2009年02月16日
太田垣蓮月さんのこと パート2
戊辰戦争のさなか、薩摩、長州2藩の兵が先陣となり、幕軍を追って東征軍が、京都を出ようとして三条大橋にさしかかったとき、橋のたもとにいた蓮月尼が、馬に近づき、歌を書いた短冊を差し出したというエピソードがあります。
うつ人もうたるる人も心せよ
同じ御国の御民ならずや
あだみかた勝つも負くるも哀なり
同じ御国の人と思へば
これを受け取ったのが、西郷隆盛であり、この短冊が、江戸城無血開城におおきな力を発揮したという話です。
飢饉の際には、惜しげなく寄付をしたり、賀茂川に橋をかけたりという活動も行ったりして、積極的に世のために尽くしてもいたようです。
尊王派と見られて、あわや毒殺されそうにもなっています。
東山・大仏殿に滞在していた頃のエピソード
住持の留守を預かっていた際、所用の外出から戻ると、台所に見慣れない茶釜が1つ。狸が釜に化けたのではないかしらと不安な中、眠った夜。年老いた僧が、よろよろと現れ、あれこれと仏の話などをするうち、夜が、明けた。気がつくと黒衣の僧と見えたのは、茶釜であった。実は近所の男が、留守中に持ってきた釜であったことが、判明し、ほっとするという話です。
ちょっと、愉快そうなので、描いてみました。
題して、「蓮月尼 茶釜と語り明かすの図」画像の確認
言い寄る男たちに、自ら釘抜きで歯を抜いて、気をそらしたという、気丈な話もあります。
蓮月尼肖像 富岡鉄斎筆
白木綿の一反風呂敷に月と蓮を鉄斎に描かせ、辞世を書き添え、自らの遺体を包む布として準備し、さらには棺桶も手配して、死での旅支度を整えてあったようです。(棺桶は度々、他の人のために使い、また新たに用意しています。)
ねがはくはのちの蓮の花のうへに
くもらぬ月をみるよしもがな
ちりばかりこころにかかる雲もなし
けふをかぎりの夕暮れの空
風呂敷と棺桶内の経帷子に、先の歌を残しています。「無用の者が消えゆくのみ、他を煩わすな、鉄斎だけに知らせてほしい」と頼み置いていたその心情も、考えさせられます。
小谷墓地の墓の墓銘も鉄斎の書のようで、桜の木の下に、静かなたたずまいを見せています。もっともこの桜、当初は、もっと小さかったのでしょうけど。
明治8年12月10日に亡くなっています。享年85歳
人生半ばで、世の無常を知るも、移り変わりの激しい時代にあってしっかり自立の道を歩み、世間から一歩引いた立場からも、人々との交流を深め、ボランティア活動に励み、自由に生きた彼女の人生に、感銘と共感を覚えます。
山里は松の声のみきゝなれて
風ふかぬ日は淋しかりけり
参照
* 天台寺門宗 青眼展墓録
http://www.tendai-jimon.jp/serialization/3/1.html
* 歴史散歩 京に燃えた女 京都新聞社 発行
* 京都故事物語 河出書房新社
* 他 多数のサイトを検索
- by zuzu
- at 23:52
comments
茶釜の画、 素晴らしいじゃないですか。
大きなサイズでアップされたのを見たいな
ありがとうございます。
サイズを、大きくするの、
また勉強します(*^‐^*)