2010年09月30日
真如堂・迎称寺・極楽寺 ―彼岸花と萩など―
9月27日
真如堂 彼岸花はちらほらと点在。
休憩所前の朝顔と萩
迎称寺の萩は、まだこれからのようですね。
少し西の極楽寺では、紅白の彼岸花が見頃を迎えていました。
蝶たちも飛び回っていました。
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- by zuzu
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2010年09月30日
9月27日
真如堂 彼岸花はちらほらと点在。
休憩所前の朝顔と萩
迎称寺の萩は、まだこれからのようですね。
少し西の極楽寺では、紅白の彼岸花が見頃を迎えていました。
蝶たちも飛び回っていました。
2010年09月28日
9月27日ようやく、見頃を迎え出した曼珠沙華が芙蓉の足元に並んでいました。
光に透けた芙蓉の花びらがとても美しいです。
社務所前のお庭にも
萩もぼちぼち
塀の前には、芙蓉に隠れて白い彼岸花も
2010年09月26日
現在、京都市美術館では「高島屋百華展」が、国立近代美術館では「日本画の前衛」が開催されています。
「高島屋百華展」
1831年に京都で創業した高島屋は、呉服商を営むかたわら、当代一流の画家の協力を得て美術染織品を制作し、主に海外向けに販売したそうです。
そして1909年には美術部を創設し、多くの優れた作品を収集してきたようです。
今回はその中から100点を選び出してのコレクション展の開催です。
日本の近代美術の名立たる作家の作品が集められていました。
右から「ベニスの月」 竹内栖鳳 ・ 「吉野の桜」 都路華香 ・ 「ロッキーの雪」 山元春挙
1901年にロンドンの日英博覧会に高島屋が出品した「世界三景」の下絵だそうです。染織の図柄を描いた作品で、大きな画面に圧倒されます。
「風神雷神」冨田渓仙
愛嬌のある表情が楽しい軽快な作品です。
高島屋マスコット人形のローズちゃんの着せ替えバリエーションも展示されていて懐かしくもありました。
「日本画の前衛」
日本画というと一般的には花鳥風月などを描いたものをイメージしがちですが、その伝統的なスタイルから脱却し、新たな日本画を目指そうとし始めた時代がありました。
1938年(昭和13)4月に「歴程美術協会」という集団が結成されたそうです。
太平洋戦争開戦前夜のことですから、不安定な時代のさなか、シュールレアリスムやバウハウスなどの海外の動きを取り入れ模索した、前衛の始まりであったようです。
今回はその時代に活躍した作家を集めた展覧会で、あまり観たことがなかった時代の日本画なので、一応観ておこうと、美術館のはしごをしました。
変革しようといろいろ試みた作品の数々、戦争関連の作品などもあり、前衛と呼ばれた時代の空気に少し触れられたように感じました。
2010年09月24日
自生しているススキを頂きましたが、いかんせん、まだ穂が出ていない!
ともかく団子さえあれば、問題なしという事で・・・。この形、食べてしまいたいほど可愛い!って、すぐ頂きました。
肝心の月が最後になりました。
2010年09月22日
9月21日、今出川堀川東入るにある白峯神宮において、第46回 上京薪能が催されました。御祭神である崇徳天皇・淳仁天皇の霊をお慰めし、京の文化遺産を継承するために昭和34年より、境内にて開催されています。
能、狂言、舞楽に筝曲という多彩な古典芸能が繰り広げられます。第1部は午後4時開演で、各社中の方の日頃の練習成果発表といった感じで、第2部は、午後5時45分より挨拶と火入れ式に始まってプロによる演目となります。
文化振興会会長と上京区長の挨拶で、少しは両天皇に係るお話があるかと思ったのですが、そのあたりは完全にスルーされてしまったのが、個人的には物足りないところではありました。
いちひめ雅楽会による舞楽は、「打球楽」という演目で、平安時代に行われていたポロのような球技(打球)の姿を舞にしたもので、球技全般の守護神でもある白峯さんらしい演目でした。平安の御世を彷彿とさせる雅な姿に、うっとりしてしまいました。
筝曲の演奏は、十七弦と尺八を交えての「琉球民謡による組曲」というもので、沖縄のメロディーを琴で聞く珍しい演目で、楽しめました。
観世流・金剛流の仕舞や舞囃子のあと、狂言は大蔵流の「因幡堂」、エンディングは観世流能「殺生石 白頭」でした。
