2009年11月30日
定休日
招き猫 クリスマスバージョンです。
色ごとに役割が違います。
左から、赤-病封じ 黒ー魔除け 金ー金運 緑ー学力向上 紫ー長寿 ピンクー恋愛 青ー家内安全 となっています。
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2009年11月30日
招き猫 クリスマスバージョンです。
色ごとに役割が違います。
左から、赤-病封じ 黒ー魔除け 金ー金運 緑ー学力向上 紫ー長寿 ピンクー恋愛 青ー家内安全 となっています。
2009年11月29日
天文15年11月29日(1546年12月22日)黒田官兵衛(孝高)は黒田職隆の嫡男として姫路に生まれました。若くして家督を継ぎ、姫路城主となっています。
秀吉にその才覚を恐れられ、44歳にして、名を黒田如水軒と改め、隠居しています。
関が原の戦いで、三成がもう少し踏ん張っていたら、あとから如水がやってきて、漁夫の利なんてことになっていたのでしょうか?
思いおく 言の葉なくて つひに行く
道は迷はで なるにまかせて
辞世
(思い残す言葉が見つからないまま、ついに最後の時を迎える事となった。
冥土への道は迷わずに、流れのままにまかせて逝こう。)という感じに解釈しているのですが?
死ぬ時は、ちょっと苦笑ったのかも?と思える辞世ですね。
‘つひに行く‘ というと、在原業平も辞世に使っています。
つひに行く 道とはかねて 聞しかど
昨日今日とは 思はざりしを
在原業平
平安貴公子は、ちょっとニュアンスが違っていますね。
他にも、官兵衛の残した言葉に興味を引かれるものがありましたので、ここにあげてみました。
四角な器にも円い器にも、水は器に応じてはいる
我 人に媚びず 富貴を望まず
身は褒貶毀誉の間にありといえども 心清きこと水の如し
乱世の時こそ 多くの書を読み 詩を作り 古書を覚え文字をたしなめ
それこそが真に通じる大事な道である
水五訓
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり
一、常に己の進路を求めて止まざるは水なり
一、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり
一、自ら潔ようして他の汚れを洗い、清濁併せ容るるは水なり
一、洋々として大海を充たし 発しては蒸気となり雲となり
雨となり雷と変じ霧と化し 凝っては玲朧たる鏡となるも 其性を失わざるは水なり
上京区一条通猪熊西入る南側にその邸跡の石碑が建っています。地名にもその名が残っています。
2009年11月28日
弘長2年(1262年)11月28日 親鸞聖人が善法坊(弟 尋有の住坊)において亡くなりました。享年90歳でした。
その跡地である中京区御池通柳馬場北の御池中学校前に、「見真大師遷化之旧跡」 の石碑が建っています。
*明治9年11月28日に、明治天皇より親鸞聖人に「見真大師」の大師号が贈られ、「諡号」(シゴウ)として用いられていましたが、現在、真宗大谷派は、この称号の使用を見合わせています。
善法坊のあとには、法泉寺が建立されましたが、隣接する柳池小学校の拡張により移転、さらに現在は御池中学校に変わっています。
親鸞聖人が晩年、愛玩し「虎石」と名付けた庭の石が、聖人が死去されたときに涙を流したといわれています。現在、虎石は東山区の東大谷本廟に移っていますが、ここの地名は虎石町と呼ばれ、その名残を留めています。
遺骨は、鳥辺野北の大谷に葬られていましたが、文久9年(1272年)親鸞の弟子たちの協力を得た末娘の覚信尼によって「大谷廟堂」が建立され、改葬されました。東山区林下町にある、現在の知恩院塔頭 崇泰院(そうたいいん)のあたりです。
元応3年(321年)、本願寺三世覚如により、「大谷廟堂」を「本願寺(大谷本願寺)」と名乗り寺院化されました。これが本願寺の発祥です。廟堂は江戸時代初頭東山五条坂西大谷に移りました。
知恩院の方へ歩いていく途中で、美しい紅葉に出会いました。
