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2009年11月29日

黒田官兵衛

天文15年11月29日(1546年12月22日)黒田官兵衛(孝高)は黒田職隆の嫡男として姫路に生まれました。若くして家督を継ぎ、姫路城主となっています。
秀吉にその才覚を恐れられ、44歳にして、名を黒田如水軒と改め、隠居しています。

関が原の戦いで、三成がもう少し踏ん張っていたら、あとから如水がやってきて、漁夫の利なんてことになっていたのでしょうか?

思いおく 言の葉なくて つひに行く
     道は迷はで なるにまかせて
                    辞世
  
(思い残す言葉が見つからないまま、ついに最後の時を迎える事となった。
   冥土への道は迷わずに、流れのままにまかせて逝こう。)という感じに解釈しているのですが?
死ぬ時は、ちょっと苦笑ったのかも?と思える辞世ですね。

‘つひに行く‘ というと、在原業平も辞世に使っています。

つひに行く 道とはかねて 聞しかど 
     昨日今日とは 思はざりしを
                在原業平

平安貴公子は、ちょっとニュアンスが違っていますね。

他にも、官兵衛の残した言葉に興味を引かれるものがありましたので、ここにあげてみました。

四角な器にも円い器にも、水は器に応じてはいる

我 人に媚びず 富貴を望まず    

身は褒貶毀誉の間にありといえども 心清きこと水の如し
   
乱世の時こそ 多くの書を読み 詩を作り 古書を覚え文字をたしなめ
それこそが真に通じる大事な道である

水五訓 
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり
一、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
一、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
一、自ら潔ようして他の汚れを洗い、清濁併せ容るるは水なり
一、洋々として大海を充たし 発しては蒸気となり雲となり
  雨となり雷と変じ霧と化し 凝っては玲朧たる鏡となるも 其性を失わざるは水なり

上京区一条通猪熊西入る南側にその邸跡の石碑が建っています。地名にもその名が残っています。p7973.jpgp7972.jpg

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