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2012年05月30日

源為義の墓

六条判官と呼ばれた源為義は、保元の乱で敗れた後、いったんは東国へ落ち延びようとしますが、出家して息子たちと別れ、長男 義朝を頼りに京へ舞い戻ります。義朝の助命嘆願も許されず、7月30日に義朝によって斬首されました。

『兵範記』では息子たちと共に船岡山で、『保元物語』では為義は七条朱雀で、息子たちは後に船岡山で処刑されたとあります。処刑後、北白河円覚寺(現在廃寺)に葬られたとなっています。
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下京区七条七本松東入る朱雀裏畑町にある権現寺(ごんげんじ)の手前に、源為義の墓があります。
七条千本商店街の中の細い道を下ったところです。7-967.jpg

元々は千本七条にあり、明治45年に 京都停車場(京都駅)の拡張により権現寺とともに現在地に移されています。7-965.jpg
「保元物語」による為義の終焉の地とされるこの地に供養塔が建てられたようです。
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道の突き当りが権現寺です。
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2012年05月27日

白峯神宮と伴緒社

堀川今出川東入るにある白峯神宮は、崇徳天皇を祀る神宮です。
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孝明天皇は、保元の乱によって悲運の運命を辿られた崇徳天皇の御霊を慰め、国難に際し、ご加護を祈ろうとされ、幕府に御下命になって四国・坂出の「白峰山陵」から京都にお迎えして、これを祀らうとされましたが叶わぬままに崩御されました。
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父帝の御遺志を継承された明治天皇が、宮地を和歌・蹴鞠の公卿宗家「飛鳥井家」の邸地に求められて、慶応4年(明治元年)9月6日社殿を現在地に新造され、崇徳院の御霊を奉迎鎮座されました。
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続いて明治6年に47代淳仁天皇の御神霊を淡路島南端の御陵からお移しして、御併祀になりました。

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保元の乱の際、御味方した源為義・鎮西八郎為朝公を祀る「伴緒社」が本殿に向かって右にあります。7-975.jpg7-974.jpg

源為義の八男である源為朝は、西方を鎮めるという名目で、九州で大暴れをして、鎮西八郎為朝と称していました。弓の名手で、保元の乱で大活躍したとの事ですが、大軍に押され、白河北殿に火を放たれた事から、わずか4時間ばかりで、敗走することになります。
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源為義は、後白河天皇側についていた長男 義朝によって斬首されてしまいます。勅命とはいえ、直接父を殺さねばならなかった義朝の心中は、いかばかりであったかと想われます。為朝は武勇を惜しまれて、伊豆大島に流刑となりました。為朝はその後、琉球王家の祖になったという伝説があります。7-972.jpg
こちらの社は武芸、弓に秀でた為義・為朝親子を祀ることから、武道・弓道上達にご利益があります。7-971.jpg
11月15日には、「伴緒社」祭があり、愛弓会奉仕の「奉射式」と演武が行われます。7-970.jpg
本殿前では、含笑花(ガンシュウゲ)の花が咲いていて、とても芳しい甘い香りを放っていました。7-969.jpg
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2012年05月26日

藤原頼長の桜塚

大河ドラマは、いよいよ保元の乱ですね。藤原頼長が、なかなかはまり役な山本耕史が楽しみです。

崇徳上皇方についた頼長は、その生真面目に完璧であろうとする性格から、かたくなに己が筋を通そうとして、時勢が読めなかったようですね。
源為朝が夜討ちをかけようという案を進言しても、天皇と上皇の戦いに、そんな姑息な手段をとるなど、もってのほかと却下してしまいます。反対に、後白河天皇側から、夜明けに奇襲をかけられて、攻め込まれてしまう結果になってしまうのですから、気の毒な感じではあります。敗走途中で、首に矢を受けた頼長は、重傷を負いながらも奈良まで逃れ、父 忠実に会おうとするも拒まれてしまうのですから、ますます同情してしまいます。7-983.jpg
幼い頃より優秀で、父に愛されて育ち、左大臣にまで上り詰めた頼長が、どんな心持ちで、死んでいったのかのかと思うと、痛々しい限りです。7-982.jpg
写真は現在、相国寺墓地内にある頼長の桜塚の碑と石塔です。もとは、白河北殿(熊野神社西南あたり)にあったものですが、明治期に絹糸紡績会社の工場拡張のため、この地に移転しています。
藤原定家・足利義政・伊藤若冲の墓が並ぶその隣の一角にあります。石碑に、宇治左府首塚也と書かれています。
塚の上に桜の木が植えられていたことから桜塚といったとも、左府塚がなまって桜塚となったとも言われています。
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こんなはずではなかった。どこで、道を誤ったのか?いや、なにも間違ってはいない・・・。そんな彼の声が聞こえてきそうな気がします。

