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2012年05月30日

源為義の墓

六条判官と呼ばれた源為義は、保元の乱で敗れた後、いったんは東国へ落ち延びようとしますが、出家して息子たちと別れ、長男 義朝を頼りに京へ舞い戻ります。義朝の助命嘆願も許されず、7月30日に義朝によって斬首されました。

『兵範記』では息子たちと共に船岡山で、『保元物語』では為義は七条朱雀で、息子たちは後に船岡山で処刑されたとあります。処刑後、北白河円覚寺(現在廃寺)に葬られたとなっています。
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下京区七条七本松東入る朱雀裏畑町にある権現寺(ごんげんじ)の手前に、源為義の墓があります。
七条千本商店街の中の細い道を下ったところです。7-967.jpg

元々は千本七条にあり、明治45年に 京都停車場(京都駅)の拡張により権現寺とともに現在地に移されています。7-965.jpg
「保元物語」による為義の終焉の地とされるこの地に供養塔が建てられたようです。
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道の突き当りが権現寺です。
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comments

為義の墓なんてあったのですね。
zuzuさくんには教えて貰う事が多いです。

歴史関係の事を書いてらっしゃるブログなどをあちこち見たり、父が現役の頃、京都の歴史を勉強していたので、その資料を参考にしたり、図書館で本を借りたりしています。
間違いのないよう、あれこれ調べてみて、大筋のところを書くようにしているので、ちょっと手間取るのが難点ですけど。

為義の供養塔は、どっかに関連史跡がないかしらと調べていて、今回初めて知りました。

  • zuzu
  • 2012年06月02日 10:10
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