Search


2009年05月15日

平井(藤原)保昌さんの事

えんま堂狂言の土蜘蛛に出てくる平井(藤原)保昌さんについて、少し検索してみました。
平安時代中期 〔天徳二年(958)~長元九年(1036)〕の公家。
藤原南家の一族、右馬権頭藤原致忠の子。
弟に盗賊として名高い藤原保輔がいる。
摂津守となり同国平井に住まいしたことから平井 保昌とも呼ばれる。
当時、栄華を極めていた藤原道長の家司(けいし)として仕えていました。
公家の出身でありながら武勇に秀でており、源頼信・平維衡・平致頼らとともに、道長四天王の一人として名声を博しました。
長和2年(1013年)に左馬権頭兼大和守に任じられ、以後円融院判官代・丹後守・摂津守・山城守・肥前守・日向守などを歴任し正四位下に昇っています。

『宇治拾遺物語』や『今昔物語』には、盗賊の袴垂が、夜道をひとりで笛を吹き歩く男の着物を奪おうとしたが、堂々とした気迫に圧倒され何もできずに、とうとう屋敷まで付いて行き、男の屋敷で着物を恵んでもらった。それが、藤原保昌であったというエピソードがあります。

室町時代の『御伽草子』の中にも、源頼光と、頼光四天王 〔渡辺綱(わたなべのつな)・坂田金時(さかたのきんとき)・卜部季武(うらべのすえたけ)・碓井貞光(うすいのさだみつ)〕らとともに、酒呑童子を倒したというように書かれています。

そして、土蜘蛛退治にも同じように登場します。ここで、源頼光と藤原保昌の関係ですが・・・。

源頼光の方は源満仲の長子で、清和源氏の三代目。満仲が初めて武士団を形成した摂津国多田(兵庫県川西市多田)の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれています。
摂関家の家司として仕え、但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任、正暦3年(992年)には備前守となり、左馬権頭となって正四位下になっています。
年齢は保昌が10歳年下で、同じく道長に家司として仕えていたのですが、頼光の家臣として、保昌さんが書かれている事も多いようです。家臣というよりは、職場の同僚もしくは、部下的な感じじゃないかしらん?
頼光の父・満仲が後に保昌の妹を室にしているという話もありましたので、まぁ親しい間柄であったのでしょう。
P9365.jpg
後に、保昌さんは、肥後を離れ丹後守として当地へ赴く頃に、歌人の和泉式部の最後の夫となっています。ここに、もう1つのエピソードがあります。
和泉式部から、御所の紫宸殿前の紅梅を手折ってほしいという難題を出され、御所に忍び込み、発見されて矢を放たれながらも一枝手折って、ようやく紅梅を持ち帰って恋を実らせたというもので、祇園祭の保昌山のいわれとなっています。

こうして見てみると、なかなか、おもしろい人物です。保昌山では、鎧を着た姿で、紅梅を持っていますが、狩衣姿の花盗人にして描いてみました。

trackbacks

trackbackURL:

comments

この保昌さん、
女に夢中になるあまりに、
紫宸殿の紅梅を折るという無茶苦茶な事
あえてするという、
度はずれた所が結構気に入ってます。

御伽草子で頼光さんの部下になって居るんですか。
四天王でもないのになんで、頼光さんの家来になっているのか判らなかったのですが、
頼光さんに匹敵するようなキャリヤを持っていてかつキャラとしては二枚目役。
そして実際の職場で部下的な立場でもあった。 
この辺りが私の疑問に対するお応えになるのでしょうね。

なおくん

保昌さんが、どんな様子で盗みに入ったのやら、想像するだけで愉快ですね。
武芸にも秀でていて、一目置かれている人が、そんな事をするのですから、面白いものです。

  • zuzu
  • 2009年05月16日 14:35

ふくろうさん

部下的という位置づけは、私の推測です。

頼光さんは、948年生まれで、兼家・道長の親子に仕え、保昌さんは、958年生まれで、道長・頼通の代に仕えていて、受領に任命されている時期も、頼光さんの方が先であることや、頼光の一党として、酒呑童子退治に加わっていることなどからの推測です。

まぁ、古い話ですから、いろいろ調べてみても、どれが本当の話やら、作り話やら、よく分かりません(^^)

  • zuzu
  • 2009年05月16日 15:04
comment form

(ZUZU log にはじめてコメントされる場合、不適切なコメントを防止するため、掲載前に管理者が内容を確認しています。適切なコメントと判断した場合コメントは直ちに表示されますので、再度コメントを投稿する必要はありません。)

comment form