2012年05月25日

出水の小川

5月22日 ひと雨降った後の御苑は静かなたたずまいを見せていました。7-995.jpg
出水の小川に黄菖蒲が咲いていました。7-992.jpg
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鴨はカメラを向けられても、のどかなものです。7-985.jpg7-984.jpg

2012年05月24日

京都水族館

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ゴールデンウイークも終わり、ぼちぼち空いたかしらと、梅小路公園内に3月にオープンした京都水族館に、行ってきました。
京の川ゾーン6-015.jpg
オオサンショウウオは、思ったより小ぶりで可愛い感じです。もっとも隠れていて全身を見れないのが多かったので、大きいのもいたのかもしれませんが・・・。写真もいまいちだったので、また次回の機会に。

お掃除中6-014.jpg

大水槽6-013.jpg
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館内は一方通行になっていて、後戻りできないのが、なんとなく不自由に感じるのですが、まあ混んでいるのにぐちゃぐちゃに動かれても厄介でしょうね。イルカショーの場所取りのために取り敢えずイルカスタジアムへ、進みます。6-010.jpg6-009.jpg
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まだ、芸域が狭いのか、道具を使ったパフォーマンスなどはありません。15分と短いので、待った割にはすぐ終わってしまう感じではありますが、今後に期待したいところです。6-007.jpg
人の流れに沿って出口に押し出され、ブラックライトでイルカの形が浮かび上がるスタンプを手に押してもらって、再入場です。

かいじゅうゾーン6-006.jpg6-005.jpg
こちらのパフェで、すいぞくパンを売っていたのですが通り越してしまい、また入場して買おうとした頃には、売り切れでした。

ペンギンゾーンへ向かうスロープには、ペンギンのかわいい足跡6-004.jpg6-003.jpg

海洋ゾーン6-002.jpg
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竹ノ内豊と上戸彩のドラマ『流れ星』を思い出してしまいます。主題歌 コブクロの「流星」が絶妙なタイミングで流れてきて、切なさが倍増してしまい、クラゲを飼いたくなってしまうドラマでした。6-000.jpg
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山紫水明ゾーン7-998.jpg
こちらではお目当ての京漬物ドッグと、京都パフェを食べて、ほっこり。すぐきの入ったドッグは、なかなか美味しかったので、水族館以外でも販売してほしいところです。自分で作った方が早いかも?

京の里山ゾーン7-994.jpg
田植えが近くの小学生によって行われたようで、収穫が楽しみですね。

ミュージアムショップにて、おみやげを買いこんでしまいました。7-996.jpg
触感がなんとも気持ち良いオオサンショウウオのぬいぐるみ。小さいのはマグネットタイプです。7-997.jpg
規模は小さいですが、手軽に行ける水族館が出来て、やっぱり良かったねといったところでしょうか。

外に出ると目の前には、西八条第が?平家一門の邸宅群が広がっていたのだろうな~と想像してみましたが、またの機会に・・・。

2012年05月23日

金環日食

5月21日 6-026.jpg
日食グラスを買って、屋上にスタンバイしました。カメラのレンズまではちょっと・・・と思ったので、取り敢えず、投影板を用意して、移りこむ姿を撮影しようと、鏡と段ボール箱をセットしてみたのですが、あまり明確な映像になりませんでした。前日準備のぶっつけ本番でしたので、穴の大きさとか距離とか、問題があったようです。日食レンズに反射した光をボードに写したものがクリアだったので、写真はその映像です。二つ映っているのは両眼に分かれている小さなレンズであったためです。6-025.jpg6-024.jpg