知恩院山門
2009年11月27日
11月23日 出掛けようと堀川通の横断歩道を渡りかけて、真ん中で思わず立ち止まってしまいました。中央分離帯の銀杏並木が青空に美しく映えていました。
2009年11月26日
11月23日夕刻の円山公園です。
大道芸人の周りを大勢の観客が取り囲んでいました。
西日が差し込むところが、スポット的に赤く燃え上がるようです。
賑やかな人込みを避け、池の北側から反時計回りに廻って戻ってきました。
青鷺が、モデルを買って出てくれてので、しばらく撮影会です(^^)
2009年11月25日
11月17日 細見美術館の琳派展XII 「鈴木其一 ― 江戸琳派の風雲児 ―」後期の部を観てきました。
左 朴に尾長鳥図/右 藤花図
軽やかで艶やかな感じや新鮮な香りの漂っているこれらの作品は、飽かず眺めていたいと思わせる魅力があります。
鵞鳥図屏風
画像の拡大
力を合わせてみんなの幸せを~♪
あひるは何時の時代も愛嬌がありますね。
業平東下り図 鈴木守一
時知らぬ 山は富士の嶺 いつとてか
鹿の子まだらに 雪の降るらん
楓桜紅葉図 鈴木守一
灯籠にライトアップされて浮かび上った楓や、雨に打たれる桜葉が、目に浮かぶようです。
外に出るとこちらも雨にぬれた紅葉図です。
2009年11月24日
天治元年(1124年)11月24日、鳥羽天皇の中宮 璋子は、院号を宣下されて待賢門院と称しました。前年の保安4年(1123年)正月28日、5歳になった顕仁親王の践祚によるものです。鳥羽上皇から叔父子と呼ばれた崇徳天皇の即位です。
璋子は、藤原公実の末子でしたが、白河法皇の猶子となり、その寵愛を受けて育ちました。
成長した璋子は、白河院によって、孫の鳥羽天皇の嫁となり、後に崇徳天皇となる顕仁親王が生まれたのですが、この親王は鳥羽天皇ではなく、白河法皇の子であろうという話が定説となっています。璋子は、崇徳天皇を含め、5人の親王(4男が後白河天皇)と2人の内親王をもうけています。
白河法皇と鳥羽上皇、待賢門院は、三人そろっての熊野御幸を4回も行っています。仲睦まじかったと伝えられています。崇徳天皇を叔父子と呼んで、嫌っていたという話は、白河上皇が亡くなられて、美福門院を寵愛するようになってからなのでしょうか?
中京区姉小路烏丸東入ル南側(新風館前)に三條東殿の石碑があります。
崇徳天皇の天治2年(1125年)、白河法皇はこの地を得られ、ここに殿舎を造営し、院の御所とされました。法皇の崩後、大治4年(1129年)より鳥羽上皇の院政となり、三條東殿をやはり院の御所とされ、待賢門院と共に、長承元年(1132年)7月の焼亡時まで住まれていました。
この院政の行われていた時期に白河(現左京区岡崎)の地に建立された6つの寺院「六勝寺」のうちの一つである「円勝寺(えんしょうじ)」は、大治3年(1128年)璋子御願により、落慶供養されています。
今は市立美術館北側に石碑を残すのみです。
その後、鳥羽上皇は後ろ盾を失った璋子にかわり、藤原得子(美福門院)を寵愛するようになり、保延5年(1139年)躰仁親王(近衛天皇)が生まれています。永治元年(1141年)鳥羽上皇は、崇徳天皇に譲位を迫り、近衛天皇を即位させました。
待賢門院は翌年の康治元年(1142年)、自ら建立した法金剛院において落飾しています。3年後、久安元年(1145年)8月22日、長兄・実行の三条高倉第にて崩じました。
没後10年目、久寿2年(1155年)に近衛天皇が17歳で夭折し、璋子の生んだ四宮 雅仁親王が天皇に指名されました。これが後白河天皇で、璋子の長子 崇徳上皇がこれを不服として争う保元の乱が起こっています。
璋子は、西行法師が愛した人であるとも言われています。なんとなく、西行さんが魅かれた理由もわかるような・・・。
2009年11月23日
よしお君のお母さんです。
2009年11月22日
今月は所用があり、第1日・月の定休日と振り替えで、第4日・月曜日を休ませて頂きます。
よしお君です。
