2012年02月01日
待賢門院璋子とその周辺
白河法皇とその寵姫・祇園女御に養われた待賢門院璋子という方は、その姿もお心のうちも天衣無縫といった風情であったろうと推察し、興味深く感じます。
この時代にあって、この方の和歌は、全く残っていません。
法皇に何不自由なく育てられ、周りの人々の感情の機微など慮る必要もなく、ただ最高権力者に愛されるべき存在である御自身には、和歌を詠みかけて、相手に心を伝える必要性などは全くなかったのではないかと想像します。軽い感じの今様の方が、彼女の気質にはしっくりきたのではないかしらとも思えます。
鳥羽天皇の后とされ、戸惑ったものの、法皇と天皇の間に在って後ろめたさも、罪深さも感じてはいなかったであろうと思われます。己があるがまま、受け止められるべき唯一無二の存在であると感じていたのではないかと。白川院という後ろ盾を亡くしても、その立ち位置を脅かす者が、現れるなどとは考えていなかったであろうと想像します。
しかし、鳥羽院としては、白川院の亡霊のちらつく璋子は、愛しつつもその存在は重く、心穏やかに和める相手ではなく、他に安らげる場所を差し出されれば、気移りするのもむべなるかなといったところですね。しかしながら、鳥羽院の中で、その存在はやはりかけがえのないものであったところが、また男女間の趣のあるところでしょうか。三条高倉第に駆けつけて病の床にある璋子を看取り、臨終の際は磬(けい、読経の時に打ち鳴らす仏具)を打ちながら大声で泣き叫んだと伝えられています。
平安時代の初め、天長の頃 (830) 右大臣清原夏野 が山荘を建てたのをはじめとし、待賢門院が復興して、法金剛院とされた寺は、花園の地にあり、極楽浄土を模したその庭では、待賢門院桜や、蓮をながめる事が出来ます。青女の滝は、待賢門院が、林賢(りんけん)と静意(せいじょ)に造らせたもので、巨石を並べた雄大なものですが、現在は水が流れていません。
先日の大河ドラマでは、義清に添削されてしまう設定になっていた待賢門院堀川の和歌が、歌碑として、庭の北東にあります。璋子に仕えて出家の供をした待賢門院堀川は歌人として、有名です。
寺の西側の道を北へ上がっていくと、地蔵院を越えた先に三叉路があります。
右の道を進み、また三叉路になったところを、右に進むと前方に待賢門院の眠る花園西陵があります。
西陵というからには、東陵がありそうですから、陵を出て通を東に進み、次の道を右に曲がって、丸太町通へ出る途中に、やはり花園東陵がありました。
鳥羽院と待賢門院璋子の間に生まれた統子内親王のお墓でした。賀茂齋院を務め、後白河天皇の准母(天皇の母でない女性が母に准ずること)となっています。女院号が与えられて、上西門院となり、平治の乱後、法金剛院に入寺出家しています。
- by zuzu
- at 10:38
comments
ここね、ネタの一つにしようとしていたとこです。
もう少し暖かくなってから取材に行こうと思っていたのですけどね。
璋子はそうか、生まれもっての貴婦人だったのかも知れないですね。
してみると、ドラマの設定も的を射ているのかも知れませんね。
なおくん
私もしょっちゅう、なおくんに先を越されていますよ(^^)
シーズンオフといった感じの法金剛院はとても静かでした。璋子さまは、かなり好きなキャラなので、取り急ぎ私感を書いておきたいと思いました。