国立天文台によると、国内で金環日食が観測されたのは1987年以来約25年ぶりで、日本の広範囲で観測できるものは平安時代の1080年以来という話でした。6-023.jpg
1080年というと、白河天皇の御世で、愛する中宮 賢子との間に善仁親王、後の堀川天皇が生まれた翌年です。 
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1183年の水島合戦では、木曽義仲の軍勢と屋島(香川県)を本拠地とする平家が戦い、日食を知らなかった源氏の兵士は混乱し、平家方は暦から日食が起こる事を事前に知っていて、勝利したという模様が「源平盛衰記」に描かれています。
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平安時代に思いをはせて、日食を観察するのもオツなものです。
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完全に通過しました。

次に今回のような規模で金環日食が起きるのは300年後の2312年ですから、クローンになれたらまた観れるかも?ってところですね。

2012年05月20日

媞子内親王火葬塚

白河天皇と仲睦ましかった中宮 藤原賢子の間に生まれた第1皇女に、媞子内親王(ていし(やすこ)ないしんのう)という方がいらっしゃいます。堀河天皇の同母姉にあたります。
わずか3歳で斎宮に卜定、伊勢に下向していらっしゃいましたが、母后賢子が若くして崩御された事により、在任6年で退下し帰京されました。
最愛の中宮を亡くされた白河天皇は、亡骸を抱いて号泣され、お嘆きは並大抵ではなかったとのことです。1086年、わずか8歳の善仁親王(たるひとしんのう))に皇位を譲り、上皇となって、院政を開始されました。

再会した娘 媞子内親王は、母に似て見目麗しく、白河上皇は、ことのほか大切にされていました。回りの反対意見にも耳を貸さず、弟にあたる堀川天皇の后に立てられ、後には女院号を宣下、郁芳門院とされました。
病がちであった内親王が21歳の若さで亡くなられ、白河上皇は、その2日後に出家されています。最愛の妻と娘を早くに亡くされた上皇のお気持ちはどんなであったかと思われますが、その後、多くの女性を囲われるようになってゆき、後の歴史的トラブルを招く要因となります。

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媞子内親王も火葬されたようで、船岡山の北にその火葬塚があります。北大路通南側、建勲神社北参道の東、少し奥まったところです。
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2012年05月19日

深泥池 白色杜若

5月14日 深泥池では、白色杜若が涼しげでした。6-032.jpg

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2012年05月18日

近衛天皇火葬塚

4月に鳥羽の近衛天皇陵 安楽寿院南陵を訪れましたが、亡くなられた当初は、近衛天皇の遺骨は紫野の知足院本堂に安置されていました。船岡山付近にあった大寺院で、関白 藤原忠実が邸宅としていたことから、忠実は知足院殿と呼ばれていました。6-037.jpg

近衛天皇は、生来病弱で度々病気を患い、眼病を患って視力を失っています。久寿二年(1155)鳥羽法皇や美福門院の連日の病気平癒の祈祷もむなしく、重病となり、十七歳で崩御されました。
船岡山の西野で火葬にされ、遺骨は知足院本堂に安置されましたが、後に安楽寿院に移されました。6-036.jpg
写真は、紫野花ノ坊町にある火葬塚です。6-035.jpg
御心ち例ならずおはしましける秋、よませ給うける

虫の音の よわるのみかは 過ぐる秋を 
    惜しむ我が身ぞ   まづ消えぬべき

玉葉和歌集にある近衛天皇の和歌です。なんとも心細げなお心の内がうかがわれます。
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2012年05月16日

大田神社 杜若 その2

5月14日 大田神社 杜若のつづきです
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後白河上皇の院政期、信西と対立していた藤原信頼に近づき、信西打倒に関与した源 師仲(みなもと の もろなか)は、平治の乱の後、永暦元年(1160年)3月31日に下野国に配流となりました。この際、配所に赴く途上で詠んだ歌が、後に勅撰集『千載和歌集』に収録されました。

三河の八橋※を渡るとて、

  夢にだに かくて三河の 八はしを 
       わたるべしとは  思はざりしを
                
と詠んだのが後白河院の耳に入り、哀におぼしめされ、めし返せと仰せになったと、平治物語 巻之三に書かれています。仁安元年(1166年)に赦され、3月29日に帰洛していますが、その後 官職に就く事はなかったようです。
 