和歌山を旅した時のホテルにこのぬいぐるみとそっくりな犬がいて、遊んでもらいました。帰りに立ち寄ったテーマパークでこの犬を発見して!買ってしまいました(^^)
2009年11月21日
文明13年11月21日(1481年12月12日)室町時代の臨済宗大徳寺派の禅僧である一休宗純(いっきゅう そうじゅん)が、亡くなりました。とんちの一休さんで有名ですが、後小松天皇の落胤といわれ、漫画の人物とはちょっとイメージが違うようです。
応永元年、南朝、北朝の争いの2年後、南朝方といわれる母のもとに生まれました。
後小松天皇に愛され身もごったのでしたが、天皇を害しようと企んだと言われ、嵯峨の民家で、千菊丸(後の一休)を生みました。6歳で寺に入り、22歳の時、大徳寺派の寺 禅興庵の華叟宗曇(かそうそうどん)の門下に入りました。カラスの声に大悟したという話です。その後、諸国を放浪しながら禅の道を探索しました。奇行ともとれる風狂の精神に則った独特の行いが、多く見受けられます。
応仁の乱の後、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持(第47代)に任ぜられ、再興に尽力しました。塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建されています。
2009年11月20日
九条ねぎ
和銅4年(711)に京都に導入されて以来、栽培が続けられている古くからの野菜です。
江戸時代に現在の南区九条付近で品質の良いねぎが栽培された事から、九条ねぎの名がつきました。
甘うて、やらかいのんが、特徴どす。
パスタに入れて食べるのが、最近では好きです。
2009年11月19日
1960年(昭和35年)11月19日 歌人であり脚本家であった吉井勇が亡くなっています。
あの「かにかくに~」の歌碑でおなじみの方です。祇園白川沿いに、吉井氏が古希を迎えた年の1955年11月8日に、この歌碑は建てられました。
毎年、祇園甲部の芸舞妓が歌碑に白菊を手向けて吉井氏をしのぶ「かにかくに祭」が行われています。
かにかくに 祇園は戀し 寝るときも
枕の下を 水のながるる
勉強不足なもので、この歌しか知らなかったのですが、なかなか興味深い人物のようなのです。
伯爵家の生まれで、若くして胸膜炎(肋膜炎)を患って入院、
鎌倉の別荘へ転地療養した際に歌作に励み、『明星』に歌を発表。
耽美派の拠点となる「パンの会」を北原白秋らと結成しています。
『スバル』に戯曲を発表して脚本家としても名をあげています。
耽美頽唐な歌が多く、「遊蕩文学」とも呼ばれました。
最初の妻・徳子と離婚して隠居し、高知県香美郡の山里に隠棲しています。
創る歌も変化していったようです。
浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた国松孝子と再婚。
翌年、二人で京都へ移住しています。
第一歌集『酒ほがひ』に先の歌は入っていますが、『先達賛歌』という自選歌集の中に過去の人物について詠っているものがあります。
(小野道風)
道風が 自在の筆の あと見れば
玉泉帖は 字ごと飛ぶらし
三跡の 一人と思へば 道風の
文字はかしこし ほのぼのとして
(本阿弥光悦)
光悦の すぐれし文字の 冴えも知る
本阿弥切れの たふとさも知る
(池大雅)
いまもなほ 書の仙として おほらかに
九霞山樵(きゅうかさんしょう) うそぶきたまへ
(良寛)
つくづくと 良寛の字を 見ておれば
風のごとしも 水のごとしも
吉井氏が、先達の人々を想い、詠ったこれらの歌が、個人的に結構沁みる感じがして、もっと知りたいと思うようになりました。
2009年11月18日
11月9日と11月16日の
大徳寺 高桐院の紅葉の様子です。
9日
この日は、門前で引き返しました。
16日 連れがいたので、シャッターチャンスを待って粘る時間がなく、パシャパシャと撮ってきたものです。
葉が縮こまっているのも多くて、去年の方が美しかったかも?
