Search


2009年07月18日

橘逸勢 

承和の変で、罪に問われた橘逸勢は、伊豆へ配流される途中(遠江板築)で、病で亡くなっています。
P8917.jpg
その屋敷跡の石碑が中京区姉小路通東堀川東入上る東側に立っています。
延暦23年(804年)には最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡っている人で、嵯峨天皇・空海と共に、三筆と称されたほどの達筆です。
承和の変に深くかかわった嵯峨天皇皇后である橘嘉智子は、いとこにあたります。
本人は最後まで罪を認めずに亡くなったようです。護送される後を追ってきた娘が、父の死を嘆き、その地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め、草庵を営み、菩提を弔ったそうです。
後にその罪を許され、上御霊神社と下御霊神社に祀られています。

trackbacks

trackbackURL:

comments

comment form

(ZUZU log にはじめてコメントされる場合、不適切なコメントを防止するため、掲載前に管理者が内容を確認しています。適切なコメントと判断した場合コメントは直ちに表示されますので、再度コメントを投稿する必要はありません。)

comment form