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2009年08月06日

持明院仙洞御所跡

天福2年8月6日(1234年8月31日)に後堀河上皇が23歳で崩御されています。
上京区新町通上立売上る西側(光照院門跡・恵聖院前)に、上皇の住まいされていた持明院仙洞御所跡の石碑が立っています。P8806.jpg
藤原基頼が邸宅内に持仏堂を創設し、これを持明院と名づけたのがその名の由来です。
基頼の孫 陳子が高倉天皇の子 守貞親王の正妃となり、守貞親王がこの家に寄宿して持明院の宮と呼ばれていました。

承久の乱の後、後鳥羽天皇につながる血統を排除、守貞親王の皇子 茂仁親王が後堀河天皇となったので、守貞親王に太上法皇の称号を奉り、この邸を仙洞としました。後堀河天皇は、当時10歳であったので、守貞親王が後高倉院として、院政を行いました。

後堀河院、御嵯峨院が持明院殿で死去し、その後も後深草、伏見、後伏見、花園、光厳、崇光、後光厳天皇の御所となりました。この帝の方々を持明院統と呼び、大覚寺統と皇位を争う事となってゆきます。

焼失の後に、光照院が移建されています。P8805.jpg

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