2009年11月17日
第三月・火曜日は連休です。
ちゅー太郎
磁石が入っています。
先日、動物園で見つけて買ってしまいました。
年賀状準備のトラの写真を撮る為に行ったのですが、隅のほうで寝てばかりなので、話にならないというか、絵になりませんでした。
2009年11月16日
ピーターラビット
このぬいぐるみ、20万もしたのです!
大分前ですが、某銀行が、新規の定期預金をすれば、くれるというので、わざわざ20万預金して、もらったものです(^^)
2009年11月15日
天保6年11月15日(1836年1月3日)現在の高知県高知市上町(土佐国)に、坂本龍馬は生まれました。
慶応3年11月15日(1867年12月10日)河原町蛸薬師の近江屋母屋の二階にて中岡慎太郎と共に暗殺されました。享年33歳でした。
「俺は脳をやられた。もう駄目だ。もう、いかん」
河原町通蛸薬師下ル西側のコンビニ前の石碑周りも綺麗になりました。
事件が血にまみれたものであることを嫌がった地権者の方が、地碑を建てるのを拒否されたため、石碑の位置は少しずれています。実際の近江屋は、この石碑よりわずかばかり南にあったようです。
来年の大河が待ち遠しいです。龍馬は、どんな風に描かれるのでしょうね。
*明治39年(1906年)11月15日には、妻であったお龍が亡くなっています。
旧暦との違いはありますが・・・。
2009年11月14日
金福寺の門の左手に村山たか女が建てて、住んでいたという弁天堂がありました。
たか女が芸妓の頃、ひいきにしていた織物問屋を営む豪商が建てたという話です。
たか女は、文久2年(1862)11月14日の夜、隠れ家で捕らえられ、三条河原に襦袢一つの姿で3日3晩、生き晒しにされました。
尼僧に救われて出家。明治9年に没するまでの14年間の余生を金福寺にて過ごしています。享年67歳でした。
入って、左手に身代わり地蔵さんが安置されていました。
たか女の出生は、近江国犬上郡、多賀大社の尊勝院主・尊賀少僧都と般若院の娘との間に生まれたという説や、多賀大社の社僧と多賀の色町の芸者との間に生まれたという説などがあります。
いずれにしても公言できる出自ではなく、養女に出されたという事です。
18歳の時に井伊直弼の兄で後の第12代彦根藩主・井伊直亮に仕えましたが、そこを辞して祇園で芸妓となっています。
金閣寺長老・永学の子・常太郎(後の帯刀)を生み、世間体を憚った永学により、金閣寺の寺侍・多田源左衛門と結婚することになります。
この結婚は長くは続かず、たか女は常太郎を連れて近江国へ戻ることになります。
その頃、井伊直弼は、彦根藩主井伊直中の14男坊に生まれ、わずか三百俵の捨扶持で、自ら「埋木舎(うもれぎのや)」と名づけた住まいで鬱々とした日々を過ごしていました。
その埋木舎で、たか女は、直弼と直弼の後の腹心となる長野主膳と出会います。
不遇の時代の直弼の5歳年長の妾 たか女は、兄・直亮の嫡男と直亮の死が相次いだため、36歳にして第13代彦根藩主の座に就くことになった直弼に次第に疎まれるようになったようです。
たか女と常太郎母子は、長野主膳の保護の下、細々と暮らす事になります。
その後、大老職に就いた直弼は尊皇攘夷派への弾圧を強めます。安政の大獄です。
時を同じくして、たか女は京に出て、スパイ活動を開始しています。馴染みのある京で志士や公家などの情報を収集して長野主膳経由で直弼へ知らせたり、長野主膳と九条家家臣・島田左近との連絡係などを担っています。
万延元年(1860)桜田門外の変で、直弼が殺され、文久2年(1862)島田左近が殺され、翌月に主膳も藩命により斬られ、その3ヶ月後にたか女も捕らえられる事になりました。翌日おびき出された息子 帯刀も斬られてしまい、53歳のたか女は、「死罪1等減じ」、1人生き残ることになります。
