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2009年05月17日

式子内親王塚

千本今出川東入る、嘉楽中学校の西隣りに般舟院陵墓があります。
御柏原天皇の母源朝子陵をはじめ、一陵三分骨所十墓からなる陵墓で、平日のみ、入り口の扉が開いています。P9356.jpg
その西北奥に小さな塚があり、その前に石仏(阿弥陀如来坐像)が一体と地蔵尊が数体並んでいます。P9355.jpg
塚は木々に覆われていますが、よく見るとその上に五輪塔が建っています。P9354.jpg
古くからこの塚は「式子内親王墓」と伝えられています。P9353.jpg
『応仁記』に「千本にては両歓喜寺、この寺に定家葛の墓ありという是なり」と記されています。

般舟院の地は、もと嵯峨天皇の御願寺として建てられた大聖歓喜寺の境内であったが、応仁の乱で、焼失し、この塚のみ残ったということであるらしいとの事です。(雨宝院の前身がこの大聖歓喜寺であり、天正年間(1573~92)に現在の地に再建されたという話です。)

「定家葛の墓」というのは、藤原定家が式子内親王に恋慕の情を抱き、その執心が葛になって内親王の墓に巻きついたという伝説で、謡曲『定家』の物語になっています。

定家葛P9352.jpgこれは平安神宮内のものです。

式子内親王 (のりこ・しょくし・しきし)ないしんのう)久安5年(1149年) - 建仁元年1月25日(1201年3月1日)
後白河天皇の第三皇女で、永暦二年(1161)、斎王として初めて賀茂の祭に奉仕し、それ以後、十六、七歳の年ごろまで斎院生活を送っていますが、後に出家しています。歌人としても有名です。

玉の緒よ 絶えなばたえね ながらへば
忍ぶることの よわりもぞする   式子内親王

式子内親王の忍ぶ恋の相手ですが、院御所の家司をつとめていた藤原定家といわれていましたが、法然上人とも長年の親交があったことから、近年では法然がその相手であるとも云われています。

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