2009年03月31日
京都の桜 2009 ~妙覚寺~
堀川上御霊の水火天満宮を少し東に入っていくと、日蓮宗のお寺が密集しています。
その1つ、妙覚寺の門前の枝垂れ桜が満開の様子なので、30日に見てきました。境内の中のも一本咲いている桜があるようです。枝垂れに比べると、力強い印象です。やっぱり青空だと、さくらも引き立ちますね。
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- by zuzu
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2009年03月31日
堀川上御霊の水火天満宮を少し東に入っていくと、日蓮宗のお寺が密集しています。
その1つ、妙覚寺の門前の枝垂れ桜が満開の様子なので、30日に見てきました。境内の中のも一本咲いている桜があるようです。枝垂れに比べると、力強い印象です。やっぱり青空だと、さくらも引き立ちますね。
2009年03月30日
今日、30日にまた桜の追っかけをしてきました。
千本今出川の交差点の街灯が可愛い感じだったので、撮ってみました。
千本釈迦堂
ここのメインの桜 おかめ桜が、満開を迎えています。平日の朝の為か、人が少なくて、ゆっくりできます。おかめさんです。
2009年03月29日
23日、祇園白川の早咲きの枝垂れが咲いているようなので、様子を見に行きました。川端から、入ったところの桜はまだこれからといったところです。白鷺がやってきました。黒猫も登場です。かにかくに祇園はこひし寝るときも
枕の下を水のながるる 吉井勇
2009年03月28日
桜色と御所の金色の組み合わせは、なんとも雅です。
木蓮も咲き誇っていましたが、少し雨にやられてしまっていたりして、かわいそうでした。桃林は今が真っ盛りの様子です。
それにしても、桃の枝というのは、えらく真っ直ぐです。
出水の枝垂れ桜にたどり着きました。
一本だけ、通りに面して咲いているので、とっても目立ちます。春の小川
2009年03月27日
3月23日 お昼の京都御苑の桜状況です。近衛邸跡の糸桜が見頃です。
昔より名にはきけども今日見れば
むべめかれせぬ糸さくらかな 孝明天皇
2009年03月26日
23日、最初に立ち寄ったのが、妙蓮寺さん。そして水火天満宮でした。御所の前に、そちらの様子をお伝えします。
妙蓮寺の御会式桜
奥の方の木蓮も花盛りでした。
水火天満宮
奥の紅枝垂れがそこそこ開き出しています。
手前の枝垂れは、まだまだ蕾でした。
2009年03月25日
23日の平野神社 桜の続編です。
神社内や周辺に、ピンク色の大振りの桜が、魁と時を同じくして、咲いていました。
陽光と名づけられたその花は、確かに日の光の似合う感じの花です。
桜苑内の枝垂れ
たぶん魁
寝覚は、まだお眠です。
鳥居横
鳥居を出て、見返りの魁
御所へ、移動です。
2009年03月24日
3月23日の平野神社 魁です。
2009年03月22日
3月17日、着物でおでかけ無料チケットで、平安神宮も覘いてきました。
庭園入ったあたりの桜はまだ蕾です。
梅が少し残っていました。
こちらは桜です。
無料組と、何組か出会いました。もう少しすると、大変な混雑になるこちらも、今はゆったりしています。
鯉に餌でもあげようかと思ったのですが、今日は餌がおいてありませんでした。
2009年03月21日
長徳寺から、鴨川を渡ろうとして、対岸に桜色の木を見つけました。早速降りてみました。
やっぱり、桜でした。
河の中には鴨の夫婦?
華麗なるシンクロの妙技の始まりです(^^)
2009年03月20日
3月16日 水火天満宮の桜の様子を見に、中まで入ってきました。
日差しの最も差し込むところだけ、少しばかり赤く膨らんでいました。
大半はまだまだです。
でも、今日あたりは、もしかしたら、咲き始めていたりするかも?