この寺で、彼女は日々何を想い、考え、暮らしていたのでしょうか?美しすぎる尼僧で、修行の妨げになるからと、最初の寺を追い出されたという話も残っています。
生まれ年の干支である巳に守られていると信じていた たか女は、金福寺に巳にまつわる品々を遺しています。結構、リアルな巳が飾られていて、なにやら象徴的な印象を受けました。
柴の戸の しばしと云いて もろともに
いざ語らはん 埋火のもと
井伊直弼
直弼直筆のこの和歌も、たか女の遺品として、掛けられていました。
2009年11月13日
金福寺 今日は、猫編です。
お越しやす~。うちが、名無しの猫どす。
まぁ、「たま」とか「ミケ」とか好きに呼ばはる人もおすけどなぁ・・・。
そこへ靴入れて、お上がりやす。
ちょっと眠いけど、
座敷の方、ご案内させてもらいまひょか~。
こっちぃ~ついて来とおくれやす~。
ここ段がおすえ~。
気ぃ付けて、お上りやっしゃ~。
そこのボタン押してもろたら、説明しますよって。
まぁ、足くずして、
楽にして、お聴きやす。
けど、うちはこのテープ何遍も聴いてるし、眠うなるわ~。
やっぱり、畳は気持ちよろしなぁ~。
伸び しとこか。
ちょっと~。
遊んで~なぁ。
おっ、また客来たか?
ぼちぼちシーズンやし、忙しいなぁ。
そこ、段ありまっさかいなぁ~。
もう、座敷観はりましたんか?
ほな、庭の方 廻って、芭蕉庵行っとぉみやす。
ぼちぼち、
下りて来はる頃やなぁ。
上の方、まだちょっと(紅葉)早よおしたやろ?
この前あたりはえぇ感じやけどな~。
もうちょっと寒ぶなったら、丁度どっしゃろなぁ~。
お帰りどすか~。ほなそこまで。
入り口の紅葉、綺麗どっしゃろ。
またどうぞ、来とおくれやす~。
明日は、金福寺 村山たか女編です。
2009年11月12日
11月9日 左京区一乗寺の金福寺に、おじゃましました。
864年(貞観6年)慈覚大師円仁の遺志により、安恵僧都が創建し、円仁自作の聖観音菩薩像を安置したそうです。もともと天台宗でしたが、後に荒廃したために元禄年間(1688年~1704年)に円光寺の鉄舟によって再興され、その際に円光寺の末寺となり、天台宗より臨済宗南禅寺派に改宗されました。門を潜ると、右手に鮮やかな紅葉が出迎えてくれました。
上がり口に名物猫が、寝ていました(^^)
上の方(芭蕉庵のあたり)はまだ紅葉が進んでいないようです。
明日は、こちらの猫に遊んでもらった様子をアップします。
2009年11月11日
11月11日は、西陣織関係の団体で組織されている「西陣の日」事業協議会によって「西陣の日」と定められ、毎年記念式典が開かれているそうです。
西陣の礎を築いた先人への感謝、西陣と西陣織に関する歴史と伝統の再確認、業界の発展を祈念するために定められました。
応仁の乱の戦火が治まり、全国に散っていた織手達が京都に戻り、西軍の大将であった山名宗全が構えたといわれる戦陣跡あたりに住みついて機音を響かせる端緒となった日が11月11日であるため、昭和44年より、この日が定められたという事です。
北区紫野の今宮神社境内織姫社にて 、式典が行われているようです。
西陣織には従事していませんが、縁あって、この地に商いをしていますので、9日の月曜にちょっとお参りしてきました。今宮さんへのお千度参りも併せて・・・。
両側に建っているのは、杼(ひ)の形をした献灯です。
織姫神社は織物の神様として西陣の人々に深く信仰されています。
※ 杼(ひ)---織物を織るとき、機(はた)にかかっている経糸の開口部に、あらかじめ管巻きされた緯糸を通す舟形をした道具。
境内の舞台では、
七五三参りのキャンペーン人形?
