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2009年10月31日

日本茶の日 栄西

10月31日は日本茶の日とされています。

建久2年(1191年)10月31日、臨済宗の開祖・栄西が、宋から帰国し、お土産に持参したお茶を日本に広めた事に因んでいます。

我が国に茶の種が入ったのは、この時が初めてではなく、古く奈良朝時代ではないかとも言われています。平安時代には、貴族・僧侶の上流社会の間にのみ喫茶の慣わしがありました。

広く喫茶を奨励し、一般社会にまで拡大したのは、栄西によるものです。
『喫茶養生記』の序で、栄西はこう述べています。
「茶は養生の仙薬なり。延齢の妙術なり。」

僧においては、座禅の際、眠気覚ましには特効薬であり、一般の人に対して茶は保健上から良薬であると薦めています。

東山区大和大路通四条下る小松町の建仁寺に茶碑が建てられています。p8154.jpgp8153.jpgp8152.jpg
平成の茶苑p8149.jpg

桑の碑p8150.jpgp8151.jpg
『喫茶養生記』の上巻には茶の効用、下巻に桑の効用を詳述しているそうです。
病には五種の相あり。一に飲水病、二に中風、三に不食、四に瘡病、五に脚気。
そしてこれらの諸病を治する妙薬は『桑』であり、これを服すれば長寿無病を得られるということです。
現在でも桑茶は美容・ダイエット・健康に良いと広く販売されてますものね~。
そしてこれらを囲む垣根は全部、茶の木ですp8133.jpgp8147.jpgp8146.jpg
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かたわらで洗顔中の猫p8144.jpgp8143.jpgp8142.jpgp8141.jpgp8140.jpgp8139.jpgp8138.jpg
顔は洗ろたけど・・・。p8137.jpg
やっぱ、眠い・・・。p8136.jpg
ちょっと、さっきぃからそのシャッター音うるさいねんけど!p8135.jpg
目ぇ、覚めてしもたやんか!p8134.jpg

2009年10月30日

香道

10月30日は香りの記念日です。

平成4(1992)年、七尾市で第7回国民文化祭「世界の香りフェアIN能登」が開催されたことにちなみ、石川県七尾市が制定しました。
七尾市のシンボルにもなっている丁子は、香辛料や薬として利用されているクロープのことです。

という訳で、日本における香りの歴史を少し調べてみました。

推古3年(595) 香木が淡路島に漂着して以降、仏教に利用されるようになったと日本書紀にあります。それ以前に仏教と共に伝わっっていたのではないかとも云われています。

天平勝宝6年(754) 鑑真和尚が渡来の際に、蜜を用いての合香〈あわせこう〉の方法を伝え、これが薫物〈たきもの〉として発展してゆきます。

薫物とは、現在も用いられる練香にあたり、沈香や丁子・白檀・甲香などの香木を粉末にして、好みに応じて麝香(じゃこう)などを加え、梅肉や蜂蜜で練り固めたものです。

天平勝宝8年(756) 聖武帝崩御後、遺物として「蘭奢待(黄熟香)」が正倉院へ納められています。

平安時代以降、貴族達の楽しみとして、衣服・髪・手紙等に香をたきこめるようになります。

左大臣藤原冬嗣が、「梅花(ばいか)」「侍従(じじゅう)」・「黒方(くろぼう)」の三種の薫物〈たきもの〉を創案し、「荷葉(かよう)」「菊花」「落葉」もこの頃、作られたようです。
これらを、特に「六種の薫物(むくさのたきもの)」と呼び、現在にも伝えられています。

薫物の香りをたき較べて鑑賞し、優劣を競う「薫物合」(たきものあわせ)という貴族の遊びへと発展していきます。「黒方」「梅花」「荷葉」「侍従」は源氏物語にも登場しています。

鎌倉時代には薫物から沈香へ移行してゆきます。禅宗の影響等により、練って作る薫物よりも沈香という香木を薄片に削ったものを加熱して芳香を楽しむ方が武士の嗜好に合うようになったのです。

そして、二種以上の香木を用いる「組香」(くみこう)に発展し、「名香合」(めいこうあわせ)といわれるものになります。
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室町時代の東山文化のころ、茶道や華道が大成するのと時を同じくして作法なども大成されてゆき、現在の形に近いものとなったようです。p8159.jpg
下京区堀川通西本願寺前の薫玉堂(くんぎょくどう)さんでは、「香道」体験を気軽に楽しむ事ができます。
歴史を教わったあと、香室にて「三種香」を、体験します。

三種類の香木から、それぞれ3つの薄片を切り取って、9個の包みを作ります。
それらの香包みの中から無作為に3つの包みを取り出して、それぞれの香を聞きます。
一回目から、3回目までに同じ香りのものがあったか、全部同じか、もしくは全部違う香りであったか?を聞き分けるというものです。
座敷に座った人たちが順に香を聞いて、3つの香炉を隣に廻してゆきます。

記紙(きがみ)に三本の縦線を引きます。  
|||
右から、一回目、二回目、三回目の意味です。
そして、同じ香りであったと考える回の線の上を横棒で繋ぎます。
組み合わせは5通りです。
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それぞれに名前が付いていて、香の図の下にその名前も記載します。  
確率は5分の一ですから、初心者でも、まぐれであたるかも?と期待出来たりします(^^)

よくデザインとして見かける「源氏香之図」は、5種類の香によって聞き分けるもので、52種類の図に源氏物語の巻名がつけられています。p8158.jpgp8157.jpg
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2009年10月29日

武野 紹鴎

室町時代後期 弘治元年閏10月29日(1555年12月12日)、堺の豪商で茶人の武野 紹鴎(たけの じょうおう)が亡くなりました。茶道中興の祖といわれています。


上洛して連歌師を志し三条西実隆に学ぶかたわら、村田珠光の愛弟子である藤田宗理に茶の湯を学び、連歌の美意識をもって、珠光の侘び茶をより深める事となりました。

定家の『詠歌大概之序』の講義を聞き、

見渡せば 花も紅葉も なかりけり
     浦のとまやの 秋の夕暮

この定家の歌のなかに草庵の侘び茶の理想を見いだしたと云われています。

享禄5年(1532年)、世俗を棄て茶人として生きようと剃髪し、紹鴎と名乗ります。
このとき
種まきて おなじ武田の 末なれど
    荒れてぞ今は 野となりにける
と詠み、姓を武田から武野に変えたそうです。

後に堺に戻り、父が経営していた皮革問屋を引継ぎますが、経営は番頭たちに任せ、ひたすら堺の茶道の興隆と門人の育成に尽力しました。その一人が千利休です。

中京区室町通四条上る東側に菊水の井と呼ばれた名水があり、この地に紹鴎の邸宅があったそうです。p8162.jpgp8161.jpg

隣に夷堂があったため恵比寿大黒に掛けて「大黒庵」と名付けられたという事です。
「菊水」と掘り込んだ石の井戸枠が発掘されています。
菊水の名は能楽「菊慈童」にある菊の露を飲んで不老不死となったという中国の故事に起因しています。
祇園祭の「菊水鉾」はこの名水に因んでいます。