2009年03月19日
3月13日~22日まで、伝統産業の日という事で、着物姿だと、市バス・地下鉄の乗車が無料になったり、幾つかの施設の入場が無料になるというチケットをもらい、16・17日の連休は着物を着て出掛けました。
市バス・地下鉄を乗り継ぎ、小野駅まで行きました。山科も、結構近くなったものです。随心院の小野梅園までは、徒歩です。
随心院の紅梅は薄紅色を意味する「はねず」の名で親しまれているそうです。
遅咲きの梅を見に、結構 観光客が訪れていました。
比較的小振りな花が、固まって咲いているのが多いようです。
29日には、はねず踊りが催されます。「百夜通い」 の話で有名な小野小町と深草少将の物語を主題とした踊りだそうですが、まだ見たことがありません。
休憩所がありましたが、お茶などはないようで、残念なところです。
こじんまりとした、梅園でした。
小野小町が化粧に使ったという「化粧井」があります。
お寺の方は以前に入ったことがあるので、パスして、地下鉄に乗りました。
2009年03月18日
3月17日 夕方、平野神社の桜状況を見にゆきました。
入り口横の河津桜は、葉桜です。
桃桜
魁蕾ふくらむ かと思いきや…
神社の方に、教えてもらって、上の方を見上げると!
今日、開花したそうです。
京都新聞に明日言わなくてはって、言われてたから、新聞より早い速報です(^0^)アーモンド
名前は知りませんが、綺麗だったので、
寒桜
2009年03月17日
3月16日 ねこづらどきのなおくんに教えてもらった、出町柳の長徳寺のおかめ桜を見に行ってきました。
満開です\(^0^)/
基本的に下向きに咲いているので、真下に入ると、花が降って来る感じです。
ひよちゃんも来ていました。
おかめ桜が、こんなに満開に咲いているのは、初めて見ました(^^)
2009年03月16日
蜘蛛塚といえば、やはり、天神さんの手前左手にある東向観音寺にある蜘蛛塚の方も、見ておかなくてはと、北野まで、歩いて行きました。最初、東西向き合って堂宇があったそうですが、西向きの堂が廃絶したため、このような名前で呼ぶようになったようです。
入った右手に白衣観音を祀る堂宇があり、子授け観音・世継観音という名前で知られています。左手奥に大きな五輪の石塔があります。道真公の母、大伴氏を祀っているものです。その手前奥にある古い石塔がお目当ての蜘蛛塚です。
妖気漂う感じがなんともいえません。
観音寺を出て、天神さんに向かう途中に伴氏社があります。梅園は、散り初めているようですが、境内には、まだ多くの梅が咲いていて賑わっていました。
さらに進んで、中門
こちらを入った左手に、関連した灯籠があります。
源頼光の四天王の1人、渡辺綱の奉納した石灯籠だといわれています。
一条戻り橋のあたりで、美女に化けた鬼を自らの馬に乗せてしまい、愛宕へ連れていかれそうなそうなところを、鬼の腕を切り落として、ようよう難を逃れ、気づくと、天神さんの回廊の屋根であった。という話で、そのお礼に奉納された石灯籠だそうです。
真新しい覆屋は、昨年11月に、洛中ライオンズクラブによって寄贈されたものだそうです。ライオンズクラブの方も鬼に出会ったのかしらん?って、そんな事はないか(^^)
2009年03月15日
源頼光伝説を追いかけて、千本北大路下がったところの上品蓮台寺に足を延ばしました。
この地域は、蓮台野と呼ばれる古くからの葬場です。上品蓮台寺は応仁の乱の後、復興し、12の子院を造った事から、俗に十二坊と呼ばれています。こちらの墓地に源頼光朝臣の塚があります。
椋の巨木の根元に石碑があるのみです。
この老木が、ひたすら怪しい感じをかもし出しています。
しかし、この土蜘蛛は古代の辺境の民をさす蔑称だったとも伝えられています。身長が低く背中が曲がっていて、手足が長く、穴居に住んで未開の生活をしていて、朝廷に抵抗する異民族として、討伐すべき凶賊であるとみられていたようです。そうなってくると、妖怪退治とは、また違ったニュアンスが、生まれる話ではあります。
