Search


2009年05月18日

崇徳天皇と白峯神宮

P9351.jpg
怨霊伝説で有名な崇徳天皇 元永2年5月28日(1119年7月7日) - 長寛2年8月26日(1164年9月14日))日本の第75代天皇(在位1123年 - 1142年)は、堀川今出川東入るにある白峯神宮に祀られています。P9349.jpg
父は鳥羽天皇。母は藤原公実女の中宮璋子(待賢門院)。鳥羽天皇の第一皇子であるが、真実はそうではなかったというのが、崇徳天皇の悲運の始まりです。P9348.jpg
白河上皇が、愛妾である璋子を孫の鳥羽天皇の皇后にしたという事です。そして生まれたのが崇徳天皇で、父親は鳥羽天皇ではなく、白河上皇であると噂され、鳥羽天皇は子を疎ましく思うようになったというのです。
治天の君である曾祖父の白河上皇の意志により、保安4年(1123年)、鳥羽天皇は20歳の若さで退位させられ、わずか5歳で崇徳天皇は即位しました。

白河上皇の死後、鳥羽上皇は永治2年(1142年)22歳の崇徳天皇を退位させ、異母弟である近衛天皇(わずか2歳)を即位させます。

久寿2年(1155年)に近衛天皇が16歳の若さで、世継ぎをもうけることなく死去すると、鳥羽上皇は、後白河天皇(崇徳の同母弟)を29歳で即位させ、後白河の子を皇太子(のちの二条天皇)として、どうしても、崇徳上皇を阻害しようとします。

崇徳上皇は翌年、1156年(保元元年)鳥羽上皇の死をきっかけにして、後白河天皇から皇位を奪うべく挙兵します。これが保元の乱です。

藤原摂関家や武家の源氏や平氏が二手に分かれ、戦いましたが、後白河天皇側の勝利に終わり、上皇側についた藤原頼長は戦死、源為義・平忠正は斬首、そして 崇徳上皇は仁和寺に入って髪を下ろし、そののち讃岐国(香川県)に配流されました。

思ひきや 身をうき雲と なしはてて
       あらしの風に まかすべしとは

うき事の まどろむ程は わすられて
       さむれば夢の ここちこそすれ
「崇徳天皇欽仰之碑」P9343.jpg
小倉百人一首には、情熱的な恋の歌が、選ばれています。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
       われても末に あはむとぞ思う

結構、好きな歌です。

trackbacks

trackbackURL:

comments

comment form

(ZUZU log にはじめてコメントされる場合、不適切なコメントを防止するため、掲載前に管理者が内容を確認しています。適切なコメントと判断した場合コメントは直ちに表示されますので、再度コメントを投稿する必要はありません。)

comment form