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2010年02月28日

織部の日

2月28日は岐阜県土岐市により、織部の日と制定されています。

慶長4年(1599)2月28日伏見の古田織部邸において、茶会が催され、その際に「へうげ」た茶碗が用いられたという事が、博多の豪商・神屋(谷)宗湛の茶会記『宗湛日記』に記載されていた事に由来しているようです。

この日の「宗湛日誌」に、「初出のセト茶碗、ヒツミ候也、ヘウケモノ也」と記されているそうです。
「ひょうげ(瓢化)た」というのは、「おどけた」「ゆがんだ」といった意味です。この焼き物が、後に織部焼と言われるようになったものです。

古田織部さんの墓などは、以前に紹介しましたが、ご近所にまだ、織部さんがらみのネタがありました。
墓のある興聖寺(堀川上御霊上る) の向かい、水火天満宮のお隣の大應寺 (だいおうじ)境内に織部稲荷社がありました。
お寺の鎮守社で、古田織部正が伏見稲荷から勧請(かんじょう)したものだそうです。開運福徳の神として、また織物技術上達の神として土地柄から西陣織物業者の方々の信仰を集めているそうです。2月・8月・11月には織部稲荷奉賛会によって祭祀が行なわれています。
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北野の天神さんの三光門手前東側の植え込みの中には、織部形石灯籠というものがあります。
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古田織部の墓に立つ灯籠に似ることから 『 織部形灯籠 』 と呼ばれ、茶人が好んだ石灯籠の形式のひとつとされています。下部に立像を浮彫にしています。これを地蔵信仰に似せた隠切支丹の尊像と見て、マリア灯籠とか切支丹灯籠とも言われるようです。
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また、和菓子に織部饅頭というものがあります。薯蕷饅頭の上に、織部釉の緑を表し「井桁」の焼き印を入れたもので、茶会などで頂いた事があります。p7571.jpg
御流儀によっては、炉開きのお席で「織部」の物を、何か一品使われたりするしきたりがあるそうで、お菓子で織部を表現することもあるようです。


2010年02月27日

新撰組の日

文久3年(1863年)2月27日は、新撰組の前身である「浪士組」が結成された事で、今日は「新撰組の日」だそうです。
京都守護職・松平容保公が、浪士組を会津藩御預りとする建白書提出した日です。
8月18日に、武家伝奏より正式に ”新選組”と命名され、市中取締の命を受けました。

壬生界隈は、新撰組誕生の町として、有名ですが、その後、壬生が手狭になったことなどから、慶応元年(1865)、西本願寺に屯所を移しています。
さらに慶応3年(1867)、防備が弱いとの理由で、不動堂村に移転しました。新撰組の振る舞いに困り果てていた寺が、多額の移転費用を負担した新しい屯所は敷地1万平方メートルのりっぱな建物でした。新撰組の全員が幕臣となった5日後のことでした。p7580.jpg
西洞院通塩小路 ホテル瑞鳳閣の前に新しく石碑が建てられています。
しかし、同年12月16日、伏見奉行所の警備のため、わずか半年で、この地を後にします。p7579.jpg
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以前、リーガロイヤルホテル京都前の油小路通塩小路の場所にも、近藤勇の歌碑と共に石碑が建てられましたが、正確な位置が特定されていないようで、素人の私には、よくわからないところです。

2010年02月26日

悲田院

悲田院(ひでんいん)は、仏教の慈悲の思想に基づき、貧しい人や孤児を救うために作られた施設の事で、聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てられたのが日本での最初とされています。

養老7年(723)には、奈良・興福寺内に施薬院と共に設けられました。平安京にも、病人や孤児の収容所として、東西2カ所の悲田院が建てられました。
東は鴨川の西畔 三条河原、西は上京区扇町児童公園付近にありました。p7581.jpg
壇林皇后の建てた西の悲田院は、応仁の乱で廃墟となり、その址に天正14年(1586)、虚応和尚が由緒あるこの場所を惜しんで建てたのが大応寺です。大応寺は臨済宗相国寺派に属しています。
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正保2年(1645)に悲田院は、皇室と泉涌寺との関係から、泉涌寺(東山区)に移りました。p7590.jpg
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境内からは、市内を一望できます。
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2010年02月25日

