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2012年07月31日

祇園祭 その11 鷺舞 など

祇園さんあたりで、鷺舞が舞われるという事で、夕方、八坂神社へと向かいました。7-813.jpg
お参りをしている間に、人垣が増えてしまい、どうにか見えるかしらんという場所取りになってしまいました。7-812.jpg
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この鷺舞は京都では長く廃絶されていましたが、かつて京都より伝わり、津和野で継承されていた鷺舞を再び、取り入れて、再興されたものです。テレビなどでちらっと見たことがあったのですが、是非目の前で見てみたい思い、出掛けました。石段下で7時からのつもりで早めに出掛けたのですが、神社までやってくると境内の中でも5時半から舞われるという話で、半端に間に合ってしまい、後ろから撮る感じになりました。7-810.jpg7-809.jpg
故茂山千之丞さんが復活と指導に尽力され、今年初めて念願であった歌詞がつけられたそうです。狂言調の節回しになっていました。歌があるとないとではやはり趣が違いますよね。7-808.jpg7-807.jpg
西門を出て、石段下でしばらく待っていると、長刀鉾の一陣がさっそうと降りていらっしゃいました。西日を受けてまぶしそうです。7-806.jpg7-805.jpg
7月も今日で終わりとなってしまいましたが、明日まで、祇園祭ネタ延長です。

2012年07月30日

祇園祭 その10 木賊山

芦刈山を一筋下ったところ、西洞院通佛光寺西入るには、木賊山があります。同じく、謡曲からテーマを得ています。7-816.jpg7-815.jpg
都の僧が、父を尋ねたいという少年松若を連れてその故郷信濃へ下り、木賊を刈っている老人と出会います。老人は僧を我が家へと案内し、子をかどわかされ、こうして旅の宿を営み、行方を捜しているという身の上話を語り始めます。僧の連れた少年こそがわが子とわかり、再会を喜ぶという物語です。御神躰は腰に簑をつけ、左手に木賊、右手に鎌を持っている翁の姿を現しています。
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2012年07月29日

祇園祭 その9 芦刈山

綾小路を西へ、西洞院を過ぎたところに、芦刈山があります。7-824.jpg7-823.jpg
謡曲「芦刈」を主題としています。7-822.jpg
津の国日下の住人、左衛門は貧乏のすえ、心ならずも夫婦別れをします。妻は京に上って高貴な人の乳母となり、生活が安定しますが、夫の方は芦を刈りそれを売り歩いてなんとか暮らしていました。別れた夫が気になって探しに出掛けてくるも、夫はその身を恥じて隠れてしまいます。夫婦は和歌を詠み交わし、打ち解けて装束を改め、揃って都に帰っていくという物語です。7-821.jpg7-820.jpg

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御神体の古衣装は、織田信長より拝領と伝わる小袖です。7-818.jpg7-817.jpg

2012年07月28日

祇園祭 その8 伯牙山

新町の綾小路西入るには、伯牙山があります。7-828.jpg

春秋時代、楚の国に伯牙という琴の名手がいました。彼の弾く琴の音色を聞き分け、その想いを汲み取ることのできる唯一無二の友 鍾子期の死を知った時、絶望と悲しみから彼は琴の弦を断ってしまい、二度と弾かなかったという事です。
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ご神体は、手に斧を持ち、琴を今にも打ち破ろうと見おろしている伯牙の姿を現しています。7-825.jpg

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「伯牙琴を破る」ということわざになっています。「伯牙絶弦」・「断琴」とも云われています。

2012年07月27日

祇園祭 その7 船鉾

新町通綾小路下ったところは、船鉾です。7-831.jpg7-832.jpg
船首には想像上の鳥である鷁(げき)7-830.jpg
船尾には飛龍
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神功皇后と磯良・住吉・鹿島の三神を祀っています。7-836.jpg7-835.jpg7-834.jpg7-833.jpg
『日本書紀』の神功皇后の説話を元にして、船の形をしているそうです。「出陣の鉾」といわれるこの鉾と、「凱旋の鉾」といわれる大船鉾が揃えば、圧巻でしょうね。

2012年07月26日

祇園祭 その6 大船鉾

16日 新町通四条下るには、2年後に鉾の復興を目指す大船鉾の懸装品が飾られていました。7-840.jpg
鉾の舳先につけられていた大金幣は、約2メートルもある大きなものです。
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楫(かじ)には、降り龍と波濤の図が描かれています。よくこんなに美しい状態で、保存されていたものです。
御神体衣裳は、新調されました。7-839.jpg
お囃子も練習を重ねられているようで、復活が楽しみです。