2009年10月28日

鈴木其一

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細見美術館の琳派展XII 「鈴木其一 ― 江戸琳派の風雲児 ―」前期の部を観てきました。

琳派の幕開けは江戸初期、俵屋宗達と本阿弥光悦の出会いに始まり、尾形光琳・乾山とその作風を継承した酒井抱一へと移り、その門下筆頭の弟子 鈴木其一へと受け継がれ、変化してゆきます。

その軽やかな優美さと斬新さは、気持ちを高揚させてくれるように思います。

文読む遊女図 p8168.jpg
其一の軽快な人物描写に師の抱一の漢詩と俳句が添えられた師弟合作の作品です。

雪中竹梅小禽図 双幅p8167.jpgp8166.jpg
吹きつけられた胡粉(ごふん)が平坦な画面から少し盛り上がっていて、あたかも今この画面に雪が降りかかったかのようです。

歳首の図p8164.jpg
賑やかな描表装とシンプルな本紙のからみ具合がユニークでめでたい作品です。

糸瓜に朝顔図p8165.jpg
真ん中に据えられた糸瓜と単純化された朝顔、細やかな蔓の流れが美しくもユーモラスな印象を受けます。
弓張月図p8163.jpg

天皇を脅かした鵺(ぬえ)を射落とした源三位頼政は近衛天皇から、獅子王という御剣を賜りました。

取次ぎの任にあたった左大臣藤原頼長は、頼政にむかってこう詠みました。

「ほととぎす名をも雲井にあぐるかな」

(ほととぎすが空高く鳴き声を立てているが、それと同様に
そなたも宮中に武名をあげたことよ)

これに対して頼政は、すぐさまこう受け答えしました。

「弓はり月のいるにまかせて」

(弓を射るにまかせて、偶然にしとめただけです)と謙遜したという文武両道に秀でた頼長の逸話を描いています。

2009年10月27日

吉田松陰

後に明治維新に貢献する多数の門下生を輩出したことで有名な「松下村塾」の師「吉田松陰」は、理想の教育者として現在でもよく引き合いに出されます。
安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処せられました。享年30歳でした。

岡崎の府立図書館前に松蔭の50回忌にあたる明治41年(1908年)に建立された勤皇の思想を著す詩碑が建っています。江戸から長崎への途中、京都御所を拝したときの作だそうです。全然、読めませんが・・・。p8170.jpg
略歴
文政13年(1830年)長州藩の下級武士・杉百合之助の二男として生まれました。

嘉永7年(1854年)ペリー2度目の来航の際、密航計画を企てるも失敗、萩の野山獄に幽囚されます。

安政2年(1855年)、生家で預かりの身となるが、安政4年(1857年)叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き継ぎ、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、幕末の志士を育てます。

安政5年(1858年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結んだため、これを非難し、老中・間部詮勝の暗殺を企てます。長州藩は警戒して再び松陰を投獄。

安政6年(1859年)、幕府の安政の大獄により江戸に送られ、松陰は老中暗殺計画を自供し、斬首刑に処せられました。獄中にて遺書として門弟達に向けて「留魂録」を書き残しています。

その冒頭にある辞世の句

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
    留め置(おか)まし 大和魂


家族宛の『永訣書』には

親思う 心にまさる 親心 
    けふのおとずれ 何ときくらん


他にこのような歌も詠んでいます。

かくすれば かくなるものと しりながら  
    やむにやまれぬ 大和魂

2009年10月26日

後白河天皇 即位

久寿2年(1155年)近衛天皇が崩御すると、鳥羽上皇は美福門院(得子)の養子となっていた守仁親王(二条天皇)を即位させたいと考えますが、守仁はまだ年少であり、尚且つ存命中である実父の雅仁(後白河天皇)を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったため、やむなく中継ぎとして雅仁を立太子しないまま29歳で即位させる事としました。

7月24日、後白河天皇、高松内裏(高松殿)にて践祚(せんそ)
9月、鳥羽法皇主導によって守仁の立太子
10月25日、もしくは26日、後白河天皇即位

(桓武天皇以後、三種の神器を先帝から受け継ぐことを践祚、皇位についたことを天下に布告することを即位というようになりましたが、現在はその区別は無くなっています。)

本来、新帝践祚→即位→立太子の順で行われるものが、この時は順序が逆であったそうです。
中京区姉小路通釜座東入北側(高松神明社前)
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この付近が高松殿址となっています。p8172.jpgp8173.jpg
その後の保元の乱(1156年)では、ここが天皇方の拠点となり源義朝や平清盛が参集しましたが、平冶元年(1159年)に焼失しました。

2009年10月25日

松林寺

平安京の内裏跡を歩いていて、真新しい門に出会いました。中をのぞくと、よくブログで目にしていた風景が・・・。p8178.jpgp8177.jpg
聚楽第の遺構(外堀の一郭)が残ることで有名な、松林寺です。門が新しくなってしまったのですね。p8175.jpg
通称「やす寺」と呼ばれる浄土宗鎮西派寺院です。
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大内裏の諸殿舎は、火災や大風などでたびたび被害を受けその都度復興されましたが、11世紀になって天皇が大内裏外の里内裏に常住するようになり、豊楽院は康平6年(1063)年焼失、朝堂院は治承元年(1177)年焼失、ともに再建されませんでした。

13世紀になるとほとんどの殿舎を失い、大内裏の跡地はいつしか内野(うちの)と呼ばれる荒れ野になりました。
聚楽第は豊臣秀吉の京都における邸宅として、この内野に建築されました。天正13年(1585)に関白に任官後、翌年から聚楽第の造営を始め、同15年年に完成しました。聚楽とは「長生不老の楽しみを聚(あつ)」めるという意味です。
文禄4年(1595)の秀次の謀反の疑い、高野山に追放、切腹の後、聚楽第は破却されました。

江戸時代初期,二条河原町付近に創建された松林寺は、元禄(1688~1704)の初年にこの地に移転したそうです。

さらに、興味を引かれるのは、幕末期に京都見廻組の与頭・佐々木只三郎がこの松林寺に寓居していたと伝えられている事です。
慶応3年(1867)の近江屋での坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺に関与していたとも言われる人物ですからね。

なんとも忙しい歴史がここに眠っています。
頭の中で、光源氏と姫君がた、秀吉に秀次、佐々木只三郎が走り回ってしまいます(^^)

2009年10月24日

桜鶴苑庭園

南禅寺一帯に点在する庭園の監修及び、作庭を行ったことで有名な「7代目小川治兵衛」の庭の一つである「桜鶴苑庭園」が無料公開〔10月20日(火)~30日(金)の内の、月・火・木・金曜日のみ〕されているという事で出掛けてみました。

