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2009年10月20日

玉瀾(ぎょくらん)

享保12年頃、百合の娘 町は生まれました。祖母や母の影響を受け、才女であったようです。
絵画を柳沢淇園に学び、早くから母百合の和歌に絵を添えてもいたようです。
女流画家、歌人として玉瀾と号しました。別名を遊可(ゆか)とも松風とも言いました。結婚して、池玉瀾、書画において、父方の姓の、徳山玉瀾とも称していました。

現在の円山音楽堂のあたり、真葛ヶ原に夫 と共に暮らしていました。

仲睦まじい大雅と玉瀾(近世畸人世)p8247.jpg

当時の歌壇の権威である冷泉為村に入門を許された玉瀾は、ごわごわの木綿の衣服に、手土産のビク(魚籠)を下げて行き、女房達をおどろかせたようです。冷泉卿は後に、玉瀾に赤い前垂れを贈ったそうで、喜んだ玉瀾は外出にもその前垂れをして歩いたということです。

なつの夜の あさ沢ぬまの みなぞこに 
     影もみだれて ほたるとびかふ

子のなかった彼女の没後、母の名残の水茶屋は途絶えたと言われています。
p8251.jpg
夫婦の没後、その住まいの近くに弟子達が大雅の遺品を整理して、大雅堂を建てました。
「拾遺都名所図会」などにも残る洛東の名所となったいたその建物は、明治になって取り壊され、今は石碑がそのあとに建てられています。p8253.jpgp8252.jpg

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