2009年05月16日
和泉式部と誠心院
5月11日 藤原保昌の妻となった和泉式部にも、興味を覚え、ゆかりのある誠心院を訪ねてみました。生没年不詳ですが、天延二年(974)~天元元年(978)の間の生まれとするのが通説だそうです。中古三十六歌仙の一人です。
大江雅致の娘。和泉守の橘道貞の妻となり、父の官名と夫の任国とを合わせて「和泉式部」と呼ばれた。道貞との間に娘 小式部内侍を儲けるも、後に別れる。
冷泉天皇の第三皇子である為尊親王(977年 - 1002年)との熱愛発覚。
為尊親王の死の翌年、今度はその弟である敦道親王(981年 - 1007年)の求愛を受ける。
二人の相次ぐ早世の後、一条天皇の中宮 藤原彰子に女房として出仕。
40歳を過ぎた頃、主君彰子の父藤原道長の家司で武勇をもって知られた藤原保昌と再婚し、夫の任国丹後に下った。万寿2年(1025年)、娘の小式部内侍に先立たれる。
晩年の詳細は知られていないが、この世の無常を思い、誓願寺に参籠し、出家したそうです。
女人の身でも六字の名号をお唱えすれば、身の穢れも消えて往生できる事を聞き、六字名号を日々お唱えして、阿弥陀如来と二十五菩薩に迎えられ、浄土へ往生したとの事です。
法名を誠心院専意法尼といい、誠心院の初代の住職であるとされています。
和泉式部が女人往生を遂げたことに由来する二十五菩薩来迎の像式部千願観音
水かけの行者 神変大菩薩像
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
今ひとたびの 逢ふ事もがな
病床にあって、死期が近いと予感し、愛する男に贈った歌とされていますが、お相手は誰なのでしょうね。
- by zuzu
- at 09:00
comments
此の水掛け行者さんの後ろにある煉瓦塀。
ミスマッチなんですが、その雰囲気が凄くて好きなんです。
何しろ御本堂の巨大な唐破風が目の前に迫っていて文明開花期での”文明の衝突”を視覚的に見せていますから。
実は今25菩薩が並んでいる辺りにも煉瓦造の倉庫が並んでいて、然も出入り口は誠心院側で新京極への出入りは共用のようでした。
式部の塔も別に離れていて新京極側から見えるだけでしたが、今は一体化してすっかり変わりました。
良くなった、と言うべきでしょうが、複雑な重いです。
新京極から、一歩足を踏み入れると、和泉式部縁起絵巻のパネルの世界に引き込まれ、くぐった所に、いろんな時代の空気が、入り混じりながら、ぽかんと空が開けていて、なにか不思議な空間ですよね。