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2010年07月07日

上田秋成 その3 若冲・応挙らとの交流

昨日の秋成の墓の蟹の台石は、伊藤若冲が深草山石峰寺の五百羅漢を安永・天明年間に造った残りの石で彫ったものだといわれています。秋成の生前に寺に運んだもののようです。p6650.jpg
墓標は十三回忌に建てられ、碑表の隷書は森川竹窓の筆によるものです。
晩年の随筆『胆大小心録』には、当時の文人や画家たちとの交流の様子が屈託のない毒舌ともいえる独特の口語体で描かれています。

円山応挙についても、「衣食住の三つにとんと風流のない、かしこい人じやあった」「絵は応挙の世に出て、写生といふことのはやり出て、京中の絵が皆一手になつた事じや」と書かれています。また画代が高くなったことのついては、「応挙が俗慾ではじまった」とも書いています。

四条通堺町東入南側 木曽路の看板横に、円山応挙宅址の石碑が建っています。p6649.jpgp6648.jpg

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