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2009年05月26日

源 頼政 鵺退治

5月26日は源頼政の命日にあたります。
宇治の平等院の塔頭で、 墓所のある最勝院において、『頼政忌』が営まれるそうです。
頼政は源頼光の系統の摂津源氏で、保元の乱・平治の乱の際は、勝者の側となり、中央政界に留まりました。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇っています。

その後、平清盛が高倉天皇に譲位させ、高倉天皇と清盛の娘・徳子との間に生まれた3歳の安徳天皇を即位させたことに不満を持った後白河法皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)の側について、平家打倒の最初の挙兵を行ないましたが、宇治平等院の戦いで自刃しました。

頼政には2度の鵺(ぬえ)退治を行ったという伝説があります。
最初は仁平年間(1151~1154)、毎夜丑刻になると東三条の森の方から、黒雲が沸き立って御所の上に覆いかぶさって、鳥の鳴くような奇妙な声がし、近衛天皇がひどくおびえ、警護を任された頼政が頭は猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎という妖怪「鵺」を退治しました。
描いてみましたが、変な感じです(^^)P9285.jpg

2度目は応保年間(1161~62)、二条天皇をおびえさせた怪鳥を退治しました。
二条城の北側、二条児童公園には、鵺退治に関わる「鵺池跡」があります。P9286.jpg
頼政が鵺を射た血のついた鏃(やじり)を洗った池の跡だと伝えられています。
2005年4月にリニューアルされた公園の人口池に古い「鵺池碑」があります。
P9288.jpg
公園の北側に鵺大明神・玉姫大明神・朝日大明神を祀る祠があり、復元した「鵺池碑」が建っています。P9287.jpg
源 頼政は、頼光と同様に、武術に長け、すぐれた歌人でもあったようです。

おのづから 花の下にし やすらへば
           逢はばやと思ふ 人も来にけり
 
辞世
埋木の 花咲く事も なかりしに
           身のなる果ぞ 悲しかりける

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comments

ヌエみたいな奴→ 此の表現、判る若い人は少なくなって居るんでしょうね。
二条北のヌエの碑に纏わる話し、知っていましたが、尾ひれを付ける事が出来ず、ブログ一回分のネタにはようしませんでした。
(このばあいは、尾鰭 がオモロインヤケドな)
これだけきちんと纏められたお話は始めてで、良く腑に落ちます。

前日のネタに出てくる新島八重さんは、着物姿に帽子をかぶり、靴をはいていた事などから、学生に鵺のようだと、批判された事がありました。
本人は一向に気にせず、襄の死後、非難したその人物は、かつての無礼を詫び、八重さんの力になると約束したそうです。

  • zuzu
  • 2009年05月27日 09:28
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