北野の梅 2010

延喜3年2月25日(903年3月26日)、菅原 道真が大宰府で、亡くなりました。北野の天神さんでは、梅花祭が華やかに催されていることでしょう。急に暖かくなり、梅も一気に花開くのではないでしょうか。
写真は、2月16日の天神さんの様子です。p7611.jpg
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2010年02月24日

長谷川 等伯

慶長15年2月24日(1610年3月19日)、安土桃山時代から江戸時代初期の絵師である長谷川 等伯が亡くなりました。
大回顧展「没後400年 特別展『長谷川等伯』」が、4月10日(土)~5月9日(日)まで、京都国立博物館で、開催されます。(東京展は昨日、開催されたところです。)
p7614.jpg「楓図〔かえでず〕」(智積院)p7613.jpg「松林図屏風」(東京国立博物館)

2月末日まで、お得なペアチケットが、2000円で販売されています。楓図をデザインしているのは、このチケットだけで、2人でも、前期・後期と1人で使うこともできます。p7612.jpg
プレイガイド・コンビニなどで、購入して、当日、このチケットと引き換えることができますが、現物を今すぐ手に入れるには、京都国立博物館か、京都駅表2階の京都市観光案内所へ行く必要があります。
ちなみに普通の前売りは1200円・当日は1400円です。

2010年02月23日

水火天満宮の梅

堀川上御霊上るの水火天満宮さんの梅も見頃を迎えています。
2月15日の写真なので、ちょっと古いですが。p7624.jpgp7623.jpg
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2010年02月22日

後鳥羽天皇

延応元年2月22日(1239年3月28日)、平安末期から鎌倉初期の第82代天皇 後鳥羽天皇(ごとばてんのうが亡くなりました。
平氏とともに西走した安徳天皇の代わりに、後白河法皇が4歳の尊成親王を即位させ、後鳥羽天皇となりました。

後鳥羽天皇の御所はいくつもありましたが、上京区五辻通千本東入北側にも、五辻殿の石碑が建っています。上皇になった後に住まいされています。p7627.jpg
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承久3年(1221年)、後鳥羽上皇は、時の執権北条義時追討の院宣を出し、畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こしましたが、幕府の大軍に完敗。
後鳥羽上皇は隠岐島に配流されました。流される直前に出家して法皇となった後鳥羽上皇は、四条天皇の代に、配所にて崩御されました。

歌人として有名で、歌集として『後鳥羽院御集』や『遠島百首』を著しています。また、和歌所を設けたり、藤原定家に『新古今和歌集』の勅撰を命じています。
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菊を好み、自らの刀に印として菊の紋を入れたそうで、その後、後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに菊花紋、ことに十六八重表菊が天皇・皇室の「紋」として定着していったということです。p7625.jpg

2010年02月21日

和気 清麻呂と護王神社

延暦18年2月21日(799年4月4日)、奈良時代末期から平安時代初期の官僚 和気 清麻呂(わけ の きよまろ)が亡くなりました。p7654.jpg
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御所蛤御門前の護王神社(ごおうじんじゃ)は、和気清麻呂と姉の和気広虫を主祭神とし、藤原百川と路豊永を配祀しています。p7655.jpgp7653.jpg
嘉永4年(1851年)孝明天皇は和気清麻呂の功績を讃えて正一位と「護王大明神」の神号を贈りました。明治7年(1874年)、神護寺の境内にあった和気清麻呂を祀った廟は護王神社と改称され別格官幣社に列し、明治19年(1886年)、明治天皇の勅命により、神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座しました。p7652.jpgp7651.jpgp7650.jpgp7649.jpg
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めでたし めでたし