ちらほらと紅葉も、始まっています。
2009年11月10日
1915年(大正4年)11月10日、京都・紫宸殿で大正天皇の即位の礼が行われました。
1928年(昭和3年)11月10日、昭和天皇の即位の礼が行われました。
先日の御即位20年記念京都御所特別公開の際には、今上陛下の即位の礼のお写真が南側の回廊に展示されました。
1990年(平成2年)の即位の礼に際して、京都御所から皇居へ高御座が運ばれるなど大掛かりな準備が行なわれ、同年11月12日に即位礼正殿の儀が行われました。
関東の地で即位した初めての天皇です。
(個人的には、ちょっと不満を感じてしまうところですね~。)
2009年11月09日
毎日、ブログを更新する事が日課となっていましたが、これが結構大変な作業で、ブログに追いかけられる日々となっている為、この度、定休日を設けることにしました。
m(_ _)m
店の定休日をブログの方でも、基本的に休みとする事にしました。
定休日は京都取材ではなく、身近な写真などをアップする予定ですので、よろしくお願いします。
今日は、最近話題のまねき猫ダック君です。
♪みんなのしあわせを~♪
2009年11月08日
794年(延暦13年)11月8日に桓武天皇は「この都を平安京と名付ける」との詔を下しました。
10月22日に遷都した翌月のことです。
京都アスニーのポーチ前庭には、幾何学的な文様が描かれています。
これは、この下にある平安宮の造酒司(みきのつかさ)の倉庫の柱穴を模った図形です。アスニー設立前の発掘調査の時に明るみに出た物です。
少し上って六軒町通出水角には宴の松原の石碑が建っています。
内裏造作の代替地ともいわれています。千本通に出て真っ直ぐ南に向かいながら、大極殿・朝堂院を通り越していく感じをイメージしながら、朱雀門に出ます。
西ノ京小堀町に建つ朱雀門址の石碑です。これより大内裏を振り向いたところ、現在の千本通の様子です。
当時の朱雀大路は、幅約84mですから、かなり広い通りです。二条駅東口には、その説明書きがあります。
2009年11月07日
以前に描いたこちらの山椒のイラストが、ちりめん山椒のパッケージデザインに採用されました(*^_^*)V
こちらの商品です。
50グラム390円と、お求めやすいお値段で
販売されています。
「朝採り市場」
京都府八幡市美濃山一ノ谷28-1
ゴルフ練習場スポーツアベニュー内
生産農家の直売所で、地元で朝採れた野菜などが販売されているところに、並んでいるそうです。
今年6月20日にオープンした「JAたわわ朝霧」(亀岡市篠町野条上又30番地)でも、販売されるかもしれません? こちらは未定です。
お近くにお越しの際は、是非お立ち寄りくださいm(_ _)m
送っていただいたので、早速ご飯にのっけてみました。
それでは、頂きます(^∥^)
2009年11月06日
聖護院だいこん
おでんに最適です。煮崩れしにくく、甘いだいこんです。
青味だいこん
今は絶滅した「郡大根」から生まれたと伝えられています。直径1~1、5cm、長さ12~15cmの細い大根で、すぐ曲がってしまう独特な形です。地上に出る首の部分が緑色をしています。祝儀用に欠かせないもので、吸い物の具や、青味の部分がキュウリの代用、刺身のつまに利用され、また漬物用として珍重されるようです。
2009年11月05日
明治2年11月5日(1869年12月7日)大村益次郎が大阪で亡くなりました。
二ヶ月前の9月4日に京都で関西の軍事施設視察時に、反対派浪士に襲われ襲撃された際の傷の悪化によるものでした。