鳥羽院の寵愛を受けた玉藻前の話は以前に取り上げましたが、その正体をあばかれ、逃げた那須野で、その執心が殺生石となり、生き物の命を奪い続ける事を取り上げた物語です。
この演目を観たのは初めてでしたが、唐織の着流し姿の中に鱗模様の摺箔が怪しく光る前シテは石魂という設定のため、ほとんど動きがないのですねぇ。
(上演さなかに毒が回って、座ったまま亡くなったのではないかしらと京都サスペンス的妄想が頭をよぎってしまいました。縁起でもない発想で、すみませんm(_ _)m
崇徳天皇を叔父子といって嫌った鳥羽院の寵愛をうけた玉藻前を演じている訳ですから、崇徳天皇の執心が舞い降りてきて・・・。などと、バカな事を考えているうちに、前シテは立ち上がり、舞台から消えてゆきました。)
月の光が松の間から差し込み、蒸し暑かったものの美しい夜でした。上演はつつがなく終了し、舞台に隠れてしまった本殿に回り、崇徳天皇に御相伴にあずかり、この上ない幸せでございましたと感謝の意を表してから帰途につきました。
2010年09月20日
思文閣美術館において、11月7日まで、「奈良絵本・絵巻の宇宙展」が開催されています。
室町時代後期から江戸時代中期にかけておびただしく製作された絵入の本や絵巻があります。素朴なその挿絵は、「奈良絵」の名で呼びならわされ、珍重され、そうした挿絵をもつ本を「奈良絵本」というようになったそうです。
奈良の絵師達の手によって製作されたためともいわれていますが、実際は奈良に限られていたわけでもなく、その由来の解明はなされないまま今日に至っているようです。
絵本の原点といえるそれらに描かれた題材は、平安時代の王朝物語、中世の軍機物語、室町時代から江戸時代初期にかけて流行した幸若舞曲など様々ですが、最も多いのが、奈良絵本・絵巻の制作時期と同じ頃に成立した御伽草子です。
一寸法師やものぐさ太郎、鉢かつぎ姫などの物語が絵と文字で構成された作品が多く展示されていました。文字はよう読みませんが、絵の方はよく知ったストーリーなので十分楽しめます。
ここ数年で研究が進んだそうで、署名のないこれらの絵本・絵巻の制作者が数名わかってきたようです。
女性作家の居初つな(いそめつな)という人物が、女性初の絵本作家として、発見されました。彼女の描く鉢かつぎ姫は、顔が見えず、すっぽり鉢を被った姿ではなく、帽子のように鉢が頭の上に乗っかった感じで、かわいらしいものでした。
2010年09月18日
明日の龍馬伝は、龍馬とお龍の新婚旅行のシーンが登場しますね。
霧島では、「龍馬とお龍 新婚旅行の地をたずねる」と題して、「龍馬ハネムーンウォーク in 霧島」というウォーキングのイベントが毎年開催されています。今年も第14回大会が3月20・21日に催されたようです。
私も第8回に、高知から、友人達とバスを借り切って参加しました。仮装をしての参加も歓迎との事だったので、お龍になりきろうと、草鞋を買い込みました。23キロのウォーキングに耐えられるように、鼻緒に綿を巻き、布を被せて縫い上げました。自分で適当に日本髪らしく結い上げ、2部式着物で高知から、夕方バスに乗り込みました。途中、船中でごろ寝一泊、早朝の霧島スタート地点近くで朝食を取り、絣の着物に着替えて、挑みました
同行したメンバーは、大半がウォーキング仲間で、軽装の歩きなれた人達であるのに対し、私は誘われるままに、事前練習もせずについて行った素人で、着物にわらじ履きスタイルでの参加でしたから、23キロはさすがに応えました。なんとかゴールしたものの、翌日はバスの乗り降りも大変な筋肉痛になってしまったものです。
コース中に、地元の方々のお接待所がいくつかあり、いろいろご馳走になりながら、景色を眺めて、さわやかな空気を感じながら、気分だけはお龍さんの楽しいウォーキングでした。最も終わりの方は、景色どころではなかったのですけど・・。
参加記念品の他に、新婚さんと仮装参加の人には、写真を撮ってオリジナル切手にして送付してもらえるという特典付きでしたから、そのどちらにも当てはまる私たちは、ステージにも上げてもらって、終始ご機嫌なイベントでした。イタリアに行くはずの新婚旅行をあまりの忙しさにキャンセルして向かえた新生活2か月目に、思いがけず友人に誘われて出掛けた旅行でしたから、まさに新婚旅行でした。お龍さんにとって、最も楽しい時期であったろう霧島への旅は、私にとっても最も楽しい記憶となりました。
2010年09月16日
2010年09月14日
うちの龍馬君が、親子丼というものを食べてみたいというので、高杉君と桂君も伴い、出かけてみました?!