2010年02月20日

惟喬親王

寛平9年2月20日(897年3月30日)、平安時代前期 文徳天皇の第一皇子である惟喬親王(これたかしんのう)が亡くなりました。
文徳天皇が、皇太子として第四皇子である惟仁親王(後の清和天皇)を立てたため、惟喬親王は、第一皇子でありながら、皇位を継承できませんでした。これは、惟喬親王の母が紀氏の出身で後ろ盾が弱く、一方の惟仁親王の母が権勢高い藤原良房の娘 藤原明子であったためです。天皇は良房をはばかられて、生後9ケ月の惟仁(これひと)親王を皇太子としました。この方がのちの第56代清和天皇です。

惟喬親王は、太宰帥、弾正尹(だんじょうのかみ)、常陸守、上野守、など諸国の国主を歴任した後、都から離れた辺境の地を転々と隠棲し、28才の時、剃髪して出家し、小野の里に幽居されました。小野の宮と呼ばれていた親王は、54才で亡くなりました。京都雲林院の傍らにしばらく住まわれたこともあるようです。

江州・小椋庄へ移られ、轆轤(ろくろ)を開発して、緒山の木地屋に使用を教えられたという話もあり、轆轤の始祖として崇拝されています。

在原業平が、親王と親しく交わっていた事が伊勢物語に記されています。惟喬親王の母と業平の義父紀有常は兄妹の関係である上に、不遇な境遇に相通じるところがあったのかもしれません。
業平は惟喬親王のお供をして、親王の水無瀬の別邸から、川向こうの交野の渚の院に至り、今や盛りと咲き匂う見事な桜の木の下で、下記の歌を詠んでいます。
世の中に たえて桜のなかりせば 
    春の心は  のどけからまし

冬の日に親王を訪ねた折に、業平の詠んだ歌もあります。
忘れては 夢かとぞ思う 思ひきや
   雪ふみわけて  君をみんとは

親王は
夢かとも 何か思はむ 浮世をば 
   そむかざりけむ 程ぞくやしき

と返歌されています。

この親王をお祀りしているのが、北区紫野雲林院町(北大路通り猪熊下ル)にある玄武神社です。 p7659.jpgp7658.jpgp7657.jpg

2010年02月19日

屋島の戦い

平安時代末期の元暦2年/寿永4年 2月19日(1185年3月22日)は、屋島の戦いの日です。
『平家物語』の名場面、「扇の的」のシーンは有名です。
那須与一が海に馬を乗り入れ、弓を構え、「南無八幡大菩薩」と神仏の加護を唱え、鏑矢を放つ。矢は見事に扇の柄を射抜き、扇は空を舞い、海に落ちたというものです。

泉涌寺の塔頭 即成院にその墓があります。p7662.jpgp7661.jpg
与一は、出陣の途中で病気になり、即成院に参拝したところ平癒し、屋島の戦いで功績を得たことで仏徳を感じて出家し、即成院に庵を建ててそこで死去したといわれています。
ただ、那須与一に関しては諸説あり、あまり定かではないようです。
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2010年02月18日

後堀河天皇と御苑の梅

建暦2年2月18日(1212年3月22日) 高倉天皇の第二皇子の守貞(もりさだ)親王(後高倉院)の第三皇子 茂仁(とよひと)後の後堀河天皇が生まれました。
承久の変で後鳥羽上皇らが流刑された後、10才で鎌倉幕府による推挙で天皇となりました。父親の守貞親王(行助)が後高倉院として、院政を行いました。貞永元年(1232年)、院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位しましたが、元来、病弱であったためか、2年足らずの天福2年(1234年)に23才で崩御されました。泉涌寺を御願寺とされ、崩御後、山内の観音寺陵に葬送されました。p7665.jpg
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孝明天皇の御陵へ向かう途中の山道を左に上ったところに御陵があります。p7677.jpgp7663.jpg
在位中の皇居は現在の京都御所です。御苑の梅が少し咲き始めています。p7672.jpgp7671.jpg
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あいにく、やっと雨が上ったばかりの曇り空でしたが・・・。
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2010年02月17日

