2009年08月03日
豊臣秀頼
天正19年(1591年)に鶴丸を亡くして失意の秀吉に、文禄2年8月3日(1593年8月29日)待望の男子 拾丸(ひろいまる)が誕生します。
後の豊臣秀頼ですが、慶長3年8月18日(1598年9月18日)の秀吉の死により、家督を継ぐ事となります。
幼子の将来を心配し、家康に秀頼の後見人になるよう頼み、秀吉は亡くなりますが、そんな約束が守られるはずもなく・・・。
清凉寺 (嵯峨釈迦堂という呼び名の方がわかりやすいですが)にある墓
この人の場合やっぱり気になるのは、父親は誰か?という事なんですけどねぇ。
- by zuzu
- at 09:08
comments
此の首塚ですが、どういう謂われで此処にあるのか知りたいのですが、未だ判りません。
但し、此の塚は清涼寺ではなく、隣の薬師寺にあります。
その薬師寺と清涼寺の境というのがはっきりして無くて、狂言堂の真向かいにあるのは薬師寺のお堂になり、首塚と清涼寺本堂との間に境界線があるようです。
釈迦堂(本堂)は、慶長7年(1602年)に豊臣秀頼によって寄進・造営されたゆえんなのでしょうか。
昭和55年(1980年)に大阪城の京橋口三の丸跡から発見され、
昭和58年(1983年)に納骨されたという事ですから、かなり最近のことですよね。
あれっ、薬師寺の敷地なんですか?