明治維新草創時、外国の侵略に耐えうる統制のとれた軍隊をつくる事が必須であると考え、日本の国は日本国民全てで守るべきだという考えのもと、武士を廃止して、新しく徴兵制をしき、近代的な軍隊の建設を計画しました。しかし、急激な改革の計画を必ずしも好ましく思わない武士たちの不満が高まり、襲撃される事となり、志半ばで亡くなりました。
中京区三条通木屋町北西角に、道標の碑が建っています。
佐久間象山先生遭難之碑
大村益次郎卿遭難之碑
北へ約壱丁
そして、北に進んで、木屋町通御池上る西側に襲撃された宿の跡を示す石碑があります。
さらに東側にも宿所の跡を示す石碑が建てられています。
2009年11月04日
かぶの仲間は、日本で最も古くから栽培されている野菜の一つで、古事記の「吉備の菘菜(あおな)」がカブのことと見られるほか、日本書紀に持統天皇が栽培を推奨したと記されています。
聖護院かぶは、左京区聖護院地区で品質の良いものが採れたことから名づけられましたが、元の種は近江の国の堅田地方で作られていた近江かぶであったそうです。
享保年間(1716~1736)に聖護院の農家 伊勢屋利八が持ち帰り、栽培を続けるうち、扁平であったかぶがだんだん円形に近くなり、改良を重ねて現在のような大かぶとなったそうです。
かぶら蒸しに、千枚漬けにと、これからの季節欠かせへん京野菜どす。
2009年11月03日
1880年(明治13年)、日本の国歌として「君が代」が採用され、11月3日の天長節の日、初めて公に披露されました。
平安朝時代、文徳天皇(在位850~858)の皇子惟喬親王(これたかしんのう)に仕えたひとりの木地師が、江州小椋郷(現在の滋賀県東近江市)の君ケ畑から木地椀の良材を求め春日村に移り住み、江州の君ケ畑へ通う途中、自然に凝固、苔むして巨巌となっている珍しい石の状態を見て、ありのまま、「わが君は、千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」(天皇の御代が千年も八千年もいついつまでも、さざれ石が大きな岩になってそれがさらに苔が生えるほどにまでに、長く長くずっと続きますように)と詠みました。
都では見かけぬ珍しい石であり、秀ぐれた歌であるとして『古今和歌集』に採録されました。しかし、その男は身分が低かったので、「読み人知らず」の歌と扱われましたが、その後、朝廷から歌の上手さを認められ、石にちなんで藤原朝臣石位左衛門(ふじわらあそんいしいざえもん)という名前を授けられました。
この歌が、上一句を替えて国家の原歌となりました。
上記にように、岐阜県揖斐郡揖斐川町春日村では、記されています。
上の写真は、護王神社(上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町(京都御所蛤御門前))のさざれ石です。下鴨神社や北野の天神さんでも、見た事があります。
さざれ石は、学名を石灰質角礫岩と言います。これは石灰石が長い年月の間に雨水で溶解され、そのとき生じた粘着力の強い乳状液(鍾乳石と同質)が次第に小石を凝固して、だんだん巨石となり、河川の浸食作用により地表に露出したものです 。
2009年11月02日
2009年11月01日
年中、スーパーに売っているので、季節感が無くなっていますが、一応冬の京の伝統野菜の代表格
みず菜と壬生菜です。
みず菜
おあげさんと一緒に、さっと炊いたんが、何といっても好きどす。
高知に3年ほど暮らした時に、スーパーにみず菜が売ってへんかったら、どないしよ~と心配したのですが、近頃は他府県でも多く栽培されていて一先ずほっとしました。
しかし、いささか日差しが違うようで、夏場など青々として、太くて硬いものが売られていて、これはちょっと違うやろ~と感じたものです。
壬生菜
この時期、千枚漬けを、くるっと取り巻いている緑の鮮やかさが、印象的です。