後嵯峨天皇

文永9年2月17日(1272年3月17日)後嵯峨上皇が亡くなりました。53歳でした。

先日、ご紹介した四條天皇の次の天皇です。四條天皇が十二歳で崩じ、順徳天皇の皇子 忠成王と共に皇位継承候補にあがった土御門天皇の皇子 邦仁(くにひと)親王です。親王は、父 土御門院が承久の乱のより、土佐に配流されたため、不遇な暮らしを強いられていましたが、順徳天皇と違い、土御門院が直接、乱に加わっていなかったことなどから、幕府の意向で、即位が決まりました。立太子を経ず践祚、仁治3年(1242)3月18日に即位しました。
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寛元4年(1246年)に在位4年で皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位し、院政を開始。正元元年(1259年)には後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促し、後深草・亀山二代にわたり院政をとりました。

そして、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の世仁親王(後の後宇多天皇)を皇太子にした事が、後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが南北朝時代、更には後南朝まで続く大乱の源となってゆきました。


袖ふれば 色までうつれ 紅の 
     初花染めに 咲ける梅が枝
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2010年02月16日

京の冬の旅 2010 泉涌寺 御座所・霊明殿

-京の冬の旅 2010- 4箇所目は、泉涌寺 御座所・霊明殿に出掛けました。
孝明天皇の位牌を祀る皇室の菩提所ということで、幕末シリーズとしての公開です。
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この御座所は、明治15年(1882)霊明殿炎上とともに、庫裡・書院も焼失したため、明治天皇が、霊明殿の再建と併行して京都御所内にある皇后宮の御里御殿を移されたものです。文化15年(1818)に造営されたものの移築ということです。現在も皇族の方が休憩時に使われているそうです。
六室に別れ、南側は西から侍従の間、勅使の間、玉座の間、北側は西から女官の間、門跡の間、皇族の間と呼ばれています。それぞれに趣向を凝らした襖絵が飾られています。
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昭和天皇がここの庭を眺めて歌を詠まれたそうです。
春ふけて 雨のそぼふる いけ水に 
       かじかなくなり ここ泉涌寺
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明治17年、明治天皇によって再建された霊明殿には、四条天皇御尊像(木像)と御尊牌をはじめ、歴代の天皇の御尊牌が祀られています。ちょっと、空気感が違うような。

海会堂は京都御所内の御黒戸を移築したもので、歴代天皇、皇后、皇族方の御念持仏30数体が祀られているそうですが、距離があって暗くて、わかりませんでした。

2010年02月15日

船岡山 冬の朝

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2010年02月14日

孝明天皇 御陵

弘化3年2月13日(1846年3月10日)、平安京最後の天皇「孝明天皇」が践祚されました。p7675.jpg

多難な国事に直面され、公武合体の維持を望まれたまま、慶応2年12月25日(1867年1月30日)、崩御されました。
享年36(満35歳没)。死因は天然痘と診断されましたが、毒殺説もあります。
御陵は、後光明天皇以来の火葬、仏式葬の石塔から山陵に土葬される古式に改められ、歴代天皇墓所の泉涌寺裏山に、円墳を模した後月輪東山陵(のちのつきのわのひがしやまのみささぎ)が築かれました。p7677.jpgp7679.jpg
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父である仁孝天皇と孝明天皇の念持仏が、御所の御黒戸内より、泉涌寺に移され安置されています。
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平安京最初の天皇である第50代桓武天皇を祀る平安神宮に、昭和15年(1940年)、皇紀2600年を記念して第121代孝明天皇が合祀されています。p8537.jpg

