千歳の舞、荘重な翁の舞と続き、その後、翁は退場し、千歳と三番叟の問答の後、三番叟が「揉之段」と「鈴之段」という2つのダイナミックな舞を舞います。

謡の文句に、下のような呪文のような一節があります。

千里也多楽里(ちりやたらり)
多楽有楽(たらありやら)
多楽有楽(たらありやら)
我利利有(がりりありや)
百百百(とうとうとう)
多楽里(たらり)
多楽有楽(たらり)
多楽有楽(たらありやら)

『かくれたる”日本霊性史”』菅田正昭著によると、

千千の里なる楽しみ多き里は、多く楽しみありや。
楽しき多く楽しみ有る楽しき我に喜び有り。
百百百(ももも)しい多く楽しき里は
楽しみ多く有りや楽しみ。

という意味になるそうです。

2009年05月07日

洛翠庭園 閉館

岡崎の動物園の東にある洛翠庭園は、元藤田家の本宅であり、1,000坪を有する敷地内の日本庭園は明治42年、7代小川治兵衛により作庭され、造園「植治(うえじ)」当主11代小川治兵衞氏により、復元・改修・維持が行われています。5月10日に閉館されるという事で見に行きました。
P9438.jpg画像の拡大P9436.jpg
庭の中央の池は琵琶湖を模しているそうで、その水は琵琶湖から疏水を通って引き入れられているそうです。P9435.jpgP9434.jpgP9433.jpgP9432.jpgP9431.jpg
臥龍渡りP9429.jpg画仙堂 詩仙堂、歌仙堂と並ぶ京都三仙堂のひとつです。P9428.jpgP9427.jpg今後、どのようになるのか、お庭を維持した状態で、また公開してもらえるといいですね。

2009年04月21日

京都の桜 2009 ~平安神宮~

4月13日の平安神宮です。P9628.gifP9627.gif昨年は夜の紅枝垂コンサートを観て、水面に移りこむ桜の美しさに魅了されましたが、昼間の姿を見ていなかったので、出掛けてみました。P9626.gif葉桜に、このところ心引かれるものがあります。P9625.gifP9624.gifP9623.gif
夜桜の妖艶な景色は、昨年の最も印象に残ったものでしたが、細雪の映画のシーンを思い出させる昼の姿もやはり、捨てがたいものがあります。P9622.gifP9621.gifP9620.gifP9619.gifP9617.gifP9615.gif
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2009年04月14日

京都の桜 2009 ~円山夜桜~

4月8日 やっぱり、祇園さんの桜を見ておこうと夜に出掛けました。P9705.gif
P9704.gifP9703.gif
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子供の頃、毎日このあたりを走り回って遊んでいた私にとって、長い間、この木が唯一無二の桜でした。幹を真っ白に塗られたり、ばっさりと切られたり、花のつかない枝が目立ったりして、このところの衰退ぶりは痛々しくて、もう見たくないと思ったのが、市内の桜の追っかけのきっかけの1つです。でもやっぱり、共に大きくなった、もしくは年を重ねたという思い入れが強くて、様子を見に行かずにはいられません。P9701.gifP9700.gifとても美しい月夜です。月と桜の組み合わせはなんとも妖艶ですね。P9699.gifP9698.gifP9697.gifかがり火が5日で終わってしまっていたのが、残念なところです。P9696.gifP9695.gifP9694.gifP9688.gifP9693.gif