南禅寺三門に至る道の北側(金地院向かい)にワタベウエディングの桜鶴苑(おうかくえん)はあります。
ウエディングだけでなく、食事利用もできるそうです。p8179.jpg
門を入って、玄関の方へは行かず、すぐ右手のくぐり戸から入り、「植治の庭」のみの見学となります。
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茶室p8207.jpgp8206.jpgp8205.jpgp8204.jpgp8203.jpg
お庭へとp8202.jpgp8201.jpgp8200.jpgp8199.jpg
回遊式庭園p8198.jpgp8197.jpgp8196.jpgp8195.jpgp8194.jpg
池の中にはタニシの作った文様がp8193.jpg
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一周しました。p8180.jpg

2009年10月23日

出雲阿国

寛永六年(1629年)10月23日、江戸幕府が風紀を乱すとして、女歌舞伎・女舞・女浄瑠璃を禁止しました。
歌舞伎といわれる最初の演者は出雲阿国であるといわれています。
出雲大社の巫女であった阿国は、文禄年間に出雲大社勧進のため諸国を巡回しました。最初は「ややこ踊り」といわれるものであったようです。

慶長八年春、京都に小屋をかけた出雲阿国は、男装をして茶屋遊びをする男をまね、流行歌に合わせて、踊りを披露する「かぶき踊り」を始め、大衆の心を虜にしてゆきます。
後にこれを真似た「遊女歌舞伎」が流行しましたが、風紀上、好ましくないと禁止、若衆歌舞伎も慶安5年 (1652年)に禁止され、野郎歌舞伎となり、現代へと連なってゆきます。
川端四条上るに南座を見上げるように、出雲阿国の像が建てられています。p8212.jpg
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桜も咲き始めていました。多分、十月桜かと?p8209.jpg

2009年10月22日

平安遷都

泣・く・よ(794) 坊さん 平安遷都
794年(延暦13年)10月22日は、平安遷都の日です。

翌月、11月8日に桓武天皇は、「この都を平安京と名付ける」と詔を下されました。

平安京の造営は、まず大内裏から始められ、続いて京(市街)の造営を進めたと考えられています。
船岡山を背に、大内裏は築かれました。平安京四神(しじん)の玄武にあたる山とされています。

北に高い山・丘や建物(玄武の相)   船岡山p8216.jpg

東に川の流れ(青龍の相)   鴨川 p8215.jpg

南に低地(朱雀の相)   巨椋池(おぐらいけ)p8214.jpg

西に道・道路(白虎の相)    山陰道 p8213.jpg

四神相応(しじんそうおう)(天の四方の方角を司る「四神」の存在に最もふさわしいとされる地形が存在する土地)の理に則って建都されているそうです。
この四つの相を持つ土地を「四神相応の土地」と言い、平安京は最高の地相と考えられました。

大内裏を巡ってみました。p8219.jpg
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赤丸白抜きの番号順に
①朝堂院(ちょうどういん) 大極殿と14棟の殿社から構成された正庁p8236.jpg

②大極殿(だいごくでん)p8239.jpgp8240.jpg
大極殿にて草を食む猫p8238.jpg
ちょっと、カメラ目線をお願いしました。p8237.jpg
③内裏 弘徽殿(こきでん)p8225.jpgp8224.jpg
④豊楽殿(ぶらくでん)p8235.jpgp8234.jpg
国家的饗宴に使われていました。p8233.jpg
⑤内裏 承香殿(じょうきょうでん)p8223.jpgp8222.jpg
⑥内裏 昭陽舎p8221.jpg
後宮五舎のひとつ。
⑧内裏 宜陽殿(ぎようでん)p8230.jpg
累代の重宝を納めたところp8229.jpg
⑨内裏 内郭回廊p8226.jpg
⑩内裏 綾綺殿(りょうきでん)p8228.jpg
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⑬酒司倉庫(みきのつかさそうこ)p8220.jpg
(34)一本御書所(いっぽんごしょどころ)p8232.jpg
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(35)大蔵省p8217.jpg

2009年10月21日

池大雅

玉瀾の夫 池大雅は、享保8年(1723年)に京都で生まれ、はじめ二条樋ノ口(二条木屋町)に住んでいましたが、後に聖護院や、知恩院西の袋町に移り、結婚して、真葛ヶ原に定住しています。
与謝蕪村とともに、日本の文人画(南画)の大成者とされています。

ある日の事、絵の仕事で難波に出立した大雅は、かんじんの筆を家に置き忘れ、気づいた玉瀾が、追いかけて行き、建仁寺の脇で、夫に追いつきました。「筆をお忘れです。」と差し出した妻に、大雅は「どちらのかたですか。よく拾ってくださいました。」と鄭重に礼を言って、足早に立ち去ったそうです。絵のことしか頭にない夫に苦笑しながら、そのまま見送ったという、愉快なエピソードが残っています。

悠々自適の晩年を過ごし、53歳で没しています。遺言により、上京区千本寺之内東入るの浄光寺にお葬られました。p8243.jpgp8244.jpgp8242.jpgp8241.jpg
その8年後、玉瀾も亡くなりましたが、なぜか、夫と一緒の墓ではなく、黒谷さんに埋葬されています。

2009年10月20日

玉瀾(ぎょくらん)

享保12年頃、百合の娘 町は生まれました。祖母や母の影響を受け、才女であったようです。
絵画を柳沢淇園に学び、早くから母百合の和歌に絵を添えてもいたようです。
女流画家、歌人として玉瀾と号しました。別名を遊可(ゆか)とも松風とも言いました。結婚して、池玉瀾、書画において、父方の姓の、徳山玉瀾とも称していました。

現在の円山音楽堂のあたり、真葛ヶ原に夫 と共に暮らしていました。

仲睦まじい大雅と玉瀾(近世畸人世)p8247.jpg

当時の歌壇の権威である冷泉為村に入門を許された玉瀾は、ごわごわの木綿の衣服に、手土産のビク(魚籠)を下げて行き、女房達をおどろかせたようです。冷泉卿は後に、玉瀾に赤い前垂れを贈ったそうで、喜んだ玉瀾は外出にもその前垂れをして歩いたということです。

なつの夜の あさ沢ぬまの みなぞこに 
     影もみだれて ほたるとびかふ

子のなかった彼女の没後、母の名残の水茶屋は途絶えたと言われています。
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夫婦の没後、その住まいの近くに弟子達が大雅の遺品を整理して、大雅堂を建てました。
「拾遺都名所図会」などにも残る洛東の名所となったいたその建物は、明治になって取り壊され、今は石碑がそのあとに建てられています。p8253.jpgp8252.jpg

2009年10月19日

百合女

梶女の養女 百合も、水茶屋の合間、母から手ほどきを受けた歌を楽しみとしていました。筆もなかなかのもので、短冊に書いた彼女の歌を求めて立ち寄る客も多かったようです。
祇園社のあたりの賑わい (拾遺都名所図会)p8248.jpg

