2009年10月10日
千代の古道 梅宮大社-生田口
平安時代の貴族が北嵯峨に遊行の折りに通った道を、千代の古道(ちよのふるみち)と呼んでいます。
京福電車北野線 常盤・鳴滝あたりから、音戸山(おんどやま)の西側に沿って広沢池、大覚寺へとたどる道とも、梅宮大社辺りから大覚寺へ向かう道とも云われています。
この道であったと決まっているものでもないようですが、現在はロータリークラブによる歌碑があちこちに立てられています。
1980年に、大覚寺から生田口までの約2キロ間に7つの道標を建て、2005年に梅宮大社-生田口の約1キロ間に道標5基を建立したそうです。
新古今和歌集の藤原定家の歌など、平安時代の多くの歌にも詠まれていて、十二単衣の姫君や供連れの公達たちが牛車を仕立てて、先日の観月の夕べのような水遊びやお月見のために通ったのかと思うと、何か楽しげで、興味が湧きます。
今日は梅宮大社-生田口の道を辿ってみました。
梅宮大社の側道を東へ
北へ向かう道の脇にありました。
夕されば 門田の稲葉 おとづれて
蘆のまろやに 秋風ぞ吹く
大納言経信(だいなごんつねのぶ)
白河天皇の嵐山行幸の際、詩・歌・管弦の三船を浮かべ、それぞれに秀でた人を船に乗せましたが、遅刻してきて、どの船でもよいから岸に着けてくれと呼びかけた人です。
以来、「三船の才人」と呼ばれました。
この道を北へ、左のほうにカーブしながら道は続きます。
曲がり角のブロック塀に案内の→がありました。
さらに北へ
石碑が見えてきました。
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
雲隠れにし 夜半の月かな
紫式部
さらに北へ進み、右へ曲がる道の左側にありました。
夜をこめて 鳥の空音は はかるとも
よに逢阪の 関はゆるさじ
清少納言
高田橋を渡って、北へ
今度は、道の右側にありました。
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ
わが衣手は 露にぬれつつ
天智天皇
さらに北へ進んで三条通に出る角、大黒屋前に古い石碑と真新しい石碑がありました。
小倉山 峯のもみじ葉 こころあらば
いまひとたびの 御幸またなむ
藤原忠平
宇多上皇が紅葉の小倉山に感嘆して、わが子醍醐天皇にも行幸するよう勧めたのを、忠平が天皇に伝えて、詠んだ歌です。
歌は小倉百人一首からのセレクトようですが、選ばれた理由が今一理解できないのもあるような?
かといって、小倉百人一首の中には、千代の古道にふさわしい歌もあまりないようですが・・・。
- by zuzu
- at 09:05
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