2010年02月13日

清少納言 歌碑

泉涌寺 仏殿横 四條天皇御陵へ向かう参道横には、浴室があります。p7688.jpg

その隣に寺名の起源となった名泉が、涌き出ていて、それを覆う屋形は、仏殿と同じ寛文期の建物だそうです。p7687.jpg
そのまた隣に、清少納言の歌碑が建てられています。p7686.jpgp7685.jpg
夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも
     よに逢坂の 関はゆるさじ

百人一首に入っているこの歌が刻まれています。定子皇后の鳥辺野陵に近く、かつてここに清原元輔の山荘があり、晩年の清少納言が隠棲したと思われる所とされているために、昭和49年(1974年)、当時の平安博物館館長・角田文衞の発案によって歌碑が建立されたそうです。

若くして定子が亡くなられて、宮仕えを辞めた清少納言のその後は、定かではなく、いろいろな話がありますが、定子の御陵ちかくで、静かに晩年を過ごしたと思いたい・・・。

2010年02月12日

四條天皇 御陵

承久3年(1221年)、承久の乱(鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて後鳥羽天皇が敗れた兵乱)により、鎌倉幕府は、後鳥羽天皇につながる血統をことごとく排除し、仲恭天皇を退位させ、安徳天皇の弟の子であり高倉天皇の孫である、隠居していた後堀河天皇(10歳)を即位させました。
寛喜3年2月12日(1231年3月17日)後堀河天皇の第一皇子が一条室町邸で生まれました。後の四条天皇です。
貞永元年(1232年)、後堀河天皇は院政を行うべく、まだ2歳の四条天皇に譲位しますが、天福2年(1234年)に23歳で崩御してしまいます。四条天皇の外祖父の九条道家とその舅の西園寺公経が事実上政務を行ないました。

四条天皇は、鎌倉幕府にとっては、後鳥羽上皇の血統でない、かけがえのない天皇であったのですが、皇子・皇女を作らないままに、仁治3年1月9日(1242年2月10日)崩御してしまいます。享年12。p7692.jpg
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「主上あどけなくわたらせ給ひて、近習の人、女房などを倒して笑はせ給はんとて、弘御所に滑石の粉を板敷にぬりをかれたりけるに、主上あしくして御顛倒ありける……。」(五代帝王物語 )

四条天皇は女官などを滑らせて笑ってやろうとして蝋石を塗っていたところ、自分が滑って転倒し、頭を打って数日寝込んで、そのまま亡くなっってしまったというのです。なんとも、12歳の少年らしいいたずらですが・・・。
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後堀河天皇が泉涌寺を御願寺とされ、崩御後、山内の観音寺陵に葬送された縁もあってか、四條天皇が、泉涌寺を再興した俊芿の生まれ変わりとする説のためかはともかく、泉涌寺において、御大葬が行われ、泉涌寺の寺内地の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られました。p7689.jpg
この御陵には四條天皇を初めとして、後水尾天皇から仁孝天皇までの25陵、5灰塚、9墓が営まれています。

2010年02月11日

泉涌寺 舎利殿

空海が草庵を建てたのが始まりといわれる、真言宗の古刹 泉涌寺は、皇室ゆかりの寺で、その静かな佇まいは雪が似合います。もっとも、出掛けるのが遅くて、ほとんど融けていますが・・・。
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大門p7699.jpgp7700.jpg

大門を潜って、仏殿へとp7702.jpg
応仁の乱でほとんど焼失し、寛文8年(1668)徳川四代将軍家綱によって再建されたものです。
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運慶作と伝える阿弥陀・釈迦・弥勒の三尊仏が安置されていますが、弥勒様が修復中で、いらっしゃいませんでした。