2009年04月13日

京都の桜 2009 ~哲学の道~・田渕俊夫展

4月6日 植物園で、ご機嫌になったあと、高島屋に立ち寄り、田渕俊夫展を観ました。P9706.gif
智積院講堂襖絵を5年の歳月をかけて制作されたそうで、その完成記念展覧会です。四季をテーマにした襖絵で、春はやはり桜が描かれていますから、やっぱり観ておかなくてはなりません。襖絵60面すべて、墨一色で描かれています。土佐の手漉き和紙に下絵をOHPで投射してその影を辿って描くという手法で描かれているため、筆の勢いというものがないのが、少し物足りない印象を受けました。墨の濃淡に奥行きや空気感、色彩までをも感じさせるニュアンスは、なかなかすばらしく、控えめな描写が、桜や木々の美しさをより強く想像させるようでもありました。
しかし、人の作品にけちをつけている暇があるなら、自分ちの襖絵をさっさと、描けばといったところです。実は和室の襖に桜を描くと宣言したきり、ほったらかしにしています。何時になるやら、桜の写真ばかり撮っているものの、構想もまとまっていません。まぁ、死ぬまでには…。
モノクロームの桜を観たあとは、色付きの桜をと、哲学の道へと急ぎました。P9725.gifP9724.gif画像の拡大
P9723.gif画像の拡大P9721.gifP9720.gifP9719.gifP9718.gifP9717.gifP9716.gifP9715.gifP9714.gif画像の拡大P9712.gifP9711.gifP9710.gifP9709.gifP9708.gif

2009年04月10日

京都の桜 2009 ~蹴上インクライン~

4月5日 山科から蹴上のインクラインへと戻ってきました。
ウェスティン都ホテル京都の桜RIMG9765.gif
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日曜に出歩く事が少ないので、この混雑は、なにか懐かしくて嬉しいような、嬉しくないような(^^)RIMG9759.gifRIMG9758.gif
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2009年03月22日

平安神宮

3月17日、着物でおでかけ無料チケットで、平安神宮も覘いてきました。RIMG031725.gif
庭園入ったあたりの桜はまだ蕾です。RIMG031716.gif
RIMG031717.gif梅が少し残っていました。
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こちらは桜です。RIMG031719.gif
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無料組と、何組か出会いました。もう少しすると、大変な混雑になるこちらも、今はゆったりしています。
RIMG031723.gif鯉に餌でもあげようかと思ったのですが、今日は餌がおいてありませんでした。RIMG031724.gif

2008年12月03日

永観堂 ライトアップ

11月29日 永観堂のライトアップに足を運びました。
受付前では、列が出来ていて、車の出入りもあり、何人もの係りの人が、注意を呼びかけ、ざわついていました。RIMG112901.gif
全体的にはやや見頃を過ぎた感じの紅葉ですが、ライトに照らされると、妖しいまでに美しい表情を見せてくれます。RIMG112902.gif
シャッタースピードが落ちると、軽すぎる私のカメラでは、手振れが激しく、ミスってばかりなので撮影を控え、肉眼に焼き付けることにしました。

2008年11月20日

法然院

11月17日 高桐院を満喫したあと、東の方へ、足を伸ばしました。哲学の道は、何度も歩いているのですが、周辺の寺院は、あまり入ったことがありません。これから少しずつ散策していこうと思います。
法然院RIMG0111738.gif
RIMG111740.gif何か集まりがあったのか着物姿のご婦人方が、帰っていかれました。
RIMG111741.gifRIMG111742.gif粘って撮った写真です。三脚一眼レフのおじさんは、横でもっと粘ってらっしゃいました。お疲れ様です。
RIMG111743.gif

2008年09月23日

櫛まつり

9月22日 第4月曜 久しぶりに櫛まつりを見に、安井金比羅さんに出かけました。kusimaturi.gif実は数年前まで、このまつりを主催している京都美容文化クラブに所属し、櫛まつりに参加していました。遠方への引越しのため、脱会してからご無沙汰していましたが、京都に戻って少し落ち着いてきたので、ちょっと顔出ししてきました。行列順路が以前より長くなり、辰巳神社界隈で、折り返すようになったので、そのあたりで、撮影してみました。適当な撮影で、全員を写していないので飛び飛びですが、時代順に、並べました。94.gif奈良時代 高髻髷・双髻髷94nara.gif平安時代 白拍子94sirabyousi.gif
鎌倉時代 虫の垂れ衣94musitare.gif室町時代 巻き髪94makigami.gif
桃山時代 唐輪94karawa.gif江戸前期 前より 元禄島田・元禄笄髷・笄髷(中村蔵之助の妻)94edozennki.gif
江戸中期 前より 元禄島田・横兵庫・お梶・春信風島田94gennrokusimada.gif横兵庫94yokohyougo.gif江戸後期 勝山髷94katuyama.gif
両輪94ryouwa.gif
先笄94sakkou.gif
明治時代 花嫁94hanayome.gif
左より 丸髷・結綿・枠書94maru-yui-suisyo.gif割れかのこ(幕末)94warekanoko.gif
芸者94meiji-geisya.gif
大正時代 耳かくし94mimikakusi.gif
94mimikakusi2.gif
現代舞妓 割れしのぶ94waresinobu.gif
おふく 94ohuku.gif94ohuku2.gif
おしどり 94osidori.gif
奉納舞「黒髪」を安井金比羅さんで舞った 舞妓先笄94korokami.gif
今年は天候に恵まれ、行列も無事、神社へと戻っていかはりました。みなさん、おくたぶれはんどした。94kurokami-usiro.gif

