2009年09月10日
伊藤 若冲
江戸時代の京の絵師である伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう) は、寛政12年9月10日(1800年10月27日)に亡くなりました。
正徳6年(1716年)に錦高倉の青物問屋「枡源」もしくは「枡屋」の跡取り息子として生まれ、23歳のとき、父・源左衛門の死去によって、家業を引き継いでいますが、商売にはあまり関心がなかったようです。(問屋の仕事は、生産者や小売り業者などに場所を提供して、販売させて使用料を徴収するといったもので、本人が青物を取り扱っていたわけではありません。)
写真は高倉錦から上の方の生家のあったあたりを写しています。
家業のかたわら、狩野派、光琳派や中国の宋・元の画法を学び、四十歳で家督を弟に譲り、隠居して、絵画の制作に専念しています。
果蔬涅槃図
相国寺の禅僧が、若冲のことを「人の楽しむところ一つも求むる所なく」と評されています。
絵を描くことが人生の喜びの全てで、およそ世間の雑事に関心がなく、芸事も酒も女遊びも興味がなかったようです。
相国寺の真如蓮
「若冲」の号は、禅の師であった相国寺の禅僧・大典顕常から与えられた居士号です。
境内の芙蓉
数十羽の鶏を飼って生態をひたすら観察し、写生することによって、思うままに手が動くようになったという話です。
南天雄鶏図
近年見直され、注目を集めているその独特の画風は、写生的でありながら、異才を感じさせる装飾性にあふれているように感じます。
雨龍図
天明の大火で、居宅を焼失し、しばらく、大阪に滞在しています。晩年は、深草の石峯寺に隠棲し、裏山にユニークな石像群も造っています。
妻子も持たず、禅宗に深く帰依し、85歳の長寿を全うするまでに、多くの作品を生み出しています。
没後、石峯寺に埋葬されましたが、相国寺にも生前墓の寿蔵があります。
- by zuzu
- at 09:13
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