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2009年12月04日

藤原 行成

万寿4年12月4日(1028年1月3日))藤原行成(ふじわら の ゆきなり/こうぜい)が亡くなりました。 平安時代中期の廷臣で、当代の能書家として三蹟の一人に数えられています。

天皇の外戚である、一条摂政謙徳公・藤原伊尹の孫に生まれ、父はその御曹司で、美貌の歌人で知られた藤原義孝でしたが、相次いで、後ろ盾のこの二人を亡くし、出世の道を閉ざされていました。

ある時、天皇の御前で、藤原実方が自身の歌を行成に悪評されたことを怒り、行成の冠を地に投じる騒ぎが、ありました。行成は事を荒立てず、冠をひろわせ、被り直したということです。そのふるまいから、実方は、「歌枕を見てまいれ」との一条天皇の命で、陸奥国(東北)へ左遷となり、行成の方は覚えめでたく、その後、源俊賢の引き立てもあり、蔵人頭へ昇進することになったとも言われています。

問題の歌は、東山の桜狩りに詠んだものです。

桜狩 雨は降り来ぬ 同じくは
  濡るとも花の 蔭に宿らん

これに対し、行成は「歌はおもしろし。実方は痴(おこ)なり。」
(なるほど歌は風流だが、作る奴は馬鹿だ。)と評したということです。

*3年後、任地で実方は馬に乗ったまま笠島道祖神前を通り、乗っていた馬が突然暴れ、あっけなく死んでしまいます。

実方も行成も清少納言と交流があったようです。

行成が清少納言と深夜の長話の末、帝の御物忌のため、急いで帰っていき、翌朝の手紙に尽きぬ話があったのに、鶏の声に急かされて帰ってきてしまいましたとの後朝の文めいた美しい手紙が届き、あんな夜中に鶏が鳴くわけがない。それは、函谷関をだまして通った孟嘗君のあのそらなきでしょうと返し送った、清少納言の歌は、有名です。

夜をこめて 鳥の空音は はかるとも
    よに逢坂の 関はゆるさじ

行成も返歌を返しています。

逢坂は 人越えやすき 関なれば
 鶏鳴かぬにも あけて待つとか

上京区大宮通一条上る西側附近に、藤原行成の邸宅はありました。
長保3年(1001年)、邸宅内に世尊院堂を建立しました。p7962.jpg
このことから、行成の子孫の書流を世尊寺流と呼ぶようになったそうです。

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