2008年08月15日

お盆

11日に、六道珍皇寺へ、おしょうらいさんのお迎えに行って来ました。
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小野篁はんが、閻魔さんのお手伝いをしに、冥土へ通うための、入り口となっていた井戸のあるお寺です。
ここの鐘を撞くと冥土まで響き渡り、亡者に聞こえるそうなのでお迎えの鐘を撞いてみました。
鐘はお堂に入ったままで、紐だけ出ているので、どんな鐘なのか、わかりません。
しかし、ご先祖さんにしてみれば、東山区に出てきても、自宅までちょっと距離がありすぎかもしれません。千本閻魔堂のほうが、近くてよかったかも~?まぁ、このお寺、来たことなかったものだから…。
明日は、もう送り火です。8161.gif8162.gif8163.gif8134.gif8165.gif8166.gif
自宅の屋上からは、船が、目の前に見えますが、他はビルの陰になって、火の子が舞っているだけです。船岡山に上ると、全部見えるそうですが、今年も、自宅からにしておこうかな。

2008年08月14日

芙蓉

7月16日 妙蓮寺 
早咲きの一輪が咲いていました。RIMG81301.gifRIMG81302.gifRIMG81303.gif
8月5日 妙蓮寺
ちらほら、咲いています。
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RIMG81305.gifRIMG81306.gifRIMG81307.gifRIMG81309.gif
蝉の集団脱皮RIMG81308.gifRIMG81310.gif
8月11日 市内RIMG81311.gifRIMG81312.gifRIMG81313.gifRIMG81314.gifRIMG81315.gif
祇園 白川沿い
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小学生の頃、学校帰りに、ぷらぷら歩いた懐かしい道です。RIMG81319.gifRIMG81320.gif

2008年07月16日

7月14日 蓮の花を観に、朝から出かけました。
立本寺RIMG71401.gifRIMG71402.gifRIMG71418.gif
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金戒光明寺 西雲院RIMG71410.gifRIMG71411.gifRIMG71412.gifRIMG71413.gifRIMG71414.gif金戒光明寺 蓮池RIMG71415.gifRIMG71416.gifRIMG71417.gif

2008年06月24日

真如堂の沙羅の花

6月23日 真如堂へ、沙羅の花を観に行きました。本堂に向かって、右側に菩提樹、左側に沙羅の木が植えられています。沙羅の木は小ぶりながら2本あるので、沙羅双樹といったところでしょうか。RIMG62301.gifRIMG62302.gifRIMG62303.gifRIMG62304.gifRIMG62305.gifRIMG62306.gif
硬いつぼみの表面の感触はとてもなめらかで、初々しく感じられます。
RIMG62307.gifRIMG62308.gif足元には、昨夜のうちに落ちたのか、幾つもの花が、転がっています。雨風の影響もあるのでしょうか?どれもすぼまった形で、落ちています。RIMG62309.gifちょっと作為的に配置して、撮りました(^▽^)RIMG62310.gifRIMG62311.gifRIMG62312.gifRIMG62313.gifRIMG62314.gifRIMG62315.gifRIMG62316.gifRIMG62317.gifRIMG62318.gifあじさいもしっとりと、咲いていました。RIMG62319.gifRIMG62320.gif

