2011年05月27日
桜宮神社
先日、上京区出水通千本東入る西神明町にある桜宮神社を訪れました。
醍醐天皇の御代、延喜10年(910)、北野天満宮の右近の馬場にあった桜の大樹に紫雲がたなびき、異香が薫り、日輪が降臨したので、天照皇大神を祀り、霊宮を造り、桜宮日降の神明と号したのが、始まりです。その後、現在地である朱雀の北、近衛小路に遷座し、桜宮日降神明、桜葉明神、桜宮などと称されました。
後白河天皇の時代には、桜町中納言成範(しげのり)が熱心に参詣し、悟りを得て歌を一首献上しています。
また、足利義詮は嗣子が無いのを憂い、桜宮に祈って男子を授かったという話です。男子は三代将軍義満となり、義満は桜宮を崇敬し、天下統一を祈願しました。
戦国時代には痘疹疫病が流行し、桜宮に祈ったところ快癒した者が多かったと伝わっています。
元禄7年、但馬国の荒木氏の妻が10年余りも難病に苦しみ、桜宮に祈願したところ、たちどころに本復し、拝殿を造営しました。
元禄16年、関白太政大臣兼煕が参詣し、桜宮の縁起を一巻記して奉納し、今も社宝として納められているそうです。
謡曲「右近」には桜宮の由来が詳しく語られ、『山州名跡志』にも北野社総門の外を南北に通じる通りに、桜葉明神社として描かれています。
春日大神、八幡大神、稲荷大神、愛宕大神、御嶽大神を合祀し、別社として大弁財天(宗像三姫大神)を境内に祀り、今の桜宮神社となっています。
≪神社案内板「桜宮神社縁起」より≫
大弁財天
なかなか興味深い逸話の多い神社ですね。
桜町中納言といえば、謡曲「泰山府君(たいさんぷくん)」に登場します。桜が散るのを惜しみ、神に祈って、普通七日で散るところを三七日まで長らえさせたという物語です。
平治の乱において父信西が殺害され、その罪に連座して、流罪となりましたが、後に赦免され、後白河天皇の側近として仕えました。
桜を愛し、自邸に多く植えたことから「桜町中納言」の名で呼ばれたといわれています。
高倉天皇の寵愛を受けた小督の父親でもあります。
境内には桜が植えられているので、来年は是非咲いている頃に訪れてみようと思います。
- by zuzu
- at 14:05
comments