怪しい話ばかりなので、去年の春の上品蓮台寺の境内の写真で、ちょっと気分を変えておきましょう。こちらは、観光客の比較的少ない、穴場お花見スポットだと思います。
2009年03月14日
北大路大宮を少し下がったところに、若宮神社があります。
石清水八幡宮の若宮で、清和源氏の祖、清和天皇を祀っています。丹波の大江山の酒呑童子征伐や土蜘蛛退治でも知られる源頼光(みなもとよりみつ・らいこう)の邸跡であり、その邸内にあった鎮守社が、現在でも祭られているそうです。
酒呑童子
土蜘蛛
境内には、左手に権太夫大明神、白菊大明神、吉丸明神、久高明神も祀られています。謡曲「土蜘蛛」でおなじみの源頼光の邸がここにあったのですねぇ。なんとも怪しい気配がするような・・・。
2009年03月12日
北区の船岡山に、信長の霊を祀っている建勲神社があります。
平地を歩くのは、得意ですが、縦方向の移動、いわゆる階段は苦手です。ここは、石段を上がっていかなくてはいけません。説明書によれば、徒歩3分ということなので、意を決して(そんな大層な事ではありませんが)上がってみました。階段途中で、休憩して、横を見ると、かつて焼き払った比叡のお山が見えました。
信長が出陣の際に歌ったという幸若舞の敦盛の一節が、刻まれていました。人生50年を待たずに、48歳で死んでしまったのですが、普通の人の何倍ものスピードで大急ぎで生きた人生だったような気がします。
先日の大河ドラマで、上杉謙信も、49歳という同じような歳で亡くなりましたが、 「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」 という辞世の句が強く印象に残りました。
青く霞む大文字を見ながら、遠い戦国武将たちの生き様に思いを馳せた時間でした。
2009年03月11日
西陣中央小学校の南側に観世稲荷社があります。
ここに祀られているのは一足稲荷と観世龍王です。
境内に観世井があります。
龍が降りて、この井戸に入り、水が渦をまくようになったと伝えられています。この波紋を観世水といい、能楽観世流の紋様となっています。
ここは能楽宗家の観世家が足利義満から拝領した屋敷地でしたが、西陣が焼けたあと観世井だけが残されていたといいます。
観世家は大和猿楽の結崎(ゆうざき)座の大夫でしたが、新日吉社、あるいは新熊野神社で舞った観阿弥らの猿楽舞に感嘆した足利義満の保護を得ることによって能楽が成立するきっかけとなりました。
3月9日こちらで年に一度の式典がありました。
今宮神社の宮司さんのもと、観世流の7世 大江又三郎さんをはじめとする観世流の方、西陣中央小学校関係者、日頃、社のお守りをしてらっしゃる鶴屋吉信さんなどが、列席されました。
一般参加も可能ということで、以前は近所の人たちも多くいらしていたようですが、今回は、私だけでした。昨年の小学校内での能楽学習の折り、この日の事をお聞きして、楽しみにしていたのです。
能楽への興味と、なにより龍が降りた話が、私的には、想像力を駆り立てられるところです。部外者1人だけというのは、なにやら気後れして、写真も撮りにくい感じがしたのですが、大江先生に手招きしていただいて、玉ぐし奉納までしてしまいました(*^^*)
校内の展示
そして帰り際に、お土産まで頂いてしまいました。お赤飯と紅白饅頭に、鶴屋吉信さんの「観世井」。
この井戸の由緒にちなんで作られた菓子です。京観世を薄く切って焼いた感じのこの菓子は本店のみで販売されていて、私のお気に入りでもあります。
そしてなんといっても一番のお宝おみやは、観世稲荷さんの御札でした。
きゃ~、これって、めったにお目にかかれないものじゃないかしらん!貴重~!
