2010年02月12日
四條天皇 御陵
承久3年(1221年)、承久の乱(鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて後鳥羽天皇が敗れた兵乱)により、鎌倉幕府は、後鳥羽天皇につながる血統をことごとく排除し、仲恭天皇を退位させ、安徳天皇の弟の子であり高倉天皇の孫である、隠居していた後堀河天皇(10歳)を即位させました。
寛喜3年2月12日(1231年3月17日)後堀河天皇の第一皇子が一条室町邸で生まれました。後の四条天皇です。
貞永元年(1232年)、後堀河天皇は院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位しますが、天福2年(1234年)に23歳で崩御してしまいます。四条天皇の外祖父の九条道家とその舅の西園寺公経が事実上政務を行ないました。
四条天皇は、鎌倉幕府にとっては、後鳥羽上皇の血統でない、かけがえのない天皇であったのですが、皇子・皇女を作らないままに、仁治3年1月9日(1242年2月10日)崩御してしまいます。享年12。
「主上あどけなくわたらせ給ひて、近習の人、女房などを倒して笑はせ給はんとて、弘御所に滑石の粉を板敷にぬりをかれたりけるに、主上あしくして御顛倒ありける……。」(五代帝王物語 )
四条天皇は女官などを滑らせて笑ってやろうとして蝋石を塗っていたところ、自分が滑って転倒し、頭を打って数日寝込んで、そのまま亡くなっってしまったというのです。なんとも、12歳の少年らしいいたずらですが・・・。
後堀河天皇が泉涌寺を御願寺とされ、崩御後、山内の観音寺陵に葬送された縁もあってか、四條天皇が、泉涌寺を再興した俊芿の生まれ変わりとする説のためかはともかく、泉涌寺において、御大葬が行われ、泉涌寺の寺内地の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られました。
この御陵には四條天皇を初めとして、後水尾天皇から仁孝天皇までの25陵、5灰塚、9墓が営まれています。
- by zuzu
- at 09:07
comments
月輪陵と四条天皇。 その辺りの関係は全く知らず、関心もありませんでした。
良いお話を聞かせて下さって有り難うございます。
歴代の天皇の中には名前も知らない天皇も多く、それぞれの方のエピソードなど調べ読んでみると、興味深い話があります。四条天皇も去年知ったところです。お誕生日ということで、ご登場いただきました。