その頃、真葛ヶ原に徳山という元、幕府直参の武士が細々と暮らしていました。百合はこの貧乏浪人と添い、一人娘 町と共に暮らすようになりましたが、徳山の本家筋が絶え、その跡継ぎにと江戸からの使者がやってきました。共に江戸へ帰ろうという夫に、百合は身分の違いから、夫のさまたげになることを案じて、町と共に京に残る事を決意しました。
町の成長を楽しみに、「あなたの父は武士です。決して自分を軽んじないように」と言い聞かせていました。この百合の生涯は頼山陽の「百合伝」に残っています。

歌集「佐遊李葉(さゆりば)」は、享保12年(1727)に版となっています。

春雨
   さびしさも いかでいとはむ 春雨に
       ひもとく花の さかり待たれて

花風      
   見るひとの をしむ心を さぞとしも
       しらずや花を さそふはるかぜ

寄河戀
   うきしずむ 身こそつらけれ 戀ひわぶる
       なみだの河の 深き淵瀬に

春夜戀
   春のよは 軒もる月の かげだにも
       なみだにかすむ ひとりねのとこ


この頃、祇園社近くの道端にムシロを敷いて自作の書画を売る貧乏画家がいました。
百合はこの青年の天分を感じ取り、娘 町を嫁がせます。

彼がやがて、江戸中期の文人画の名手となる池大雅です。
町も、玉瀾と号して画家、歌人として知られるようになります。

百合さんにとって、二人の仲睦まじい姿を見て過ごす晩年は、幸せな日々だったのではないでしょうか。
娘 玉瀾と共に金戒光明寺 西雲院の墓に眠っています。p8246.jpg
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2009年10月18日

梶女

櫛まつりの女性風俗の中に出てきたお梶さんについて、まとめてみました。
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江戸時代中期の歌人で、本名は梶。梶女とも祇園梶子(ぎおんかじこ、生没年不明)とも呼ばれています。祇園社の門前の簡素な水茶屋の娘でした。

梶女の‘歌人茶屋‘のたたずまい
        (近世畸人伝より)
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「祇園石之下鳥居下之方」に、その水茶屋「松屋」はあったそうです。
祇園社いまの八坂神社には、昔、石段下と東大谷参道の中ほどに東山通に面して〈下の鳥居〉があり、その脇あたりにあったのではないかということです。(南の正門脇とも?)
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独学で学んだ和歌が評判となり、通称‘歌人茶屋‘と呼ばれるほどで、彼女の歌を目当てに訪れる客が多かったといいいます。


こひこひて また一とせも くれにけり
     なみだの氷 あすやとけなん

14歳の時に‘歳暮恋‘との題を与えられて詠んだこの歌は、一躍、京中に知られました。

歌人冷泉為村にも歌才を愛されるほどで、伴蒿蹊著『近世畸人伝』などにも取り上げられています。その歌才は、旅人の口伝えに、全国に広まることとなりました。

市井の女性として初めての歌集『梶の葉』を上梓し、その挿絵は宮崎友禅斉が描きました。
序には宝永3年(1706)秋文月の日付があります。

七夕によみて手向け侍りし、
    世の人の あだし心に うつばさや
        一夜の星の たえぬちぎりを

菊と題して、
    つゆになほ にほいもふかく さきそふや
        秋のいろなる 庭の白菊


春帰らんといひて、故郷へ行きける人のもとへ、
    春こんと いひし言のは たがへずば
        さかでや花も 人をまつらん

夕立
    ゆふたちの はれて涼しき くさむらは
        秋とやいはん つゆのつきかけ

立秋、
    秋きぬと けさより袖に ふく風の
        おとはかはらで 身にやしむらん

むかしを思い出づる事侍りて、
    つらくのみ すぎこしかたを しのべとや
       うきひとりねに たてる俤(おもかげ)

言い寄る人も多かったようです。
    君故に まよひ来にけり あづまじの
        しのぶこころを 哀ともみよ
と、恋の歌を手渡されて、さらりと返しています。
返し
   われにのみ なにかはまよふ あづまじや
        また異方に 人忍ぶらん

生涯独身で、百合子という女児を養女とし、店を継がせました。百合子とその娘の町子(池大雅の妻、玉瀾)も歌人として知られています。
                         

2009年10月17日

阿仏尼

弘安2年(1279年)10月16日、阿仏尼は相続問題を幕府に訴訟するため、鎌倉へ下りました。このときの紀行と鎌倉滞在のことを記した日記が、後に「十六夜日記」と呼ばれるようになりました。
訴訟の結果がわかる前に鎌倉で没したという説と、京都へ帰った後に没したとの説があります。

平度繁(たいらののりしげ)の養女であった阿仏尼は、安嘉門院に仕え、女房名を安嘉門院四条(あんかもんいんのしじょう)または、右衛門佐(うえもんのすけ)といいました。

10代の頃、失恋のショックから出家しましたが、30歳頃藤原為家の側室となり、嵯峨中院山荘に為家と同棲して為相・為守らを産むこととなります。

藤原定家の子 為家は後嵯峨院歌壇の中心的な歌人として活躍していましたが、正妻 宇都宮蓮生の娘との間に為氏、源承、為教ほか数人の子供がありました。

為相が生まれた弘長3年(1263)には為家66歳、嫡子である為氏は42歳、阿仏尼も為氏とほぼ同年齢であったと推定されています。

為家は年老いてから生まれた為相を可愛がり、嫡子為氏に不孝行為があったとして義絶、為氏に譲っていた播磨国細河荘を悔返し、為相に譲り与えました。この時、為氏は52歳、為相は11歳でした。

為家が建治1年(1275)78歳で没した後、為氏は、細河荘の悔返と為相への譲与を不当として取り戻し、阿仏尼は公家と六波羅探題に提訴しましたが、らちがあかず、関東に下向し、直接鎌倉幕府に訴えることを決意しました。
このとき阿仏尼はすでに60近い年齢で、幼い子供たちの為に、必死の思いでの旅立ちであったのでしょう。京を出て14日目、鎌倉に着いた彼女は、月影の谷に住まいし、鎌倉武士に歌を教えながら、訴えに全てをかけましたが、裁決での勝利を得ることなく、亡くなりました。

最終的に為相のものと定まったのは、正和2年(1313)阿仏尼没後、30年のことでした。定家・俊成が書き残した和歌の本も、共に為相に託されました。

こうして、藤原北家藤原道長の6男長家を祖とする藤原氏の流、御子左家(みこひだりけ)は、藤原俊成・定家・為家と和歌の家としての地位を確立し、為家の子の代に、嫡流 二条為氏(二条家)、その弟 京極為教(京極家)、冷泉為相(冷泉家)と分かれることとなりました。

二条家・京極家の家系は南北朝時代までに断絶し、冷泉家(上冷泉家・下冷泉家)及びその庶流の入江家のみが現在残っています。

京都に残る阿仏尼の墓は、南区大宮通九条下がる東側の大通寺にあります。p8255.jpgp8257.jpgp8256.jpg
彼女が守った冷泉家が、今日まで続いている事をどのように感じているのでしょうか?