大満足の日となりました。
早々に描いてみました。
画像の拡大
2009年03月10日
智恵光院通の五辻上がったところ、雨宝院のお隣に、法華宗の寺 本隆寺があります。
応仁の乱の後、延徳元年(1489)に四条大宮の地に日真上人によって開創されたが、法華一揆の際、焼き討ちにあい、天文11年(1542)に堀川一条に再建。さらに、天正12年(1584)、秀吉の聚楽第造営により、現在の地に移転された。と読んだ本には、書いてありましたが、高札とは、微妙に違うみたい?画像の拡大
夜泣止の松
本隆寺は、尼寺五山の1つに数えられる禅宗のお寺、景愛寺の旧跡と伝えられています。開山は如大和尚。出家前の名は、城陸奥守泰盛の娘で、千代野姫といい、金沢越後守貞顕の妻となり、その後、足利讃岐守貞氏の夫人となった人です。鎌倉では、仏光国師に師事、京では、東福寺の聖一国師に師事したそうです。その如大和尚が、悟りを開いたという井戸が、こちらに残っています。
とにかくにたくみし桶の底ぬけて
水たまらぬは、月も宿らず
大尼は、この井戸の澄んだ水を汲み、茶をのむことを楽しみとしていたそうです。月夜の夜に、つるべの綱をたぐり、からからと、音をたてて上がってきた桶の中には、澄み切った水にゆらゆら映る月の影。
想像するに、少しどきどきする想いがしたのではと感じられます。
子供の頃、私の住んでいた路地には、井戸がありました。あのしっとりと水分を含んだ綱を、手繰り下ろすと、暗い井戸の底から、ゆらゆら輝きながら上がってくる、つるべは、とても甘美なものでした。
月など写っていたりして、それを飲み干せば、なんともいえない感覚に襲われることでしょう。
その桶の底が一瞬に抜け、井戸の中に大きな水の反響が起こったりしたら、さすがにハッとすることでしょうね。もっとも、そこで、悟りを開くのは、凡人には難しいかもですけど。(^^)
2009年03月08日
近所を歩いていて、ひょっこり出くわしたのが、称念寺さんです。猫寺の話は聞いていたので、あぁここだったのかと、あまりの近さに、あれっといったところです。
慶長11年(西暦1606)に伏見城代職、松平信吉公が岳誉行阿上人に帰依して建立された寺です。その当時 300石の寺領があり寺は栄えていたようですが、信吉公が没すると共に、松平家とだんだん疎遠となり、3代目住職の頃には、絶縁状態で、荒れ果てた寺に猫1匹と住職が暮らすのみとなっていたそうな。
月夜の夜に和尚が托鉢を終え寺へ帰ってくると、美しい姫が、舞を舞っていました。本堂の障子に映し出された姿は、猫の影。愛猫の化身と気づいた和尚は「自分がこんなに苦労しているのに、踊り浮かれているとは」と立腹し、猫を追い出してしまいました。数日後、その猫が和尚の夢枕に立ち、「明日、寺を訪れる武士を丁重にもてなせば寺は再び隆盛する」と告げました。翌朝、松平家の武士がやってきて、姫がお亡くなりになり遺言により、葬儀を頼みたいとの事、和尚は快く引き受け、以後松平家と復縁した寺は以前のように隆盛しました。
めでたし、めでたし。
というお話です。
境内に愛猫を偲んで植えたと伝えられる老松があります。猫が伏した姿を表わしているそうです。
現在では、称念寺は動物の霊を供養してらして、ペット供養の寺として親しまれています。
時間がなかったので、走り描きですが、イラストにしてみました。
2009年03月07日
蓮月尼ゆかりの神光院から、少し西へ行った南側に、西賀茂の大将軍神社があります。
大将軍神社は西賀茂の瓦屋の鎮守の社として建立されたと伝えられています。 桓武天皇が平安遷都の際、王城鎮護のため、四方に祀られた大将軍神社のうちの北方の守護神と伝えられています。
いくつものプチお社が並んでいました。
2009年03月06日
蓮月尼の墓を後にして、さらに北に進むと、正伝寺の門前に着きます。
文永5年(1268)に東巌慧安(とうがんえあん)禅師が烏丸今出川に兀菴普寧(こつたんふねい)禅師を開山として創建するも、叡山の衆徒の為に破壊される。賀茂の社の社家の協力により、現在の地に移ったということです。暖かそうな帽子を被せてもらって、にっこり(^^)
途中、左側にかわいい鐘楼がありました。