舎利殿p7697.jpgp7696.jpg
出雲国美保の関の僧が、京に上って、十六羅漢・仏舎利を拝もうと東山の泉涌寺に参詣します。
寺男の案内で、仏舎利を礼拝していると、そこに里の男が現れ、ともに仏舎利を拝みます。仏舎利のありがたい謂れなどを語るうちに、空が突然かき曇り、稲妻が走ります。
男の面色が急に変わり、自分はこの舎利を望んでいた、昔の足疾鬼の執心であると言い、仏舎利を奪い、天井を蹴破って虚空に飛び去ります。
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僧は、物音に驚いて駆けつけた寺の僧から、釈迦入滅の時、足疾鬼という外道が、釈迦の歯を盗んで飛び去ったが、韋駄天という毘沙門の弟の足の速い仏が取り返した、という話を聞きます。そして、二人して韋駄天に祈ると、やがて韋駄天が現れ、足疾鬼を天上界に追い上げ、下界に追いつめ、仏舎利を取り返します。足疾鬼は、今は力も尽き果てて、失せにけれ~。p7694.jpg
場面を想像し、足疾鬼を追いかけて、舎利殿を一周。しばらく、楽しめてしまいました(^^)

 


2010年02月10日

朝鮮虎展

北区紫竹上岸町にある高麗美術館で開催中の「朝鮮 虎展」(2/14まで)に行ってきました。

1月に観た、報恩寺 鳴虎之図(四明陶佾筆)は 1/13(水)~2/14(日)の間、
建仁寺 両足院 嘷虎図(李義養筆 1811年)は、1/19(火)~2/14(日)
正伝寺蔵 虎図(伝李公麟筆) 1/9(土)~1/17(日) 2/2(火)~2/14(日)
鹿苑寺蔵 竹虎図(伊藤若冲画) 全期間展示という内訳ですから、一度観たものも合わせて、虎尽くしを楽しむためには、個人的には7日(日)をおいて他に日がなく、雪景色のなんとももったいない美しさの朝に取り敢えず、美術館に出向きました。p7703.jpg

正伝寺蔵 虎図(伝李公麟筆)特別展図録よりp7708.jpg
日本には、虎が生息していないことから、多くの画家が海外の絵をもとにして、虎を描いています。この絵をもとに若冲が描いたものがこちらです。
鹿苑寺蔵 竹虎図p7707.jpg
建仁寺 両足院 嘷虎図(李義養筆 1811年)に、再会しました。p7706.jpg
京都国立博物館蔵の緒方光琳の竹虎図もかわいいです。p7705.jpg
その他、朝鮮の虎たちのけっこう楽しい作品も多く鑑賞できました。

2010年02月09日

花 イラスト シリーズ ~2月 菜の花 ~

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2010年02月08日

我が家の梅も、ぼちぼち開き始めました。
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2010年02月07日

平 敦盛

元暦元年2月7日(1184年3月20日)平 敦盛が、17歳で亡くなりました。
一ノ谷の戦いにおいて、源氏側の奇襲を受け、平氏側が劣勢になり、騎馬で海上の船に逃げこもうとしたところを、敵将を探していた熊谷次郎直実に「敵に後ろを見せるとは・・・」と呼び止められ、首を取られた謡曲にもなっている物語です。信長の好んだ歌「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか」も幸若舞の『敦盛』の一節です。

戦いの無情を感じた熊谷次郎直実は、敦盛の供養のために出家を志して黒谷に至り、鎧を洗い、それを松の枝にかけ、法然上人の門を叩きました。p7794.jpg
金戒光明寺の紫雲の庭のこちらの池が、その鎧を洗った池といわれています。p7719.jpg
御影堂横の松が鎧かけの松です。もとの松は枯れて、二代目という話ですが。
そして、右手前奥、蓮池の向こうにある勢至堂の前に向かい合って、建てられているのが、二人の供養塔です。p7714.jpg
手前側が熊谷次郎直実です。p7718.jpgp7717.jpg
向かい側が平 敦盛の塔です。p7716.jpgp7715.jpg

2010年02月06日

抹茶の日

2月6日は抹茶の日です。

愛知県の西尾市茶業振興協議会が西尾茶創業120年を記念して制定したそうです。
茶道で釜をかけて湯をわかす道具「風炉」から「ふ(2)ろ(6)」の語呂合せとなっているようです。