※ 愛知県知立市北東部 「伊勢物語」東下りの段に登場するカキツバタの名所。

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保安元年には、鳥羽天皇も本宮に行幸されたという事が古書に記載されているそうです。平安時代に思いをはせ、眺めるのも良いものです。6-045.jpg6-044.jpg6-043.jpg
  ふりにけり 誰かみぎりの かきつばた
       汝なれのみ  春の色ふかくして 
                     藤原定家
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  紫の 色にぞにほふ かきつばた 
        ゆかりの池も なつかしきまで  
                     慈円
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江戸期に描かれた 『都名所図会』には、「堂の傍らに池ありて、春の末より初夏に至り杜若咲き乱れて、濃むらさきの色、池の面に麗しく、京師の騒客、廻りの茶店に宴を催して、終日これを美賞す」と記されていたほど、三十三間堂が杜若の名所として有名であったようです。後白河上皇の頃はどうだったのでしょうか。大きな池が南側にあったので、咲いていたかもしれませんね~。6-039.jpg6-038.jpg


2012年05月15日

大田神社 杜若 その1

5月14日 大田神社のかきつばたを見にいきました。6-062.jpg
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今年は開花がやや遅かったせいか、まだかなり咲いています。遅めに行くと枯れた花がフレームに入ってしまう難点がありますが。6-060.jpg6-059.jpg
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杜若というと、在原業平の歌が有名ですが、平安後期には、藤原俊成がこの大田の沢を歌ったものもあります。
 
神山や 大田の沢の かきつばた
   ふかきたのみは  色にみゆらむ
                   藤原俊成

崇徳天皇の内裏歌壇の一員として歌会に参加し、歌壇の重鎮として活躍した藤原俊成は、寿永二年(1183)、後白河院の下命により勅撰和歌集『千載和歌集』の撰進に着手し、息子 定家の助力も得て、文治四年(1188)に完成しています。6-056.jpg
トンボは、枯れた花や蕾のほうが止まりやすいようですね。6-057.jpg6-054.jpg

堀川院御時百首歌たてまつりけるに、花歌

かきつばた 浅沢沼の ぬま水に 
   影をならべて  咲きわたるかな
                  源師頼(みなもとのもろより)
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沼水に しげる眞菰の わかれぬを
    咲き隔てたる  かきつばたかな
                    西行


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2012年05月13日

今宮神社 還幸祭

5月13日 今宮神社 還幸祭が、晴天の中 執り行われました。6-095.jpg
5日は、本社からお旅所への巡幸 、13日は、お旅所から本社へ巡幸です。6-094.jpg
12時頃から、店の前の大宮通を寺之内から、北大路大宮下がる東の御旅所まで、行列が並び始め、出発待ちです。6-093.jpg6-092.jpg

玉の輿神輿6-091.jpg6-073.jpg
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宮司さんによるお祓い6-088.jpg
水火天満宮の宮司さんのようですね。6-087.jpg
1時出立です。
「一条天皇の御代 正暦五年(994)六月、疫神を二基の神輿に齋いこめて船岡山に安置し、神慮を慰め奉って悪疫退散を祈った。これが紫野御霊会であり今宮祭の起源である。」と今宮さんのHPに起源がかかれています。

それが、近衛天皇の久寿元年(1154)四月、「夜須礼(やすらい)」での今宮詣が余り華美に過ぎるということで禁止され、それとともに今宮の祭礼の方も衰えていったということです。当時の政情も穏やかでない状態であったためであろうといわれています。保元の乱の2年前の事です。
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五代将軍徳川綱吉公の生母桂昌院が西陣の出身であり、その故郷を思う気持ちと「西陣」の台頭によって再び復興しました。桂昌院にあやかり、玉の輿神輿が若い女性たちによって担がれて?います。6-085.jpg6-084.jpg6-083.jpg
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定例のお札三種6-074.jpg

