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2009年02月14日

太田垣蓮月さんのこと パート1

何を検索していたのか、あちらこちらと、ネットサーフィン中に出会って、興味を覚えたのが、太田垣蓮月という江戸~明治時代の尼僧です。
終の棲家となった神光院と墓のある西方寺の小谷墓地に出掛けてみようと思い立って、先日の神光院のブログとなりました。

蓮月庵RIMG020916.gif

今日は、その人となりを、ネット・書籍などで調べたことを書いてみます。
本名 誠(のぶ) 父は伊賀上野城主、藤堂氏で、母は京の三本木の遊女であったともいわれている。生まれて10日余りで、知恩院の字侍、太田垣光古のもとに、養女に出される。
8歳の時に丹波亀山城に女中奉公に出される。
13歳のとき、養母を亡くし、
18歳になったとき、呼び戻されて、養父 光古の養子 望古と結婚、
4人(3人?)の子を儲けるも次々と亡くし、夫も放蕩無頼であったともいわれ、離婚。
29歳のときに、古肥と再婚するも、4年後に死別。
養父とともに、出家。名を蓮月と改め、知恩院山内の真葛庵に移り住む。

神光院 庵の横に立てられた碑RIMG020920.gif
その後、古肥との間に生まれた子供にも先立たれ、
42歳のときに、養父を亡くす。
  
常ならぬ世はうきものとみつぐりの
          独りのこりてものをこそおもへ
  
かきくらしふるはなみだか無人(なきひと)を
          おくりし山の五月雨のころ
 
たらちねのおやのこひしきあまりには
         墓に音をのみなきくらしつつ

独りのなった蓮月は、知恩院山内より、岡崎村へ移り、人に勧められたのをきっかけに、陶器つくりをはじめる。  
  
てすさびのはかなきものをもちいでて
         うるまのいちにたつぞわびしき

西方寺RIMG020933.gif
自詠の和歌を独特な書体で自作の陶器に彫りつけたその作品は、「蓮月焼」として、人々の間に広まり、人気を博すようになる。
蓮月焼の偽物も出回り、美貌の人でもあったことから、多くの人が訪れるようになり、その煩わしさから逃れるため、引越しを繰り返し、「屋越の蓮月」と呼ばれるようになった。
それは、岡崎に移ってから、西加茂に落ち着くまでの三十数年の間に太田垣家の墓からさほど遠くない範囲内での引越しで、年に13回も越した年もあり、少なくとも34回は、変わっているようである。
文人達が多く住まいしていたその地域には、のちの富岡鉄斎となる猷輔少年も、住まいしていて、蓮月は孫のようにかわいがっていたようである。

西方寺 蓮月碑RIMG020934.gif
多くの文人たちとの交流を重ねた後、鉄斎を伴って75歳のとき西加茂の神光院へ最後の引越しをしています。

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