2012年05月09日
2012 春の特別拝観 法住寺
春の特別拝観の中から、平家物語ゆかりのところを訪ねてみました。
三十三間堂 東にある法住寺
こちらは、平安時代中期に藤原為光によって創設され、その後、この寺を中心に後白河上皇の宮廷「法住寺殿」が営まれました。
広大な敷地に広大な池。平清盛に命じて、法住寺殿内に蓮華王院(三十三間堂)を造営させ、御所を守る新日吉神宮・新熊野神社も建てられました。上皇の女御・建春門院(平滋子)が亡くなった際には、女御の御陵として法華堂が建てられました。
清盛の娘 徳子 後の建礼門院はここから入内し、高倉天皇の中宮となっています。後に大原からこのあたりに移り住み、亡くなったと云われています。
木曾義仲によって南殿が焼き討ちされた後、上皇は六条西洞院の長講堂に移り住み、そこで亡くなりましたが、焼失した法住寺殿の敷地にあらたに法華堂がつくられ、上皇の御陵と定められました。
法住寺は後白河上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続、明治期に御陵と寺が分離され現在にいたっています。
本尊の「身代不動明王」像は、義仲の放火の際に、上皇の身代わりとなったと伝えられています。
運慶作とされる法皇像の御前立の木像が公開されていました。
親鸞のそば食い木像も、興味深いです。親鸞がまだ比叡山で「範宴」という名で修行していた頃、毎夜山を下りて六角堂へお参りし、明け方戻るというお百度まいりをしていたそうです。
皆に知られないようにと、自分の姿を彫り、その像に留守番をさせていたところ、不審に思った師の慈鎮和尚が、ある夜弟子を呼び集め、一人ずつ名前を呼び、そばを振る舞ったのですが、範宴も返事し、そばを食べたという。後で像を見ると、口にそばがついていたという話です。大学在学中に、出席を取る講義の時に友達に頼んで、返事しといてもらったことはありますが・・・。
この他、大石内蔵助がこの法住寺に参拝し、仇討成就を祈願したと伝えられ、その縁から四十七士木造も安置されています。
2時から、住職の今様が披露されるという事でしたが、時間がなかったので、観る事が出来ませんでした。またの機会にぜひ見たいものです。
- by zuzu
- at 12:43
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