2009年10月16日

藤原道長 

寛仁2年10月16日(1018年11月26日)は、道長の三女 威子の立后の日です。この日、道長の邸宅では諸公卿を集めて祝宴を開き、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠みました。
この歌を詠んだのは、道長の邸宅 土御門第で、現在の京都御苑内 仙洞御所のあたりです。

一条天皇に長女の彰子を入内させ皇后(号は中宮)とし、次の三条天皇には次女の妍子を入れて中宮となすも、三条天皇と対立、天皇の眼病を理由に退位をせまり、彰子の生んだ後一条天皇の即位を実現して摂政となる。
摂政を嫡子の頼通に譲り後継体制を固め、後一条天皇には三女の威子を入れて中宮となし、「一家立三后」と驚嘆されたというのが、この歌に至る道長のサクセスストーリーです。ただ、この歌は自身の日記には記されてはいません。実資の日記に書き残されて現代に伝わっているものです。

退位を迫られた三条天皇が、月を見て詠んだ歌は、小倉百人一首にも入っている次の歌です。

心にも あらでうき世に ながらへば
    恋しかるべき 夜半の月かな

長和4年(1015年)12月に詠まれたもので、翌年正月に退位、さらにその翌年に崩御されています。

もっとも、道長の月もすぐに欠け始めたようで、その後間もなく、病がちとなった道長は、出家して、土御門殿の東に御堂を立て、法成寺阿弥陀堂を完成させ、来世の幸福を望むようになりました。
上京区荒神口通寺町東入北側に石碑が残るのみです。
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2009年10月15日

西行法師

鳥羽院の北面の武士であった佐藤義清は保延6(1140)年10月15日、23歳で出家し、円位を名乗り、後に西行と名乗りました。
北面の武士とは、白河上皇が院政を開始してほどなく創設された、院御所の北面を詰所とし、上皇の側にあって身辺の警護あるいは御幸に供奉した廷臣・衛府の官人らの事です。

武勇にも秀で、蹴鞠に和歌にと非凡な才覚を持つ、何不自由ない権力者の嫡子が若くして出家したことは、当時突然の出来事であり、驚かれたようです。
出家理由は、友人の急死にあって無常を感じたという説が主流ですが、失恋説もあり定かではありません。
西行さんゆかりの地はあちこちにありますが、祇園円山公園南側にも西行庵が再建されて残っています。
入り口p8268.jpgp8269.jpg
「西行堂」p8266.jpgp8265.jpg
西隣 西行庵の母屋「浄妙庵」
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さらに西隣 芭蕉堂p8263.jpg
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この堂は、江戸時代中期、松尾芭蕉を忍ぶため、芭蕉にゆかりの深いこの地に加賀の俳人高桑闌更が営んだことに始まっています。西行を心の師とし、西行を慕っていた芭蕉のために、この地を選んでいます。

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西行庵は、この双林寺の飛び地となっています。p8260.jpg


鈴鹿山 浮き世をよそに ふりすてて
 いかに成り行く 我が身なるらむ

出家して、伊勢の方へ行ったときの歌です。平安から鎌倉時代へとその時代の変化の中に、感受性の強い人が、悩みながらあちこち旅をしてゆく様は、和歌に凝縮されて残っているようです。

西行さんの歌は、桜や月・恋を詠ったものが多いですが、自然を愛し人を想い、それを歌に託す事が、経を唱える事と同意義であるかのようです。
松山を訪れ、崇徳院の足跡を訪ね歩き、なにも残っていない事を嘆き、次の歌を詠んでいます。

松山や 波に流れて こし舟の
     やがてむなしく なりにけるかな


もっとも有名なのは、やはりこの歌でしょうか。

願はくは 花の下にて 春死なむ
    その如月の 望月の頃


このように歌い、まさにこの時期に亡くなっています。これは結構、うらやましい話です。理想の死に際を迎えられるなんて、やっぱり修行のなせるわざかしらん?


月を見て 心浮かれし いにしへの
    秋にもさらに めぐり逢ひぬる

夜もすがら 月こそ袖に やどりけれ
     昔の秋を 思ひ出づれば


月を眺めて昔を思いやる歌も多いようですね。


ちなみに、この西行庵の東側には、その昔 円山幼稚園がありました。
私にとっても懐かしい一帯です。
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2009年10月14日

京の伝統野菜 パート9 丹波やまのいも 

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つくねいもとも呼ばれ、粘りが良く、おろしてだし汁でのばし、とろろ汁として食べるのが美味です。
収穫時期は、10月下旬から11月中旬です。そろそろですね。

2009年10月13日

大政奉還

慶応3年10月13日(1867年11月8日)、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜は二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問。
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10月14日に慶喜が統治権返上を明治天皇に上奏。
翌15日に天皇が上奏を勅許しました。

ここに土佐藩士 後藤象二郎(ごとうしょうじろう)が活躍しています。
龍馬の案である「船中八策」をもとにした大政奉還案を土佐藩の藩主 山内容堂に伝え、それを藩論とし、徳川慶喜に京都二条城にて受け入れさせています。

土佐藩大監察として武市瑞山を党主とする土佐勤王党の断罪を行った人ですが、後に龍馬と親交を深め、龍馬の脱藩の罪を許されるよう、尽力しています。
 
二条城へ向かう後藤象二郎を、龍馬が励ます書簡も残っています。そこには、大政奉還がなされなければ、切腹するよう勧め、あなたが城から出てこない時は、海援隊を率いて慶喜を討つ覚悟である事が書かれています。これに対し、後藤はあまり早まるなと諌め、二条城に向かっています。

そして、夕方、後藤から「只今下城、大樹公政権を朝廷に帰す之号令を示せり」という手紙が届き、龍馬は涙を流して「良くぞご決意遊ばされた。」と喜んだといいます。

この後藤さんがもう少し細かい気配りのある人で、龍馬を土佐藩邸に入れていたら、龍馬も死なずに済んだかも~。

ところで、小松帯刀は天保6年10月14日(1835年12月3日)の生まれですから、大政奉還の日は32回目のお誕生日にあたりますが、どんな思いで、この日を迎えたのでしょうか?

