2009年09月21日
武市瑞山
文久3年(1863年)9月21日土佐藩では、 武市瑞山をはじめ尊王派が次々に投獄されました。勤王党の獄といわれています。
土佐藩の武士で、江戸で土佐勤王党を結成しました。龍馬の遠縁にあたります。
通称は半平太と言い、長身で、色白・美形・堂々たる風貌で、高潔で誠実、武士道を重んじるという、この上なくモテそうなタイプであったようです。詩歌をたしなみ、美人画にも巧みで、獄中で自画像も残しています。
「月様、雨が…」「春雨じゃ、濡れてまいろう。」で有名な行友李風の戯曲『月形半平太』のモデルとなった人物です。
市川右太衛門や長谷川一夫、大川橋蔵などの主演で、思い出されます。
実際は、色男という感じではなく、妻富子と仲睦まじく、かたくななまでに品行方正な人であったようです。
中京区木屋町通三条上る東側に京都滞在時の宅「四国屋丹虎」の跡があります。
この地に尊王派の志士達が集まり、昼夜を問わず激論が交わされていたのでしょうか。先生と呼ばれる存在であったようですが、龍馬とは、あだ名で呼び合う間柄だったようです。
藩全体をあげて勤王を行おうという「一藩勤王」の姿勢を貫こうとした点が、他の藩の尊王攘夷の志士と
は少し違っていたようです。文久3年(1863年)に京都留守居役に任じられていますが、同じ年に投獄される事となりました。
中京区木屋町通蛸薬師西南角(旧立誠小学校前)
融通の利かない頑固な気質が、彼の死を早める事になったようで、脱藩すればよいものを、藩命に従い投獄されています。
花は清香に依って愛せられ、
人は仁義を以って栄ゆ。
幽囚、何ぞ恥ずべき、
只赤心の明らかなるあり。
獄中で描いた自画像に添えられた詩です。
富子が縫いあげて届けた死装束を着て、三文字割腹という、いまだかつてない困難な切腹をして果てました。慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)、37歳でした。
獄中の夫に毎日差し入れをし、支え続けた富子は大正6年(1917年)まで存命し、高知市にある武市の墓の傍に葬られました。
時しあれば 吹かでも花は ちるものを
心みじかき 春の山風
富子の遺詠です。
- by zuzu
- at 09:09
comments
武市瑞山は、惜しい命を落としましたね。
もう少し仕事をさせたかった人物だと思います。
容堂公も、早まった事をしたものです。
全くですね。
維新を見ずして死んでいったのですから、さぞ心残りだったでしょうね。