というわけで、1月に廻った京の冬の旅のスタンプラリーの接待所に立ち寄って、お茶を呼ばれた模様です。昨年同様、俵屋吉富さんにおじゃましました。p7720.jpg
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雨天の平日とあって、静かな室内です。p7725.jpg
実は先週立ち寄ろうとして、デイサービスのお年寄り団体さんに先を越されてしまい、日延べにした甲斐があって、貸切です。p7723.jpg
雲龍とお抹茶を戴きました。p7721.jpg
店先へと続く通路横は中庭になっていて、和みの空間です。p7722.jpg

2010年02月05日

西八条殿 若一神社

前日よりのつづき
出家後の清盛は、福原に在住することが多く、この西八条の邸宅には主に妻 時子が住まいする事となりました。清盛が没した2,3日後、蓬壺より出火、焼失。再興されましたが、都落ち(1183年)する際に、平氏自らが放った火で豪壮な邸宅は完全に焼失しました。

平清盛が、蓬(よもぎ)を愛し、壺庭に植えていたことから「蓬壺」とも称されていたそうです。

若一神社内には、銘水の若一神社神供水が湧き出ています。p7729.jpg

平清盛公熊野詣での折、御神託により仁安元年(1166年)11月10日、西八条殿内に隠れたる御神体を世に出し、社殿を建立し奉斎して以来、日供祭(にっくさい=毎朝行われる崇敬者の安寧を祈るお祭り)にて御神前に供えられてきた御神水だそうです。古くから銘水として知られる地下水で、開運出世の水として、新生児誕生に際しての産湯としても有名だそうです。

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樹齢800年を超す大樹が通沿いに植えられています。平清盛が太政大臣に任ぜられたのに感謝して手植えしたものだそうです。若一神社の御神木となっています。大樹の下には楠社(くすやしろ)が建てられ大楠を祀っています。
昭和八年(1933)の西大路通の開通整備の際に、敷地が大きく削られ、クスノキの根も一部切断されましたが、この御神木自体の撤去作業は清盛の祟りがあるとして作業が中止されたようです。西大路通が曲がっているのはこのためです。

2010年02月04日

平清盛 西八条殿

治承5年閏2月4日(1181年3月20日)平清盛が熱病で亡くなりました。九条河原口の盛国の家で亡くなったそうです。
清盛の邸というと、東の六波羅ですが、西の交通の要衝として仁安元年(1166年)西八条にも別邸を造営しました。p7731.jpg
下京区七条御所ノ内本町にある若一神社(にゃくいちじんじゃ)がその跡とされています。p7732.jpg
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西八条殿の鎮守社として造り、開運出世を祈ったところ、太政大臣に任ぜられたことから、開運出世の神と尊崇されるようになったということです。
現在、西八条第は、梅小路公園とJR東海道線と山陰線の線路敷地にあったといわれているので、ちょっとずれてはいるのですが。

白拍子の名手 祇王を寵愛し、この邸に抱えていましたが、あるとき、都で人気の高い白拍子の仏御前が「平家太政の入道殿へ召されぬ事こそ本意なけれ」と言って西八条を訪れました。仏御前と会おうとしない清盛を、祇王が取り成し、仏御前は今様を歌い舞を舞うことになりました。節回しも上手で、容姿も美しい仏御前を気に入った清盛は、祇王を追い出し、仏御前を邸に召しおく事としました。
祇王は障子に