2008年06月18日

睡蓮

6月16日 平安神宮へ、睡蓮を観に行きました。RIMG61610.gifRIMG61611.gifRIMG61612.gifRIMG61614.gifRIMG61615.gifRIMG61616.gifRIMG61617.gifRIMG61618.gif
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どれもみんな、綺麗だね~♪RIMG61620.gifRIMG61621.gifRIMG61623.gifRIMG61624.gifRIMG61625.gifRIMG61626.gif
花菖蒲も咲いていたのですが、少しお疲れ気味に見えたのと、睡蓮を撮るだけでも、充分暑かったので、パスしました。RIMG61627.gifRIMG61628.gifRIMG61630.gifRIMG61629.gif
橋殿の中ほどで、鯉の餌を売ってました。子供の頃は、円山公園の鯉に、ふうさん(麩)をあげるのが日課でした。池のほとりの売店のおばさんに、小銭を渡すと、お麩を持たせてくれました。池のふちに立ち、パンパンと手を打ち鳴らすと、鯉たちが、我先にと(゜〇゜)(・0・)(’O’)集まってきます。大きな口をあけて、お麩を、ゴボッと飲み込む姿がおもしろくて、おいしそうで、自分でも試していました。どのように?麩のお汁を、しっかり冷ましてから、おわんの中に口を突っ込んで、麩をゴボッと、吸い込むのです。鯉になった気分を味わえる大好きなお味噌汁でした。ちょっと、変な子かも?昔懐かしさに、50円以上?を箱に入れて、麩を取り出し、池を覗き込むと、鯉はいません。パン!パン!速攻、鴨がやってきました。
餌、くれる?RIMG61631.gifすっぽんも、わさわさと、やってきました
RIMG61632.gif早よ、くれ!RIMG61633.gif
あとは、鯉たちも、どんどん増えてきて、大騒ぎです。修学旅行生も、餌やりに参戦して、にぎやかになりました。
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というわけで、庭園をあとにしました。

2008年06月05日

薪能

6月1日 平安神宮へ、薪能を観に行きました。
開場は4時半からですが、例年のごとく、席取りの為、12時半から、神宮前に座り込みです。今年は程よいお天気で、着物でも暑くもなく待機できました。シートにお座布、ドリンク、本など完全装備は、もう慣れたものです。いつも花形狂言師の茂山兄弟がパンフレット販売のため、開場前に現れるので、今年は、お二人の絵を描いてプレゼントしようと、待ち構えていました。開場迫る頃に、逸平さん登場!自分用の絵にサインをしてもらいました。キャ~ (^0^)ippei.gif
お兄さんの宗彦さんは、楽屋でお仕事中だそうで、一先ず会場入り。走らないでください~と言われても、はやる気持ちは、止まりません。またいつもの灰かぶり席を、キープしました。腕章をしたカメラの人が先に真ん中押さえてるから、やっぱりちょっと横の席になってしまうんですよね~。近頃は肖像権の問題とかで、上演中の撮影が全面禁止になってしまいました。以前は、カメラおじさんが前列にいっぱいでしたが・・・。と言うわけで、これなら載せてもいいかしらと、薪の雰囲気写真だけUPです。RIMG0002.gif 5時半の開演までの間に、お弁当タイムです。お酒もそこそこ飲んで、心地よい加減で、待ちます。今年のテーマは、源氏物語で、新作能『紅葉賀』も上演されます。日曜のせいか、新作の上演のせいか、例年より観客が多く、立ち見や通路に座り込み組がいっぱいです。まだ明るいうちに『浮橋』、挨拶のあと火入式、暮れ行く中での『紅葉賀』、狂言『萩大名』、とっぷり暗くなって『須磨源氏』という流れです。 『紅葉賀』は、帝や女御たちの見守る中、頭中将と光源氏の華やかな舞楽、舞のあと、立ち去る藤壺の女御と光源氏の揺れる心中を題材にしていました。背景の社殿が、当時の清涼殿を思わせ、雅な源氏物語の世界へと誘います。帝、若すぎ~で、調子狂う感じは、能の構成ならではです。一の松あたりで振り返る藤壺と本舞台の光源氏、暮れなずむ中に怪しく揺れる篝火。私の陣取った席からは、まさに揺らぐ藤壺RIMG0090.gif薪能ならではの醍醐味です。室内の舞台では、こうはいきません。これが、病み付きになる要因です。(豪華キャストと演目の割りに安いというのもありますが。) 『萩大名』 千作さんは、そこに存在しているだけで、おかしい感じがするのは、すごい事です。以前、他の舞台で、込んだ後ろの席のため、声しか聞こえなかった経験がありますが、声だけで笑える~と感動した事がありましたが、脇に座ってはるだけでも絶妙です。例年だと、ここらで、一枚羽織らないと肌寒くなってくるのですが、台風の影響でしょうか、全く、羽織の出番はありませんでした。出口のところで、ようやく宗彦さんを見つけ、サインをゲットして、ご満悦で、帰宅しました。\(^0^)/moppi.gif

