2010年05月25日
龍馬伝 外伝 -河田 小龍 その2-
小龍の開いた墨雲洞は、画塾というより学塾のようだったそうです。学問のない画は職人芸であるとして、画を学ぶにあたってはまず学問から入る指導をしました。頼山陽などの史書を教えたりしたことから、画家として名を成す者と別に維新の志士が育っていったようです。
龍馬にとって、小龍との会合は、その後の龍馬の活動に重要な示唆を与えるものとなったのは、龍馬伝の通りです。商船の事業を興すために、龍馬が船を誂え、小龍が同志を育てるという盟契を交わします。
この安政元年の作品には、「納涼美人図」などがあります。
安政3年に、漢学を学んだ儒学者岡本寧浦のところで共に漢学を学んだ清岡道之助の依頼により、門田為之助所有の「西洋戦争図」を模写しています。それは、ナポレオンの戦いの図で、土佐の勤皇の志士たちの間にナポレオン伝説が伝わっていたことがわかります。
ドラマの中で、亀をスケッチしていたのが、印象的だったのですが、確かに画稿の中に亀も描かれていました。風呂敷に描かれた亀も動き出しそうです。
「千萬之霊亀図」 明治19年(1886年)
小龍は龍馬との盟契を果たすために、実業にも手を出しています。文久3年(1863年)、浦戸湾の長浜に塩田の事業を行っています。
文久4年・元治元年((1864年)1月、椙本神社に絵馬「翁図」を奉納。
12月に京の鹿野安兵衛宅に寓しています。
徳島から技師を招き、塩田の事業を進めるために京に上り龍馬の支援を仰いだりしていたとありますが、4年で失敗に終わっています。
その頃、龍馬は薩長提携に成功しています。
「河田小龍 幕末土佐のハイカラ画人」 より抜粋
- by zuzu
- at 13:25
comments
河田小龍の絵は、霊山歴史博物館で見た事がありますが、
結構達者な絵だなと思いました。
当たり前ですけど、やっぱり絵師だったのですね。
そういう人でも攘夷の志を持ったのが、
幕末という時代なのでしょうか。
沸騰した時代の息吹を垣間見る様な気がします。
時勢のただならぬ変化が小龍の筆を激しく走らせもし、また止めさせもしたようです。
画塾も閉鎖したままの時期もあり、地震で失った家を再建しても、塩田の失敗で手放し、路頭に迷う事になったりと、忙しい人生を送っています。
こんな時代でなかったなら、もっと洒脱で軽妙な作品を多く残しただろうにとも思えますが、幕末維新を生き抜いたパワー溢れる画人であったことにはまちがいないですね。