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2009年12月01日

藤原 俊成

元久元年11月30日(1204年12月29日)平安時代後期から鎌倉時代初期の歌人である藤原 俊成(ふじわら の としなり)が亡くなりました。「しゅんぜい」とも読みます。定家の父親です。

有名なエピソードといえば、やはり平忠度が訪ねてきたことでしょうか。

平清盛末弟・平忠度は、歌人としても優れていましたが、1183年(寿永2)7月の平氏一門の都落ちの際に、忠度は従者6人と共に都に引き返し、歌の師である藤原俊成の邸を訪れました。
この後、勅撰和歌集を作るおりには、私の歌を一首でも入れていただけるとうれしいと巻物を手渡して、また落ち延びてゆきました。
まもなく忠度は一ノ谷の戦いで戦死。
1187年(文治3年)、後白河法皇の院宣を奉じて、『千載和歌集』を撰集した際に、俊成はその巻物の中より、次の一首を勅撰和歌集に載せました。
「故郷花」
さざなみや 志賀の都は あれにしを
      むかしながらの 山ざくらかな

忠度が勅勘の身であることから、「詠み人知らず」として載せられています。

後世に俊成の霊を祀って、その邸址に社が建てられました。
下京区烏丸松原の烏丸通沿いにあります。p7970.jpgp7968.jpg
p7967.jpg

息子定家の選による百人一首には、下記の歌が収められています。

世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る
      山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

                 皇太后宮大夫俊成

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