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2012年02月24日

京都市考古資料館

今出川大宮東入ルにある京都市考古資料館では、6月24日(日)まで、『平 清盛 – 院政と京の変革 - 』が開催されています。こちらは、とても近くて、無料なうえ、写真撮り放題なのですが、月曜定休日というところが、個人的にはちょっと厄介です。6-649.jpg
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「平清盛と平氏の足跡」「流通の発達」「大規模な寺 院・殿舎の造営」「院政期の生活と祈り」との4つのテーマに沿ってに展示されています。

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鳥羽殿で発掘された香炉 どなたがお使いだったのか?6-644.jpg6-643.jpg
六勝寺の筆頭寺院であった法勝寺の八角九重塔は、現在の岡崎動物園内にありました。高さが約81mもある木造建築です。京都タワーが131m、東寺の五重塔が57mですから、当時の洛中のどこからでも見える巨大な塔であったわけです。白河院の権力のシンボルタワーですね。実寸で復元してほしいものです。

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これで、どなたが、すごろくをしていたのでしょうか?6-641.jpg
きゃあ- 呪札~!6-640.jpg
結構、楽しめます。

2012年02月18日

雪の朝

個人的には、待望の雪が降りました。仕事で出歩けないのが残念ですが・・・。
屋上からの景色です。
建勲神社6-655.jpg

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興聖寺の大木6-653.jpg

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うちの鍾馗さんにも雪が積もりました。6-651.jpg6-650.jpg

2012年02月17日

雛飾り

先日、お雛様を店に飾りました。かつては、段飾りでしたが、現在はお二人だけです。6-659.jpg
でもって、招き猫たちが、五人囃子を務めます。6-658.jpg

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髪のみだれが、ちょっと気になりますね。年代ものですから・・・。
みだれてけさは 物をこそ思へ  といった風情かしらん?
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いつ見ても、お美しいお二人です。

2012年02月14日

第46回京の冬の旅 長楽寺

京の冬の旅
丸山公園の奥にある長楽寺は、平清盛の娘徳子・建礼門院が髪をおろし出家した寺です。6-668.jpg
延暦24年(805) 桓武天皇の勅命によって伝教大師最澄を開基とし、観世音菩薩を本尊として創建されました。6-667.jpg
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頂いた寺の歴史概要には、関白藤原忠通が、詩歌管弦に興じたこともあったと書かれていました。6-665.jpg
そして崇徳天皇の念持仏・弥陀三尊が、巡り巡ってこちらにまつられ、収納庫に収められていました!
賢礼門院と安徳天皇ゆかりの品々が収められていることは、知っていましたが、崇徳院の念持仏がこちらにあるとは、全然知らなかったので、ちょっとどきっとしてしまいました。私が一人感動しているのに、ガイドさんは、簡単に解説をスル―してしまわれ他の拝観者の方も感心なさげであったのが口惜しい限りです。
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西行さんもこちらで修業されたようで、山家集に歌が残っています。

夜もすがらをしげなく吹く嵐哉 わざと時雨のそむる紅葉を

建礼門院御塔 6-663.jpg
建礼門院が剃髪した名残の御髪塔とも、御舎利塔ともいわれています。出家の際、布施として安徳天皇が今わのきわまで召されていた形見の直衣を結い直した十六旒の仏幡を進じ、菩提を弔ったといわれています。この幡のうち二旒が現在も残っていて、涙を誘います。
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幕末の文人・頼山陽(らいさんよう)の墓
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2012年02月01日

待賢門院璋子とその周辺

白河法皇とその寵姫・祇園女御に養われた待賢門院璋子という方は、その姿もお心のうちも天衣無縫といった風情であったろうと推察し、興味深く感じます。6-682.jpg6-681.jpg
この時代にあって、この方の和歌は、全く残っていません。
法皇に何不自由なく育てられ、周りの人々の感情の機微など慮る必要もなく、ただ最高権力者に愛されるべき存在である御自身には、和歌を詠みかけて、相手に心を伝える必要性などは全くなかったのではないかと想像します。軽い感じの今様の方が、彼女の気質にはしっくりきたのではないかしらとも思えます。6-973.jpg

鳥羽天皇の后とされ、戸惑ったものの、法皇と天皇の間に在って後ろめたさも、罪深さも感じてはいなかったであろうと思われます。己があるがまま、受け止められるべき唯一無二の存在であると感じていたのではないかと。白川院という後ろ盾を亡くしても、その立ち位置を脅かす者が、現れるなどとは考えていなかったであろうと想像します。
しかし、鳥羽院としては、白川院の亡霊のちらつく璋子は、愛しつつもその存在は重く、心穏やかに和める相手ではなく、他に安らげる場所を差し出されれば、気移りするのもむべなるかなといったところですね。しかしながら、鳥羽院の中で、その存在はやはりかけがえのないものであったところが、また男女間の趣のあるところでしょうか。三条高倉第に駆けつけて病の床にある璋子を看取り、臨終の際は磬(けい、読経の時に打ち鳴らす仏具)を打ちながら大声で泣き叫んだと伝えられています。

平安時代の初め、天長の頃 (830) 右大臣清原夏野 が山荘を建てたのをはじめとし、待賢門院が復興して、法金剛院とされた寺は、花園の地にあり、極楽浄土を模したその庭では、待賢門院桜や、蓮をながめる事が出来ます。青女の滝は、待賢門院が、林賢(りんけん)と静意(せいじょ)に造らせたもので、巨石を並べた雄大なものですが、現在は水が流れていません。
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先日の大河ドラマでは、義清に添削されてしまう設定になっていた待賢門院堀川の和歌が、歌碑として、庭の北東にあります。璋子に仕えて出家の供をした待賢門院堀川は歌人として、有名です。6-678.jpg6-676.jpg
寺の西側の道を北へ上がっていくと、地蔵院を越えた先に三叉路があります。6-675.jpg
右の道を進み、また三叉路になったところを、右に進むと前方に待賢門院の眠る花園西陵があります。
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西陵というからには、東陵がありそうですから、陵を出て通を東に進み、次の道を右に曲がって、丸太町通へ出る途中に、やはり花園東陵がありました。6-670.jpg
鳥羽院と待賢門院璋子の間に生まれた統子内親王のお墓でした。賀茂齋院を務め、後白河天皇の准母(天皇の母でない女性が母に准ずること)となっています。女院号が与えられて、上西門院となり、平治の乱後、法金剛院に入寺出家しています。6-669.jpg