夕刻 一部の行列が戻ってきました。6-072.jpg6-071.jpg6-070.jpg6-069.jpg
牛車が人力車に変わっています?6-068.jpg
牛は、後ろをぞろぞろと6-067.jpg6-066.jpg
玉の輿神輿は、元気に掛け声をかけながら通っていきました。6-065.jpg6-064.jpg6-063.jpg


2012年05月12日

新日吉神宮

新日吉神宮(いまひえじんぐう)は、現在は東山七条の通称 女坂を上ったところにあります。6-104.jpg

延暦寺の東、大津市坂本の日吉大社は、平安京の表鬼門にあたるところから、方除、厄除の大社としてあがめられてきました。熊野大社とともに、後白河上皇の信仰篤く、1160年(永暦元年)10月16日、上皇の命により、日吉山王七社の神々を院の御所(法住寺殿)の鎮守社として御所内に祀られ、新日吉社とされました。6-103.jpg
現在より南にあったと伝えられています。その後、社地を転々とし、現在の社地となったのは、明治になってからということです。6-102.jpg
上皇は廃絶されていた宮中の行事、小五月会(こさつきのまつり)をこの社の祭礼として復興し、競馬や田楽等が盛大に行われていました。ご自身も親しく行幸されています。
現在は、5月の第2日曜に新日吉祭(いまひえまつり)が執り行われています。
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本殿の前には御猿さんが安置されています。大神の御使者ですが、豊臣秀吉とも関係の深い社ですから、何となく、秀吉を連想してしまいます。日吉丸という幼少の名前ともかぶりますし。6-99.jpg
本殿裏のスダジイの古木6-098.jpg

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1958年(昭和33年)、七社の神々に加え、後白河天皇を増祀し、翌1959年(昭和34年)に神社名を現在の新日吉神宮と改められています。

この手前の高校に通っていた頃は、全く関心がなく、「しんひよしじんじゃ」だと思っていたのですから、嘆かわしい限りです。もっと勉強しておけばよかったと今更、思うこの頃です。まぁ、今からでも遅くはないかしらん。

2012年05月11日

2012 春の特別拝観 法性寺

東山区本町にある法性寺は、藤原忠平が建立したお寺で、藤原氏の隆盛と共に栄え、広大な敷地を所有していましたが、現在は小さな尼寺となっています。6-107.jpg
関白 藤原忠通が、この寺に入り「法性寺殿」と呼ばれていました。6-105.jpg

本尊の千手観音は28面のお顔を持ってらっしゃいます。暗くてわかりにくいのですが、とても気品にあふれたお顔立ちをしてらっしゃいました。6-106.jpg

藤原忠通の念持仏も安置されていました。

藤原道長の時に、壮大な五大堂を境内に造営し、五大明王が祀られていました。
現在、東福寺の塔頭 同聚院の建つあたりが五大堂の遺跡付近だったといわれています。
法性寺が衰退した後も、幾多の災難を乗り越えて残った不動明王像が同聚院に本尊として祀られています。
現在、法性寺では、その不動明王像のコピーが安置されています。

2012年05月10日

王朝文化の華 陽明文庫名宝展

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国立博物館で、開催されている「王朝文化の華 陽明文庫名宝展」を観てきました。

陽明文庫は、近衛家29代当主 近衛文麿によって設立されました。近衛家の十数万点の宝物を保存管理しています。近衛家は藤原鎌足を祖とし、平安時代の代表的な貴族・藤原氏の直系に当たります。

大河ドラマに登場している藤原忠通の4男 近衞 基実(このえ もとざね)が近衛家の祖となっています。
基実の子 近衞 基通(このえ もとみち)が、京都近衛の北、室町の東の邸宅を「近衛殿」と称したことに始まっています。

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千年の時を超えた最古の日記 藤原道長の自筆の文面が公開されていて、その詳細な日々の様子は、興味深いものです。
 まあ、あんまり読めないのが困りものですけどね・・・。当時は絵日記の習慣はなかったのでしょうか?文書の宝物が多くて、読めないのになんとか読もうとするものですから、結構時間がかかり、疲れてしまった展覧会ではありました。
よく先の戦の際(もちろん応仁の乱の事です。)にも焼失せずに、現在までこんなに美しい状態で保管できたものですね~。相当苦心されてきたのではないでしょうか。
ミニチュアの雛道具なども、とってもリアルで、欲しくなってしまいました。最後の部屋は、時代の新しい絵画で、見知った日本画家の作品群に、ほっこりして終了です。

それにしても 1千年後に、自分の日記を大勢の人が鑑賞するなんて、道長さん予想だにしなかったのではないでしょうか?

