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2009年11月24日

待賢門院璋子

天治元年(1124年)11月24日、鳥羽天皇の中宮 璋子は、院号を宣下されて待賢門院と称しました。前年の保安4年(1123年)正月28日、5歳になった顕仁親王の践祚によるものです。鳥羽上皇から叔父子と呼ばれた崇徳天皇の即位です。
璋子は、藤原公実の末子でしたが、白河法皇の猶子となり、その寵愛を受けて育ちました。
成長した璋子は、白河院によって、孫の鳥羽天皇の嫁となり、後に崇徳天皇となる顕仁親王が生まれたのですが、この親王は鳥羽天皇ではなく、白河法皇の子であろうという話が定説となっています。璋子は、崇徳天皇を含め、5人の親王(4男が後白河天皇)と2人の内親王をもうけています。

白河法皇と鳥羽上皇、待賢門院は、三人そろっての熊野御幸を4回も行っています。仲睦まじかったと伝えられています。崇徳天皇を叔父子と呼んで、嫌っていたという話は、白河上皇が亡くなられて、美福門院を寵愛するようになってからなのでしょうか?
中京区姉小路烏丸東入ル南側(新風館前)に三條東殿の石碑があります。p8012.jpg
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崇徳天皇の天治2年(1125年)、白河法皇はこの地を得られ、ここに殿舎を造営し、院の御所とされました。法皇の崩後、大治4年(1129年)より鳥羽上皇の院政となり、三條東殿をやはり院の御所とされ、待賢門院と共に、長承元年(1132年)7月の焼亡時まで住まれていました。

この院政の行われていた時期に白河(現左京区岡崎)の地に建立された6つの寺院「六勝寺」のうちの一つである「円勝寺(えんしょうじ)」は、大治3年(1128年)璋子御願により、落慶供養されています。p8011.jpg
今は市立美術館北側に石碑を残すのみです。

その後、鳥羽上皇は後ろ盾を失った璋子にかわり、藤原得子(美福門院)を寵愛するようになり、保延5年(1139年)躰仁親王(近衛天皇)が生まれています。永治元年(1141年)鳥羽上皇は、崇徳天皇に譲位を迫り、近衛天皇を即位させました。
待賢門院は翌年の康治元年(1142年)、自ら建立した法金剛院において落飾しています。3年後、久安元年(1145年)8月22日、長兄・実行の三条高倉第にて崩じました。

没後10年目、久寿2年(1155年)に近衛天皇が17歳で夭折し、璋子の生んだ四宮 雅仁親王が天皇に指名されました。これが後白河天皇で、璋子の長子 崇徳上皇がこれを不服として争う保元の乱が起こっています。

璋子は、西行法師が愛した人であるとも言われています。なんとなく、西行さんが魅かれた理由もわかるような・・・。

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