鐘の標準サイズというものが、どれくらいの大きさなのか知りませんが、私の初めて見て、慣れ親しんだ鐘は、知恩院さんので、その次に見た鐘といえば、歌舞伎の舞台上、娘道成寺の鐘ですから、まぁ大概の鐘は小さいなという認識になってしまいます。静かな山道を登っていくと本堂が見えてきます。応仁の乱後の荒廃を嘆いた徳川氏によって、金地院から移建されたもので、伏見城の遺構といわれています。
破風に施された懸魚(げぎょ)は、アカンサス(古代ギリシャ・ローマ建築の柱頭の意匠に主に用いられている葉)模様で、桃山時代でも特にめずらしく優れているといわれているようです。方丈の襖絵は、狩野山楽筆のもので、数少ない作品の中の傑作だそうですが、ほとんど消え入りそうな感じで、そのすばらしさを認識できませんでした。
方丈の広縁の天井は有名な血天井です。おもわず、細部を眺めて、割腹した人たちを想像してしまい、重い気分になってしまいます。
気分一新しようとシンプルな庭を眺めます。
叡山を借景に、白砂の上に7・5・3の刈り込みが並んでいる、石を使っていない枯山水でめずらしいものです。5の方丈の島を中心に7の蓬莱の島と3の瀛洲(えいしゅう)の島とが、中央に向かっているのだそうですが、違う見方もあり、獅子の子渡しとも云われています。
刈り込みは、真冬で、緑が美しくはないですが、叡山は、綺麗に借景の役目を果たしていました。1人で、静かな景色を満喫できましたが、この寺がこの地に移ってきた経緯を考えると、微妙な借景ではあります。
庭の右手の庭門の懸魚のデザインです。
帰り道、竹やぶのざわめく中を下ってゆきます。ここへ来るのは、車ではなくこの道を歩いて上るのがなんともよい感じでしょうねぇ。
2009年03月04日
2月の雪の日、もともと出掛けようと予定していたのは、伊丹市立美術館でした。
雪の写真を撮ろうとして、岩倉などに出掛けて遅くなりましたが、昼頃から、やっと伊丹に向かいました。山下清展が行なわれていて、この日を逃すともう観れる日がなかったので、お昼も抜きで電車に乗りました。
JRの駅から美術館までは、極めて方向音痴な私でも迷わずに歩いて行けました。電車から降りて階段を上がったり道を曲がったりしても方角を把握している能力が、私には著しく欠如しています。それでも、思いついたらすぐどこでも1人で出掛けてゆくので、そのうち、その能力が身につくと思っていましたが、無理のようです。能の働きというものは、いろいろに分かれていたり、連動していたり、難しいものです。
山下清さんは、3歳の頃に重い消化不良になり、一命は取りとめたものの、後遺症で軽い言語障害、知的障害になったそうですが、サヴァン症候群であった可能性が高いといわれています。
サヴァン症候群とは、知的障害や自閉性障害のある者のうち、ごく特定の分野に限って、常人には及びもつかない能力を発揮する者の症状を指すそうですが、確かに山下清さんは、並外れた才能の持ち主です。
山下清さんの事はTVドラマぐらいでしか、知らなかったので、生の絵を観て初めてその、ものすごさを知りました。ドラマでは、放浪先で、スケッチしたり、貼り絵をしたりしていますが、実際は、放浪を終えて戻ってから、記憶を頼りに描いていたそうです。
そもそも、それからして、私なんかには無理な話ですが、その作業たるや、想像しただけで、気が遠くなるというより、気が変になりそうなくらい細かすぎです。
初期の作品は、うーん、センスいいなあ~。という感じに軽く感じながら、観ていましたが、だんだんに進化してきて、ついていけない集中力を感じました。私も一応絵を描きますし、学生の頃は、作業中は、近寄れない空気感があるなどと言われましたが、長く緊張した状態でいると、頭がオーバーヒートして、熱が出てくる感じがして、休憩しないと切れそうとか思いました。
山下さんは、高血圧による眼底出血に見舞われ、1971年7月12日、脳出血のため49歳の若さで死去されていますが、こんな作品を数多く制作しているのだから、血管切れるのも無理ないなぁと思えました。
観といてよかったなと感じた展覧会でした。
宝鏡寺さんから、小川通りを少し下がると、りっぱな町屋が目に付きます。
そのお向かいに報恩寺があります。
