2009年07月15日
豊臣秀次の墓所 瑞泉寺
文禄4年7月15日(1595年8月20日)豊臣秀吉の甥である豊臣秀次は切腹しています。
瑞泉寺は、三条大橋西畔に、秀次の菩提を弔うため建立された寺です。
天正19年(1591年)秀吉の嫡男・鶴松の死去により、秀吉の養子となり、後継者として関白職を譲られました。
聚楽第に住まいして政務を執っていましたが、文禄2年(1593年)、秀吉と側室の茶々(淀殿)の間に秀頼が生まれると、次第に秀吉から疎まれるようになってゆきます。
上京区中立売通裏門西入南側に聚楽第跡の石碑があります。智恵光院中立売の石碑
謀反の疑いをかけられることになり、文禄4年(1595年)秀吉の命令で高野山に追放され、切腹を命じられ青巌寺・柳の間にて死亡しました。享年28歳です。
秀次の首は三条河原に曝され、そこで秀次の家族や女人らも多く処刑されました。
むくげが涼しげに咲いていました。
秀頼が秀吉の子であったかどうか、私としては疑わしく思っているので、秀次を殺してしまったことは、唯一の血縁者を自ら葬ったように思えます。戦国時代という歴史の1ページです。
- by zuzu
- at 10:14
comments
裏門通り西に碑があるのは知りませんでした。 松林寺の壕跡以外は今でも一つ輪郭がはっきりしないせいでしょうが、こういった案内は皆無に近いとばかり思っていましたから。
ところでこの裏門通りですが、私は聚楽第の裏門があったところでその門は妙覚寺の門だ、と決め込んでます。
学者でない身の自由さです。
松林寺へは、まだ行ってません。
松屋町通下長者町上ルの梅雨ノ井は、聚楽第内部の南東隅あたりにあり、秀吉が茶の湯に使った水であるともいわれていますが、そこもまだです。遺構めぐりも結構大変です(^^)
地名にはいろんなヒントが残っていて、おもしろいですね。
妙覚寺の門も桜に映えて綺麗な門ですが、想像してみると楽しいですね。