3日後の17日、西郷吉之助(後の隆盛)、大久保一蔵(後の利通)と共に京を出発し、鹿児島に向けて帰国しています。お誕生日どころではなかったのでしょうかね~。

2009年10月12日

小倉百人一首

右京区嵯峨二尊院門前北中院町に小倉山荘旧址厭離庵(おぐらさんそうきゅうしえんりあん )という臨済宗天龍寺派の尼寺があります。ここは藤原定家の小倉山荘跡で、定家が百人一首を撰したところと云われています。通常非公開で、紅葉の頃のみ、拝観できます。p8287.jpg
定家は、子の為家の舅 宇都宮頼綱(蓮生入道)から依頼されて、古来の名歌を選び障子色紙に書き記しました。この色紙が小倉百人一首のもとになったといわれていて、このあたりには、定家の小倉山荘と頼綱の中院山荘がありました。この山荘は、為家の子孫である冷泉家によって江戸時代に修復され、霊元法皇から厭離庵の号を受けました。p8286.jpg
常寂光寺と二尊院にも定家の「時雨亭」跡とされる所があり、定かでないようですが、このあたりであった事にはまちがいないでしょう。
亀山公園の小倉百人一首 前回のアップから、大分時間が立ってしまいましたが、続編です。
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この「忍ぶれど・・・」と次の「恋すてふ・・・」の歌は村上天皇の代の時、内裏歌合の席で詠まれた歌で、いずれ劣らぬ優れた歌として審判の左大臣藤原実頼が優劣の判定を下すことができず、天皇の意向を仰ぎ、ようやく兼盛の「忍れど・・・」の歌を勝ちとしたと伝えられています。敗れた忠見は、このことを憂い病床に臥してしまい、終には没したとも云われています。
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左大臣源融の邸宅であった河原院は、平安京に営まれた邸宅の中でも、もっとも豪壮なもので、源氏物語の六条院のモデルともいわれていた邸園でしたが、源融から4代目の孫 安法法師が住んでいた頃には荒れ果てていて見る影もなかったそうです。この歌は安法法師と親しかった恵慶法師が、この荒廃した河原院の立秋の風趣の中に、人の世のはかなさを詠んだ歌であるそうです。
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この歌は、長保元年(999年)に道長に従って嵐山の紅葉見物に行った時の歌です。この時すでに、嵯峨上皇の造った滝は枯れて形ばかりとなっていたのですね。嵯峨天皇が即位されたのが、809年ですから、それなりの年月が流れているわけです。p8272.jpg

2009年10月11日

千代の古道 生田口-大覚寺

昨日に続き、千代の古道を行きます。
生田口 大黒屋を右に曲がり、北上する道の右脇に立っているはずの石碑がありません。p8307.jpg道路も真新しく、右手は分譲中とあって、一時抜かれているのかも?もしくは近くに引っ越した?

さがの山 千代のふる道 あととめて
    また露わくる 望月の駒
          藤原定家
という歌が刻まれていたようなのですが・・・。

ともかく、北へ。新丸太町通から北へ上る山越通の右角にありました。p8306.jpg
いにしへの 千代の古道 年経ても
猶あとありや 嵯峨の山風
            後鳥羽院       
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山越通を北へp8304.jpg
信号機の近くにありました。p8303.jpg
光孝天皇が、嵯峨天皇の例にならい、芹川に行幸した際に供奉した行平が詠んだ歌

さがの山 みゆき絶にし 芹川の
    千世のふる道 跡はありけり
         在原行平朝臣
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道は左にカーブしてさらに進みます。別の道との合流地点に次の石碑がありました。p8301.jpg
里人も 千代の古道 幾かへり
   春の嵯峨野の 若菜つむらん
            藤原為家
小倉百人一首の定家の息子さんです。
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さらに古い石碑もありました。p8299.jpg
少し進んで、29号線との交差点左側にありました。p8298.jpg
子の日せし 千代の古道 跡とめて
    昔を恋ふる 松も引かなん
            後嵯峨院
吉野の桜を取り寄せ、嵐山に植えた方です。嵐山の春の賑わいはこの方のおかげです。
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交差点を左に曲がると、もうすぐ広沢の池です。
文徳帝の御陵を示す石碑p8296.jpg
横に、刻まれている文字 最後は千代の中道かと?p8295.jpg
広沢の池に出ました。p8294.jpg
池を通り過ぎたところ、右手に発見p8293.jpg
御幸せし 昔の秋の 跡とめて
紅葉をわくる 千代の古道
          村田春海
村田春海さんという人は江戸の歌人だそうです。
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ここで、29号線から、北の方へ入ってゆきます。田んぼ道の曲がり角にありました。p8291.jpg
君が代の 千代の古道 ふりはへて
引くや子の日の 嵯峨の山松
         加藤千蔭 
この人も江戸の歌人だそうです。
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生田口から、大覚寺までの歌碑は、「千代の古道」が歌に詠み込まれたものがセレクトされているようですね。

謡「小督」の中にも下の一節が出てきます。

所を知るも嵯峨の山 御幸絶えにし跡ながら
千代の古道たどり来し 行方も君の恵ぞと

そして、ようよう大沢の池に着きにけり~(^^)p8288.jpg

2009年10月10日

千代の古道 梅宮大社-生田口

平安時代の貴族が北嵯峨に遊行の折りに通った道を、千代の古道(ちよのふるみち)と呼んでいます。

京福電車北野線 常盤・鳴滝あたりから、音戸山(おんどやま)の西側に沿って広沢池、大覚寺へとたどる道とも、梅宮大社辺りから大覚寺へ向かう道とも云われています。

この道であったと決まっているものでもないようですが、現在はロータリークラブによる歌碑があちこちに立てられています。
1980年に、大覚寺から生田口までの約2キロ間に7つの道標を建て、2005年に梅宮大社-生田口の約1キロ間に道標5基を建立したそうです。

新古今和歌集の藤原定家の歌など、平安時代の多くの歌にも詠まれていて、十二単衣の姫君や供連れの公達たちが牛車を仕立てて、先日の観月の夕べのような水遊びやお月見のために通ったのかと思うと、何か楽しげで、興味が湧きます。

今日は梅宮大社-生田口の道を辿ってみました。

梅宮大社の側道を東へp8322.jpg
北へ向かう道の脇にありました。p8321.jpg

夕されば 門田の稲葉 おとづれて
   蘆のまろやに 秋風ぞ吹く
      大納言経信(だいなごんつねのぶ)

白河天皇の嵐山行幸の際、詩・歌・管弦の三船を浮かべ、それぞれに秀でた人を船に乗せましたが、遅刻してきて、どの船でもよいから岸に着けてくれと呼びかけた人です。
以来、「三船の才人」と呼ばれました。

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この道を北へ、左のほうにカーブしながら道は続きます。
曲がり角のブロック塀に案内の→がありました。p8319.jpg
さらに北へp8318.jpg
石碑が見えてきました。p8317.jpg
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
    雲隠れにし 夜半の月かな
           紫式部
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さらに北へ進み、右へ曲がる道の左側にありました。p8315.jpg
夜をこめて 鳥の空音は はかるとも
    よに逢阪の 関はゆるさじ
           清少納言
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高田橋を渡って、北へp8313.jpg
今度は、道の右側にありました。p8312.jpg
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ
    わが衣手は 露にぬれつつ
           天智天皇
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さらに北へ進んで三条通に出る角、大黒屋前に古い石碑と真新しい石碑がありました。
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小倉山 峯のもみじ葉 こころあらば 
     いまひとたびの 御幸またなむ
            藤原忠平
宇多上皇が紅葉の小倉山に感嘆して、わが子醍醐天皇にも行幸するよう勧めたのを、忠平が天皇に伝えて、詠んだ歌です。p8309.jpgp8308.jpg