門前の石橋には慶長7年(1602)架橋の刻銘があり、本法寺の石橋とともに、今は埋められた小川(こがわ)の名残を止める貴重な遺産だそうです。豊臣秀吉の侍尼 仁舜尼の寄進によるものだそうですが、かなり、傷んでいました。
門を入って左手に平安時代末期の鋳造による重要文化財の鐘と、墓地があります。鐘には西陣の悲しい話が残っています。
右手はお稲荷さん
その隣に新しそうな地蔵堂がありました。
本堂は1788年(皇紀2448)天明8年の天明の大火で類焼し、それ以後、再建されていないようです。
この寺は、鳴虎(なきとら)の報恩寺と云われています。中国の画人四明陶?(しめいとういつ)が描く猛虎の絵を豊臣秀吉の所望により聚楽第の床へ飾ったところ、夜中に虎が鳴きだし、秀吉は一晩中眠れなかったので、すぐに寺へ返されたという話です。この絵は寅年の正月三が日に限り公開されるという事らしいので、来年の三が日に、再び、訪ねてみようと思います。
2009年03月03日
宝鏡寺は、日頃は非公開ですが、春と秋にのみ公開されています。
春のひな祭りは、「御所の春-天皇陛下御即位二十年・御成婚五十周年奉祝記念-」と題して3月1日(日)から、4月3日(金)まで行なわれています。
門をくぐると、右に人形塚があり、10月14日には、この前で人形供養祭が行なわれます。
人形よ 誰がつくりしか
誰に愛されしか 知らねども
愛された事実こそ
汝が成仏の誠なれ
実篤
その横には、お向かいの日吉屋さんの傘」がディスプレイされています。
人形寺とも言われていますが、皇女が歴代の住職となるところから、百々御所や門跡と称され、現在は臨済宗単立寺院となっています。
皇女和宮が、幼少の頃、こちらの鶴亀の庭で遊ばれていたそうです。
寺内は撮影禁止となっていて、入り口近くの部屋にのみ、撮影用の人形が置かれていました。
宝鏡寺の北に隣接して、浄土宗の大慈院が、明治初期までありましたが、今はこちらに受け継がれています。応仁の乱の火付け役となった日野富子が出家して妙善院となり、この大慈院に入ったことから、日野富子の木像も祀られています。宝鏡寺第15代世渓山禅師は、義政と富子の息女でもあるようです。画像の拡大
応仁の乱といえば、この宝鏡寺の東に百々橋跡があります。礎石のみが残されていますが、この百々橋を挟んで東西両陣が対峙したそうです。
堀川を渡って上立売を一筋下がったところには、西軍を率いた山名宗全の邸跡の石碑もあります。
2009年03月02日
堀川寺之内に人形寺として親しまれている宝鏡寺があります。写真は、2月に小雪の舞った時のものです。
3月1日 その宝鏡寺において、ひなまつりイベントが行なわれました。雛人形が飾られ、雅楽の奉納と島原太夫の奉納舞を観ることができます。日曜ということもあり、大勢の観客となりそうなので、9時過ぎに、家を出ました。徒歩5分の距離ですから、即着いてしまいました。さすがに報道の人と一番乗りの人が待っていただけでした。11時からのイベントですからねぇ。近所を散歩して、戻ると10人ぐらいに増えていました。10時に寺内に入り、正面側の廊下に場所を確保して、さらに待つこと1時間、ようやく住職方が、席につかれました。太夫登場まずは、雅楽の奉納です。
観客はいっぱいで、痺れてきた足の向きを変えるのも一苦労です。後ろの方では、不満のブーイング騒ぎです。
3曲演奏されました。
いよいよ太夫の舞です。まずは住職にあいさつ
御本尊に礼拝
奉納舞は「いにしえ」です。よい場所を確保出来たので舞をコマ送り状態に撮れました。
満喫しました。
2009年03月01日
智恵光院通りの今出川を上がったところに、首途(かどで)八幡宮があります。
もとの名を「内野八幡宮」と呼び、宇佐八幡宮より御神霊を勧請し祀られた社だそうです。
1174年3月3日未明に、源九郎義経が、牛若丸の頃、この地から奥州平泉の藤原秀衡の元へ出発する際、道中安全を祈願したということです。「首途」とは出発の意味で、この由緒により首途八幡宮と呼ばれるようになったという事です。
境内は、一説によると、金売り吉次の屋敷跡と伝えられ、鞍馬を抜け出した牛若丸がこの屋敷で吉次と落ち合い、出立したと言われています。