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2010年05月23日

龍馬伝 外伝 -河田 小龍 その1-

龍馬伝の中で、龍馬に影響を与えた人物の一人として、河田 小龍(かわだ しょうりょう、「しょうりゅう」とも)が、登場していました。リリー・フランキーの好演で興味を覚えたので、少し追っかけてみました。

文政7年(1824年)に生まれ、明治31年(1898年)に75歳で亡くなりました。幕末から明治前期にかけて活躍した土佐を代表する幅広い絵師でした。通称篤太郎、字は維鶴(これたず)、小梁、松梁、皤山、小龍と号するほか、20ほどの号があります。
高知城下東浦戸片町、現在の南はりまや町に、土生玉助維恒の長男として生まれ、祖父の川田金衛門の生家河田家を継ぎ川田姓を名乗ります。(のち河田姓に復す)。幼くして神童の誉れ高く、絵を嗜み13歳で、南画家の島本蘭渓に入門しています。
「島本蘭渓坐像」p6892.jpg
16歳のころ藩儒学者岡本寧浦の門下に入って、本格的に漢学を学んでいます。この頃の作品に農夫図が残っています。銘が「翠竹」となっています。
「農夫図」p6893.jpg
同じ頃、小龍はひととき林洞意に学んだとも云われています。後に絵金と呼ばれる洞意は、江戸狩野派を習得し藩家老の御用絵師として知られていました。その後、狩野探幽の贋作を描いた嫌疑を掛けられたことで職を解かれ、狩野派からも破門され、慶応年間より赤岡の地で、土俗的で血みどろの芝居絵を多く描いています。小龍も似通った芝居絵を残しています。
「神霊矢口渡」p6889.jpg
19歳の頃から、漢詩を作り生涯にわたり多くの作詩をしています。岡本寧浦に従い、鹿児島の蝦蟆島に出掛けたりもしています。
20歳を過ぎた小龍は江戸の谷文晁に師事しようとしますが、その死去を知り、断念します。
23歳の時、吉田東洋に従って、京都・大阪に遊学する機会を得ます。京都で、南画の中林竹洞に学び、大阪の篠崎小竹に学びます。そして、京狩野家九代目の狩野永岳に師事します。二条城の本丸御殿襖絵の大修理に師と共に従事します。
27歳の折、土佐に帰国した小龍は、私塾・墨雲洞を開きます。
嘉永5年(1852年)米国より帰国した漁師・中浜万次郎(ジョン万次郎)の取り調べに当たり、その口伝を漂巽紀略に記しています。
「漂巽紀略」p6888.jpg
安政元年(1854年)図取り役として、薩摩の反射炉視察に赴き、「鹿州港脚之図」を描いています。

「鹿州港脚之図」p6887.jpg
帰路、長崎に遊び、木下逸雲に清朝画を学び、帰国の日に安政の大地震で、家屋を失っています。門田兼五郎の世話で、築屋敷の空家に仮住まいすることになります。そんな中へ、龍馬の来訪となります。
明日に続く・・・。

(絵の写真は、平成15年に高知県立美術館で開催された河田小龍展の図録より、コピーさせていただきました。)

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