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2010年05月30日

龍馬伝 外伝 -河田小龍 その7-

明治4年以降、新たな弟子も入り始め、後年に知られた人々を輩出しています。明治7年には、京都の清岡公張宅に逗留しています。道之助の弟で、志士となり活動、明治政府で昇官している人物です。
明治9年、高知県勧業課に出仕。内国勧業博覧会の高知での事務係を務めました。
桃源郷図 
p6855.jpg
明治11年のこの作品は三国志の勇者たちが武器を捨て、山中の桃源郷に集うという作品です。
この年、長男 蘭太郎は京都医学校(京都府立医科大学)に入学。後に産婦人科医となり、京都に暮らしました。
鯉図
p6858.jpg
実用の「高知市街地図」の刊行にも関わっています。
明治12年(1879年)56歳になった小龍は隠居して蘭太郎が河田家の当主となっています。
夜梅図
p6859.jpg
小龍は、内国勧業博や内国絵画共進会などに作品を出品、精力的に絵画を制作しています。
観音図p6854.jpg
明治15年、大病を患いましたが全快し、書画大会を玉水新地の得月楼で開いています。
p6856.jpg
明治3年に陽暉楼として創業し、11年に観月会の折に、得月楼と命名された料亭です。宮尾登美子作「陽暉楼」の舞台となったことでも、有名なお店です。私も一度行ったことがありますが、小龍さんの掛け軸は拝見していません。
軍鶏図p6857.jpg

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comments

河田小龍の詳細な履歴をありがとうございました。
大雑把には知っていましたが、
ここまで細かくは調べてなかったです。
お陰様で、参考になりました。

興味深い人物だったので、調べてみました。お役に立てたのなら幸いです。
なおくんの龍馬伝、いつもよく調べられているので、勉強になります。突っ込みを入れるところが無くて・・・(^^)

  • zuzu
  • 2010年05月31日 09:28
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