 萌え出づるも枯るも同じ野辺の草
     いずれか秋にあはではつべき
(芽生えたばかりの草も枯れようとする草も、野辺の草は結局みな同じように、秋になると枯れ果ててしまうのです。)
との歌を書きつけて住みなれた西八条の邸を退いたのでした。神社内に、その歌碑が建てられていました。p7727.jpgp7726.jpg
その後、傷心の祇王のところへ、清盛から仏御前の前で歌い舞うようにとの使いがよこされ、邸に出向き舞を舞います。邸より帰った祗王は「かくて都にあるならば、又うき目を見むづらん、今は都を外に出でん」として、妹 祗女、母 刀自と共に尼となり、嵯峨の山里 今の祇王寺の地に世を捨て、仏門に入りました。
母子三人念仏している所へ、尼となった仏御前が訪ねてきます。 祗王の不幸を思うにつれ、わが身の先行きもどうなるものやらと無常を感じ、邸を出てきたというものです。
このあたりが、この一連の物語の舞台であるそうです。

唯春の夜の夢のごとし

明日につづく

2010年02月03日

本阿弥 光悦

寛永14年2月3日(1637年2月27日)本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)が亡くなりました。江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家です。

元和元年(1615年)、徳川家康から鷹ヶ峯の地を拝領し、芸術村(光悦村)を築きました。光悦は、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住し、創作三昧の日々を送り、その地で亡くなっています。

大坂夏の陣のおりに、豊臣方に内通したという罪状で古田織部が切腹を命じられたあとです。
光悦は、二条城において家康から板倉勝重を通じて、「近江・丹波抔より京都への道に、用心あしく辻切追はぎをもする所」を拝領しました。家康の真意がどのようなところにあったのでしょう。洛中所払いなのでしょうか?僻地とはいえ、えらく広大な土地ですが。

ではそれまでは、光悦はどこで暮らしていたのかと調べてみると、結構近所でした。
上京区油小路通五辻下る東側に石碑が建てられていました。 白峯神宮の東側の通を少し上ったところです。p7734.jpgp7733.jpg

2010年02月02日

蝋梅 雨ニモマケズ

2月1日 月曜 (雨)

引接山 極楽院 大蓮寺
(いんじょうざんごくらくいんだいれんじ)浄土宗
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 左京区東山二条西入1筋目下ルにて
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雨が降ろうが風が吹こうが、洛中洛外を走って走って走り通した大蓮寺の走り坊さんp7735.jpg
交通の便がなかった昔、歩いてお寺に訪れることが困難だった妊婦さんのために、走っていって、安産のお守りを届けたという通称「大蓮寺の走り坊さん」です。


雨ニモマケズ
風ニモマケズ
東ニ蝋梅が見頃との情報アレバ
行ッテ写真を撮り
西ニ新たな石碑が建ったとの情報アレバ
行ッテソノ所在を確かめ
南ニ特別拝観の寺アレバ行ッテこれを鑑賞し
北ニスタンプラリー達成接待所アレバ
行って茶をよばれ
切ない映画ノトキハ ナミダヲ ナガシ
サムサノ冬ハ オロオロ アルキ
ミンナニ 物好きブロガート ヨバレ
ホメラレモセズ
クニモ サレズ
サウイフモノニ ワタシハ ナリタイ・・・??

2010年02月01日

節分 おばけ

「おばけ」とは、節分の日に行う仮装(コスプレ)で、古くは江戸時代までさかのぼることができる、京都の伝統行事のひとつです。
最近は花街の芸舞妓によるおばけが有名ですが、高度経済成長期以前の京の町では、老若男女を問わず盛んに行われていました。昨今ブームのコスプレとは違い、この「おばけ」は節分の夜に出没する鬼の目をあざむいて、「福」を得るために非日常の格好をする、陰陽道的除災招福のまじないとして行われてきました。

京都精華大学主催の精華おばけプロジェクト
節分『おばけ』パレードが京都三条商店街(堀川~千本)にて行われるようです。

2010年02月02日(火) 13:00~18:00 おばけカフェ
      02月03日(水) 14:00~16:30 おばけパレード
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我が母校の学生の乗りそうなプロジェクトです
(^^)

仕事中なので行けないのが残念ですが、ご興味のある方は是非お出かけください。