なにせ、親子丼という料理は、明治になってから考案されたものだそうで、鶏肉好きの龍馬も、食べた事がなかったそうです。
ここ、縄手通りの大和橋北詰東側は、高杉晋作が馴染みにしていたお茶屋・魚品楼(うおしなろう)があったあたりだそうです。現在は「鳥新」さんという、水炊き・鶏すきのお店が縄手側に、白川側はお昼が親子丼、夜は焼き鳥を出す「とり新」さんにわかれて営業されています。
鳥新さんといえば、坂本龍馬が暗殺される直前に、軍鶏を買いに、峰吉に買いに行かせたというお店です。当時は四条小橋にあったそうで、場所も経営も変わっていますが、ゆかりのお店として、以前から食べに行きたいと考えていたお店です。でもって、お手頃な親子丼で、幕末に思いをはせてみました。
カウンターで、親子丼を待つ3人(^^)
龍馬君「なんちゅうか?これが親子丼かよ、
ほんで なんとなにが親子ぜよ、
なんぼいうたちハイカラやのう、
親子円満でまっこと うまいぜよ。」
それにしても、客のほとんどが、まず親子丼の写真を撮って、それから食べ始めるという光景は、ちょっと変な感じではあります。
私もですけど・・・(^^)
2010年09月12日
左京区田中上柳町に、光福寺というお寺があります。正しくは、干菜山(ほしなざん)斎教院安養殿光福寺と号する浄土宗知恩院派の寺院で、一般的に「ほしなでら」の名で親しまれています。
寛元年間(1243~1247)に道空上人が現在の長岡京市の西山安養谷(あんようがたに)に建立した斎教院が当寺の起りと伝えられています。
道空上人が、六斎念仏を普及させた由緒をもって、後柏原天皇から斎念仏総本寺の勅号を賜っっています。
六斎念仏とは、鉦や太鼓を鳴らし念仏を唱えながら踊る民俗芸能で、現在も京都の各地で催されていて、国の重要無形民俗文化財に指定されています。私もこちらのガレージで、昨夏、見せていただきました。くわしくは、リンクして頂いている「ブログ:ノルマ!!」さんのページに紹介されています。
天正10年(1582)に、月空宗心(げっくうそうしん)によって現在の地に移されました。
また、文禄2年(1593)に豊臣秀吉が鷹狩の途中に立ち寄った際、住職宗心が干菜(ほしな)を献じたことにより、秀吉から干菜山光福寺の称号を与えられたといわれています。
法然上人の幼名を、勢至丸(せいしまる)といい、 押領使・漆間時国の長子として生れましたが、9歳のとき、館が夜襲され父を亡くし、出家しています。法然上人800年大遠忌も近づいてきていますね。盛大な記念事業が行われるのでしょうね。
2010年09月10日
鳥居本八幡宮より、少し西に護法堂弁財天があります。釈迦堂清滝道沿いに、護法堂弁財天前というバス停があり、そこを北へ入ってゆきます。
来歴等の情報入手できず、詳細は不明ですが、紅葉の隠れ名所であるようです。
とても静かな場所です。紅葉の時期にまた訪れてみたいですね。
2010年09月08日
嵯峨鳥居本、五山の送り火の鳥居の麓に、鳥居本八幡宮があります。
観光地からは外れていて、人気もなく鬱蒼と木々が生い茂り、ちょっと入っていくのが躊躇われる場所です。
神社の来歴等は不明のようですが、元々この地にあった寺院の鎮守社として建立されたようです。
時代劇のロケ地として、よく使われているそうで、いかにもそれらしい雰囲気が漂っていて、いい感じです。
舞殿
拝殿
立ち回りなどして枯葉をまき散らして遊びたい気持ちに駆られましたが、やぶ蚊に襲撃されそうなので、早々に引き上げる事にしました。
2010年09月06日
一条通の商店街を妖怪ウオッチングしながら、西へ進むと、大将軍八神社があります。
平安京造営の際、陰陽道に依り大内裏の北西角の天門に星神 「大将軍堂」を建て 方位の厄災を解除する社として創建されました。社殿は、昭和の再建ではありますが、その歴史は古く、京の都を守り続けています。
陰陽道のお印の☆マークが本殿前に。
本殿右奥には、方徳殿があり、平安時代中期から末期にかけて、大将軍信仰が盛んな時期に作られた神像が安置されています。明治の改正によって陰陽道等の外来神は廃され現在の主祭神は素戔鳴尊です。
五社
恵比寿神社・稲荷神社・天満宮・長者神社・金毘羅神社
三社
命婦神社・厳島神社*猿田彦神社
社務所には、本殿左奥の地主神社(大杉大明神)の絵馬もありました。
2010年09月04日
北白川バス停近くの旧道、かつての白川村の入口にあたる辻の角に、大きな石の仏像が座ってらっしゃいます。
阿弥陀如来座像ですが、「子安観音」「安産の地蔵さん」と呼ばれ、地域の信仰を集めています。
別名を「太閤の石仏」とも呼ばれているそうです。 これは太閤秀吉が昔この地を通りかかった時、この大きな石仏を気に入り、聚楽第に運ばせたところ、夜になると不気味なうめき声をあげるので、石仏がもとの地に戻りたいのだろうということで、早速もとの北白川の地に戻されることになったというものです。
後ろ側にも石仏が、たくさんいらっしゃいます。
今出川通を渡った南側にも大きな二体の大きな石仏が祀られています。
共に大日如来像です。
その横には、江戸時代末の嘉永二年(1849)に立てられた大きな道標があります。
どちらも街道沿いに祀られ、人々の安全を祈願されていたのでしょうね。
2010年09月02日
左京区田中に田中神社という神社が、あります。
祭神は大国主命です。この付近は、古くから田中村と呼ばれる村があり、その産土神として、村民の信仰を集めてきたようです。
鳥居を潜り、左手に孔雀と白孔雀がいます。
本殿
くじゃくみくじ
伊勢神宮遥拝所
明治25年に、氏子の要望によって建立された玉柳稲荷社などがあります。