2012年05月09日

2012 春の特別拝観 法住寺

春の特別拝観の中から、平家物語ゆかりのところを訪ねてみました。

三十三間堂 東にある法住寺6-116.jpg
こちらは、平安時代中期に藤原為光によって創設され、その後、この寺を中心に後白河上皇の宮廷「法住寺殿」が営まれました。6-111.jpg
広大な敷地に広大な池。平清盛に命じて、法住寺殿内に蓮華王院(三十三間堂)を造営させ、御所を守る新日吉神宮・新熊野神社も建てられました。上皇の女御・建春門院(平滋子)が亡くなった際には、女御の御陵として法華堂が建てられました。6-115.jpg
清盛の娘 徳子 後の建礼門院はここから入内し、高倉天皇の中宮となっています。後に大原からこのあたりに移り住み、亡くなったと云われています。6-114.jpg
木曾義仲によって南殿が焼き討ちされた後、上皇は六条西洞院の長講堂に移り住み、そこで亡くなりましたが、焼失した法住寺殿の敷地にあらたに法華堂がつくられ、上皇の御陵と定められました。6-110.jpg
法住寺は後白河上皇の御陵をまもる寺として江戸時代末期まで存続、明治期に御陵と寺が分離され現在にいたっています。6-113.jpg
本尊の「身代不動明王」像は、義仲の放火の際に、上皇の身代わりとなったと伝えられています。
運慶作とされる法皇像の御前立の木像が公開されていました。
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親鸞のそば食い木像も、興味深いです。親鸞がまだ比叡山で「範宴」という名で修行していた頃、毎夜山を下りて六角堂へお参りし、明け方戻るというお百度まいりをしていたそうです。
皆に知られないようにと、自分の姿を彫り、その像に留守番をさせていたところ、不審に思った師の慈鎮和尚が、ある夜弟子を呼び集め、一人ずつ名前を呼び、そばを振る舞ったのですが、範宴も返事し、そばを食べたという。後で像を見ると、口にそばがついていたという話です。大学在学中に、出席を取る講義の時に友達に頼んで、返事しといてもらったことはありますが・・・。

この他、大石内蔵助がこの法住寺に参拝し、仇討成就を祈願したと伝えられ、その縁から四十七士木造も安置されています。 

2時から、住職の今様が披露されるという事でしたが、時間がなかったので、観る事が出来ませんでした。またの機会にぜひ見たいものです。

2012年05月08日

平成24年度 蹴上浄水場創設100周年一般公開

蹴上浄水場の一般公開が、創設100周年を記念して開催日を例年の4日間から7日間に拡大して実施しています。5月5日(土曜日)から5月11日(金曜日)までです。
5月7日 初めて見に行ってきました。6-152.jpg
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与謝野晶子の歌碑 このあたりに、かつて与謝野鉄幹と晶子が宿泊した粟田の辻野旅館があったので、こちらに歌碑が建てられています。

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「御目ざめの 鐘は知恩院 聖護院 
        いでて見たまへ 紫の水」
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つつじのトンネル6-135.jpg
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反対側出口から6-133.jpg
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つつじは丸くなくてはなりませぬ。

