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2015年06月06日

仁和寺と平経正

仁和寺の御殿 拝観に出掛けました。
東門12-891.jpg
今年の京都薪能の2日目の演目の中に、「経正」があるので、その舞台となった地をあらかじめ訪れて、気分を高めるためです。12-890.jpg
勅使門12-889.jpg
本坊表門12-888.jpg
本坊に入る前に、立派な二王門を見学12-887.jpg
古びたたたずまいが何とも美しい門です。応仁の乱で、焼けてしまった後、徳川家光の寄進により再興されています。12-886.jpg
阿吽の二王像12-885.jpg12-884.jpg
後面には唐獅子像12-883.jpg12-882.jpg
光孝天皇の勅願になる寺ですが、完成を待たずに崩御された遺志を継いで、宇多天皇が完成、仁和4年(888)に、光孝天皇の一周忌を兼ねた落慶供養が催されたということです。
御殿入口12-881.jpg
宇多天皇が譲位の後、出家してここを住房とされた事に始まり、代々皇族が継承することとなり、御室(御所)と尊称されるようになり、門跡寺院として発展してゆきました。12-880.jpg12-879.jpg
鳥羽天皇の第五皇子 覚性入道親王(母は待賢門院藤原璋子)は、親王宣下の後に、保延元年(1135)わずか6歳の時に仁和寺に入寺し、後に第5世門跡となっています。白河院崩御のすぐ後に生まれたこの皇子は、後ろ盾を亡くした待賢門院藤原璋子が、その力を失っていく中、覚法法親王の後継としての入寺でした。
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保元の乱の際、御所を脱出して逃げていた崇徳院が、同母弟であるこの覚性入道親王を頼って仁和寺に入り、取り成しを依頼するも、その申し出を断ったとされています。兄たちの争いに巻き込まれ、苦しい選択であったのかもしれません。12-877.jpg
その覚性入道親王が、幼少時を仁和寺で過ごした平経正を寵愛し、楽才を認め、琵琶の銘器「青山 」を下賜します。12-876.jpg12-875.jpg
寿永2年(1183)平経正が都落ちの際に仁和寺に立ち寄り、先代覚性法親王より拝領の琵琶「青山」を返上した折、守覚法親王(しゅかくほっしんのう)と別れを惜しみ歌を交わしています。
あかずして 別るる君が 名残をば 
              後の形見に つつみぞおく  守覚法親王

呉竹の 筧(かけひ)の水は かはれども 
              なほすみあかぬ 宮の内かな  平経正
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幼き頃より親しい間柄の行慶は別れを惜しみ、桂川の岸辺まで送ってゆき、別れ際、和歌を贈ります。
あはれなり老木(おいき)若木も山桜 おくれ先だち花はのこらじ 

経正の返歌
旅衣夜な夜な袖をかた敷きて 思へばわれは遠くにゆきなん
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翌年 経正は、一ノ谷の戦いにおいて、河越重房の手勢に討ち取られます。12-872.jpg
能「経正」
討ち死した経正を憐れに思われた宮が、琵琶を仏前に供え、管弦講を催して、その霊を弔うよう、行慶に命じます。法事を執り行っていると、ありがたく思った経正の幽霊が現れ、青山を奏で、舞を舞って楽しみますが、やがて、修羅の苦しみに襲われます。その姿を見せまいとして、灯火を嵐と共に吹き消して、経正の霊は暗闇の中に消え失せます。12-871.jpg
琵琶を愛する平家の公達の無邪気さや悲しさが、感じられる曲です。12-870.jpg
グッズ売り場で、ストラップを買い求めました。12-869.jpg

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