歌は小倉百人一首からのセレクトようですが、選ばれた理由が今一理解できないのもあるような?
かといって、小倉百人一首の中には、千代の古道にふさわしい歌もあまりないようですが・・・。

2009年10月09日

大覚寺 観月の夕べ

昨日に続き、大覚寺 観月の夕べです。
あちこち、美しくライトアップされていました。p8331.jpg
このような車に乗って、当時の人々は平安京の内裏から千代の古道を通り、ここまで月見に出掛けてきたのでしょうか?結構、距離あります。
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勅使門p8328.jpg
笛と子鼓の演奏が、闇に響いていました。p8327.jpg
p8326.jpgp8325.jpgp8324.jpg
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2009年10月08日

大覚寺 観月の夕べ -龍頭鷁首舟-

10月3日 仲秋の名月という事で、ススキを飾り月見団子を食べ、それから大覚寺のお月見に行きました。p8350.jpgp8352.jpgp8351.jpg

舟に乗ろうとする人が大勢並んでらして、大賑わいです。
龍頭舟p8349.jpg
月と鷁首舟p8348.jpg
鷁首p8346.jpg
結構、可愛い顔をしています。p8345.jpg
龍頭 吼える!?p8344.jpg
9世紀初め、嵯峨天皇が大沢池に船を浮かべて文化人と共に遊ばれたことが始まりだと言われているこの舟遊びは、お茶席が設けられ、琴を奏でて、平安の王朝絵巻さながらに優雅な風情です。(でも人多すぎ~)p8343.jpg
池を一周して、戻ってきます。p8342.jpg
p8341.jpgp8340.jpgp8339.jpgp8338.jpgp8337.jpg
龍頭アップp8336.jpg
茶室「望雲亭」と龍頭舟p8335.jpg
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茶室「望雲亭」でお茶を頂きましたが、こうしてライトアップされた茶室を池の反対側から眺めている方が美しかったです。p8333.jpg
着いた頃には出ていた月が、雲の陰に隠れてしまっていましたが、また顔を出してくれました。もっとも、すでに空高い位置に移ってしまっていて、舟と一緒の写真は、もう撮れませんでした。雲が龍の胴の模様のようになっていて、それはそれで、美しい眺めでした。p8332.jpg

2009年10月07日

櫛まつり 2009 -明治~現代舞妓-

第49回櫛まつり 安井金比羅宮 も、最終回となりました。
明治~現代の舞妓までです。

明治 

割かのこp8373.jpgp8374.jpg


花嫁p8372.jpgp8371.jpg


丸髷p8370.jpg
明治27,8年頃から大正、昭和にかけて大流行した主婦の代表的な髪型です。p8369.jpg


結綿(ゆいわた)p8368.jpg
18,9歳の娘の髪型として、明治20年頃まで結われました。p8367.jpg


芸者p8366.jpg
この京風の投げ島田は、現在では花街のおどりのお茶席で茶を立てるときに、襟を返して(正装)この髪型が結われています。p8365.jpg


大正

束髪p8364.jpg
日清戦争後、前髪を膨らし、鬢や髱を別々にふくらすのを止めて、一体とし膨らみを作るようになりました。はっきり写った写真がなかったので、過去のものを挿入しました。p8353.jpg


束髪(行方不明)p8363.jpg
毛流れがどのようになっているのか、毛先がどこに仕舞い込まれたのかよくわからないとして、このような名前が付けられました。p8362.jpg


耳かくしp8361.jpg
大正8,9年頃に広まりました。コテをあててウエーブをつけるようになり、大きな変化が訪れました。p8360.jpg


現代舞妓

割れしのぶp8359.jpg
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舞妓になってすぐに結われる髪型です。なりたて直後のあいさつ回りには、これではなく「店だし」という正装の髷が結われます。p8356.jpg


勝山p8357.jpg
祇園祭の期間中に結われる髪型です。p8355.jpg

現代舞妓のツーショットp8358.jpg

2009年10月06日

櫛まつり 2009 -江戸時代後期-

安井金比羅宮で行われた第49回櫛まつり 今日は江戸後期です。

葵髱・下げ上げ(あおいづと・さげあげ)
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公家の髪型です。髱が葵の葉に似ていることから、葵髱と言われています。p8402.jpg


葵髱・つぶ髷(あおいづと・つぶまげ)p8401.jpg
同じく公家の髪型です。p8400.jpg


長船(おさふね)武家母親p8399.jpg
丸髷から変化したもので、武家奥方の格式を示す髪形です。
鬢と髱をおだやかな円形にまとめた京風の特色を見せた髪形です。p8398.jpg


勝山髷(かつやままげ)武家姉娘p8397.jpg
中期のものに比べて、吹き輪の幅が平たく、殊に上部は幅広に変化しています。p8396.jpg


奴島田(やっこしまだ)武家妹娘p8394.jpg
島田髷も中期の細い髷から変化して、髷先が膨らんでいます。p8395.jpg


両輪(りょうわ)町家母親p8393.jpg
上方の町家の母親に多く結われました。アップの写真が撮れていなかったので、過去の写真をはさみました。(モデルは私です。)p8376.jpg


先笄(さっこう)町家若嫁p8392.jpg
京風の町家の若奥様などに結われ、その後明治の末頃まで結われたようです。p8391.jpg


娘島田(むすめしまだ)町家姉娘p8390.jpg
未婚の若い婦人の髪型で、上方では、少女も結い時には遊女も結いました。p8389.jpg


お染p8388.jpg
上方の若い12~17歳くらいの娘の髪型です。
あどけなさの漂う可愛い髪型です。p8387.jpg


おしどりp8386.jpg
上方の町家の娘の髪型で、15,6歳まで結われていました。p8385.jpg


結い綿p8384.jpg
つぶし島田に鹿の子をかけたもので、18,9歳の結婚前の娘の髪型です。
鹿の子が全然写っていないので、過去の写真を添えました。p8377.jpg


布天神p8383.jpgp8382.jpg


粋書(すいしょ)p8381.jpg
京都にしかない髪型で、24,5歳の女性の髪型です。これも過去の写真を付け加えました。p8375.jpg


割れしのぶp8380.jpg
毛先を二つに分け左右に広げ髷をつくり鹿の子を入れます。
手頃な写真が手近になかったのですが、明日の現代にまた登場しますので・・・。


お俊p8379.jpgp8378.jpg

引用  日本伝統の髪型 櫛祭り作品集 
       京都美容文化クラブ編

2009年10月05日

櫛まつり 2009 -江戸時代前期~中期-

昨日に続き、安井金比羅宮における櫛祭りの模様です。

江戸前期 

立兵庫(たてひょうご)p8426.jpg
摂津国兵庫の遊女から起こった「唐輪髷」(からわまげ)の変形で、次第に一般の婦人の髷としても見受けられるようになりました。p8427.jpg