2012年05月05日

今宮神社 神幸祭

5月5日 今宮神社の神幸祭行列が、店の前を通りました。6-172.jpg

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2012年05月04日

長谷寺 後篇

本堂を後に、五重塔の方へと進みます。
一切経堂6-199.jpg
本長谷寺 6-198.jpg
長谷寺の創建は天武天皇の御世、朱鳥元年(686年)、僧侶の道明が初瀬山の西の丘に、三重塔を建立したのが始まりとされていて、それがこちらの場所だそうです。続いて神亀4年(727年)、僧侶の徳道が東の丘(現在の本堂の地)に本尊十一面観音像を祀って開山したという事です。
五重塔6-197.jpg
シャクナゲも残っていました。6-196.jpg
線の入った花が咲いていなかったのは残念でしたが、この薄紫の牡丹は好きな色です。6-195.jpg6-194.jpg6-193.jpg
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本坊 本尊の十一面観世音菩薩の御影を大きな画軸に写したものを観る事が出来ました。
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本堂が上の方に見えます。6-185.jpg6-184.jpg6-182.jpg
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亀に見送られて、寺を後にします。6-176.jpg6-175.jpg
歩き疲れて参道を戻るうち、やっぱり休憩6-173.jpg
また同じ長谷路におじゃまして、お茶を頂きました。6-174.jpg
参道で売られていた牡丹が気になったものの、雲行きもあやしく、重そうでもあったので、断念しましたが、やっぱり一鉢ぐらい欲しいような・・・。

2012年05月03日

長谷寺 前篇

風さそふ 花のゆくへは 知らねども
            惜しむ心は 身にとまりけり

                            西行 
 
桜の季節があっという間に風に吹き散らされ、取り残された感じのこの頃ではありますが、桜の次あたりに好きなのが牡丹なものですから、惜しむ心が、はやる心に急かされて、長谷寺へ行ってきました。6-223.jpg
4月30日 曇り空で、夕刻には雨がちらつきそうではありましたが、葉っぱ柄の小紋の着物に牡丹の帯を締めてみました。6-222.jpg
参道にたどり着いたのは、お昼前でしたので、取り敢えず腹ごしらえ。有形文化財に指定されているというお食事・お茶処の長谷路さんにおじゃましました。6-221.jpg
お蕎麦と柿の葉寿司を食べて、取り急ぎお寺へ。6-220.jpg
門前から牡丹のお出迎え6-219.jpg6-218.jpg
仁王門6-217.jpg
境内図 パンフレットより6-200.jpg
登廊 両サイドを牡丹に囲まれています。
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右手の宗宝蔵にて、宝物拝見。6-215.jpg

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見上げると、御衣黄桜が咲いていました。6-213.jpg

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まだまだ蕾も多いです。6-211.jpg6-210.jpg
新緑が目にすがすがしいです。6-209.jpg
紀貫之故里の梅6-208.jpg6-207.jpg
並んで一茶の句碑もありました。6-206.jpg6-205.jpg
階段を、牡丹を眺めながらふらふら上り続けて、本堂へ到着6-204.jpg
ミニ清水の舞台といった感じですね。6-203.jpg
ご本尊は、十m余りある十一面観世音菩薩です。足元に入ってみて、その大きさにびっくりしてしまいます。6-201.jpg
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明日につづく


2012年05月02日

2012 京の桜 平野神社 

2012年 京の桜のラストは平野神社です。
17日 6-237.jpg

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衣笠6-234.jpg

胡蝶6-233.jpg

白妙6-232.jpg

有明6-231.jpg

楊貴妃6-230.jpg

一葉6-229.jpg

23日 

松月6-224.jpg

平野妹背 前回訪れた時は、一段目が開花したところでしたが、この日はこの桜の移ろう様子を一度に
見ることができました。

2段目が蕾になってこれから開こうとするところ6-228.jpg

開き始めたところ6-227.jpg

一段目がピンク、2段目が薄ピンクと違いがしっかり見える状態6-226.jpg

一体感が出て、ころころになり華やいだ様子6-225.jpg
なんとも不思議な桜です。

今年の桜はこれにて終了となります。また来年、出会えることを願って・・・。

2012年05月01日

2012 京の桜 ご近所 総集編

5月に入ってしまったので、桜もそろそろおしまいにしようと思います。休みが曇り空の日に多くあたってしまったのが、ちょっと残念でしたが、今年もずいぶん廻ったものです。ご近所が後回しになっていたので、まとめて総集編です。

水火天満宮 10日6-259.jpg

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妙覚寺 10日6-254.jpg
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妙覚寺 塔頭 善明院 15日6-253.jpg
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本隆寺 10日6-251.jpg

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本法寺 10日6-249.jpg6-248.jpg6-247.jpg

妙蓮寺 17日6-245.jpg6-244.jpg

雨宝院 17日6-243.jpg
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千本えんま堂 23日6-239.jpg
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