2012年07月23日

祇園祭 一休み

金魚すくいの金魚たち7-841.jpg

我が家の金魚たちも、お目見えです。7-837.jpg

2012年07月22日

祇園祭 その5 橋弁慶山

16日 蛸薬師通室町東入るにある橋弁慶山は謡曲「橋弁慶」を題材としていて、牛若丸(義経)と弁慶が五条大橋の上で戦う姿をあらわしています。7-848.jpg7-845.jpg
巡行の際は、牛若丸が橋の擬宝珠の尖端に左足の足駄の前歯で立つ姿となります。
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よく知られている話では、弁慶が千本の刀を集めんと五条の橋に出没するという設定ですが、能では、牛若が通行人を切って廻った事になっています。

五条の橋7-844.jpg
当時の五条通は、現在の松原通りにあたります。
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狂言の演目の中に、「鬮罪人(くじざいにん)」というものがあります。室町時代、お当番の主人が今年の山の上の出し物を町内の人と相談する様子が描かれています。

主人が牛若と弁慶の五条橋の決闘にしてはどうかというと、皆は賛同するのですが、太郎冠者がそれはすでに橋弁慶の町内がやっている」と口を挟み、また鯉の滝昇りはどうかという提案には、それも鯉山の町内が龍門滝をやっていると太郎冠者が口を挟む。
では笛、太鼓の囃子ものはどうかというと、また太郎冠者が、囃子ものは昨年、隣町がやって音が揃わず京都中の物笑いだったと言い出して、なかなか決まらない。
太郎冠者によい思案があるのかと尋ねると、地獄で、鬼が罪人を打ち据えるというのはどうかという事になり、それでいいだろうと皆が賛成して演者をくじ引きで、決める事になります。主人が罪人、太郎冠者が鬼となってしまい、太郎冠者は罪人役の主人を強く打ち据えます。怒る主人とすねる太郎冠者、なだめる町衆。
しまいには突き飛ばされた主人が怒って太郎冠者を追いかけて幕引きとなります。

この事から、当時すでに、鯉山と橋弁慶山、囃子ものが存在し、また毎年趣向を凝らすお町内もあったことがうかがえます。

2012年07月21日

祇園祭 その4 浄妙山

16日 室町六角を東に入ったところには浄妙山があります。諸国の反平氏勢力が兵を挙げるきっかけとなった以仁王の乱における、宇治川の橋合戦の様を表しています。7-849.jpg

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三井寺の僧兵、筒井浄妙坊明秀が橋桁の上で大奮戦する中、狭い橋桁の上にあって、前に出られなかった同じ僧兵の一来法師が、「悪しう候浄妙坊」と声をかけ、浄妙坊の頭に手をついて飛び越え、活躍したという事です。
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巡行の際には、一来法師が筒井浄妙の頭上を飛び越える場面が再現されます。
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宇治橋を表す黒漆塗の橋桁には何本もの矢を刺して戦いの雰囲気を再現しています。

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一来法師はこのあと討ち死、浄妙坊は奈良へ落ち延びてゆき、平家側の勝利となるのですが、この合戦をきっかけに全国の源氏が蜂起、平家を滅ぼし、ついには頼朝が鎌倉幕府を開くことになったことから、この浄妙山は、縁起の良い勝ち運のお山とされています。 祇園祭においても、平家って立場悪い感じなんですよね。

2012年07月20日

祇園祭 その3 黒主山

16日 役行者山から、少し下がったところの帯問屋 誉田屋源兵衛さん前に、木村英輝さんの大きな作品が展示されていました。7-860.jpg
270周年記念にちなんで、鯉270匹だそうです。
さらに下がると黒主山です。7-859.jpg7-854.jpg

志賀の山桜7-858.jpg
謡曲『志賀』を題材に、六歌仙の歌人・大友黒主が、杖をつき桜の花を仰ぎ眺めている姿を表しています。

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首、凝りそう・・・。7-856.jpg7-855.jpg
大伴黒主は「草洗草子」では小町の敵役であったり、歌舞伎でも、悪人として登場します。黒という色からくるイメージのせいでしょうか。 鴨長明『無名抄』によれば、黒主は神になり、近江国志賀郡に明神として祀られたといわれています。ちょっとどんな人物であったか、判断しにくい感じですね。