島田p8424.jpgp8425.jpg


元禄笄髷(げんろくこうがいまげ)
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笄髷は従来の髷には使用されたことのない笄を使って結った髷で、形式も一定していません。根元近くに笄を通して周りに髪を巻きつけたものです。p8423.jpg


笄髷(中村蔵之助の妻)p8421.jpg
女子の外出時には、昔から被衣(かづき)が用いられていましたが、江戸前期の町屋では、このような輪帽子を当てたりしました。
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江戸中期

元禄島田p8418.jpg
天和(1681~84)~元禄(1688~1704)にかけて盛んに流行した髪型です。
髱(つと)は最初は太く丸めですが、だんだんと細く長く後ろへ突き出すように変化してゆきました。p8419.jpg


元禄勝山p8417.jpg
遊女勝山が結い始めて流行したものです。武家の出身であったといわれる勝山は、武家風を好みその髷も上品であったことから、一般の女性にも盛んに結われるように後の日本髪の系統の基本となる「丸髷」の原型となりました。p8416.jpg


横兵庫(よこひょうご)p8414.jpg
前期の立兵庫髷を横に倒したもので、堅気の女性ではなく、粋な商売女たちに結われた髪型です。p8415.jpg


お梶p8412.jpg
「ばい髷」といって、かんざしを立ててこれに髪を巻きつけて結び、残りを外に出したものです。p8413.jpg


春信風・島田p8411.jpg
町屋の娘に結われ流行した髪型で、当時の鈴木春信の浮世絵によく見られます。p8410.jpg


丸山鬢・笄髷(まるやまびん・こうがいまげ)p8409.jpg
髱(つと)の突き出した髪型の後に反動として出てきたのが、奥行きが短く鬢の張りを強調した(横に張り出した)髪型です。p8408.jpg


丸山鬢・島田p8407.jpg
鬢を張り出すことは、京都の祇園新地から明和(1764~72)頃に起こったものと考えられています。p8406.jpg


丸山鬢・丸髷(まるやまびん・まるまげ)p8404.jpg
歌麿の美人画に多く描かれています。勝山髷といわれることもあり、鬢や髱は比較的小さく、髷の大きさが目立っています。p8405.jpg

引用  日本伝統の髪型 櫛祭り作品集 
       京都美容文化クラブ編

2009年10月04日

櫛まつり 2009 -古墳時代~桃山時代-

9月28日 安井金比羅宮での櫛祭り 時代風俗の紹介です。

奉納舞の後、雅楽の演奏の中、時代風俗の解説が始まりました。p8449.jpg
p8448.jpgp8447.jpgp8446.jpg
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古墳時代 「美豆良」(みずら)p8443.jpg
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古墳時代 「島田髷」(しまだまげ)
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頭頂部で、髪を平たく畳んで束ねたもので、島田髷の原点とも言える素朴な髪形です。
飾りに頭の周りに巻いているのは、日陰の蔓という常緑多年生シダ植物です。
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奈良時代 高髻髷(こうけいまげ)
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奈良時代の貴婦人の髪型です。眉間と頬の紅の化粧は、花鈿(かでん)・花子(かし)といい、衣装と共に、唐の影響を強く受けています。
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奈良時代 双髻髷(そうけいまげ)
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同じく、貴婦人の髪型です。p8438.jpg


平安時代 白拍子(しらびょうし)
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今様や朗詠を歌いながら舞った男装の麗人です。
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鎌倉時代 虫の垂れ衣(むしのたれぎぬ)
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鎌倉時代の武家夫人が、神社参詣などで旅に出るときの姿です。

市女笠に、虫の垂れ衣という苧麻(からむし)で作った麻か、薄い絹の布と、白糸の総角を8本垂らしています。虫の多いところで、効果を発揮します。
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鎌倉時代 侍女(じじょ)
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身分の高くない人は、髪を腰のあたりで切り揃えて垂らし、首の下で元結で結んでいました。
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室町時代 巻き髪
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垂髪(すいはつ)を後頭部でくくり、その毛束を頭の周りにぐるぐると巻きつけています。その上から、白い布を巻いて包んでいます。勤労層の婦女子のスタイルです。


桃山時代 唐輪(からわ)
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遊女や歌舞伎役者の間で流行した髪型です。p8429.jpg

引用  日本伝統の髪型 櫛祭り作品集 
       京都美容文化クラブ編

2009年10月03日

櫛まつり 2009 -奉納舞 黒髪-

9月28日 第49回櫛祭りが東山安井の安井金比羅宮で行われました。

くし塚と風俗研究家の故・吉川観方氏の像p8481.jpg
あいにくの雨模様の為、行列は中止となり、神社内で式典と奉納舞のあと、時代風俗解説がゆっくり行なわれました。

忍者犬も現れました(^^)
Boo君という名前だそうです。p8480.jpg

南登美子先生と奉納舞を舞う松田あゆ美さん(結髪・着付は後方の山中恵美子先生です。)p8479.jpg

舞妓から芸妓に変わるときを「襟替え」と言い、その一ヶ月ほど前の挨拶まわりに結われる髪型が「先笄」(さっこう)です。舞妓として最後の髪型です。
櫛祭りでは、毎年、この「先笄」を結った芸妓が奉納舞「黒髪」を舞います。
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地唄「黒髪」

黒髪の結ぼれたる 思いをば とけて寝た夜の枕こそ 
独り寝る夜はあだ枕 袖はかたしく つまじゃと云うて 
愚痴な女子の心と知らず しんと更けたる鐘の声 
昨夕の夢の今朝覚めてゆかし 懐かしやるせなや 
積もると知らで積もる白雪


静かな冬の夜に、つもる想いを胸に寂しく一人寝るさまを切々と訴えている舞です。
「積もると知らで積もる白雪」という結びの詞章は、艶々とした黒髪も、いつかは雪のように白くなるという事を、雪に重ねて歌っています。
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2009年10月02日

花 イラスト シリーズ ~10月 つわぶき~

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2009年10月01日

石田三成

慶長5年10月1日(1600年11月6日) 石田三成は六条河原で斬首されました。享年41歳

さらし首の後、大徳寺の三玄院に葬られました。
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前回の大河ドラマでも亡くなったばかりですが、斬首される前に、干し柿を勧められ断った話や、家康からの小袖を断った話は出てきませんでしたね。めずらしく、かっこよくは描かれていましたけど。

辞世歌

筑摩江や 蘆間に灯す 篝火と
  ともに消えゆく 我が身なりけり

その他に、何時頃詠まれたものかわからないが、自筆の歌碑が、滋賀県長浜市石田町・八幡神社裏にあるそうです。

残紅葉 散り残る紅葉は
   ことにいとおしき
     秋の名残は こればかりぞと