2008年04月30日

牡丹

4月28日
この時期は、なんといっても、牡丹です。
その前に近くの若宮神社の八重桜です。RIMG4281.gifRIMG4282.gif
本満寺
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金戒光明寺 西雲院RIMG42830.gifRIMG42831.gifRIMG42832.gifRIMG42833.gifRIMG42834.gifRIMG42835.gifRIMG42836.gifRIMG42837.gifRIMG42838.gifRIMG42839.gifRIMG42840.gifRIMG42841.gifRIMG42842.gifRIMG42843.gifRIMG42844.gifRIMG42845.gifRIMG42846.gifRIMG42847.gifRIMG42848.gifRIMG42849.gifRIMG42850.gifおまけに 真如堂RIMG42851.gifRIMG42852.gifRIMG42853.gifRIMG42854.gifRIMG42855.gifRIMG42856.gif
そば処 茂平さんにて
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お庭の牡丹を、手折られたそうです。

2008年04月12日

紅しだれコンサート

4月11日 平安神宮の紅しだれコンサートに、出かけました。RIMG0001.gifRIMG0008.gifRIMG00201.gif
夜桜は、これまであちこち出かけていましたが、神宮は初めてです。こんなに、美しいとは知りませんでした。咲き乱れる紅しだれと池に舞い散った花びら、そこに写りこむ桜の幻影 とても写真では、伝えきれませんが、パシャパシャ撮ってきたので並べてみました。たぶん、もっと性能の高いカメラで撮るべきでしょう。腕の問題もありますけど…。RIMG00221.gifRIMG0028.gifRIMG00381.gifRIMG00451.gif
写真では音まで、録れていませんが、イラナさんによる馬頭琴の演奏は、東神苑いっぱいに浸透し、最高の気分にしてもらえました。RIMG0050.gifRIMG0057.gifRIMG00671.gifRIMG0073.gifRIMG0083.gif
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20年も前から、この催しは行われていたので、知ってはいたのですが、薪能にしか関心がなく、これまで出かけなかったのは、もったいないことでした。心に残る雅な美しさでした。

2008年02月05日

節分祭2

2月3日 節分祭を見てみようと、平安神宮に出かけました。heiannjinnguu2.gif

市内のあちこちで、節分行事は行われていますが、どこも混雑が予想されるので、一番広々とした平安神宮が穴場かしらと考えました。案の定、ゆったりとは観ることができましたが、その分、寒すぎでした。まず正午より茂山千之丞さんの社中の方々による狂言奉納が、額殿にて始まりました。heiannjinnguu3.gif 1時より本殿にて斎行、2時より大儺の儀、3時より豆まき、4時より火焚というスケジュールですが、ゆったりと組まれている為、間の待ち時間が長く、甘酒など頂いても追いつかないほど、寒いの一言に尽きました。heiannjinnguu1.gif
豆まきの前に人が増えてきました。あちこち、観光バスなどで、動いている人たちが、時間ごとに移動してくるようです。年中行事を追いかけて毎日ブログ更新などしている人は、大変だな~と感心してしまった1日でした。