2012年07月19日

祇園祭 その2 役行者山

快晴過ぎるお天気となった16日、午前中に鉾やお飾りを見て歩きました。姉小路から室町通りを下ってゆきます。最初に見えてくるのが、役行者山です。7-867.jpg

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14時から、本山修験宗総本山聖護院による護摩焚きが行われるそうで、その準備に檜の枝の積み上げをされていました。7-865.jpg
この炎天下、昼の2時ともなれば大変な暑さで、さして広くないこの通りで護摩焚きをすれば、とんでもない暑さになりそうです。7-864.jpg7-863.jpg
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御神体は役行者(えんのぎょうじゃ)と一言主神(ひとことぬしのかみ)と葛城神(かつらぎのかみ)の三体です。真ん中が役行者、向かって右手が手に輪宝を持った葛城神、左側が一言主神で、赤熊(しゃぐま)を被り斧を携えています。
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2012年07月18日

祇園祭 その1

今年は宵山が月曜日だったので、午前中に御神体など見て歩き、いったん自宅に戻って浴衣に着替え、夕方からまた出掛けました。7-870.jpg7-869.jpg7-868.jpg
少しずつ、アップしてゆきます。

2012年07月11日

千本釈迦堂の陶器市

7/9~/12まで千本釈迦堂で、陶器市が行われています。7-876.jpg
10日には陶器に感謝する法要が行われたようです。
初日にちらっと見てきました。梅雨の晴れ間で、暑い中でしたので、人出はまばら、静かな境内でした。
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五条坂と違い、店舗数は10軒ほどの小規模なものです。7-873.jpg
国宝の本堂は1227年、藤原秀衡の孫にあたる義空上人によって創建された時のままで、京洛最古の古建築です。7-874.jpg
本堂が開いていたので、中に入ってみましたが、ご本尊の扉は閉ざされていました。応仁の乱の際の刀や弓矢の傷跡が柱にしっかり残っています。この地は西軍の陣地でしたが、山名宗全の特別のはからいで、この本堂が残されたと伝わっているそうです。
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義空上人は、藤原秀衡の孫という話ですから、当然その間に父がいる訳ですが、誰かと調べてみると父は藤原忠明(秀衡息)という人でした。ちょっとこの忠明という人のデータが見つからないので、よくわからないのですが、承安二年(1172)に出羽国千福里で上人は誕生しているようです。文治二年(1186)、15歳の時に鎌倉の月輪房阿舎利の童子役となり、19歳で剃髪して比叡山で澄憲(ちょうけん)上人に師事し、10余年の後に千本の地を得て仮堂を建て釈迦如来像を祀ったのが、貞応2年(1223)となっています。
1172年というと、清盛の娘 徳子が中宮になった年です。1174年には義経が鞍馬を出て、奥州に向かっています。1185年に平家が滅亡し、鎌倉の頼朝が、秀衡に書状を送り、牽制し始めています。その翌年に義空は鎌倉にいたようですね。1187年、秀衡は義経を匿うも、病に倒れています。1189年には奥州合戦によって、奥州藤原氏は滅んでいます。その翌年、義空は鎌倉から比叡山に移っている事になりますね。
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2012年07月04日

神明神社

下京区綾小路通高倉西入神明町に、神明神社(しんめいじんじゃ)という小さな社があります。7-882.jpg
この地は関白・藤原忠通の邸跡で、近衛天皇がしばしば行幸したと伝わっています。7-883.jpg
四条内裏、東洞院内裏と呼ばれていて、こちらに祀られていた鎮守社がこの神明神社と伝わっています。祭神は天照皇大神で、菅原道真を祀る文子天満宮が合祀されています。
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以前、「源 頼政 鵺退治」http://www.zuzu.bz/ownerblog/2009/05/post_200.htmlと題して、鵺池跡について記載したことがありましたが、こちらも頼政と鵺にまつわる話が残っています。7-877.jpg
近衛天皇の時代、鵺退治を命じられた弓の名手 頼政は、こちらにその成功を祈願し、みごとに撃ち捕ったその感謝の意を込めて、使用した二本の「鏃(やじり)」を奉納したというものです。7-878.jpg7-879.jpg
してみると、近衛帝がこちらに住まいされていた時に呼び出され、退治した現場であると考えるのが自然に思えますね。
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謡曲「鵺」では、この時退治された鵺が亡霊となって現れ、この時の様子を語り、老僧の供養に感謝して消えてゆくという物語になっています。