2009年10月19日
百合女
梶女の養女 百合も、水茶屋の合間、母から手ほどきを受けた歌を楽しみとしていました。筆もなかなかのもので、短冊に書いた彼女の歌を求めて立ち寄る客も多かったようです。
祇園社のあたりの賑わい (拾遺都名所図会)
その頃、真葛ヶ原に徳山という元、幕府直参の武士が細々と暮らしていました。百合はこの貧乏浪人と添い、一人娘 町と共に暮らすようになりましたが、徳山の本家筋が絶え、その跡継ぎにと江戸からの使者がやってきました。共に江戸へ帰ろうという夫に、百合は身分の違いから、夫のさまたげになることを案じて、町と共に京に残る事を決意しました。
町の成長を楽しみに、「あなたの父は武士です。決して自分を軽んじないように」と言い聞かせていました。この百合の生涯は頼山陽の「百合伝」に残っています。
歌集「佐遊李葉(さゆりば)」は、享保12年(1727)に版となっています。
春雨
さびしさも いかでいとはむ 春雨に
ひもとく花の さかり待たれて
花風
見るひとの をしむ心を さぞとしも
しらずや花を さそふはるかぜ
寄河戀
うきしずむ 身こそつらけれ 戀ひわぶる
なみだの河の 深き淵瀬に
春夜戀
春のよは 軒もる月の かげだにも
なみだにかすむ ひとりねのとこ
この頃、祇園社近くの道端にムシロを敷いて自作の書画を売る貧乏画家がいました。
百合はこの青年の天分を感じ取り、娘 町を嫁がせます。
彼がやがて、江戸中期の文人画の名手となる池大雅です。
町も、玉瀾と号して画家、歌人として知られるようになります。
百合さんにとって、二人の仲睦まじい姿を見て過ごす晩年は、幸せな日々だったのではないでしょうか。
娘 玉瀾と共に金戒光明寺 西雲院の墓に眠っています。
- by zuzu
- at 13:29
comments
この辺のお話、超アバウトにしか知らなかったんですが、詳しく教えていただくと結構凄いお話なんですね。
江戸期の京都、名目だけの首都かと思ったらやっぱり都だったんですね。
京に生きた、いろいろな人達の人生を調べてゆくと、
また町並みを見る気持ちが変わってきて
考えさせられます。