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2009年10月27日

吉田松陰

後に明治維新に貢献する多数の門下生を輩出したことで有名な「松下村塾」の師「吉田松陰」は、理想の教育者として現在でもよく引き合いに出されます。
安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処せられました。享年30歳でした。

岡崎の府立図書館前に松蔭の50回忌にあたる明治41年(1908年)に建立された勤皇の思想を著す詩碑が建っています。江戸から長崎への途中、京都御所を拝したときの作だそうです。全然、読めませんが・・・。p8170.jpg
略歴
文政13年(1830年)長州藩の下級武士・杉百合之助の二男として生まれました。

嘉永7年(1854年)ペリー2度目の来航の際、密航計画を企てるも失敗、萩の野山獄に幽囚されます。

安政2年(1855年)、生家で預かりの身となるが、安政4年(1857年)叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き継ぎ、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、幕末の志士を育てます。

安政5年(1858年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結んだため、これを非難し、老中・間部詮勝の暗殺を企てます。長州藩は警戒して再び松陰を投獄。

安政6年(1859年)、幕府の安政の大獄により江戸に送られ、松陰は老中暗殺計画を自供し、斬首刑に処せられました。獄中にて遺書として門弟達に向けて「留魂録」を書き残しています。

その冒頭にある辞世の句

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
    留め置(おか)まし 大和魂


家族宛の『永訣書』には

親思う 心にまさる 親心 
    けふのおとずれ 何ときくらん


他にこのような歌も詠んでいます。

かくすれば かくなるものと しりながら  
    やむにやまれぬ 大和魂

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