2009年06月17日
斉藤利三
天正10年6月17日(1582年7月6日)に、明智光秀の家臣である斉藤利三(としみつ)は六条河原で斬首となっています。春日局の父としても知られている武将です。
本能寺の変に際して、光秀から事前に謀反の意図を伝えられていたが、反対していたという説や、斉藤利三こそが首謀者であるとの説もあったりします。
利三は最初は稲葉一鉄に仕えていたが、故あって(お互い、頑固者だった為とか・・・。頑固一徹という言葉はこの人の名前からきているそうで。)光秀に仕えるようになったそうです。
後に一鉄が信長に利三の帰参を願い出た為、信長は光秀に利三を返すように言ったところ、光秀は「良い部下をもつことは私のためではなく、上様のためである。」と言って断りました。
これに立腹した信長は、光秀の額を敷居に押しつけて折檻したということで、これ以降、利三は光秀に対し並々ならぬ忠義を尽くしたという話が残っています。
利三の首は親交の深かった絵師の海北友松や、東陽坊らによって、左京区浄土寺真如町の真正極楽寺(真如堂)に葬られたということです。
おこしやす。よ~う、お参りしていっとおくれやす。
本堂の南側の墓地に、その墓があります。
辞世
消えてゆく 露のいのちの 短夜の
あすをも待たず 日の岡の山
隣には海北友松の墓があります。
少し奥には東陽坊の墓もあるようです。
墓地の入り口には、春日局が父の供養の為に植えた「たてかわ桜」があります。元は直径1メートル余りの巨木でしたが、1958年の伊勢湾台風で折れ、接ぎ木で、甦ったとのことです。
お隣の金戒光明寺に家光の弟の忠長とその母お江与の供養塔を春日局は建てています。
逆臣であった父の墓参りを公にできなかったため、お江与を参る折に、そっと父の墓参りをしようと、その地にお江与の供養塔を建てたのではないかとも言われています。
- by zuzu
- at 14:26
comments
斉藤利三は光秀の甥か何かに当たり、一族だったという話しもありますね。
お福さん、春日の局のご亭主、稲葉正成は関ヶ原の時小早川秀秋の家老だったりして、春日の局を家光の乳母に推した天海大僧正は、やっぱり光秀だった・・・・。
光秀=天海大僧正の説は、知りませんでした。
歴史は、調べれば調べるほど、面白いですね。
新しい発見があって、学生の頃、習っていた話とは変わってしまったりもしますし、想像が膨らみます。